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『10年目の緊急事態宣言』


 

【 必死に舟を漕いでいました。】

たいへんご無沙汰いたしました。コロナ禍の動物達に沢山のご恩を受けながら、毎度お馴染みの礼儀知らずで、ご寄付のお礼もお伝えできぬまま…秋は駆け抜け、冬も行き過ぎようとしています。

「その間、何をしていたの?」と聞かれたら、私は起きている限りは手漕ぎの小船を漕ぎ続けるものの、やがて疲れて櫂を握りしめたままで居眠りしていました…悲しいかな「体と頭が、思いについて行けなくなりました」。今日やらなければならないことも1週間位かかり、早めにやるべきことも1カ月はかかり、近いうちにやった方が良いことにまでは手が届かないうちに、次の難題に翻弄されるのです。
震災後の忙しさがフラッシュバックしたように、お風呂で居眠りして湯船に沈んだり、歯磨き中に泡ぶくを何度も飲み込みました。そして目覚めて、やりかけのことに取りかかるのですが、やがてまたこくりこくりが始まって頭をぶつけたり、椅子から転げ落ちて、地震かと想うこともしばしばでした。

なぜそんなに疲れたのかと聞かれれば、介護と看取りが続いたからかもしれません。夏に活動報告を書いた後、アニマルクラブにいた『ジャズ』が「昨日から全然食べなくなった」と聞いて、私が暮らす別館に連れて来て、まもなく力尽きてしまいました。気づかないうちに、肝臓が大分悪くなっていました。

猫アレルギーがひどくなって仕事にも支障が出て死活問題だと言う人から、毎月養育費を送るからと、合計3匹の猫の保護を懇願されたのは13年位前のこと。仕送りは数か月で途絶えましたが、その時すでに高齢だった『ハル』と『ムー』は、20歳前後まで生きました。ジャズは享年16歳くらいだと思います。
壁にオシッコ掛けをするので、クローゼットを改造した個室に入れ、側面にペットシーツを張りめぐらせていました。姿が見えにくい分、体調の変化に気づくのが遅れたのかもしれません。
ジャズの死を機に、『先がない命が最優先』だと、介護に邁進する日々となりました。そこから今までで8匹看取り、今こうしているあいだにも、今度はチワワミックスの老犬『チッチ』の心臓が限界にきて、酸素テントの中で風前の灯し火です。

オシッコをかけるからと、個室に入れていたから、体の動きとか毛づやとか細かいところまで目が届かなかったかもしれません。何十年経っても、日々気づかされることばかりです。

 

お茶目で可愛かったジャズ。良い子だからつい放っておいたことを悔やんでも取り返しつきません。この後悔は次の子のために生かしていくしかないのです。

 

アル中の飼い主が道路で寝ると、近づく人を威嚇していたチッチ。その人も入院して、ゴミ屋敷に残されていました。 アニマルクラブに来て4年、持病の心臓病が悪化して、3月15日に皆に見守られて息を引き取りました。写真はその4日前の森さんとのメモリアル。

 


 

【 送り人稼業 】

8月にジャズを失って、9月1日、認知症になっていつも「腹減った~」と部屋をウロウロ徘徊していた『シマ』が、命の芯まで燃やし尽くして昇天しました。
前の夜から動けなくなり、深夜2時頃に呼吸も止まったように見えたのですが、『トラ』が添い寝をしていると、5時頃、体の奥からゴロゴロ音が聞こえて、シマが目を開けたのです。「シマ、シマ」と呼んで撫でると、私をじっと見ていました。1時間後には、目に薄膜が掛かっていたので、亡くなったことがわかりました。生き切ったといえる、穏やかな老衰~20歳を超えていました。

石巻市の観光名所となった漫画館建設が始まる前に前に、中瀬から連れて来た野良猫三兄妹でした。弟の『チャオ』が3年前に逝き、全然人馴れしなかった妹の『パニ』も一昨年、生涯最後の半年間だけ私に甘えるようになってから亡くなりました。そして、最後まで頑張った長兄のシマを看取って…私は自分に最も活気があって、未来を信じて、できる限り命を救い上げた時代の終わりを感じました。

 

2時に事切れたと思ったシマに、トラが添い寝していると、5時に目を開けました。しばらくそのまま名残り惜しんで、次はもう二度と起きませんでした。

 

