悲喜汐と春の訪れ

【 いざ、行かん 】

またまた随分ご無沙汰してしまいました。私は今、東京に向かって出発したところです。一昨年5月に里親さんのお宅に行った、下半身不随のチワワ『むう』に会いに行くのです。むうのお母さんになってくれた吉田さんは、東京や埼玉などで『捨猫』や『不要犬猫レポート』のパネル展を何度も開催してくださっている《アニマルクラブ東京支部長》とでもいうべき人です。願いも同じなら年齢も同じで、さらに「あっ、間違った!」「あー忘れてた~」と失敗の多い日常も似たり寄ったりです。ボランティアの皆さんには、「娘がやっと大学を卒業して、そのままあちらで就職するので、今後のことを東京の親戚にお願いに行きたい」と大義名分を付けて、留守中の猫・犬のお世話をお願いしてきたのですが、用事のためだけでは、どっぷり浸かっている煩雑な日常から、なかなか離れる決心はつかず、このオプションが重い腰を上げたのです

今朝に限らず、早起きはいつものことなのですが…いつもはアニマルクラブに行って暖房を点けて回ると、そのままそこで猫と添い寝してしまったり、ポケットに忍ばせて来たアリナミンVドリンクをちびりちびり飲みながら、アニマルクラブに来ている相談メールに応えたりして、山の間から日が昇り夜が明けていくのを、犬と散歩しながら眺めたりするのですが…今日はマッハの早送りで作業をこなしてきました。
こんな時になると「明後日まで砂が保つかしら?」と気になって、急遽トイレを3つも交換したり、腎臓病の猫たちに皮下点滴して、自宅にいる様々な持病がある25匹の、バラエティーに富んだ朝食メニューを作り、暖房・空気清浄機・加湿器もセットして、留守中のお願いメモもあちこちに貼って、石巻駅に向かいました。娘のアパートには、昨日到着するように、寝袋やパジャマ代わりの防寒着を送ってあります。前に一度泊まった時に、ろくに寝具がなくて、ひどい目に遭ったからです。風邪を引いて帰って来たのでは、目も当てられません。
やっと電車に乗り込むと、子供の頃からなのですが…解禁されたようにお菓子を食べ続けてしまいます。震災後毎年今頃になると、横浜の獣医さんが送ってくださるハトサブレ→でん六ミックス→乳酸菌チョコボールと食べ、お茶を飲んでハーブミントで締めくくった頃、電車は野蒜駅に停まりました。震災の時、津波被害が甚大だった奥松島の海沿いの町です。
1月半ば、ここから犬を連れて来ました。震災で生活が変わった人達のせいで、犠牲になっている動物たちはまだあちこちに居るのだと想うできごとでした。

 

 

旅立つの朝のむう。随分すがすがしく、可愛いネ!「嫌なこと、みんな忘れて生き直せよ~」

 

 

お迎えに来てくれた吉田さんに抱かれて、東京へ出発するむう。どんな未来が待っているのでしょうか…

 

 

ユキもチャチャも精神病の飼い主に翻弄され、色々苦労もあったけれど、明るく賢く、堂々たる生き様でした。

 

 

誰も来ないこの道の先に、置き去りにされ、人知れず埋もれて消えてしまいそうな命がありました。

 
【 埋もれていた命 】

橋を渡り、丘を越えて…先導の車は、民家から離れた山の方へ入って行きました。山の手前で車を停めると、沼のほとりの寒々とした、怖いような場所でした。細道の先の山のふもとに、犬小屋が2つ見えました。震災前ここにあった家で飼われていたという母犬は、昨年の冬を越せずに、この小屋の中で死んでいたそうです。

地震で家が壊れて、仮設住宅におばあさんと一緒に引っ越した母犬は、避妊手術されていなかったので、放れていた雄犬と交尾してこの犬が生まれたそうです。なぜ、そのまま親子の犬を飼える復興住宅に引っ越さなかったのでしょうか?
現場に行って驚いたのは、置かれていた餌…大量の冷やご飯とドライフード~どっさり置いてくれば、食いつないでいけると思ったのでしょうか?命ってそんなものではありません。それを知ろうともせずに動物とつながっているから、ある日来て、母犬が死んでいた姿を目の当たりにしても、子供をその環境に置き続けたのでしょう。しかし、「しょうがなかった」という言い訳で済ませる人では、到底救えないのです。この情景を哀しいと、いたたまれないと痛感する人達が力を出し合って幸せに導いていく活動を、もっともっと一般的な行動にしていかなければ、不幸な命は人知れず埋もれていきます。

震災で忘れ去られた風景の中に、置き去りにされた犬がいることを噂を聞いて、仕事の休みに餌やりに行くようになった若い女性が、アニマルクラブのホームページに相談のメールを送ってきました。保護はできないと言うので、預かり先を探しました。運良く、アニマルクラブのグッズ販売に協力してくださっている雑貨屋さんが、「ガレージで良いなら預かりますよ」と言ってくれたので、早速、彼女のお店の休みに、相談者の女性に案内してもらって、迎えに行きました。
犬は『みかん』という名のテリアの雑種で、柴犬くらいの大きさがある5歳のオスでした。初め怒っているように見えたのは、受け口のアンダーショットのせいでした。初対面の私達の言うことも素直に聞いてくれる従順な子で、車の中に積んで来たケージにも、抵抗なく入ってくれました。ただものすごく汚くて、臭くて…運転しながら、私は咳が出て止まりませんでした。やや長めの毛も固まって、皮膚炎にもなっていましたが、翌日トリマーさんにシャンプー、カットしてもらい、その翌日の避妊予防センターの開院日に、健診とワクチンを受けました。やはりフィラリアも弱陽性反応でした。でも、とても人なつこくてお利口さんです。

飼い主のおばあさんには、相談者の女性から伝えてもらいました。「迷惑をかけるから…」と尻込みしていたようですが、「費用は払わなくていい」と言ったら、安心したようです。
雨風に当たらない建物の中、声を掛け、温かい食べ物や新鮮な水を運んで来て、散歩にも連れ出してくれる人がいる暮らしに、少しずつ甘えて、『みかん』はちょこっとわがままも言えるようになってきました。
寒さと絶望の中で息絶えたであろう母親の分まで、この子を幸せに護ってくれる家族を募集します。

 

すぐそばに沼があり、寒々として、怖い感じ~こんな所に繋がれる身になって欲しいです。

 

 

数日に1回人が来てくれるのを、じっと待っている犬がいました。

 

冷やご飯が入ったボール。犬小屋の中には、山盛りドッグフードとせんべい~いたたまれません。

 

 

リードに付け替えて歩かせたら、強い力で引っ張りました。車の中のケージにも、素直に入りました。

 

 

「今日から、ここで暮らすんだよ。」「うぁーい、ぼく、もうひとりぼっちじゃないんだ~」

 

 

ユキのトリマーさんが、ボランティアできれいにしてくれたので、次は、健診と予防接種に来ました。

 

