『深刻な季節の風に乗れ』

【 確定申告終わりました 】

 

3週間前に提出して、すぐに活動報告に取りかかるつもりだったのに、まず風邪を引き、続いて喉から口腔内が腫れ、食べられなくなりました。病院では「栄養と休養を取ってください」とまた言われましたが、停滞していた数日の間にも、アニマルクラブの留守番電話には、捨て猫や野良猫の相談が次々録音されていきます。

待ったなしの携帯にも、「知り合いから電話番号を聞いた」という、見ず知らずの人達からの《お助けコール》がかかってきます。私は神様でも金持ちでもなければ、丈夫な体と広い心すら持っていないので、《相談と称した引き取り依頼》に、《できない理由とできる協力》を説明して、その人が「自分も頑張らねば…」と決心してくれるのを期待するしかありません。
自分が身につけていた全てを貧しい人々に与えて、ゴミになって捨てられた『幸福の王子』の銅像にはなるまいと、子供の頃から心がけてきました。自分に尽くしてくれたツバメを死なせ、自らも役立たずになる《自己犠牲》では、社会は何も変わらないからです。

3月末、私は以前から気になっていた県内の動物愛護団体を訪ねました。代表の方は、震災後に仙台の街へ行く度に、募金箱を持って街頭に立っていたので、声をかけました。「震災後は収容頭数も増えたのに、資金もボランティアも乏しい」と嘆くその人に、被災動物支援サイトを紹介しました。そのシステムも今春で終了となりました。これまでも、うちで使わないフードなどを送って来ましたが、現状を見ておく必要を感じていました。
まだ寒さが残る時季でした。住宅地の古い家を低価格で借りていると聞いていました。その中で60匹ほど収容されていました。どの部屋にも目立った暖房器具はなく、トイレもごくわずか…。「砂が高いし、トイレを洗うのも大変。ペットシーツを敷いて、取り替えた方がいい」と言っていましたが、それでは臭いが防げません。「臭いと苦情が来るから、換気扇は回してない」から、なおさらです。そして…「来年2月には建物を取り壊すので、それまでに出るように言われている」というのです。なのに、当人は「毎日が精一杯で、先のことを考える余裕がない」と言います。その寒くて汚い所に、彼女は寝泊まりして動物達の世話をしていると聞きました。作業していたのは、もう1人だけ…無言で汚れたペットシーツを片付けていました。「ボランティアさんがなかなか続かなくて…」という呟きには、帰りの車中、私に同行してくれていたうちのボランティアさんが答えてくれました。
「いやぁ~あそこに居た猫達はアニマルクラブにいる子とは全然違っていた。痩せて病気っぽい子が多かったし、表情が暗かったね。代表の方はすごく頑張っていたけれど、あの人がダウンしたらどうなってしまうのだろう?と怖くなった。気の毒だから寄付することはできても、気が重くなるから、ボランティアに通う気にはなれない。あれだけの動物を連れて引っ越せる所なんて、見つかるんだろうか…保健所から猫を引き取ってる時じゃないよ」

そう、もう一つの驚きは、「保健所の獣医さんも助けたくて、電話をよこすので、引き受けている…」ということでした。人のよい彼女は「1匹に5000円助成金を出してもらえる…」と言っていましたが、5000円なんて、ワクチン1回受けたらなくなります。資金難で大変なのだから、ここにこれだけ体調の悪そうな猫や犬もいるのだから、「助けたい」保健所の獣医さんは、ここに来てワクチンや治療を担うべきだと、私は思いました。それができるなら、アニマルクラブも避妊予防センター経由で、ワクチンや薬を調達して、寄付することも可能です。ここの代表者のように溢れる同情心で突っ走る人には、お金ではなく、道標になる協力が必要だと思います。

