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「夢の途上にて」


1年後の3.11

震災から1年の節目の日、世田谷のお坊ちゃまになった『心ちゃん』が里帰りして、石巻市内で暮らす妹の『ナミちゃん』を訪問しました。付き添い は、心ちゃんのパパとママ、捨てられて逃げ回っていた兄妹を家族で協力して保護してくれた木村さんのお母さん、私。迎えてくれたのは、ナミちゃんのお母さ んとお姉さんです。

最初ナミちゃんに吠えられて、心ちゃんはタジタジでしたが、時間と共に一緒の時を取り戻したようです。追いかけっこが始まりました。厳寒 の昨年2月、市内のホームセンター駐車場に捨てられた生後1ヵ半ほどの子犬2匹は日ごとに警戒心を強め、ホームセンターの従業員やお客さんが食べ物をあげ ても、逃げ回って誰も捕まえることができなかったそうです。前日夫婦で行って捕まえることができなかった木村さんが、翌日は息子さんと行って、狭いところ に逃げ込んだ子犬を、少年だったから入り込んで保護できたそうです。

ナミちゃんのお母さんが、当時地元紙の『里親募集』に掲載された2匹の写真を取っておいてくださって、見せてくれました。前の犬を老衰で 亡くして、また犬を飼いたいなーと目が止まったそうですが、まもなく震災。『石巻かほく』に19年続いたペット情報コーナーも消えて、いまだ復活の話はあ りません。心ちゃんのパパが感慨深げに、新聞の切り抜きに見入っていました。あの時、ナミちゃんには早速オファーがあったのですが、昼間はケージに入れて リビングで留守番と聞き、もっと良いお宅があるだろう、とお断りしました。そこは天井まで浸水した地区だったから、あげなくて良かったと、震災後にしみじ み想いました。しかし、木村さん宅も被害が大きかった渡波地区。たくさん飼っていてフードもお困りだろうと、手に入ってすぐにボランティアさんに届けても らったら、子犬を託されました。半島で家を流されたご親戚で、家が溢れていたそうです。

こうして我が家に来た2匹に、「地震と津波を乗り越えて幸せになって欲しい」の願いを込めて、『しんちゃん』と『なみちゃん』と命名しま した。その頃は、我が家だって泥だらけ。67匹を2階に上げて、支援物資を受け取るために、まず一部屋片付けたところにゲージを置いて入れました。出せば ちょこちょこオシッコして回るなみちゃんと、ドックフードの大袋に噛み付いて穴を開けるしんちゃんには、大声上げたり大笑いしたり…。当時は道路の両端に 瓦礫が山積みで、泥だらけの道路には、ガラス破片も落ちていました。前年亡くなった老犬が使っていた介護車を出して、山のふもとまで乗せて行き、そこから 歩いてお散歩するのが、私にとってもささやかな憩いの時でした。その頃、誰も聞いていない時限定で、しんちゃん達に歌って聞かせたテーマソングがありまし た。

「♪しんちゃんとなみちゃんと、なみちゃんとしんちゃんがお手伝い、お手伝い、しませんよ~♪何1つできません~♪」と繰り返すと、2匹は 興奮して、ハチみたいにお尻を振って、私に飛びついてきました。その歌詞は、「何もできなくていい、ただ生き延びてくれてありがとう、どうか幸せになって 欲しい」という私の気持ちの連呼だったと思います。今回、しんちゃんと2人きりになった一瞬、久しぶりに歌ってみたら、最初はきょとんとしていましたが、 リフレインするうちに、しっぽを振ってお愛想程度に調子を合わせてくれました。

この1年の間にたくさんの震災孤児が里親さん宅に巣立って行きましたが、その代表ともいえる心ちゃんとナミちゃんが、願った以上の幸せに 包まれている今を、共に味わうことができた3月11日は、“泥だらけになりながら確かに歩んだ1年間”を確認できた復興の折り返し点でした。

 

乳母車で散歩に行っていた頃。
一緒に育った時を取り戻した兄妹。

 

疲労困憊の淵より

そして、その後こんなに長く書けなくなるなんて、思ってもみませんでした。ここ1ヵ月、私の生活は震災直後を彷彿とさせるサバイバルでした。毎 年、春になると子猫が生まれ、あちこちから捨て猫や野良猫が生んだ子猫の相談に追いまくられます。不妊予防センターも、妊娠している猫の駆け込み手術で混 み合い、夜遅くまでかかる日もあります。だから、例年の覚悟はあったのですが、今年はやはり以前とは違っています。車を運転している最中にも、よく電話が かかってきます。知らない人からいきなり「猫の引き取りお願いします」なんて言われます。