 あ
【 シンデレラ・ボーイに会いたくて 】


震災後、被災者には、生活再建のための支援金が支給されましたが、それを浪費してしまう人達もいました。ペットを衝動買いする傾向が見られ、格安価格で犬や猫を移動販売する業者も現れ、購入して数日後に吐いたり下痢が始まって、病院へ行くと「パルボにかかっていた」なんて話も何度も聞き、「伝染病の子犬を販売した業者に電話をかけたが、通じなかった」という話も聞きました。アニマルクラブにも「パチンコで10万スったから、それより良いと思って12万で買った」猫を、持て余して連れてきた人がいました。
そして、次に相談がきたのは、2歳のチワワ。障害者年金で慎ましく生活していた女性は、義援金が入って、憧れのチワワを購入。ペットショップに勧められるフードなども買い続けるうちにお金もなくなり、躾もできなくて手に余していました。
お金がなくて去勢もしていないと言うので、ボランティアさんが送迎して無料で手術をしてから、里親を募集することにしたのですが…術後数日して、興奮した様子で「犬が泡吹いて倒れた」と電話が来たのです。すぐにボランティアさんが迎えに行って、病院に運んでくれました。事情を聞くと、「傷口を舐めないように付けていたカラーが外れたので、付けようとしたら逃げ回って威嚇してきたので、馬乗りになって無理やりに付けたらおかしくなったようです」との説明。

チワワは頸椎を骨折して、動けなくなっていました。痛いのと興奮で、ただ唸るしかできません。「あれ?おとなしくなった」と思って恐々のぞくと、諦めきったような虚ろな目をしていました。術後に返さなければ良かったと後悔しきり…どこまで回復するのか、有望な前途を台無しにしたのだから、どんなことになっても面倒をみていこうと思いました。2014年3月のことでした。
「ここでは対処できない」と言われて、仙台の救急動物病院に移され、大手術を受けました。費用も30万円余りかかりました。手術はうまくいきましたが、寝たきりの生活は長く続き、イライラするのか…お世話するボランティアさんも随分噛まれました。『ムーン』という名前が寂しい響きだったので、音が近くて、おっとりとした響きの『むう』に改名しました。

半年~1年かかりましたが、むうは上半身を起こしたり、前脚を使って少し移動できるようになってきました。表情も険しさより愛らしさが増してくるようになり、友達もできました。ボランティアさんが抱っこして、散歩に連れて行ってくれるようになりました。大勢居るから、思うほどは手をかけてやれないのですが、一生ここで暮らすしかないのだと思っていました。2年ほどすると、「腰を支えると歩けるよ」という話が出て、「車椅子があればいいのかも…」という話題になりました。
そんな中、吉田さんが「あと1匹なら引き取れるようになった」と、むうの里親に名乗りを上げてくれたのです。そして、2017年5月、新幹線に乗って迎えに来てくれました。思いもかけず東京に出たむうは、新しい仲間に出会い、ベビーカーに乗せられて優雅に散歩して、念願の車椅子もオーダーしてもらって自力で歩けるまでになった報告が、次々と送られてきました。このことは、どんな不遇な動物も、命があれば生き直せることを、人の勇気と思いやりがあれば幸せになれることを、改めて教えてくれました。だから、まず命がつながる努力をしていかなければならないのです。

大宮駅で猫アレルギーの娘と待ち合わせて、埼京線と武蔵野線を乗り継いで、一緒に吉田さん宅に行きました。このお宅にも、福島に取り残された犬や保健所から引き取った犬や、多頭飼育の現場から連れてきた猫や、箱に入れられて川を流れて来た猫がいます。しかも、殆どが病気や障害を持っています。彼女もまたここでの生活にどっぷり浸かって、出もやらずの日々です。
そして、吉田家に迎えられたむうは、すっかりお利口さんになっているかと思いきや…相変わらずガウガウの《噛みつき野郎》でした。吉田さんは「阿部さんが来たらむうちゃん、喜ぶだろうね。連れて帰るなんて言わないでね~」なんて言ってましたが、そんなことはないとわかってはいたものの、ここまで「変わってなーい!」とは…。それでも、「雨降りでだから、車椅子でのお散歩姿を見せられない」と吉田さんは、自宅の狭い廊下にマットを敷いて何回も行ったり来たりして、車椅子歩行を見せてくれようと一生懸命でした。
娘のアレルギー症状も時間と共に重症化してきたので、夕方おいとまを告げ、吉田さんがタクシーを呼びに外に出た隙に、私はむうに「あんた、良かったっちゃ!幸せもんだ~」と言ったら、ガウガウ野郎も口パクしながら、頷いて「あばよ~」と言っていました。

 

 

手術を受けてまもなくの頃。険しい目をして唸っているか、無表情かのどちらかでした。

 

 

術後も寝たきり状態でしたが、介護を受けるうちに心開き、すると少しずつ動けるようになってきました。

 

 

友達もできました。猫嫌いの『ちゃこブー』が「ママになってあげる」と言うので、「それは遠慮しま~す」。

 

 

「すご~い、見て見て!むう、腰を支えてやれば歩けるよー」力を借りると、色々できるようになってきました。

 

 

「車椅子があれば、歩けるかも…」という夢が叶いました。こんな日が来たんだね~

 

 

お友達もできましたが、相変わらず《お山の大将》なので、吉田さんも「今朝も噛まれた」そうです。

 
【 高齢社会の責任と対策 】

近年、高齢者が飼っていた、あるいは餌付けしていた犬や猫をめぐる相談が非常に多くなりました。
「世話をしていた人が居なくなった」という電話やメールは、近所の人や役所や老人を支援する団体、病院職員や介護ヘルパーなど、本人に関わっている人達から来ます。亡くなったケースより、「入院して帰って来る見込みが立たない」、「認知症が進んでもう1人では生活できないから施設へ入る」という話が殆どですが、世話を受けていた動物たちは、飼い主に先立たれたと同じ境遇に陥ってしまいます。

2月にも、こんなことがありました。石巻市内で火事があり、ニュースを見てビックリ。昨年、避妊予防センターで避妊手術した猫の家でした。当時はおばあさんの1人暮らしで、ボランティアのちえさんが送迎して、回復するまでアニマルクラブで預かりました。「分割にして」と頼まれた費用の支払いも円滑ではなく、「取りに来て」と電話が来たら、ちえさんが集金に行ってくれていました。彼女は火事のニュースで心配になって、焼け跡に行って、近所にも聞いてみましたが、「つき合いがないから、猫がいたのもわからない」と言われたそうです。
ところが、この猫『しゃもじ』は無事に逃げて、そして翌日には現場に戻って来ていたことが、その後まもなくおばあさんの娘さんから相談が来て、わかりました。おばあさんは少し前に入院して、火事の時には、家には三女が住んでいたそうです。この家には猫がもう1匹と犬も1匹いたそうですが、家の中で死んでいたとのこと。人間は消防士に救助されました。