手前がチャオで、後ろがパニ。シマが兄貴の三兄妹。天国でまた団子になっておやすみなさい。

 

さらに、前回の活動報告で紹介した『コロ』と『トラ』は、10月末に2日違いで息を引き取りました。
コロは10月初めから危うくなってきましたが、頑張って食べていました。前の週から歩けなくなり、その朝までシリンジでミルクを少し飲み、補液をするとどんどん入るので、怖いくらいでした。
ミルクがもう飲めなくて、ぬるま湯に換えて飲ませてみようとしたら、眠ったまま心臓が停まっていました。安らかな顔でこちらを見たままでした。
アニマルクラブに来て11年余…年齢はわからないけれど、老衰だと思います。穏やかな可愛い子で、誰とでも仲良くできる名人でした。

 

アニマルクラブ本館『コロ部屋』部屋長として11年余…誰からも好かれる優しい『お父さん』でした。

 

「コロちゃん、白湯にしようか?」と声を掛けたら、「もう大丈夫だよ」って、笑顔を残して昇天していました。

 

一方トラは、体中に腫瘍が広がっての壮絶死でした。何度も死にそうになりながら蘇りを果たしたトラでしたが、首にできた癌が日に日に大きくなり、かなりの老齢でもありました。
8年前には足先の癌で右前足を根元から断脚して、ここ2年ほどは頻繁にテンカン発作のようなケイレンを起こしたり、病気ばかりでしたが、死にゆく猫にいつも寄り添ってくれる『看取り役』でした。

首の腫瘍が日に日に大きくなって、臭い膿が出てくるので、9月まではバケツ風呂に入れて洗っていました。体重が1.5キロを割ったのに、腫瘍が鶏卵ほどになり、体力的にも生理食塩水で洗い流すしかできなくなり、腫瘍から出血するようになると、みるみる体力が衰えました。
やせっぽちでしたが、目力があり、それが生命力を物語り、亡くなる3日前まで食べていました。翌日も食べようとしましたが、もう食べることができなくなっていました。
力尽きて命枯れた最期~生き切ったなぁ~と感服です。

 

トラといえばこの目力。右前足を失い、激しいケイレンで何度死を覚悟したことでしょう。腫瘍に体を食われていく様は、生きることがきれいごとでは済まないことを伝えました。

 

命の雫枯れるまで生き抜いたトラの拾骨後、腫瘍があった喉の骨を分骨して、仏壇代わりの棚に置きました。みんなのお守りです。

 

さらに、11月末には、生まれてから、3度捨てられた時も、18年間ずっと一緒に生きてきた弟の『サク』に、昨年先立たれた『モモ』が、後追いの旅立ちをしました。
震災の翌朝、津波の犠牲になった『クララ』と同じプレハブに居た子達を2階に移す際、最後まで捕まえられなかったモモは、部屋に溜まった汚い水に落とすまいと、夢中でつかんだ私の手に思いっきり噛みつきました。瓦礫を片付ける時に、どんどん腫れてきて痛くて痛くて…不妊予防センターの薬棚から抗生剤を探して、凌ぎました。
モモの気の強さは亡くなるまで健在~最期までしっかりしていたから、亡骸は痩せぽちでも凜々しかったです。

 

いつもくっついていたモモとサク。気が強いようにしていても、サクを失ってから、モモは忘れ物を探すように鳴いていました。

 

「モモ、サクに伝えて。忙しくて、作品集がなかなか完成しなくてごめんねと。今年は必ず形にして、お世話になっている方々にお送りします」。

 

そして…我が愛娘『みつまめ』は、秋以降後ろ足が利かなくなって、斜めに反った体をよろめかせながら、それでも自力でトイレに行く気丈さで年を越しました。
ミルクを飲ませて育てた子猫が再び腕の中で、すっかり硬くなった体を預けて、ミルクを飲んで最期を迎えようとしていた時、そのミルクを欲しがって足元で鳴く子猫がいました。秋にアニマルクラブの近くで行き倒れていたのを発見、体をのけ反らせ冷えきって死ぬ寸前でしたが、奇跡的に生命回路が繋がった『たけし』です。