震災直後、石巻ではまだまだ電話回線が回復していなかったから、支援物資として我が家に届いたフードや薬などが必要な人や、協力してもら いたいことがある人に呼び掛けをした時の連絡手段として、私の携帯番号を地元紙やラジオ、避難所に貼ったポスターで公表しました。流出した携帯番号は、聞 く人に都合の良い尾ひれを付けながら、人の口伝てに拡がっていったようです。

「お宅さ電話すれば、持ってってくれるって聞いたよ~」と、瓦礫処理の依頼みたいな感覚で言われると、「こりゃー強敵だ~」と目の前がチ カチカしてきます。こういう人に、親猫の不妊手術をさせるところまで持っていくのは、一苦労です。さらに、今の石巻には仮設住宅暮らしやペット禁止の借家 住まいの人がたくさんいます。切羽詰まった生活と心理状態の人が、従来よりずっと多いので、“相談”を受けるというよりは、泣きつかれるというケースも多 く、「ダメなら捨てるしかない」と脅される場面もあります。約束した筈のことが守られず、繰り返し頼ってばかりくる人もいます。無理難題を車に乗せて、家 まで来る人もいます。突然現れて「どうしたらいいんですか?」と解決を迫られると、それまでやっていたことに急ブレーキがかかります。

そして、子猫を持ち込まれるのはうちばかりではありません。アニマルクラブでは、相談者ができることはする気持ちがあるかどうかで、協力 できるかどうかが決まっていきますが、ただひたすら「捨てられたら可哀想だから」と、どんな人からでも猫や犬を引き取っている個人ボランティアさんがいま す。法律や社会のモラルを向上させることには興味がなく、自分の目と耳から入って来る“可哀想な猫”に翻弄されています。あちこちから引き取っているうち には伝染病が蔓延して、体力のない子猫が次々に亡くなる事態もあり得ます。病気の知識や消毒の方法もよく知らないこともありますが、普通の家庭の一部屋か 物置でやれることには限界があるのです。それは、普通の家がシェルター化した私が一番よく知っています。自腹を切っての保護活動をしているその人達を責め ることはできません。そういう方々は不妊予防センターを利用することも多いので、費用の援助や里親探しの協力をしています。そこから助かる命が確かにある のだから、優しい人の情けに漬け込んで厄介事を押し付ける人 の狡さと、法律が動物の生きる権利を守っていないことが原因だと感じています。

私は我慢強くないので、疲れるとどこでも寝てしまいます。最近台所や洗面所に子猫が居るので、ミルクを飲ませ終わった瞬間に記憶を失い、 気づくと2時間位経過しています。だから、体の疲れは溜まらないのですが、相談事を受けるごとに、思うようにいかない事や私の常識では理解できないことが 積み重なっていきます。それを何とか行動に変えたい思いが、私を摩耗させたみたいです。頭痛と吐き気に襲われ、病院で風邪の治療を受けて来たので、ずっと 書けなかった活動報告を書いて、まずは自分の心にホットラインを繋ごうと思って、ペンならぬ携帯電話を握りしめた次第です。

 

地震で壊れた壁の穴の中で鳴いていた赤ちゃんは、“かべちゃん”と呼ばれています。
伝染病かと焦った日もありました。春一番のイチゴちゃんになりました。

 

生き延びた牛

秋に福島第一原発20キロ圏内に入った時、おびただしい数の牛の死骸を見て、私一人が泣こうが嘆こうが、力の限りに不条理を叫んでも社会には届か ない、そこで起きた事実を密閉しようとしている壁の存在を感じました。動物愛護センターは、人間に要らないと判断された犬や猫がガス室で殺処分される“動 物のアウシュビッツ”ですが、10分で死に絶えます。それだって到底“安楽死”なんて言えるものではないと、見てきた私が実証します。そもそも本人が望ん でもいない死を強制して“安楽死”で済ませることに、人間の傲慢があります。「そんな権利を誰から買ったのですか?」と聞きたいです。何だって「もし自分 がそうされたらどうだろう?」という想像力を持って考えれば、相手にそうひどいことはできない筈なんです。それをしている人は、自分とは違うからできるの だし、近親者でないから痛まないとしか思えません。

牛は、犬や猫よりさらに悲惨でした。養豚場に回ろうとした時、放射能が60マイクロシーベルトに達したので諦めましたが、豚だって同じ だったでしょう。“餓死”という言葉を聞いただけで、私は身震いがします。私が小学生の頃、アフリカのナイジェリアで大飢饉が起こり、ビアフラで餓死して いく子供達の写真や映像を見た時、「これほど辛く苦しく惨めな死はないだろう」と心に深く食い込みました。