おばあさんの家は「火の手が上がったら、燃える物ばかりのごちゃごちゃの家だったよ」とちえさんが言っていました。現代社会の問題点が露わになるような現場には、なぜか動物が居ます。昨年「しゃもじに里親を探したら?」と言った時、「孫が連れてきた猫だから~」と、言うことを聞かなかったおばあさん…おばあさんの3人の娘さん達も揃って、生き残ったしゃもじを「引き取れない」と言うばかりでした。
しゃもじが入って来たキャリーは煤けて、熱で少し変形していました。体は焦げ臭くて、まつげもひげも焼けて縮れていました。怖い思いをしたからか…2、3日は何も食べずに、近寄ると唸っていましたが、やがて打ち解けて、ゴロゴロ甘えるようになりました。まだ2歳の若いメス猫です。安心して、末永く暮らせる家を探してやらなければ…と思っています。

行き場のない動物達の相談を持ち込む人は、「とても大事にされていたようですよ~」と弁護のつもりで言います。大事なら、飼い主は「自分が居なくなっても生きていけるように」備えておかなくてはないはずです。アニマルクラブでは、4年ほど前から仙台市の女性弁護士グループと共催で、パネル展などを開催するようになりました。このコラボで進めたいのは、ペットと暮らす高齢者が、自分がいなくなっても、残されたペットが生きていけるように遺言書などの準備をしておくことです。
何の支度もせずに、『大事』を他人に引き継いでもらおうとするのは、重荷を被せることです。ボランティアに過ぎない私達では、次々と引き受けられる力はありません。「そんな準備ができる老人ばかりではない」と社会が言うなら、国は法と予算を整えて、飼い主を失った動物の救済の受け皿を用意しなければないでしょう。きちんとしたシステムができないと、行政は機能せず、昨日まではかけがえのないパートナーとして孤独な老人を支えていた犬や猫が、殺処分のルートに送られることになるのです。

むうが再出発した年の夏に、バトンタッチしたようにアニマルクラブにやって来たチワワは、市内の公立病院のケースワーカーが「先週救急車で運ばれて来て入院したおばあさんが、家に犬が居ると言うのですが、何とかなりませんか?」と電話をよこしたことが始まりでした。「おばあさんの家はどこですか?病状はどんな具合なんですか?」と尋ねると、「個人情報なので…」とお決まりの逃げ口上~役所の職員も必ずそう言います。何も教えないで、お金も出さないで、顔を合わせてもいない人に「引き取って一生面倒を見てもらえないか?」と言ってくるとは、何と非常識な世間知らずでしょう。
「何も教えられないなら、何を協力できるのかも見えてきません。どうぞ自分で様子を見て来てください。この暑さだから熱中症になるかも…」とハッパ掛けました。案の定、翌日「行ってみたら、ゴミ屋敷でした。奥で犬が吠えていたのですが…何も見えませんでした」と、情け無い電話が来ました。

しかし、この人はまだ良心的です。「飼い主が入院中の多頭飼いの猫の世話をしてくれませんか?」と何度か役場職員から連絡が来て、「一緒にやってください」と言うと、「それは私の職務でない」とか、「休みにボランティアとして…」と頼んだら「そんな趣味ないですから!」と怒り出した人もいました。
あるいは、「虐待の被害者のおばあさんが飼っていた犬に、里親を見つけたい」と相談され、自らも世話に通ってくれた市職員がいて、嬉しくなったのですが…犬の行き先が見つかると自分の気持ちが満足したようでした。「次は、おばあさんと同居していた男が、近くの借家に連れて出た、親子猫9匹の避妊・去勢と里親探しをしないと…」と言ったら、「虐待相手とは関わりたくない」とさっさと降板してしまいました。
《虐待》と言っても、暴力を奮ったわけではなく、おばあさんの財産を使ったことが経済的虐待なのだそうです。実際に接すれば、怖くも何ともない、調子が良くていい加減なじいさんでした。無料で手術やワクチンをして、子猫には里親を探しました。自分や人のためには幾らか行動しようという人は居ても、動物の命やこの先のことを考えて、動いてくれる公務員はなかなか居ないのだな~と知らされる一件でした。

ケースワーカーの男性が自分の手には負えないと、犬の居場所を教えてくれたので、そこから近い所に住んでいるボランティアの岡さんが、早速行ってくれました。やはり奥から吠えているので、玄関に掛けてあったリードをかざして振りながら「さぁ、散歩に行くよ~」と呼んだら、黒いチワワがゴミの間から出て来たそうです。
こうして、またしても黒いチワワがアニマルクラブに来ましたが、手入れされずに固まっていたのは毛ばかりでなく、性格もねじくれて、面白くないとすぐ噛んでくるところも、むうと同じでした。おまけに高齢犬に多い心臓病もあり、里親探しは無理と判断しました。
時間と手を掛けるうちに、チッチとはコミュニケーションが取れるようになりましたが、近年同様の境遇の高齢犬や猫が増えていることは私達の負担を増やし、不安を駆り立てています。併設の不妊予防センターには、エサやりをしていた高齢者が居なくなって、野良猫が子を生んで増えていく相談が後を絶ちません。

 

 

連れて来られた日の『しゃもじ』。ヒゲとまつげの縮れ、焦げ臭さがいたわしい。

 

 

でも、2.3日で生来の明るさを取り戻し、食欲も出ると、人なっこく、甘えてくるようになりました。

 

 

周りにも興味を持つようになり、お隣の部屋にも声を掛ける、まだまだ好奇心旺盛な若い女の子です。

 

 

ゴミ屋敷に居た老犬。後に、「飼い主はアル中で、チッチは噛み犬と言われていた」と聞きました。

 

 

当初は怒ってばかりいましたが、まず犬に馴れて、人にも馴れてきました。臆病な『ちびめ』と仲良し。

 

 

今では、抱っこも大好き。何歳からでも、自分が経験して納得すれば、新しい生活ができる証明です。

 

 

【 看取りの時間 】


果たして行政は、『命を護る・無駄にしない』対策に真剣に取り組んでくれるのでしょうか?私は自転車操業のペダルをいつまで漕ぎ続けられるのか…こうして1泊2日で出かけることさえ3ヵ月も前から準備しながら、その間に4匹を看取ったので、本当に家を空けられるのか、心配でした。出発間際にもまた一段階病状が悪化した腎不全の老猫がいて、心を残して…出てきました。
東京で社会人になる娘のために、保護者として最後の勤めを果たすべく上京しました。かつての親族、家族が久しぶりに会っても、生活環境や価値観が違ってしまって年月が経っているので、話題に上ることにもピンと来ないし、興味も湧かないのが実際のところです。娘の方が、芥川賞や直木賞の本の話でも、ワインの批評でも滑らかに乗っていたから、絆は繋がったことでしょう。せめて私は、もてなしてくれる想いには応えなくては…と、普段は粗食しか入らない胃袋がびっくりする、イタリアンやフレンチを果敢に完食しました。36階から眺める皇居のサンセットにも、先ほど「食べなくなって、動かず寝ています」とメールが届いた、茶トラのヨレヨレ猫『チャチャ』のことを思い浮かべていました。花びらを敷き詰めて挟んだガラスの皿にちょこんと乗ったスープを見れば、花で飾って見送る前の時間を一緒に過ごしたいと、ただひたすら間に合うことを願っていました。
新幹線の時間が来て、東京駅の改札でお礼を言って手を振ると、《田舎のネズミ》はやっと『お役ごめん』です。仙石線に乗り継いで、タクシーに乗った時、地元の言葉で気さくに話しかけてくれて、家の手前で料金メーターを止めてくれた運転手さんに、心がホッと和みました。「チャチャー、チャチャー」と呼びながら、階段を駆け上がりました。呼びながら鍵を開けると、ケージの中に横たわりながら、顔をこちらに向けて、声にならないけど、口を開けて応えているチャチャがいました。

