トップ > 活動報告 > 『 コロナの時代の愛 』

『 コロナの時代の愛 』


スナックのママをやっていた私には、高級焼酎の名前として馴染みのある『百年の孤独』の原作者~ノーベル文学賞を受賞したコロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』という本を読んでみようかなという気になって、書店で探してもらったことがあります。店員さんが持ってきた本の厚さに、「絶対途中で挫折する」と感じて、「わあっ、読み切る自信がないなぁ~映画にしておこうかな…」なんて言い訳をして、買わずに出てきたことを思い出しました。
十数年前のことですが、「長編を読んでみようなんて…生活に余裕があったんだなぁ~」と感じます。その後に東日本大震災が起きて、あれから暮らしは一変して、元に戻るなんてことはなく、何度か台風被害にも遭い、どこかビクビクと防衛策を練る新しいライフスタイルが身についています。

そして、21世紀にも、世界を震撼させる疫病が流行しました。前回の活動報告を書いたのが2月。それからまもなく、新型コロナウイルスは猛威を振るい、全世界に隈無く侵入、人々の生活を浸食して、景色を一変させました。拭い去ることのできないウイルスに対しては、『withコロナ』の新しい生活様式で防衛していくしかないと提唱され、まさに人類は《コロナの時代》の真っ只中を漂流しています。

本屋さんに言い訳したことを実践して、仙台駅東口近くの小さな映画館で独りで観た『コレラの時代の愛』を、ふと思い出しました。19世紀末のコロンビア~内戦とコレラに揺れ、一寸先は闇の日々の中で、人はそれぞれの愛をどう求め、貫いていくのか…混沌と凄烈が入り乱れ、奇想天外に展開していく長編に圧倒され、長く生きてみないと解らないことがあると、変な感心をしました。

経済活動が滞り、お金が回らなくなると、寄付金で運営しているボランティア活動は、貧血状態になってきます。誰もが先行き不安になり、気持ちに余裕がなくなると、弱者から滅んでいくのが、世の常です。アニマルクラブもまた《思いやり》を血液として動いてきた生命体ですから、ノアの箱舟に乗っている動物達を護るために、社会の片隅で人知れず苦しんで、命を落としていく動物達を少しでもすくい上げる手伝ができるように、そして動物達の身になった社会や法律を実現するための啓蒙活動を継続していけるように…血液を循環させていかなければなりません。脅える心を解放して、この難局をいかに乗り越えていくか…『コロナの時代の愛』を実践して欲しいと願って、半年ぶりに近況報告いたします。

 


【 そう来るか~王手、待ったなし! 】


折しも、春から夏は捨て猫や野良猫の子猫が生まれ出てしまう季節です。今年はたまたま6月初旬、『河北新報』に、アニマルクラブが予約制にして里親探し会を継続している記事が載りました。記者さんは、逆境の中を奮闘するボランティアを応援するつもりで紹介してくれたのですが…その後、いつも以上のペースで、引き取り要請が来ました。なぜそんな構図になるのか…いくつかの例を紹介します。

①聞こえの良いことを言うオバサン

「新聞見て、家にも野良猫が来ているから、保護してあげたいと思って…」と言うので、「良い人だなぁ」と感じて、できる限り協力しようと思いました。
相談者は仙台市在住の年配の方。触れない猫で、家の中に飼い猫も居るというので、「仙台のメンバーから捕獲器を貸してもらいますから、まず去勢しながらワクチンとノミ・ダニなどの駆虫もして、しばらくケージ飼いですね」とアドバイスして、「お宅の猫さんが行っている動物病院で、捕獲器で連れて行って手術を引き受けてくれるか、聞いてください。難しかったら、石巻の不妊予防センターまで連れて来れますか?運転できないなら、ボランティアさんに送迎を頼めないかも、聞いてみます」などと話していくと、「それ、私がやるんですか?」と聞かれました。「えっ、お宅で保護する相談ですよね?」と聞き返すと、「このままじゃ可哀相だから、保護して里親を探してもらいたいんです」と言われました。