そもそも保健所は、動物愛護団体を《第二種動物業》などと名付けて、施設の見取り図を提出させ、「どの部屋に何匹収容しているのか?部屋には窓や換気扇が付いているか?各部屋ごとに消毒液が置いてあるか?」などをチェックに来ます。この施設の環境を見た上で、引き取りを依頼しているのなら、あの決まりは、誰を守るためのものだっのでしょうか?行政は、保健所等に持ち込まれた犬や猫が里親に引き取られる割合が年々増加して、殺処分がゼロに向かっているかのように公表していますが、ボランティアに丸投げして解決のつく問題ではないことを認識して欲しいです。
幾ら入るかわからない寄付金を主な収入源として活動しているボランティアでは、先々の経済力や従事できる人数は読めません。ボランティアができることはサポートですから、里親を探すまでのシェルターは、行政の敷地内に建てて、ボランティアがそこに通って世話を手伝い、里親を決めていくのが本来のやり方だと思います。幸せになるために収容されている場所が《風前の灯火》では、落ち着いて里親探しもできません。伝染病の蔓延や近隣とのトラブルも起こし兼ねません。
さらに、アニマルクラブが心がけていることは、相談者への啓蒙ですが、保健所に渡して解決したと思っている人達には、その後その子達が動物愛護団体に引き取られて、その方々が寝食を削って懸命に里親探しに奔走しても…伝わることはありません。問題を人任せにして逃れた人は、また同じ様な場面に遭遇した時、前と同じ行動しか取りません。それでは、やはり社会は何の進歩もないままです。不幸な動物に胸が痛むなら、その人が自分には何ができるか、と考えるようにならなければ、日本の動物達の状況は改善されないと感じます。

ところで、確定申告の書類作成のために、平成25年度の収支を出しました。ホームページでも公表しましたが、震災から4年…寄付金も減ってきているのでアニマルクラブの収支が赤字なのは当然ですが、あんなに忙しい避妊予防センターも赤字でした。震災前は避妊予防センターの収益をアニマルクラブの活動資金に回すことができていたのだから、震災後はお金の入らない手術や治療が増えたということです。「お金なくて…」という言い訳が日常的に耳に入って来ます。挨拶のようにそれを言う人は、多頭飼育している人が多いです。「仮設住宅で28匹飼っている」夫婦は、私が「生後半年の子供達は里親探しをしたら…?」と勧めても、「もう手放せない」と言いました。ワクチンや避妊・去勢代が出せないのに、病気になった時、どうするのか…?「捨てられないから生ませ続けた」自分を肯定する甘さは、往々にして分割払いの《約束を守らないルーズさ》につながります。
《地域猫》構想に便乗して、SOSを発信してくる人達もいます。「お金は出せない、術後の預かりもできない」と言い張り、エサだけやり続ける人達です。それでも、協力しなければそこで野良猫は次々生まれてしまうのだから、言われるままに捕獲して手術して、10日間預かって放すことを繰り返しています。
つまりは、避妊予防センターは、《福祉の仕事》に従事しています。以前、生活保護の市民を担当する役所の職員から「嘘も多く、すぐに大騒ぎして、言う事がその度に違う人達に対応していると、振り回されてこちらがおかしくなってくる」と聞いたことがありますが、まさにそんな感じです。それでも公務員は給料が出るし、かかる経費を心配する必要はありません。アニマルクラブの場合、誰もお金を出してくれない子達にかかる費用は寄付金で賄い、自分の生活は別に働いて立てなければならないのだから、「活動の後継者を見つけなくちゃね」なんて言われても、そうそう見つかりっこありません。私も自分の店を出すことは諦めて、夜にスナックにアルバイトに行っています。2~3時に帰宅しても、6時から始動しなくてはなりません。そうやって続けなければならないボランティアに後継者を探すより、法律や行政が変わることが、動物達を救う道だと考えています。

 


 

【 薄情けのリレー 】

 

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術後2日目、何を出してもそっぽを向いたまま。

 

 

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枕の脇で甘えて眠るロロ。この間わずか1週間。もうすぐお見合いの予定です。

 

 