 

「何にもいらない、あなただけ~」という歌のフレーズが浮かび、オシッコで汚れたペットシーツを交換して、1.7キロまで落ちた紙キレのような体を抱いて、鼻水まみれの顔を拭き、シリンジでぬるま湯を飲ませました。ちゃんと飲んだのが嬉しくて、次は皮下点滴をしました。チャチャは最近まで皮下点滴をすごく嫌がって、させませんでした。ところが、いよいよ歩くのもままならなくなって、オシッコも漏らしてしまうようになってくると、急に素直に背中に針を刺させるようになったのです。チャチャは、子猫の時から健気で賢く、苦労も明るく乗り越えてきた立派な猫です。去年一度食べられなくなって危うい状態になったのですが…ちょっとボケたようになって食い意地が出て、食べ出したことで命が繋がりました。痴呆になって食欲を呼び戻すことは、生き延びるための本能なのだと想います。私の人生の伴侶であった、茶トラの『団蔵』にも、同じ現象がありました。団ちゃんもそうでしたが、体重が2キロを割って痩せると、針を差す場所を探すのが至難の技なのですが、チャチャとも呼吸が合って、うまく入るのです。生きられる限り生てやろうと、腹をくくった潔さのようにも感じられました。

その夜は、チャチャを枕の隣に置いて、一緒に寝ました。初めて会ったのは18年ほど前~市内から車で40分ほどかかる桃生町の保健福祉課の職員からの電話で、「精神を病んで、生活保護を受けて、猫を多頭飼育して、近所に迷惑をかけているオバサン」の存在を知りました。例の如く《相談》という名目の引き取り依頼でしたが、それは無理なので、せめて避妊・去勢をしようと、訪ねました。家はゴミ屋敷でしたが、オバサンはこぎれいで挨拶も丁寧で、一見すると普通の奥さんに見えました。しかし…「私も考えて、生まれた子猫をオスとメスは別々に入れてるんです~」と案内された軒下で、生後4、5ヵ月のメス猫が7匹も、直径60センチ×45センチ位のケージに押し込まれているのを見て、ギョッとしました。勿論トイレは入っていません。キジトラばかりの中に茶トラが1匹いて、その子はケージのトレイが汚れるのが嫌で、端っこの縁に注意深くウンチしていました。チャチャです。その姿がいじらしくて、「子猫はこちらで預かって、里親を探しますから」と言ってしまいました。確か11月初めでもう寒いのに、オスが2匹入ったもう1つのケージと2つ並べて外に置きっぱなしで、夏の日除けの葦簀が掛けてあるだけでした。

家の中に入ると、去勢していないオスのスプレーの臭いが充満しているのに、オバサンはしたり顔で「ストーカーが来て、薬品を撒いていく」と説明していました。緑青が吹いた仏壇の鐘も「硫酸をかけられたんだよ~」と眉をひそめて作話を続けました。避妊・去勢手術が必要なことを話し、送迎すること、回収できないとも感じつつ、分割で少しずつ費用を払ってもらうことなどを説明すると、いちいち頷いて、頭が膝につくほど何度もお礼を言って、車が出てもいつまでも手を振っていました。寂しい人なのだと同情も湧きましたが、職員の対応に腹を立てて、役所に乗り込んで暴れた話も聞きました。
このオバサンには、様々な面倒をかけられました。オバサンにしか馴れていない猫を病院に連れて行くのに、ボランティアの麗子さんが迎えに行って、同行を頼んだら、「留守中にストーカーが入るから」と、車に風呂敷包みを幾つも積み込まれたそうです。精神科に入院する度に、エサやりに通わなければならないので、近くの小学校に勤務していた里親さんを思い出して、協力をお願いしたこともありました。その家の前に誰かが子猫を捨てて行った時も呼びつけられ、鬼のような形相で「うちの猫でないから、遠くの畑まで行って置いてきたのに、また戻って来やがった!」と芝居じみた愛想付かしを見せられて、連れて来ざるを得ませんでした。その子猫『ココ』は昨年、里親さん宅で幸せな一生を終えました。

チャチャは、妹の『モモ』と一緒に飲食店を営むお宅にもらわれたのですが…数年後、その店が倒産して夜逃げする事になったからと、2匹+後から飼ったもう1匹を託されてしまったのです。出戻りして来てまもなく、モモの体調が悪くなり、お正月であったために仙台の救急病院まで行きました。そこで院長先生に出会ったのが、後に不妊予防センターを始めるきっかけとなりました。モモは重い肝臓病で、治療の甲斐なく1ヵ月後に亡くなりました。一緒の家から来た子には、里親さんが見つかりました。チャチャのことは、アニマルクラブで面倒を見ていこうと決めました。
エサやりに協力してくれた里親さんはその後も時々様子を見に行ってくれていて、手術も一通り終わってしばらく音信がない間に、オバサンの姿が見えなくなったことを知らせてくれました。病院か施設に入ったのだろう、との話でした。馴れていないオス猫たちは野良猫になってしまったようです。チャチャ達の母猫姉妹とばあちゃん猫の3匹は連れてきましたが、エイズと白血病のダブルキャリアだったばあちゃんは1年後に亡くなり、エイズキャリアの母親達も体が弱かったので、幸いチャチャはキャリアでなかったから、せめてチャチャだけは、健康で長生きするのを見守りたいと思いました。そして、その通りになりました。

その日は水曜日で、翌日の不妊予防センターに予約を入れていた野良猫を捕獲するために何度か外出しなければならなかったのですが、ドキドキしながらちょこちょこ戻る度に、ホッとしてスープやぬるま湯を飲ませ、ペットシーツを替えました。でも、夕方近くに戻ったら、チャチャの目が乾いてきたことに気づきました。ペットシーツと毛布でくるんで抱っこしました。痩せ細った顔や体をそっと撫でて、小さな声で名前を呼び続けました。その声に最期までしっかりと応え、チャチャは息を引き取りました。生き切った、安らかな最期でした。抱いたままアニマルクラブへ~今日の夕方当番の岡さんは、勤続20年…チャチャの最初を知っている唯一のボランティアさんだから、お別れに連れて行きました。

 

 

東京に居る私に、かなえさんから届いた留守宅の報告メールに、添付されていたチャチャの写真。

 

 

36階の5つ星レストランの、趣向を凝らした生花を挟んだ皿にも、チャチャの棺を連想する始末…

 

 