つまり、触れない野良猫を「アニマルクラブで保護して、新聞に載っていたみたいに里親探し会に連れて行って、幸せにしてあげて欲しい」という依頼でした。「餌を与えている人も触れない猫を、貰う人がいると思いますか?」と聞いたら、「そちらに行けば馴れるのかと思った」と言われました。チラッと見聞きしたことを自分に都合良く解釈して、妄想の尾ひれを付けて、自分は善人に納まろうとする人が多いことに、改めて気づきました。

②一見良識があるかのように装う人

「 民家の物置で子猫5匹を発見しました。現在推定2ヶ月ほどです。家主には避妊や去勢の意思はなく、エサを与えて繁殖させては追い払い、放置するという行動を繰り返しているようで、度々子猫を目撃していますが、きちんと飼われている気配はありません。そちらの団体様にて保護して里親様を探していただけませんでしょうか?
私事ですが、既に5匹程保護猫を自宅で飼育しておりこれ以上は経済的な理由から難しいので、何とか助けていただけませんでしょうか?」
というメールに、こちらが送った返信です。

「もしかして、保護した猫を引き取ってくれる所だと思って、連絡をよこしたのかもしれませんが、それは無理なんです。同様の相談が連日あります。今日も3件目です。その中で私達ボランティアが協力できるのは、一時保護をして里親探しをするまで面倒を見てくれる方です。
私達は無給のボランティアで、活動にも一切公的な助成はありません。それぞれ仕事もしています。家に帰れば、動物もたくさん抱えています。お宅に5匹いるなら、うちには25匹います。
でも、保護した方が頑張るのならば、助けるお手伝いはしたいと思います。入れておくゲージを貸したり、週1回木曜日に開院している動物病院で診てあげたり、ホームページに掲載して、里親募集したりはできます。ワクチン接種後には、里親探し会にも参加してもらえます。
繰り返し生んでいるようですから、親猫の避妊手術をしませんか?県から助成金も出るし、こちらもできる限りの助成をします。経済的なことがネックになっているのなら、その点での支援ならしますので、無責任な飼い方をしている人に代わって、不幸になる命を生み出す元を絶つ行動を取ってください。
猫が助かるかどうかは、出会った人間の対応にかかっています。アニマルクラブはサポートすることしかできませんことをご理解いただけましたら、あなた自身が動いて保護してください。それができるなら、こちらもできる協力は惜しみません」。
この方からは、その後、「病気の有無の検査やワクチンなどが済めば、家に入れてもいい。親猫の避妊も、費用がかからないならやりたい」という旨の返信が来ました。こちらが「引き取ることはできないけれど、こういう手助けならできるよ」と投げた返信に、動き出してくれる人もいるので、これも啓発になると前向きに捉えていたのですが…。

最初は「お金がないからできない」事を全面に出してきたので、「面倒をみてくれるのなら、費用は協力する」と答えたのですが、結局、不妊予防センターに自分は来ないで、旦那さんに頼んで子猫5匹と母猫を連れてきました。ご主人は「家で預かれるなら、そうしていましたよ。できないからお願いしているんです。経済的にも困窮しています」と言いました。40歳前後の人で、共稼ぎだし、身なりも車も立派でした。私達の世代は、例え貧しくても、それを口に出すこと~ましてや初対面の人の前でなんて、とてもできませんでしたが…今の若い人達は、自己紹介のように「生活が苦しい」と自己申告します。

「面倒も見れない、お金も出せない…それなら何ができるのですか?」と聞くと、「前に生まれた子猫は、事故や病気で死んだんです。このままにしていたらまた死ぬからそのままにしておけないと思ったんですよ」と答えました。つまり、できることは『助けてもらうために、連れてきた』ということだけです。
「その気持ちは皆、同じですよ。だから、力を合わせて助けていこうという活動です。できることを分担しないと進みません。最初の話とは逆で、面倒は見ないのなら、お宅にできることは、分割で一部でも…費用を負担することしかないんじゃないですか?」と振ったら、「妻と相談しますが、うちも経済的に苦しいんで…」とだめ押しのように言い残して、去って行きました。

置いて行かれた母猫は産んで2ヵ月経っているというので、避妊手術を試みましたが、乳腺がバンバンに張っていて、開腹すると、乳汁がお腹に入って腹膜炎を起こす危険性あるということで、手術は延期。親子6匹、預かることになりましたが…穏やかで子煩悩な若いママと、明かるく利口な5兄弟でした。

この季節、次々と子猫の相談がきます。

たいてい風邪で目鼻グズグズ。そして、初めは警戒心いっぱい。

・.