その光景は、18年前、ミルクしか飲めなくなった老猫『タマ』への授乳の度に、ちょっかいを出してきた子猫だったみつまめの姿に重なりました。歴史は繰り返され、命の営みは連続していくから、1月2日、みつまめが安らかに息を引き取った時も、不思議と悲しみはなく、すがすがしくさえ感じました。2月10日、NHKの『あの日わたしは』が放映された中で、みつまめにミルクを飲ませているシーンが出てきました。みつまめとの思い出を残しておけることが嬉しかったです。

 

みつまめといえば、何か文句ありそうな表情が定番でした。

 

取材に来たNHKの番組ディレクターの野村さんが撮ってくださった1枚。不思議なことに、死が近づくほどに、みつまめは幼ない時の顔になってきました。

 

その後も…猫風邪が蔓延していた多頭飼育の家から幼少時に4匹兄弟で連れ出したものの、2匹はまもなく亡くなり、角膜炎の後遺症と重度の鼻づまりで一生苦しみながらも、穏やかでがまん強かった『ルドルフ』が、1月末に腎不全で命尽きました。

ルドルフの後に同じ家から連れて来た『ねね』ちゃんは、ボランティアの岡さん宅に引き取られました。慢性の鼻風邪がひどくて不妊予防センターの常連でしたが…手厚い看護の末に、ルドルフより一足先に亡くなりました。それでも、あの家の物陰で命尽きていた幼子がいたことを想えば、よくぞ生き延びた16~17年間でした。

そして、時は人の心を洗い流し、気づかせてくれることがあります。あの子達が生まれた家も、あの後みんなに避妊・去勢手術を受けさせたので、年々数が減り、今では片手で足りる数になりました。ルドルフの母親は生き延びて18歳、腎不全の治療で不妊予防センターに通っています。飼い主の女性はかいがいしく介護して、アニマルクラブに寄付を送ってくれることもあります。

 

病むルドルフを一生懸命舐めてやる『おむすび』。誰かが辛そうだと、他の誰かが付き添うのは、自然と受け継がれていく絆です。

 

「鼻が詰まって苦しいね」ときめの細かい介護を受けるから、持てる命を精一杯生かせます。

 

そして、膵炎と闘っていた『にせお』は、何も食べなくなって1カ月以上、補液だけで生き延びていました。私の姿をずっと目で追い、甘えて甘えてすがりついて、最期は腕のなかにとっぷり入って、やっと動く体で私を見上げたり、頭を押し付けたり、前足の爪を立てたりして…私が共に居ることを確認しながら、撫でられながら逝きました。薬も効かなくなった、食べ物も受け付けなくなった命が最期に求めるのは…『ぬくもり』であることを、改めて教えられました。

出逢った時は野良猫で、やがて近所の一人暮らしのおばあさん宅に入り込み『しまたろう』と名付けられて平穏な生活を手に入れたのに、震災直後、おばあさんはご親戚が迎えに来て、県外の老人ホームに行ってしまって、また野良猫になったにせお。

再びアニマルクラブの勝手口に現れるようになりましたが、外暮らしが好きで、家の中に入れることができたのは4年ほど前です。山からタヌキが来て、外の猫小屋に入るようになったので、小屋を撤去、自由を謳歌していたにせおと親友の『うそじゃ』を家の中に閉じ込めたのですが、ストレスのせいか…半年後、うそじゃはFIPを発症して死んでしまいました。
取り返しのつかないものが命で、動物達の命は私達人間の手に委ねられていることを再認識しました。ありとあらゆる方角から見据えて、判断していかなければならない責任を痛感しました。うそじゃの分も手を掛けたにせおに、「お母さんは、うーくんに会いたいよ」と伝言しました。

 

私の手にすがりついて、「ここに居て」と意思表示していたにせお。

 

大好きなしのぶちゃんがお見舞いに来てくれたから、ご満悦のにせお。

 

私の《送り人稼業》がやっと小休止したのはにせおの火葬の日。その翌日に、大きな地震が起きました。そして、それは新たな、大きな社会問題との遭遇の日でした。

 

 


 