チャチャは誰とでも仲良くできる、温厚で明るく、面倒見の良い性格。いつも輪の中心にいました。

 

 

同様に過酷な生い立ちから、慢性の鼻風邪を持ち、症状の重いとむすけには、特に親身に接していました。

 

 

度々ケイレンを起こすトラには、いつも寄り添って見守っていました。トラもすっかり頼っていました。

 

ココは利口で気の強い猫で…里親一家の一員として、奥さんの親友として、幸せな一生を送りました。

 

チャチャは私が帰って来るのを、待っていてくれました。傍らには、ボーイフレンドが付き添っていました。

 

 

「腕の中で…」安からに一生を終えることができて、良かったです。どの命もこんな風に見送れるように、心がけていきたいです。

 

 

【 回帰と連動の道のり 】

「いや~続くね~、みんなそんな年になっちゃったね~」と岡さん。「でも、次々看取っていかないと、責任が持てなくなっちゃうよ」と私。「そうだよね~こういう終わりなら、納得いくもんね~チャチャは良かった!」それぞれが、納得のいかない別れをした猫のことを想って…岡さんは、代わりにチャチャの頭を何回も何回も撫でながら、「こんなに痩せて、目も窪んでいるから、目は閉じないね~」と言いました。おっしゃる通り、小さくなったチャチャの屍は、パッチリと目を開いたまま、子猫のようにあどけなく見えました。絵描きのボランティアの森さんが、さすがの色彩感覚の花々で飾ってくれました~間に合って、本当に良かったです。

秋に『チャオ』と『より』を見送りましたが、どちらも腎不全の高齢猫でしたから、解っていた別れでした。人間の死もそうですが、突然やってくる猶予のない別れは、苦々しい悔恨を残します。動物の生き死に関しては特に、運に左右されることも痛感してきました。

 

《ちびかげ》

12月半ばの土曜日でした。いつものように、早朝に見回った時は、いつものように個室から出してくれとアピールするので、人の目が届く時間帯が来ると思い、部屋に放しました。『ちびかげ』ももはや5歳、前ほどやたらめったら布製品を噛んで食べてしまうことは少なくなりましたが…治ったわけではありません。時々、すっぽりと穴のあいた座布団やホットカーペットのカバーを発見しては、「あーっ、ちびかげだ~」と騒動になっていました。私は自宅に戻って、老猫ホスピスの世話をしていたのですが…ボランティアのしのぶちゃんが「今来て見たら、ちびかげが倒れていました。後ろ足が動かないようです」と電話をよこしました。「血管が詰まったのだろうか…?」
急がねばなりません。車で迎えに行きました。ちびかげは息苦しそうに横たわっていました。今週は一昨日と昨日、2日続けて不妊予防センターを開院して、獣医さんが居たのに…何で今日こうなっちゃったんだろう?と切なくなりながら、一生懸命にちびかげを励まして、病院に向かいました。まだ開院前に着いたのに、すごく混んでいました。受付に状況を話したのですが、順番通りにしか進まず、私はちびかげを撫でて励ますしかできませんでした。1時間以上過ぎても呼ばれないので、看護士さんに、せめてICUに入れて欲しいと頼みました。

酸素室に入って、注射を打ってもらった所まで見届けて、何人かのボランティアさんにメールを送りました。長丁場になりそうだから、付き添いを代わってくれる人を探したのです。家の猫たちの世話を途中で投げ出して来たし、ちびかげを連れて帰って入れる酸素室や、自宅でも使える酸素テントもセットしておかなくちゃ、と頭が先走りしていました。武地さんが代わってくれると言うので、到着するまでの間、私は病院スタッフに差し入れのシュークリームを買いに走りました。そんな物がどれほどの役に立つかわからなかったけれど、どんなちっぽけなことでも思いついたことは全部やらないと気が済まなくなっていました。
お昼頃に武地さんが来たので後をお願いして、家に戻り、腹が減って大騒ぎの猫たちにごはんを食べさせてから、手術室に行って見ると、案の定、しばらくICUを使っていなかったので、酸素の残りが少なくなっていました。業者さんに電話して、「土曜日で申し訳ないが、何とか早く届けて欲しい」とお願いしました。新しい酸素ボンベに繋いでもらって、ICUの酸素と温度が適性になった頃、ちびかげが戻って来ました。沢山の注射を持たされて来ましたが、「心筋梗塞だって~。詳しくは後で連絡するそうです」とのことで、酸素室に入れてやる以外のことはしてやれませんでした。

奇しくもその日はアニマルクラブの忘年会兼青森から復興の土木作業に来ていたボランティアの増田さんが次の赴任地に転勤する送別会でした。私は参加は無理になりましたが、他の皆さんにはあまり気を遣わせないように配慮も必要だと考えました。ましてや増田さんにはもう会えないかもしれないと思ったので、挨拶にだけは行かなくちゃと思いました。
仙台に用事があって出かけていたかなえさんが、夜にやっと帰って来てくれました。夜間手術室のICUに入れたままにしておくのは心配なので、支援者の方からいただいて、まだ使ったことのない酸素テントを自宅で使えるように組み立てて、酸素と温度の調整をしてもらっている間に、私は二次会会場に移動する増田さん達を送りながら、挨拶に行きました。
少し話して、和やかな雰囲気にホッとして、車に戻って走り出した瞬間、かなえさんから「ちびかげが苦しそうにしている」とメールが来ました。「付いているべきだった」と、「何とか死なないで居て欲しい」と、交互にそれだけが頭に浮かびました。
駐車場に着いて、手術室のドアを開けると、かなえさんが今まで見たこともないほど大泣きしていました。ちびかげは酸素室の中でチアノーゼのような状態でしたので、もうドアも開けて、体を撫でて名前を呼んで、「お母さん、来たよ」と声をかけました。最期まで意識ははっきりしていました。何が何だかわからないままに苦しんで、私にしがみついて息絶えました。

ちびかげ達兄弟が発見されたのは、津波被害が甚大だった湊地区。倒壊家屋が放置されたまま2年以上経ち、野良猫の住処になっていたようです。やっと取り壊しが始まり、「母猫が逃げ去った後に、赤ちゃん猫が5匹居た」と、その近所のオバサンが連れて来て、「自分も仮設住宅暮らしで何とも できない」と置いて行きました。一番小さくて体が弱く、よく下痢をして病院に行き、お手製のオムツを穿かせて育てた子なので、私のことは母親と思っていたかもしれません。兄達には里親さんが見つかりましたが、この子には布を噛んで食べる癖があり、首輪を丸呑みしたこともありました。「お腹を切るしかない」と言われて、手術前夜、「可哀想に、明日の今頃どうなっているかな~」と話しかけたら、トイレに行って、息み出し…赤いウンチが出て来たからハッとして、ポリ袋を右手に被せて近づいて、引っ張ったら…赤い花柄の首輪がそのまま出て来て、切腹を免れました。それ以来、目の届かない間は個室管理になりました。
しかし、個室に入れても、突発的に起きる病気は防げません。お先真っ暗な病名、トリアージもない対応、先回りし過ぎて、今を見逃した私の判断ミス…どれもうやむやにはしないで、現実を受け止めようと思いました。