,

去年7月避妊手術に連れてこられたものの、すでに妊娠末期で、こちらで出産させた野良猫のワカちゃん。5匹生んで、最後に残ったホクロと一緒に里親さん宅に迎えられました。ここにたどり着くまでにかかった時間は10ヵ月。今は子猫のように、玩具に夢中~末永くお幸せに!

去年、行き倒れ寸前で居酒屋に助けを求めたねむちやんを迎えてくれた里親さんは、今回さらに子猫の兄妹も…。苦労してきたねむちやんは、すぐに子猫を受け入れ、本当の親子のように暮らしています。

飼い主が亡くなったゴマと、老人が餌付けした野良猫で、去勢して耳カットもしたけれど、兄弟が保健所に渡されたことを聞いて、返さなかったチョビン。今は本当の兄弟のように仲良く、里親さんのお宅で暮らしています。


【 読み・書き・算盤ができない人達 】


「納屋で野良猫が子猫を生んでいました。どうしたらいいですか?」と若い女性からメールがきました。状況の説明も、自己紹介もなく、「どうしたらいいの?」と聞いてくる人が非常に多いです。ネットを使った通信が一般的な現代、意味が解らない文章が多数届きます。定型文の挨拶と余計な敬語の陰で、自らの願望とできないことの言い訳が入り乱れ、こちらが知りたい「何ができて、何を協力して欲しいのか?」が見えません。そして、殆どは見ず知らずの人間に突然送りつけたメールで、自分に代わって解決してもらいたいという《他力本願》で締めくくられています。

ゆとり教育とやらは、子供が社会人のなるための肝心なツールを疎かにしたのではないでしょうか。古来から受け継がれてきたことには、それなりの重要な役割があります。
読むことは、相手の気持ちを読み取ることでもあり、書くことは、自分の考えを伝えることにつながり、算盤勘定とは、この先を見通し計画を立てることです。それが身についていないから、問題が起きたら、他人に解決してもらうしかないと認識している人達が増えたように感じます。
納屋で子猫が生まれたとテンパっていたお姉ちゃんは、心優しい子に思えたので、頭を回してもらうために、こんなアドバイスをしていきました。

①『これからすべきことの順序』
ケージを貸しますから、お宅の猫さんと接触しないように、保護して欲しいです。
子猫はどれくらいの大きさで、何匹いますか?
写真と紹介文を送ってもらえば、ホームページの里親募集欄に掲載します。

②《母猫の避妊手術の時期》
妊娠によって子宮は風船が膨らむように伸びて、お産直後は萎んだ風船のように脆くなっていますので、出血しやすい、血が止まりにくい危険な状態なので、すぐに手術はできません。子宮が治まるまでに1ヵ月かかると思ってください。
次に、授乳している間は、おっぱいがバンバンに張っています。発達している乳腺を、避妊手術で傷つけてしまうと、かなり出血します。妊娠中に子猫に栄養を取られて、母猫は貧血気味です。避妊手術でも多少の出血はありますから、できるだけ出血しない配慮が必要です。
そして、手術したら、服を着せてもう授乳できなくなりますから、盛んに飲んでいる最中の突然の断乳は、乳腺炎の元にもなります。
子猫がおっぱいなしに、食べて、下痢などしないで、ちゃんと消化できるようになったら、手術の予約を入れてください。出産から
約2ヵ月位です。
今だと野良猫の避妊手術に県からの助成金も出て、アニマルクラブの不妊予防センターなら、半額の12000円ほどで、手術、血液検査、ワクチンまで受けられます。