【 回帰の道すがら 】

人生も折り返しを過ぎて終わりを意識するようになると、だんだんと自分が幼い頃に過ごした場所に還って行くような気がします。
最近、私を育ててくれた世代の方々が一人二人と亡くなっていきますが…一方で、出会った時にはまだ青々としていた人達が、開花して目の前に現れ、アニマルクラブの活動を助けてくれているのです

まずは、トリマーの『まりえ』ちゃん。彼女はみつまめが赤ちゃんだった頃に、アニマルクラブに通って来ていた学生ボランティア第1号です。
昨今では親が「うちの子がボランティアしてみたいって言ってるんですけど…」と連絡をよこし、車で送迎してくる『乳母日傘のボランティア』さんも多くなりましたが、彼女は学校から自転車で30分かけて帰宅すると、また30分自転車を漕いでやって来て、高校1年生から3年生まで、毎日のように来てくれました。

気が強い子で、北上川に犬の死体が流れて来た時にも、釣り用の大きな網で引き上げようとしていた私の前に入って加勢して、水から揚がった途端に、ふやけた白い毛がベロッと剥けて白骨が見えても怯むことなく引き上げました。
訓練士の学校に進みましたが、足に大ケガを負ってしまい、トリマーに転向しました。美容室と老犬介護に特化したホテルを経営して、軌道に乗ってきたからと月1回、アニマルクラブの子達のシャンプー・カットに来てくれるようになりました。

さらに、不妊予防センターにも、助っ人が来ました。
近年スタッフ不足で、手術できる頭数が減り、治療内容にも制約が出ていました。2008年4月にスタートして、カルテは6200番代となり、一昨年より宮城県の『飼い主のいない猫の不妊手術の助成金』の適応病院にもになって、これからより多くの野良猫に不妊手術を普及させることができる時流に乗れたというのに…「いつまで持ち堪えられるだろう」とため息をついてしまう状況でした。

しかし、この窮状を聞きつけて、助け船が漕ぎ出されたのです。10年以上前に、不妊予防センターで研修・実習をしていた獣医さん達です。あの頃は先輩の後ろで頼りなげだった若者も、今やそれぞれの職場を率いる、頼もしい先生に成長していました。
そして、その中には「自分の仕事の休みにボランティアで手伝いたい」と言ってくれる精神を持つ人達がいたのです。
院長先生が手伝いに来てくれることで、若い獣医さんの意識も高揚します。かつて不妊予防センターは先輩獣医師が後輩に実践で教える、学びの場でもありました。あの空気感が復活してくるならば、ここでやれることで救える動物達がまだまだいます。

猫の島として有名な田代島にも、毎年ドイツから来てくださっていた獣医さんがコロナのせいで、もう1年以上来れなくなっていると聞きました。都会からの移住者も多い天然リゾート、お隣の網地島にも野良猫は多いと聞いていました。
今回、助っ人先生の尽力で、製薬メーカーさんから、田代島と網地島の野良猫達のためにワクチン120本のご寄付を受けることができました。

こうやって自分ができることを持ち寄ると、実現できることが増えていきます。だから、小さくていいので力を貸してください。自分は何を担おうと考えて行動すると、背景も変わってきます。いつしか願いが現実になっていくまで、続けていけることが強さだと実感しています。

 


 

【 たけしくん、ニャン! 】

続けるためには、気分転換が必要です。震災前は小さなスナックを経営していたから、日常とは全く違うお客さんとの時間帯が、格好の換気扇になっていました。私が震災で喪失したのは、自分を愉しませたり甘やかしたりする風の通り道です。風穴がないと、感性は乾いて、心身は老いていきます。

私には、年齢よりずっと若く見える伯父がいました。フットワークが軽く、物怖じせず、ユーモラスでした。よく子供は親より三代前とか、伯父叔母に似るとか言われて育ちましたが、この伯父には、なぜか自分と相通ずる親近感がありました。

その前の代の私の祖父の弟は、戦前からの共産党員でした。幼い頃、様子を見に行く母に連れられて訪ねると、書物と埃にまみれた部屋で、一目で変わり者とわかる爺さんが、幼児相手によく喋っていました。最初の頃は布団に寝ているお婆さんがいて、それからはお爺さん独りになり、口数も少なくなっていきました。そうした変わり者の血筋は隔世遺伝で、私に引き継がれているのかもしれません
一方、祖父は穏やかな人で愛情深く、老いてから住み慣れた土地から引っ越しになってしまうと、私達孫に会うために、必ずチョコレートをお土産に持って、2時間も歩いて来ました。しかし、そのうちに認知症が進んで道に迷い、警察や市民の方に保護されたりして、外出禁止になりました。
たまに訪ねると、船大工の棟梁だった頃の「進水式の夢を見て、大声上げて夜中に飛び起きるんだよ~」と伯母さんが言っていました。99歳まで生きて、石巻の新聞にも載りました。