 

ミルクを飲ませて育てました。消化不良で下痢するので、お手製のオムツを穿かせていました。

 

 

女の子みたいに可愛い顔で、頭からほっぺに掛かる黒が、サザエさんのワカメちゃんカットみたいでした。

 

 

ICUの中で、私の到着を待っていたちびかげは、私の右手にしがみついて、息絶えました。

 

 

平川さんが、ちびかげの絵を描いてくれました。布に噛みついて食べてしまう姿を思い出します。

 

 

 

《鈴ちゃん》

タイミングは良くも悪くも私達の周りをぐるぐると回っているかのようです。ちびかげを亡くして5日後の夕方近く、避妊予防センターに、時々猫を連れて来る奥さんから電話が来ました。「家の近所のお年寄りが物置で面倒見ていた野良猫が、月曜日から帰って来ないと聞いていたんですけど、ついさっき顔に大ケガしてヨロヨロ戻って来たんです~」と泣き出しそうでした。この人は猫を大事にしている良い人だと分かっていましたから、「すぐ連れて来て下さい」と急かしました。「でも、もうすぐお姑さんのヘルパーさんが来ることになってて…」なんて戸惑っていたので、「もう少しで獣医さんが帰ってしまうから、私引き止めておくから、送ってだけ来て置いて行けばいいから、すぐに来てね~」と強引に言いました。

そして、運び込まれた猫は…交通事故で顔に大ケガを負っていて、獣医さんには「ここでは手に負えないです。仙台の病院に運んで、CTやMRI検査と手術が必要で、費用も20万はかかるかなぁ~」と言われたのですが、「野良猫で、お金を出してくれる人もいません。今ここでできることを、取り合えずしてもらって、その後の経過は運に任せます。私達でできることはしていきますので、傷の処置をお願いします」と頼みました。
ちびかげの時、病院の対応に引いてしまって『後悔先に立たず』だったから、『一歩も引くもんか』という決意がありました。排膿、洗浄、縫合までしてもらって、後は自分たちで手入れすることにしました。連れて来た奥さんが「おじいさんとおはあさんはお金は出せないと思います。私は自分に出せる位は出します」と言って帰ったから、その気持ちに応えたいとも思いました。

ボランティアさんの中には人間の看護士さんもいるので、こんな時、頼りになります。2、3日は死んだようになっていたのですが、毎日、抗生剤や痛み止めの注射を続けて、風前の灯火だった野良猫『鈴ちゃん』の命は赤々と燃えて、見違えるように元気になってきました。しかし、お年寄りが物置で飼い続けるのは無理だということになり、避妊手術もして里親探しをしようということになりました。折しも、ちびかげと同じ頃に愛猫を1匹看取った岡さんが、鈴ちゃんの里親になることになりました。
動物たちとの日々は、悲喜こもごも…満ちたり引いたりする汐に揉まれて、私は今日に至っています。

 

運ばれてきて、処置を受けた日。顔が曲がって、腫れ上がり、膿を出すドレーンを差込ました。

 

 

1ヵ月後、かなり改善。聞けば、春にも事故って、足が不自由になったとか…
外では暮らせない子です。

 

 

さらに秋には出産して、子猫はすぐに皆、死んだそうです。野良猫の苦労を全部経験してきたようです。

 

 

今日からは、岡さん宅の養女になります。命名も岡さんでした。この子に、一目惚れだったんですね。

 

《ユキ》

前回、秋の活動報告では、瀕死の『チャオ』にぴったりとくっついて、かいがいしく介護してくれていたチャチャが、半年も経たないうちに、今度は自分が虹の橋を渡ることになりました。そして、前回、ボケて狼藉ざんまいの奮闘記をお伝えした柴犬のユキもまた、その時を迎えたのです。

鈴ちゃんが来て1週間が経ち、少しずつ快方に向かってきた、12月27日の朝のこと…私は5時半から7時半頃までアニマルクラブに居ました。その朝、ユキは横になったまま、久しぶりに、よく鳴いていました。オシッコして、ウンチして、水飲んで、ミルク飲んで、それでもウォンウォンしばらく鳴いていたので、森さんが言う「ユキちゃんが鳴く時は、何か言いたいことがあるんだよね~」という言葉を思い出しましたが、不妊予防センターの日だったので、ひとしきり鳴いた後で眠った姿を見て、自宅の猫達のごはん作りに戻りました。
そして、散歩ボランティアの平塚おじさんが来た8時半頃、てっきり寝ていると思ったユキに声を掛けても反応がないので、よく見たらユキはもう動かなくなっていたそうです。静かなる大往生でした

認知症の徘徊から始まって、何度も危ない目に遭いヒヤヒヤさせられ、秋以降は寝たきりとなって、床ずれやオシッコまみれやウンチだらけや、便秘の便出し…ボランティア総出で毎晩遅くまで、いっぱい手をかけてもらったから、悔いはないです。ユキの火葬には、ボランティアさん達も駆けつけて、珍しくにぎやかなお骨拾いでした。
森さんが肖像画を描いて持って来てくれたので、暮らしていた部屋に飾ると、散歩に来た平塚さんが「ユキが居るようだ~」とオイオイ泣き出しましました。でも、平塚さん以外は誰も泣くことはなく、笑顔で思い出話に花が咲きました。一生のうち前半は、精神病の飼い主に振り回されて苦労しましたが、アニマルクラブで過ごした後半は、甘えて可愛がれて、面倒かけて…存分に生きたから、ユキは本当に幸せ者でした。

 

 

①後ろ足が動く間は、介助ベストの取っ手に、風呂敷をベルトに縫ったワッカを通して歩かせました。

 

 

②寝たきりになっても、食欲旺盛。その分、オムツじゃ間に合わない…てんやわんやの介護の日々でした。

 

 

③前の飼い主の時からのトリマーさんが大好き。ユキの身を案じていた彼女と縁が繋がって、他の子もお世話になっています。

 

五井さんに続く『アニマルクラブの絵描き』の森さんが描いてくれたユキ。部屋を開けると、今も居るようです。

 

《くり》

そして、次は老猫の『くり』が、腎不全から電解質のバランスが大きく崩れて、2週間以上も食べられなくなって、24時間点滴の管に繋がれました。 『アニマルクラブに居る子たち~それぞれのストーリー』の本の最初の、娘が描いた私の似顔絵の中に『とむすけ』、『みつまめ』と共に、私が着ている服に描かれている、目がロンパリのシャムミックスです。今娘は24歳で、あの写真は6歳くらい。とむすけとみつまめは出会った時は子猫でしたが、くりは大人でしたから、20歳位になっていたと思います。