彼女はケージを借りに来て、納屋の中で親子の世話をして、しばらく音沙汰がなかったのですが、友達に子猫をもらってもらったから、ケージを返すと連絡がありました。母猫の避妊手術までは見届けなければなりません。

順序立ててやっていけば解決が見えることでも、よく考えもしないで、何とかしてもらう方法ばかり探そうと必死になる人が多いのが現状です。でも、逃げようとする心の裏の良心を拾い上げれば、繋がっていくこともあります。どこまで繋げられるかが、活動です。
「そんなこと、ちょっと考えれば解るでしょう」ということが分からない人が、日本には大勢います。分かろうとしないから、これほど詐欺に合う人が多いのだと感じます。《読み・書き・算盤》が身についていない、『道理ではなく、願いで動く甘えた人達』に解ってもらう術は、一筋縄ではいかず、こちらの体力と神経はすり減る一方です。

動物達がどんなに悲惨な状況かを切々と訴える人、自分には助ける力がないことを盛んに言い訳する人がいますが、私達は国や地方自治体の公務員でもないし、公的な予算を持っているわけではありません。
どんなに困っているかが優先順位になるのではなく、むしろ、助けやすいところから手を貸していくしかできない、ボランティアに過ぎないことに気づいて欲しいです。できないことを並べるのではなく、何ならできるかと考えてボランティアと付き合っていかなければ、動物達は救われず、動物愛護団体は消滅します。
アニマルクラブをレスキュー隊と勘違いして、「◯◯に捨て猫がいるから、早急に行ってください」なんて連絡をよこす人に、「引き取ることはできません。あなたが一時保護してくれるなら、できることは協力します」という旨の返信をすると、時々逆ギレされます。たいていが若い主婦で、「返信ありがとうございます。勘違いして申し訳ございませんでした。」と丁寧な前置きの後、自分が助けてやりたい気持ちは満々だけど、「子供が小さい、家にも猫がいる」とできない事情を並べたて、「これからは見て見ぬ振りをすればいいんですよね」と突き付けて終わる《憤懣やるせなさ》には、「矛先が違うなぁ…」と感じます。ジリ貧のボランティアにぶつけて、何が得られるというのでしょう。不幸な動物は救われて当然の社会になるために肝心なのは、法整備とモラルの向上なのですから、見て見ぬ振りをするのが正解ではなく、それこそネットを使って、そういう日本にしましょうと呼び掛けていくことは、子供が小さくても猫がいても…できることだと思います。

ガブリエル・ガルシア=マルケスも「何を記憶し、どのように語るか、それが人生だ」と言っています。私もそろそろ直接動物に携わるのは、今抱えている子達を看取るところで終わりにして、啓蒙活動だけをしていきたいのですが…今、苦しんでいる命や、このままにしておけば悲惨なことになる命は、啓蒙では救えません。「引き取らない」と決めてはいても…日々飛び込んでくる命の瀬戸際に自らが直面した場合は、自分達の問題になります。
アニマルクラブの活動は、戦時下の避難民の手助けのようなものです。全てはとても助けられない。すでに満杯の命を乗せた小舟しかないので、沈没しないように気遣いながら、誰かが波間から岸辺や小島にすくい上げてくれた命を乗せて、里親に巡り会える引き揚げ船に運びますが、計画通りにはいかず…やらなければならないことは延々と続いていきます。

長い活動の中で私が得たことと、やり残す課題を伝える時間が私に残されるのか…不安になります。いつの日か、書いて遺す手がかりとなるように、最近、犬の散歩で山や川岸を歩く度に、遠い記憶を手繰り寄せたり、空や緑を見上げてこの先を想って…スマホに短歌を書き留めています。今の心境は、こんなところです。


我の中
か細く落ちる
砂時計
波は来るかと
引き潮に問う

 

この季節、不妊予防センターには、まだ1歳にもならない、少女のように小柄なママが手術にきます。でも、餌付けしている方が最初のお産で懲りて、すぐ避妊を決断してくれたから、この子は救われました。