避妊予防センターに連れて来られたロシアンブルーの雑種の野良猫には、名前もありませんでした。エサを与えている人は、それ以上は何もする気もなく、連れて来た人は「手術代は払うけれど、それ以上はできない」と猫を置いて行きました。カルテに記載するのに、『ロロ』と名づけました。

ロロは、明日にも生まれそうなお腹で、抜糸なしの手術は無理でした。術後3日間、何を与えても食べず…動きもしませんでした。でも、抱っこできたので、自宅へ連れて行くと、すり寄って側を離れません。不安だったのです。怖くて、どうしていいかわからなかったのです。元は人と暮らしていた子なのだとわかりました。その日から、布団で眠ると顔つきが変わり、食欲旺盛になりました。「可哀想だから…」と中途半端に手をかけて、都合が悪くなると逃げる人達がいます。けれど、そんな薄情けで命をつないでいる猫達がいるのも現実なのです。
《薄情けのリレー》をつないで、担当距離を伸ばさせることも、私達の役割だと感じています。

 


 

【 野良猫病棟 】

 

北上川に近い私の家は津波被害に遭い、一階を一部屋ずつ改装したので、一旦家財道具を外に出しました。その後、改装した部屋には次々に被災動物が来てしまい、衣類や机を戻せなくなったので、近所に借家を借りて、荷物を運びました。収容頭数はさらに増え、自分が寝る場所すらなくなって、借家が我が家になり、家はシェルターになりました。2階4部屋、1階2部屋、足りなくて外にプレハブ2棟…避妊予防センターも建て直したから、敷地は全く余裕ありません。
さて、トラップしてニューターした野良猫をリターンさせるまでの数日間、いったいどこに入院させるか考えた時、唯一空いていたのはお風呂場でした。今ではそこが入院スペース。野良猫はだいたい日中はじっとしていて、夜間に逃走するための活動を開始します。深夜や朝に覗いてみると…ケージの中は、敷いていた新聞紙やペットシーツが千切られ、トイレがひっくり返り、こぼれた砂に水入れが逆さまに突き刺さって、砂は固まり…惨たんたる有り様になっていることは日常茶飯事です。眠い目をこすって片付けるにも、猫には触れません。ケージを開けずに、上から洗濯ネットを入れ、菜箸を使って猫の頭から被せていきます。あらかた被せたら、脇からネットを引っ張り、外でファースナーを閉めます。♀9日、♂6日間の入院期間、1匹につきこの作業を何度繰り返さなくてはならないことか…。でもそうやって時間を稼いで、傷を癒やしてから元の場所に返すことが、避妊予防センターの役割だと思っています。

先日、こんな事件もありました。バイトから帰ったのが午前3時。誰も聞いてくれる人がいなくても、「眠い~眠い~」と言いながらシェルターに入って行くのは、自分を奮い立たせるためかもしれません。真っ先に行くのは、盲目で脳障害のニャーゴがいる部屋です。自分では水も飲めず、トイレも分かりません。ケージの中でウンチをして、タイミングが悪ければ、それを踏んでケージの内側に塗りたくっているのです。そんな時には、玄関を開けた瞬間に臭うから、その強さで今夜の惨事がどの程度のレベルなのか…察しがつきます。でも、その夜は、ドアを開けた瞬間、鼻ではなく、耳が異変をキャッチしました。
水道が勢いよく流れている音でした。すぐに玄関のドアをロックしました。明かりを点けると、洗面所の引き戸が少し開いていました。風呂場は洗面所の奥です。そっと入ると、案の定、ケージの扉の下の留め具が外れて、猫の姿がありません。浴槽に付いている水道が出っぱなしになっていました。おそらく窓から出ようとして、レバー式の水道の取っ手にジャンプしたのだと思います。窓からの脱出が不可能と悟った『みけ』は、いったいどこに行ったのか…お勝手に入る扉は閉まっていたので、捜索範囲は限定されていました。
こんな時、居そうな場所はだいたいわかります。やれやれ…買い置きのお掃除シーツやシャンプータオルや掃除機パックやスプレー類の詰め替えパックを収納している棚から、細々した物を、驚かせないように、少しずつ出して見ると…「よくもまあ、そんな所に入れたね!」と感心したくなるような狭い隙間に縮こまって、みけはシャーシャーしていました。またまた洗濯ネットの出番です。私は、捕獲器にも入らない猫でも、一部屋に閉じ込めてもらえば、洗濯ネットで捕まえることができます。100円ショップで買う60×60センチの洗濯ネットは、私のTNRの必須アイテムです。
その後は、ボランティア間で、ますます「ケージの扉、閉めたか確認!」をお互いに繰り返しています。言葉で説明できない猫には、「なぜこんなことをされているのか?」理解できないのだから、逃げられたら猫の辛抱も、我々の苦労も水の泡です。《ケージでの身柄拘束》は、《地域猫になるためのホームステイ》だと思っています。