車窓から飛び出した猫の相談を受けて、飼い主のおばあさんと一緒に探し回った時、ポスターを見て「うちのビニールハウスに来ている猫に似ているよ」と言われて、仕掛けた捕獲器に入った野良猫でした。《猫違い》でしたが、おばあさんが「居なくなったメリーちゃんの代わりに飼う」と言い出したので、おばあさんと一緒に送り届けました。ところが、一晩で音を上げて「メリーちゃんと全然違うから、元居た場所に放してきて~」と電話をよこしました。
のんきなオトボケ顔がにくめなくて、ばあさんの悪口を言いながら、家に連れて来ました。穏やかで誰ともうまく付き合って、ケンカしたところを見たこともなく、体も丈夫で、手のかからない子でしたが、寄る年波には勝てず、またしても腎不全…でも、皮下点滴や療法食、サプリメントで何とか凌いできました。
しかし、年末にかけて、悪化の一途を辿りました。時々悲しい声を上げて鳴くので、点滴を外してみたりもしましたが、歩き回りながらも鳴いていました。フリーにしても全く食べることができなかったので、また点滴を繋ぎました。美味しそうなものをシリンジで口に入れても、殆ど出してよこします。そして、ユキが亡くなった、2018年最後の不妊予防センターの日、血液検査をしたら、電解質も全く改善されていませんでした。電解質のバランスが大きく崩れると、ケイレンを起こす可能性があるので、我が家の冷蔵庫にはおせち料理の代わりに、くりのケイレン止めの注射が入りました。

大晦日、くりがケイレンを起こし、幸い点滴の留置の管から静脈にケイレン止めの注射液を入れて治まりました。電解質を整える点滴も効果がなかったことがわかったので、もう点滴機から外して自由にしてやりました。
すぐ近くの実家から「年取りにはすき焼きするから、食べにおいで」と呼ばれていたのですが…一度は妹に「行けなくなった」とメールしたものの、「お母さん、ガッカリするよ~」と言われ、ふと思いついたことがありました。車を暖めてから、キャリーにカイロを入れて、ケイレン止めの注射器や水を飲ませるシリンジを持って、くりを実家に連れて行ったのです。最初に暮らした家で、くりは私や家族と『紅白』を見て(聴いて)年を越しました。
そして、私のベッドで元旦の朝を迎えて、昼はまた実家のおせち料理やお雑煮のお呼ばれに、一緒に行きました。母や妹がテレビを見ながら他愛もない思い出話をしていた頃、私はくりがいよいよ消えていくことを察知して、おいとましました。2019年1月1日午後2時半頃、くりは私の傍らで、眠るように息を引き取りました。

 

18年程前の絵の中に居るくりは、「ひょうきんなママのお気に入り。みつまめが好きだけどフラレた」という役回りでした。

 

 

年老いて右耳に血腫ができ、後遺症で垂れ耳になって、ひょうきん健在でしたが、腎数値は右肩上がりに…。

 

 

ひょうきん同士のギルとは、おっとり同士でもあり、『和みのペア』でした。

 

 

もう薬も効かなくなったから、千葉院長の名言「薬よりも愛情」実践で、年末年始を共に過ごしました。

《吉里》

ユキやくり、そしてチャチャは納得のいく看取りでしたが、ちびかげの最期が無念と悔恨なら、『吉里』の短い一生には、宿命への哀しみと、忘れ去られる被災動物たちへの無情を禁じ得ません。

薄情けでエサをやり、身勝手に自分だけ引っ越し、置き去りにされた猫が仮設住宅に沢山いました。お金のある人から引っ越して行けるから、仮設住宅に残っているのは老人や単身の女性が多く、置き去りにされた猫たちを哀れんでエサはやっても、それ以上の力はないのが現実でした。相談が来ると、お金は払えなくても良いから、避妊・去勢手術とワクチンを受けるように勧め、人なっこい子には里親探しをしました。
吉里もそうした経緯で手術に来て、カルテに名前を書こうとしたら、付いていなくて、「きかなくてなついていないから、キカでいいです」と言われたのが可哀想で、似た音で「吉なる里」の『キリ』と命名しました。しかし、まもなく避妊手術の時に判ったのですが、生まれつきの遺伝性の腎臓病を持っていました。「やがて腎不全になり、そう長くは生きられないだろう」と診断されたので、引き取りました。けれど、野良猫気質が抜けず、皮下点滴も無理で、ごはんに薬を混ぜるしかできませんでした。

腎数値は高かったのですが、大事には至らずに2年余が過ぎました。けれど、晩秋から、目に見えて両脇腹が膨れてきました。師走に入ると食欲がぐんと落ちて、1月最初の不妊予防センターの日、腎数値が計れないほど高くなっていて…「今日死んでもおかしくない」と言われたので、自宅に連れて来ました。最初の10日位は全く食べられない状態でしたが、諦めずにあれやこれや見せているうちに、一念発起したように食べ始めて、1週間ほどはよく食べ続けたので、「もしや回復するのでは…」と想った時期もありました。そうしたやりとりの間に、私との距離も縮まり、抱っこして皮下点滴もできるようになりました。
しかし、徐々に食べられなくなって、腎臓はどんどん肥大してせり出してきて、やせ細った体の両側に大きなコブが付いているように見えました。1日2回の皮下点滴で、ようやく命をつないでいる感じでした。2月に入るとオシッコを漏らすようになりましたが、すっかり私を頼るようになっていたので、もうしてあげられるのは、吉里のやりたいようにさせることしかないと思い、ベッドの上で寝かせました。何度か布団や枕にオシッコされて、夜中に洗濯して、乾かないうちにまたされて、替えがなくなる…という日もありました。やがて、まともに歩けなくなり、ケージに入れれば、悲しげな声を張り上げて鳴くので、つい出してやると、よろめきながら高い所や狭い所に行こうとするので、目が離せませんでした。
そして、2月16日、声を出すこともできなくなり、それでも歩きたがっていました。シリンジで水を少し飲んで寝た吉里の側に、座っていたのですが…少ししてまた見たら、目が渇いてきたので、はっとして首に手を回したら、ドキッとかすかに脈打ったのですが、首はクタッとなりました。とても静かな最期でしたが、老猫の終末とは違う過酷な《闘病》の完結でした。

逃れられない病気を持って、生まれ出る命があります。長くは生きられないなら、痛みや苦しみがあるのなら、手助けが必要なのに、動物には受ける権利が認められていません。どんな人間に出会うか、運次第なのです。
そしてまた、人の心は移ろいやすく、仮設住宅で餌付けしていた野良猫たちに避妊・去勢を施した人達でさえ、引っ越すと餌やりの足も遠のき、やがて猫の姿が見えなくなったことにどこかホッとして、被災の日々を切り捨てるニュアンスを感じます。そうやって過去を乗り越えて、新しい暮らしに踏み出して行った人々の足元には、忘れ去られて消えていった多くの命がありました。
運を掴んで生き延びた一部の動物たちの軌跡をこうして伝えていくことが、私にできる《命の回帰》であり、たとえ終わった命からでも受け継がれるメッセージが、次の《命を救う連動》を起こしていくことをただただ願っています。

 

外が恋しいのか、よく窓辺に座って、部屋の猫たちを観察していました。友達が欲しかったのかな…

 

 

体調が悪くなって、自宅に連れて来てからも、外を見ていました。後ろ姿が、どんどん痩せてきました。

 