3ヵ月前に出産したばかりの野良猫2匹。どちらも次の妊娠中でした。あと1ヵ月放置していたら、新たに合わせて13匹の子猫が生まれるところでした。

1ヵ月前に避妊手術に連れて来られた野良猫は、体重1.8キロ。栄養失調と貧血で、手術が延期になりました。お腹にサナダ虫がいることも判明。エサを与えている人は「手術して生まないようにさえしてもらえばいい」としか言わないから、こちらで保護して『サチ子』と名づけ、治療中です。目ヤニで塞がった顔がきれいになって、体重も増えて、ごはんの催促をするようになりました。


【 防波堤決壊~洪水に溺れる! 】


攻防戦はいつものことですが、新聞に載ったことで《引き取ってコール》が高波のように押し寄せ、中には強引に押し付ける人や約束を違えて逃げ出す人もいると…こちらも知らず知らずのうちに波に呑まれ、泥水を飲んでいたようです。

午前2時、ひどい頭痛に目覚めて、起き上がると、これまでに経験したことのないような倦怠感に襲われ、立ち上がることもままならなくなっていたので、「もしや感染したのでは…」と想って、ベッドの近くに置いてある体温計を、脇の下に挟みました。高熱どころか、35℃に届きません。反対側の脇の下でもう1回計り直したけれど、34.8℃でした。「コロナではないな…」と悟り、「自律神経が乱れてしまったのかなぁ」と想いました。ハァハァと息苦しくなってきて、賢い黒猫の『クロード』が飛んで来て、私の脇にぴったり寄り添って、握りしめた手の甲をせっせと舐めてくれました。

とにかく頭痛を幾らかでも軽くしたいと、薬を飲んだら…冷や汗がダクダク流れてきて、ガタガタと寒気がしてきました。「こりゃ~薬は飲んじゃいけないな。静かに時をやり過ごすしかない」と何となく解りました。
「いつまで続くのだろう…」洪水から逃れて木によじ登った人のように、枝葉に掴まるようにしながら、自宅にいる24匹の猫達のごはん作りと最低限の掃除だけして…ひたすら体調が治まるのを待ちましたが、身動きが取れないような頭痛は3日間続きました。

生命力というのはゴムのように、年月と共に伸びきって戻らなくなり脆くなっていくものなのでしょうか…私は1人暮らしですから今回、自分が動かなければ横の物を縦にもできないことを痛感しました。そして、そこまで自分を追い込んでしまった原因は、私の目と頭が動物達のことしか追っていないからだとも感じました。子供が居た頃やお店をやっていた頃は、場面の切り替えがありましたが、今は寝ても覚めてもアニマルクラブのことに追われています。コロナが蔓延してからは、不妊予防センターの資金繰りや寄付金の減少など…お金の心配が多くなったことも身に堪えていたのでしょう。

うちは母子家庭でしたので、私は父親の役割を果たさなくてはならないと思ってきました。幼い息子に「おいとねこ、どっちが大事なのや?」と詰め寄られた時も、「みんな大事、でもあなたにはお祖母ちゃんも叔母ちゃんもいる。だけど猫には誰もいないから、ママが面倒見なくちゃないの」と突き放しました。
娘が中学生の時、夏祭りで酎ハイを飲んで補導されて、警察署に迎えに行くと、「お母さんが厳し過ぎるから…」と泣きじゃくっていました。
優しい言葉は少なかったでしょうが、頭の中には常に子供達のことを占めているエリアがありました。
タウン誌の記者の仕事が終わってから、仙台市の繁華街、国分町のクラブでアルバイトしていた頃、野菜嫌いで便秘症だった息子を案じて、短文が送れるポケットベルで毎晩やり取りしていました。同伴回数の棒グラフトップのホステスが、トイレでこっそり、6、7歳の息子からの「うんこでたよ」の知らせに、安堵していました。
何度か警察署にお世話になった娘の件で生活安全課を訪ねた時は、つい前の週に、動物愛護啓発協力のことで話し合った課長さんに見つからないように、コントみたいに横歩きで、背を向けながら婦警さんと話した思い出もあります。
強いて言えば、私は家族を特別扱いはしてきませんでした。それは、年月が経てば…私の母親や子供達にはそれなりに理解してもらえたようですが、男にとっては耐え難いことのようで、離婚を繰り返すこととなりました。