 

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捕獲器に入り、運ばれて来た野良猫。不安で大きく目を見開き、声も出ない。去年の秋に生まれたばかりなのに、まもなく生まれそうなお腹をしていた。小さな体で妊娠末期…獣医さん達は、難しい手術を黙々とこなしていく。

 

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『トラ』はあと数日で生まれる妊婦だった。術後、エサを与えているおばさんに返したが、翌日「ケージから逃げられた」と聞き、捕獲器で捕まえて、こちらで預かった。術後の管理ができない人には返せないのが現実だが、大変さを知ってもらうことは、次は「妊娠する前に手術」を促す。

 

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『シロ』はすでに出産していた。連れて来た人に伝えると、「どうせ子猫は育てられないのだから、死んでも仕方ない。せっかく捕まえたのだから、母親を手術して欲しい」と言われた。

 

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朝に行ってみると、ケージの中をぐちゃぐちゃにして、トイレを被って隠れていた『シロ』。子猫の元に帰りたかったのかもしれない。

 

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洗濯ネットに入れて、身柄を移して、掃除をする。

 

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夜間することがないから、夜なべして新聞紙をちぎってくれる。《固まる猫砂》に水が入ってセメントみたいになって、ケージの隅々にくっついて、取るのが大変。

 

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10日間の拘束を経て、元居たところに返される野良猫。慣れ親しんだ空気を感じるのか…表情が変わる。扉を開けると一目散に駆け出し、カメラには後ろ姿も残っていない。

 


 

【 生き抜く命が残していくこと 】 

 

   《ミミオ》

アニマルクラブの最長老、猫の『ミミオ』が亡くなりました。1月末に親友の団蔵が死んでから、一段と老化が進んで、最近ではほとんど眠っていましたが、ごはんはしっかり食べていました。鶏肉を茹でていると、盲目のミミオが鼻をひくつかせ、真っ先にガスコンロの下に来て「うぉん、うぉん」と独特の声を上げて待っていました。白く濁った目も幾分黄色っぽくなって、鼻水やら食べこぼしやらでヨレヨレに汚れた顔をかしげて、私の手から茹でたての鶏肉を奪い取って食べる様は、勇猛果敢で…指先を咬まれることもしばしばでした。それがある日を境に、急にベッドから出てこなくなったのです。鼻先に持って行っても、その2日後からはポタージュスープのようなトロトロのごはんも残すようになり、さらに2日後からは全然食べなくなってしまいました。それでも、シリンジで口の中に入れてやると、幾らか食べていたので、このまま少しずつ弱っていくのだろうと感じていました。