 

具合が悪くなって、初めて人を頼りました。素直に膝に乗って、皮下補液を受けるようになりました。

 

 

吉里の棺。森さんが飾った花々の上に、小杉さんが折った千羽鶴が舞い降りて、天国に運んでくれました。

 

 

【 この先、できること 】

それをよく考えるようになりました。自分の体が、前のように動かなくなったからです。今週も東京から帰って来て、チャチャを看取った日の夜、自宅の猫たちのごはんを作っていたら、疲れて眠くて眠くて…足は床に着き、手も動いて盛り付けをしているのですが…頭とも目とも繋がっていなくて、たまに一瞬線が繋がると、「なに、やってんだ~」と思うのですが、またすぐに切れて、間違った盛り付けをする繰り返しで~何とか格好つけて、夢遊病者のように配膳して回り、食器を回収した途端に、ベッドの上に倒れ込んで3時間寝ました。いつもそれ位で目を覚ますのは、温風ヒーターが3時間で切れるからです。
隣の部屋との仕切りの網戸際で、最長老のユウが「消えたぞ、寒いぞ~」と大きな声で文句を言っていました。20歳を越えたユウは近年、口うるさい舅みたいに不平不満ばかり言っています。私が居る部屋と隣の部屋には、腎不全の老猫と、猫には結構多いのですが…突然倒れて病院に行って、診察や血液検査では何も判らず、数日間生死の境をさまよって、回復はしたのだけれど、明らかに前とは違う様相を呈して…ぼんやりしたり、あるいは過敏に怖がったり、単純な動きを繰り返したりする、脳障害の後遺症らしい猫達が居ます。腎不全チームは、食べて排泄する如くに日常的に吐き、老猫は便秘か下痢か、両極端です。おすまし顔でしゃがみながら、いつもトイレから外れる子や、脳障害や痴呆気味の猫は、寝たままお漏らししてしまうこともあり…家に居ると1日中掃除をしていなくてはないようです。
その夜は、「不妊予防センターの準備、やってないよ~」という警告がどこかから聞こえて、目が覚めました。長く生きると目覚ましなんかは必要なくなります。体が様々なことを認知してくれるのですが、その分、体力はすり減っていくようです。いろんな不安が、常に頭を廻っています。悲しいかな、これまでの人生で『良いことは長くは続かない』という教訓を得ているからです。しかし、一方で、自分自身が子供の頃からこの活動を始めて40年以上が経ったことを思えば、『続けていくことが力』だとも、ずっと応援してくださっている方々を想えば、『変わらないことが強さ』だとも実感しています。常に命題は、『誰がために、いかにせん』です。「疲れた~」「眠い~」「やんだぐなった~」とボヤいてしまう…すり減っていく頭と体に見合った活動をしていかなければ、傘下の動物たちも雨に濡らしてしまうことになりかねません。

もうすぐNPO法人も年度末で、確定申告をしなくてはなりませんが、経済面の不安も募っています。獣医師や看護士を派遣してくださっている動物病院も人手不足で、年々来れるスタッフが減って、一昨年からは外来診療は午前中だけになってしまったために、来る人が大分減りました。普通にお金を払える人なら、一般の動物病院に行く方が都合が良いからです。口コミで「お金がなくても診てもらえる。避妊手術の支払いは分割でいい」と伝わっているようで…一般の病院に行きかねていた人達が来ることも多くなり、《業務は忙しくても、イコール収入ではない》のが現実です。
震災前よりも、震災後の4、5年目よりも、被災地では近年の方が、生活が苦しくなった人が増えたような実感があります。母子家庭や単身の女性だけでなく、夫と共稼ぎしている奥さんから「すみません、なかなか支払いできなくて…」という言い訳を何度も聞きました。そうして連絡をくれる人は返すつもりがあるのでしょうが、それっきりになってしまう人達もいます。でも、それだからこそ、手術してしまって良かったです。自分の力では避妊・去勢はできなかった人達だからです。

一般社会は、お金のやりとりで事が進みます。しかし、ここは、動物を想う心があれば、例え葉っぱのお金でも、医療を受けられる動物病院です。持病がある子の具合が悪くなった時に、「お金の持ち合わせがなくて、動物病院で診てもらえなくて…」という相談がくることもあります。木曜日から遠い時、尿道結石などの緊急を要するケースは、こちらがお金を立て替えて、他の病院に診てもらったりもしました。
社会のほんの片隅のささやかな、あまっちょろいかもしれない活動ですが、ごく一部でも救われた命があるならば、この活動の火を何とか灯し続けていきたいと思っています。その先の聖火台で赤々と燃えるのは、どんな人間にも《人権》があるように、動物たちも生きる権利を認められる法律ができることです。そのためには、より多くの人々に、動物たちの現状に目を向けてもらうことからなので、3月18(月)~29(金)まで、仙台市青葉通りの地下道の壁一面を使った展示スペースをお借りして、『命は愛で輝きます展』を開催します。行ける人は、周りの方々にも宣伝して、是非ともお出かけください。遠方の方でも、こうしたパネル展を開催できる場所があれば、パネルを貸し出ししますので、企画を考えてみてください。

 

 

啓蒙活動を力を入れていくことが肝心と思いますが、日常に追われて、やっと開催にこぎつけました。

 

 

《パネル展予告編》

 

 

あの津波が、五井さんがこれからできたことをみんな流してしまいました。「やんだぐなった~」時、「彼女ならどうするか?」と考えます。

 

 

「♪やめろといわれても、いつでもおそすぎる~じょうねつのおーむすび~ヤェイヤェイ♬」

 

そして、この場を借りてお願いもあります。長い間、里親探しの会場を提供してくださっていた住宅会社が、石巻市の営業所を閉めることになったそうです。いつも寛大でとても親切にしていただき、私達の憩いの場でもあったので、残念でなりません。4月から里親探しができなくなるので、毎月1回程度、定期的に開催できるスペースを貸してもらえる店舗や事務所等を探していますので、ご協力いただける所がありましたら、ご連絡をお願いします。
睡魔に負けながら、合間にちょこちょこ書いていたから、1週間が経ち、奇しくも3月11日になりました。夜明け前から雨が降り、風も強くなってきました。「明日は、去勢した野良猫をリリースできるのか…」と、天気予報を見ようとテレビを点けたら、5歳の娘を震災で亡くしたお母さんが語り部となっている様子が映りました。「生きていれば中学生なのに、あの子の人生は5歳で止まったままなんだ…」と想うと、残された親は、何かをせずにはいられないのだということも、痛いほどわかりました。また昨夜から、一段と体調が悪化した猫がいて、気が重くなっていましたが、私も、津波に命を浚われた五井さんの笑顔を思い出して、「生きているうちは、やり続けねばねぇ~」と、防止策の蓋の上に付けたカバーも何のその…ゴミ箱に頭を突っ込んで、イタズラ道具を咥えて頭を出した、知的障害の『おむすび』の首根っこを捕まえて、その耳元に怒鳴りました。

2019年3月11日

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