そして、地元で小さなスナックを開業した私は、アニマルクラブで難問を抱えていても、夜はお店という違う場面で換気することができました。「今夜はひーさん来るから、ほうれん草のお浸しと肉じゃが作ろうかな…」と切り替え、「ノブさんに店終わったらラーメン食べに行こうと誘われたら、お寿司屋ならいいよと言おう」とか…全く違う顔ぶれと歌ったりバカ話しながらお金を稼げる空間は、私の脳内もセロトニンで潤してくれていたと想います。
思えば、学生時代にアニマルクラブの活動を始めてから40年余り…いつだって迷ってきた、困っていたし、次から次に問題が起きました。でも、その時々で助けてくれる人、共に頑張ってくれる人がいたから、ここまで来れたのです。今度もコロナを乗り越え、老いて弱っていく私を支えてくれる力に会えるのかどうか…が道標です。

狭間にて
迷いつつ来て
淵に立ち
乗るか逸れるか
追い風を待つ


【 誰がための『殺処分0』か? 】


ここ3、4年、老猫の介護と看取りが延々と続いています。アニマルクラブの活動が最も活発に展開して、前途は開けていくものという期待が持てていた時期に保護した子猫達が15歳を越えたからです。
12年前、不幸な命を生み出さないためには避妊手術しかない~「しましょう」という呼び掛けだけでは足りないと、『不妊予防センター』をスタートしました。アニマルクラブは長く活動してきたから、市内では認知度が高く、地元紙に週1回アニマルクラブからの情報スペースを設けてもらって、人気のコーナーでした。また警察から働きかけてもらって、市内のパチンコ屋さんの宣伝用の電光掲示板に『動物を捨てたり、虐待したら犯罪です。』とか『捨てないために、避妊手術を受けましょう!』などと流してもらっていました。

震災の数日前には、新たなパチンコ屋さんから、画像入りのメッセージを流したいと言われて、娘が幼い時に犬や猫と撮った写真にコピーを入れて、原稿を届けたところでした。
しかし、その画像が街に流れることはありませんでした。十数年間続いた『石巻かほく』の《ペット情報コーナー》も、震災を機に消えて、二度と復活する事はありませんでした。震災後、不妊予防センターには以前よりずっと多くの割合で、お金が払えない人や高齢者、心の病を煩った人達から、飼えなくなったペットや、餌付けして増やしてしまった野良猫の相談がくるようになりました。

津波で1階が1メートル近くまで浸水した家は、生き残った67匹を2階に上げて、1階を一部屋ずつ改築工事したのですが、できたところから被災動物を入れてしまったために、私が住む場所がなくなり、近くに借家を借りました。生涯の最期は私の傍で、できるだけ手をかけて…とアニマルクラブから高齢と病気持ちの子を次々と連れてきて、自宅は老猫ホームになりました。誰かを看取れば、また次に心配な子を連れてきます。『ユウちゃん』も死んだ、『チャチャ』も『とむすけ』も逝った、『くり』も『こぐり』も『かりんと』も『めめ』も…昔なじみが次々と居なくなってしまいました。
そして今…人間だったら、若返りサプリメントのCMに出られるほど、若見えで元気印だった『みつまめ』が、突然体調を崩して、白血球数が計れないほど高くなり、入院は心配なので、毎日朝に病院に送って行って、点滴で薬を入れてもらい、夜に迎えに行くという治療を1週間受けましたが、原因も判らず、数値も思うようには下がらない状態が続き、以前は時々回復していた元気や食欲も、次第になくなってきました。