犬や猫と違って、牛は車に乗せて連れて来ることはできません。惨状を目の当たりにしても、実際には一つの命を拾い上げることもできないか ら、見てきた事実を社会に発信していくことが唯一できることだと思っていました。今年になって、楢葉町の酪農家がご提供くださった牧場に、殺処分したくな い蓄主の牛や放浪牛を集めて、もう売り物にはならない牛を飼育していこうという活動が始まったことを聞きました。

4月20日、そこでボランティアをしている方の導きで、『ファーム・アルカディア』に実際に行って見ることができました。9月に行った浪 江町や小高町では牛の死骸ばかり見てきました。生きて柵の中に入っていた牛は、数日中に殺処分されるために集められた“処刑待ち”の牛たちでした。罪状は “被爆して生きた瓦礫になった罪”でしょうか?もちろん冤罪ですが、すぐ近くには死体を埋める穴が掘られて、 さっさと終わらせたい執行人のエゴが見え見えでした。

でも、春を迎えた楢葉町の牧場には、生き延びた60頭の牛が草を食み、水を飲んでいました。飢え枯れて死んでいった仲間たちができなかっ たことを、ここにいる牛たちが日々生きていくことで、命が持つ可能性を様々な形で実現し、放射能汚染が消える日も実証してくれるかもしれません。

アルカディアの敷地内の何ヵ所かでガイガーカウンターで放射能の量を測定しましたが、0.5~0.9の間で、楢葉町が警戒区域から外れる 日も遠くないような気がしました。そして、何よりも、生きた牛を見れて、生きることを許されるエリアができて、私は嬉しかったのです。決心してくれた酪農 家の方々と惜しみない労力と情熱を提供し続けているボランティアさんに感謝します。もっと受け入れることも可能だけれど、現状でも、月に60頭を養い世話 をするためには、約60万円の経費がかかるそうです。私はなかなか行けないし、行ってもあまり役に立たないので、広報係をしていきます。

家畜は産業動物だから、経済性がなくなったのに生かしておこうとするのは、人間の見当違いの感傷だと評した人がいましたが、その人が良識 のつもりで持ち歩いているスケールには、金額の目盛りしかついていないのだと思います。仮設住宅に、至れり尽くせりの生活用品や義援金をもらっても、心を 患う人は後を絶ちません。「人はパンのみでは生きられない」ことに気づくことから、“生きていれば、みんな同じだよ”がわかるのではないでしょうか?お金 を投じて、売り物にならない牛を終生飼育していくことが、2011年大惨事に瀕した日本が、文化レベルの低さを世界に露見することにもなった、“言葉を話 せない動物への残酷な仕打ち”への贖罪になれば…とも考えています。

 

今とこれから

春からは仕事を始めるつもりでしたが、現状では無理だと判断しました。私に時間がないだけでなく、前と同じ様な店を開いても、商売 になるほど街が復興していないのです。まだ泥だらけの壊れた店舗が手付かずになっているところがあります。夜だけ開く自分1人の店を持っていたことは、動 物のことが頭から離れる換気扇のような役割を果たしてくれていました。私は働いてお金を得て、自分の願うことに使うことを生きてる証のようにして暮らして きたから、失業も2年目となると、不安と焦燥に身を苛まれます。

しかし、アニマルクラブに寄せられた支援を最大限に生かして、動物たちの問題を解決に近づけるのも今だと思うのです。家畜お助け隊のブロ グを見ると、牛たちの受難は相変わらす゛悲惨のどん底です。こういう現実を社会の問題として考えられないのなら、「1人じゃないよ」も「一緒に歩む」も絵 空事のような気がします。

今年度の目標は、外のプレハブから移した猫、被災猫や捨て猫、迷い犬も来て、80匹以上にもなった収容頭数を、近くにもう1棟建物を建て て分散することです。過密によるストレス・感染症の伝染・慢性疾患の子に目が届かない等の問題を解消すると同時に、今はゲージに囲まれて、布団1枚敷くの がやっとの暮らしから、私のプライバシーも確保することを実現したいと考えています。

少し前までは「いつ店開けるの?」と電話をくれていた常連さんからのラブコールも途絶えてしまいました。今年の収入は著書「動物たちの3.11」の印税だけです。どうか、この本を広めてください。

こうして携帯握っている間にも、何度かかってきたことか…ようやく目が開いた子猫が2匹、今、届けられました。憤りも悲しみも喜びも…リアルタイムでやってきます。

 

「野良猫のお母さんが今朝出たきり戻らず、おっぱい欲しくて鳴く赤ちゃんが2匹やって来ました。」