「いったい何歳になったのだろう?」この問いに答えれる人はいません。16年前の…寒くなりかけた季節の日暮れ時のことでした。北上川に架かる橋の手前の交差点で、私の前の車が5台ほど渋滞していました。「なんで動かないんだろう…」と、身を乗り出して覗いたら、道路の真ん中に黒白の猫がうずくまっているのが見えました。「車に轢かれたんだ!」と思って、上着を持って車から出て、すっぽりと被せて抱き上げて、連れて来ました。家に連れて行って、よく見ましたが外傷はなく、翌日念のため病院に連れて行きました。目玉に白い膜が張り付いたようになっていたのは、「白内障でほとんど見えていない」と言われました。目が見えないから、うっかり道路に出て、立ち往生していたのです。老猫なのだろうと思いました。青い首輪をしていました。「飼い主はきっと心配しているに違いない」と思いましたが、当時地元紙に毎週掲載していた『ペット情報コーナー』に「保護しています」と何度か載せたのに…飼い主は出て来ませんでした。
家にはもう置くスペースがなくて、思案しました。私のスナックのお客さんで、会社の2階に一人で住んでいる方がいたので、しばらくの間そこに居候させてもらいました。出張の多い方だったので、そんな時は鍵をポストに入れててもらい、通いました。振り返れば、いつもいつも誰かが手を貸してくれたから、出逢った子達を助けることができました。翌年、その方は転勤してしまいましたが、その頃には別に置ける場所ができました。震災後、その方が我が家へ安否確認に来てくれました。ミミオがまだ健在と知って、とても喜んでいました。
団蔵とミミオは私と共に嫁ぎ、5年後私と共に帰って来ました。幸せな時も辛き時も貧しき時も…ずっと暮らしの中にいた猫たちです。団蔵が死んでから、私は「ミミちゃん、死なないでね」と繰り返し言ってきました。一生懸命応えようとしてくれたような気がします。最期の最後まで、ミミオは苦しい様子も見せず、いつものように眠りながらいつの間にか息をしなくなりました。思わず、「ミミちゃん、死んだの?」と尋ねたほどです。そして、不思議なことがありました。翌日、ミミオが最初に来た時から知っているボランティアの岡さんがお別れに来た時のことでした。「あれ、ミミオの目が白くない!」と叫んだのです。「普通の目の色になっているよー」と呼ばれて、私も駆け寄りました。「ホントだ、普通の猫になってる~」「何か平凡な顔になってるね~」と、2人で笑い合いました。そしたら、翌朝、ミミオの目はいつものように白く戻っていました。せっかく出会う前の男前になってみせたのに、ウケが良くなかったからでしょうか…。

今は借家が自宅ですが、そこにはシェルターに置いておけない、病気持ちや老齢や、他の猫と仲良くできない猫達を連れて来ています。ミミオに続きそうな20歳近い猫もあと3匹います。元の飼い主が焼死したり、刑務所に入ったり、「経費は払うので一時預かりをお願いしたい」と言って連絡が取れなくなったり…不遇な過去を乗り越えてここへ来て、長生きしています。長寿猫は往々にして、命の残り火を燃やすように、異常な食欲を見せ大声で鳴きます。人なつこかった子は異常にベタベタしてきて、手や顔を舐め続けて側を離れなかったりします。もう少ししたらできなくなることを、今しておこうと本能が働くのでしょうか?

里子に出した子犬や子猫も年老いて亡くなったことを知らせてくれる電話やメールも時々来ます。懐かしい名前を聞くと、「ああ、あれからここまでこの方の家族でいたのだ…」と感無量になります。

 

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同じ年に保護されて、ずっと親友だった団蔵とミミオ。

 

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食いしん坊で、排水溝に顔を突っ込んで、ゴム製の蓋を首に付けて、すましているミミオ。

 

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先に逝く団蔵を見守るミミオ。「もうすぐ行くよ」と約束したのだろうか…。

 

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亡くなってから一度目の色が変わって、また戻った不思議な《ねこの目》。

 

 