さて、その長男である伯父は、一昨年の白寿の祝いの席で「親父を超えて100歳以上生きる」と宣言したのですが…昨年9月、まさかの心筋梗塞で呆気なくこの世を去りました。9月15日がお葬式でした。

その朝は慌ただしくて、私は山まで行かなくてはならないバロンの散歩を終わらせると、近場を回れば良い、小型犬の散歩は、ちょうど来たボランティアの『みきちゃん』にお願いしました。そして、そそくさと別館に戻り、猫達のごはん作りをしていました。そしたら、みきちゃんから連絡が来て、「近くのお宅の駐車場に子猫が倒れていて、まだ生きてはいるけれど、動けない」と言うのです。
パルボかもしれないと想ったので、診察室にケージを用意して、手袋をして保護したら、ホッカイロを入れて温めるように頼みました。猫達にごはんを配ってから、行ってみると、子猫は体をのけ反らせ、四肢は冷たく、反応もありません。生後3カ月位の体長でしたが、痩せ細って紙切れのように薄いのです。

夏の暑さが行き過ぎて、急に冷え込んだ朝でした。この夏も近所で、親にはぐれて泣き叫ぶ子猫を保護しましたが、身近には助けを求めることもできずに、飢えて衰弱して消えていく命がまだまだあることを、目の当たりにしました。

 

9月15日午前10時頃。
その日は、たまたま犬の散歩を代わってもらったみきちゃんが、私とは違うコースを歩いて、近所の車庫に倒れていた子猫を見つけた。

 

 

エアコンも点け、ホッカイロで体を温めていたら、子猫はうっすら目を開けて、私と目が合うと聞こえないようなかすれ声で一回だけ、シャーと威嚇しました。愛も知らずに消えていくのが切なくて、ぬるま湯をシリンジで与えてみたら少し飲んだので、次はミルクにしました。せめて最期に「美味しい」を味合わせてから送りたいと思いました。口からダラダラとこぼれ落ちる方が多かったけれど、かすかに舌が動きました。

時間が来てしまい、私はみきちゃんに「まめにミルクをやってみてね」と頼んで、伯父の葬儀に向かいました。午前10時頃のできごとでした。

コロナの影響で、先にお葬式で、その後に火葬場に移動です。親戚代表でお別れの言葉を述べる役も解かれて式終了、やっとスマホに電源を入れました。午後1時頃のこと~あれから3時間です。子猫はどうなったでしょう~「亡くなった」という文字が出て来ることを恐れて開けた画面に、信じられない動画が出てきたのです。
あの、紙切れのような体を硬くのけ反らせていたキジ白の子猫が、むしゃむしゃとウエットフードを食べています。ミルクではなくて、パウチか缶詰です。
みきちゃんに聞くと、ミルクを与えているうちに体が動いて、起き上がったので、試しに子猫用パウチを置いてみたら、猛烈な勢いで食べ始めたそうです。

 

3時間後の仰天映像。
たけし爺さんの魂が乗り移った瞬間か…?

 

伯父さんの骨を拾い、花を捧げながら…私はこのミラクルに、この爺さんが関与しているような気がしてきました。
伯父さんは戦時下、衛生兵として戦地に派遣され満州で捕虜となり、シベリアに送られた元日本兵です。子供の頃、泊まりに行くと、朝に起床ラッパの口まねをしながら従姉の部屋に入って来て、次々と私達が寝ていた布団を畳んで押し入れにしまってしまうのです。

私はこの人ほど、戦争の時の話を明るく語る人を知りません。そしてもう一つの大きな不幸も、決して顔に出すことはありませんでした。末娘を震災で亡くしたのです。津波被害が甚大だった北上町役場に勤務していた従姉は、海上保安庁の船に引き上げられて、DNA判定で身元が確認されたと聞いていますが、それまでの間、80歳を過ぎた伯父が遺体安置所を回って捜していたそうです。