《モッピ》

「娘や息子も大人になって家を出て行って、犬と猫だけが私と一緒にいてくれるんだ」と言っていたおばちゃん…。おばちゃんが14年前にもらってくれた犬の名前は『モッピ』。
山の中で生まれた野良犬の子供でした。町民の苦情で捕獲に行った役場の職員の気配に母犬は山中に逃げたので、「穴ぐらの中にいた2頭の子犬を捕まえて来たが、あまりに怯えているので可哀想で保健所に渡し兼ねている」と聞きました。狼のような目をして、ブルブル震えていた姿を覚えています。「こんな子犬を貰ってくれる人なんていないだろう…」と感じましたが、思いがけず見つかったのです。
最初に、怯え方がまだましな方に里親が現れました。まだ若い、優しいお嬢さんでした。数年後、偶然にも私が震災前にやっていた店のビルのラーメン屋さんで働いていることがわかりました。「ベルはまだ臆病だけれど、普通に生活していますよ」と言われて嬉しくて…顔を合わせる度に近況を聞いていたのですが、震災で被害がひどかった地域に住んでいた方でした。ラーメン屋も廃業してしまい、昔の名簿は水没して…ベルや飼い主の安否も確認できないままです。
ベルの姉妹モッピを貰ってくれたのは、以前からアニマルクラブに可哀想な野良猫の相談をよこすおばちゃんでした。悲惨な状況の猫を見つけては、泣きながら電話をよこす困った人でしたが、動物への同情心にかけてはちょっとかなわない、えぐられるような深さのある人でした。「この犬が哀れ」だと涙を流し、触ることもままならない野犬を「おらいで飼うから」と言ってくれました。おばちゃんはその後も野良猫や捨て猫を見つけては連絡をよこしていたので、モッピの様子を聞いたり、会う機会もありました。知らない人には吠えて逃げるけれど、会う度ふくよかになり、顔つきも穏やかになり、いつもおばちゃんにくっついていました。
そのモッピが、ガンに侵されたのです。私に連絡が来たのは、耳の上にかなり大きな腫瘍ができて、流れ出た膿に集まったハエが卵を産みつけ、ウジ虫が発生してから…でした。「近くの病院で一度診てもらったけど、もう年だから、麻酔かけて手術したら、途中で死ぬかももしれない、手の施しようがないと言われて…」薬ももらわず、放置していたそうです。
おばちゃんはモッピの体を洗い、ウジ虫を1匹1匹ほじくり出すことを毎日続けていました。「一度他の病院でも診てもらったら…」と勧めても、おばちゃんの態度は頑なでした。「この《でもの》取ったら、モッピも死ぬ。生きるところまで生かしてやりたい」と言うのです。私は避妊予防センターの獣医師に相談して、消毒薬と抗生剤を届けました。すると、「具合悪くて、食欲もなかった」モッピがごはんを食べるようになり、元気も出てきました。ウジ虫も出て来なくなりました。「モッピも大変だし、私も大変。だけど、何も言わないでモッピが頑張っているから、私も頑張るの。こんな病気にさえなんなければ、あと2、3年は一緒に暮らせたのに…」とおばちゃんは、おばちゃんのやり方で献身的に看護しています。そして、それがモッピが最も望む事なのだとわかるから、それ以上は手を出しかねている自分がもどかしくもあります。動物を飼うということは、「生きるところまで生かすために、行けるところまでずっと一緒に行く」約束なのだと、この泣き虫おばちゃんと臆病な犬の絆が教えてくれます。

 

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耳の上に腫瘍ができて、どんどん大きくなってしまったモッピ。

 

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重くてしんどそうに見える。「見てると涙が出てくる」とまた泣くおばちゃん。

 

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「モッピも大変、私も大変。でも、今までずっと一緒だったから…付いててやるの」。

 

 

《エルフィ》

そして、『エルフィ』の訃報が届きました。1、2年前から足腰も大分弱ってきたことは聞いていたので、そう遠くない将来、あの素晴らしい家庭からエルフィが消えてしまう日が来ることを知っていましたが、エルフィは一緒に暮らしていたわけでもない私にさえも沢山の思い出を残してくれた犬、『なぜこの活動を続けるのか?』を教えてくれた存在でした。

16年前のことだと記憶しています。1人暮らしの男性が住む家の新聞受けに新聞がたまり、不審に思った近所の人が警察に通報して中に入ると、その方が亡くなっていたそうです。どうやら自殺のようで、死後1週間ほど経っていたとか。その家の庭の犬小屋につながれていた雑種の中型犬は、その間、声も上げずにじっと耐えていたそうです。大分痩せて、弱っていたようでした。「このままでは保健所に渡される」と相談をよこした近所の方を説得して、お世話をお願いしました。
その後、石巻市の離島『網地島』の診療所に勤務するために、石巻に引っ越して来た安田ファミリーから里親の申し出があった時に、私はあの犬を紹介しました。前の勤務地はネパールの山の中の診療所、無医村を回る父親に同行した家族だと聞き、「そんな人達なら一生あの子を守ってくれる、これまでの不幸を取り戻し、賢いあの犬の良さをもっともっと引き出してくれるだろう」と直感したからです。
安田家には2人のお嬢さんと、末っ子が男の子。「弟ができた!」と大喜びする淳くんは、小学校に入ったばかりでした。ネパールで育った淳くんが「日本に来たら水道から水が出たから、びっくりした」と言ったことを、今もよく覚えています。家族は石巻市内で暮らし、週末にお父さんの勤める診療所がある網地島の家に行きます。もちろんエルフィも一緒です。キラキラと光る海と、溶け合う青い空を背景にして、甲板に前足を掛け、フサフサの長い毛を潮風にたなびかせているエルフィの姿も、記憶の引き出しにしまってあります。

お母さんがまめに季節の挨拶状や子供たちとエルフィの写真を送ってくれました。幼かった子供たちは見る度に成長して、エルフィは少しずつ年老いていきました。一家はやがて仙台に引っ越し、子供たちも進学のため旅立って行きました。二女ののぞみちやんがインドから留学を終えて帰って来た時、「エイズ患者のカツラを作るために、髪を寄付して丸刈りになっていたので、誰も気づかなったのに、エルフィだけがわかったのです。」という葉書に、私までが得意顔になったものです。そして、淳くんが高校生になり、アメリカに2年間留学すると聞いた時には、「帰りを待っていられるだろうか?」と心配になりました。もちろん、エルフィは待ち続けました。仙台に引っ越してからも、夏は網地島で過ごし、島の人々のアイドルでもあったエルフィ…。お墓は仙台と網地島の両方に作ったそうです。エルフィと共に育った安田家の子供たちは、長女のあゆみちゃんは国連に勤務し、のぞみちゃんは医師になり、そして、淳くんも医学部へ進みました。みんな、お父さんと同じように世界に貢献できる若者に成長したことを、本当に嬉しく思います。そして、この姉弟の心の中にこれからもエルフィが住み続けることを誇りに思います。
エルフィが旅立ってから、お母さんが見つけた、子供たちが小学生の時に作った写真たての写真が送られて来ました。最初の写真は、エルフィが来た日。犬小屋に「ようこそ、エルフィ。今日から家族だよ」と書かれています。2枚目は1年後、淳くんとすっかり仲良くなったエルフィの幸せいっぱいの表情です。お姉さん達が「最初キツかったエルフィの顔が年々穏やかになったのに反比例して、淳が可愛くなくなった」と言っているとか…5年後の写真も付いてきました。淳くんもエルフィも凛々しくなりました。
行くべきところへたどり着き、生き抜いた命は、すがすがしい千の風を送る存在になります。明るく、思慮深く、優しい犬が、「一歩間違えばガス室に送られた」日本の現実を世に問うていこうと、心に決めて…ここまで来ました。そして、エルフィもいなくなったこの世でまだ生きている私は、多くの課題を抱えながら、できることを探して、やれることを続けていこうと思っています。

 

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エルフィが来た日。子供たちの表情にも、エルフィにもまだ遠慮があって、ぎこちない。

 

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淳くんとエルフィのひょうきんな1枚。もうすっかり親友だね。

 

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淳くんとエルフィの年が最も近い時。ここから淳くんは大人びて、エルフィは少しずつ老いて行く。

 

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仙台のお宅に作られたお墓。

 

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網地島にもお墓を作ったのは、エルフィが一番好きな場所だったからだろう。

 

2015年6月1日 記