伯父は趣味が多く、ゲートボールの審判員も務めていました。アマチュアですが、地元ではカメラマンとして有名で、私もタウン誌の記者や企業のPR誌を手がけていた時代、随分写真を提供してもらいました。
まだまだ長生きすると思っていたから、伯父さんの写真を使って、震災のずっと前の漁業が盛んで活気溢れる石巻を紐解いて、そこで繰り広げられていた人情模様を書いてみたいと思っていました。

東京から駆けつけた従姉に「思い出話をしよう」と誘われましたが、断ってアニマルクラブに行くと、『ミラクル劇場』で大盛り上がり。玄関に入るなり、武地さんが「森さんがさぁ、阿部さんの伯父さんのご利益じゃないかって言ってたよ」と興奮気味でした。
実は森さんの亡くなったお父様もシベリア抑留組で、しかも伯父と同じ造船所勤務だったと、近年知り、伯父に「森さんを覚えているか?」と聞くと「あー、分かる、知ってっと。森さん、元気か?」と聞くので「元気なのはあんただけだよ~。今度、お線香上げに行こう」と話したばかりでした。
伯父はまだまだやりたいことがありました。コロナのせいで当分東京に行けないのが残念で、「今度行ったら…」と計画を立てていました。新幹線にも一人で乗って行きます。
「伯父さん、何ていう名前?」と武地さんに聞かれ、「たけしだよ」と答えると、「じゃあ、たけしくんに決まりだね!男の子だもん」と言われました。

私も、もしかしたらあの世に昇る伯父が最後に家族や親類を見回って、一番不安定な末妹の家が気がかりで、死にかけていた子猫の体を見つけて、入り込んだのではないか…と想像していたので、『たけしくん』という命名には、「ハイ!」と頷きました。

 

1964年頃 母の実家の前で、伯父が撮影した写真。祖父に抱かれているのが私で、その隣に立っているのが、震災で津波の犠牲になった従姉。

 

たけしはその後、里親募集した時期もありましたが、お見合いの朝に突然具合が悪くなったりして、結局うちの子になりました。私のフトコロに入ってカンガルーの親子のようにしていたのも束の間で、ものすごく食い意地が張っていて、ありとあらゆる作戦でゲットしようとひたむきです。どんなところにも上がり、入り込み…イタズラもハンパないから、「たけし、何やってんの~」と怒鳴りまくり、まるで昔、NHKでやっていたドラマ『たけしくん、ハイ!』みたいな日常生活です。

 

甘えん坊のお利口さん。可愛い時はあっという間に過ぎ去りました。

 

虎視眈々とイタズラの標的を探す悪童に成長。去勢も済ませました。

 

今回、降ってわいた事件に押されて、ようやく活動報告を書き上げようとしています。いつも活動報告を楽しみに待っていてくださるイラストレーターの柴本礼さんに、たけしの絵を描いてもらって、伯父から学んだ逆境の時代を生きぬく術を、これからの子供達に伝える本を書きたいなぁ~なんて、想っています。

 

2021.3.15   阿部智子

 

 

 

 

 

『おかげさまで元気です。』

皆様からのカンパで、前足の裏にできた大きな腫瘍を切除するために右前足を断脚した『乙姫』は、今もアニマルクラブ別館で生活しています。

「コロナのせいで仕事が減って、手術費用は出せないけれど、ガンを取り除いてもらえば、面倒をみていく」と言っていた若い女性は、いざ連れて行く段になったら、「家が狭くて、ケージを置く場所がない」と言い出しました。

乙姫が生んだ2匹の子猫のうち、1匹はとても良い里親さんが見つかり、仙台で幸せに暮らしています。もう1匹にも里親希望者を紹介しようとしたら、「自分で飼うことにした」との返事。ケージを置く場所がないのではなくて、乙姫を受け入れる心の余裕がないのでした。

いつも何かのせいにして逃げてばかりいる人は、重なり合う手で開く扉も、時の流れに磨かれる優しさも知らない人生しか送れません

「だって、なつかないし…」と言われた乙姫も、今ではこんなにくつろいだ表情を見せるようになりました。