赤ちゃんの時、隣の東松島市~鳴瀬町の役場の不要犬猫引き取り日に連れてこられた子猫でした。若い女性職員がミルクを買って飲ませて貰い手を探したけれど、見つからず保健所に渡す日がまた近づいて…町立の保育所に勤めていたうちのボランティアさんが泣きつかれて、連れて来た子猫でした。私もミルクを飲ませて育てたので、思い出深い子です。
一度里親宅へも行ったのですが、そこの家の末娘が兄姉にいじめられる腹いせにみつまめを虐待していると、お祖母さんから相談され、すぐに取り返しに行き、その後、その孫さんからお詫びの手紙も来て、お祖母さんからも「孫の教育のためにも、返して欲しい」と頼まれましたが、渡しませんでした。命あるものを教材のように扱う家だから、いじめが発生するのだと感じたからです。

高齢になっても食いしん坊で、ごはんの準備を始めるとずっと鳴いて催促していた騒々しい子でしたので、リッツクラッカーのCMソングの節で、「ミッツ1箱あれば~ミッツ1箱あれば~神経衰弱になる~よ」と替え歌を歌いながら、ごはんを作ってきました。そのみつまめが今、何を出して見せても…ほんの少し口にしても続かないのです。あんなに嫌って、無理矢理すると怒って、私を蹴飛ばして逃げていた皮下点滴も、されるがままになっているから…よほど具合が悪く、持ち直すのは難しい重病だということが解ります。ミッツが1箱あって、1ダースも居たなら、どんなにうるさくても幸せだったのに…唯一無二の愛娘は、力なく尻尾を振るしか意思表示できないから、もう病院に置いて来る気にもなれません。

みつまめの命は、19年前にアニマルクラブに来なければ、保健所に送られて、その存在を知られることもなく消されたはずです。1匹の命をすくい上げ、一生涯面倒を見続けるということがどういうことなのか…私は皆さんに考えてもらいたいです。費用と労力を投じて、注意と努力を持続させて、何が起きようとも愛情と責任を貫いて、1人の人間が面倒を見れる動物の頭数は何匹でしょうか?

次々と生み出されては、邪魔者にされ、嘆いたり脅したりの手段を背景に…それでも何とか救済のルートに乗せられた子猫達に、ネットで里親を募集して、会場を借りて、希望者に会いに来てもらい、さらに車に何匹も乗せて、仙台市や隣県辺りまで…何軒も家庭訪問して回ります。良いお宅で嬉しくなる時もあれば、ショックを受ける環境もあって…「行って見なきゃわからないなぁ~」と感慨深い帰り道、疲れ果ててコンビニでお茶を買って飲んでいると、動物愛護に目覚め、モーションを起こしたがっている人から、「アニマルクラブは、宮城県に殺処分0を求めているのですか?」と質問の電話がかかってきました。
私は彼に「殺処分0を掲げて、ふるさと納税で資金を集めて、何千匹もの犬を収容した広島県の団体で何が起きたか?そこで働いていた獣医師が内部告発した記事がネットに載っていると思うから、読んでみてください。自分ができる、地に足の付いた活動から始めるべきです。現実と現状を把握した上でなければ、行政に抗議しても太刀打ちできませんし、本気で抗議活動をしている人達にも相手にされませんよ」と答えて、電話を切りました。

『全部生かし続ける』とは、私がみつまめにしてきたことを全頭にするということです。殺されないからといって、狭く汚い所に押し込められて、怖い存在に威圧されて恐怖だったり、空腹だったり、病気で痛みを抱えていたのでは…苦しむために生かされているだけです。何のためにそれをしたいのですか?殺処分0を実現して安心したい人間を満足させるためではないですか?
そもそも、飢えて痩せ細った体に、ノミやダニやマンソン(サナダ虫)に取り憑かれたり、深い傷を負って、そこからウジ虫が湧き出た捨て猫や、衰弱した体にいくつもの病気を重ねた老猫や、人間は怖いとインプットされて、唸って引っかいたり噛みついてこようとする野良猫の…命をすくい上げて一つ一つ治療して、少しずつ人に馴らしていくプロセスを体験したこともない人が、スローガンを掲げても《絵に描いた餅》だと思います。掲げるからには、実現できる素地を固めることからやっていかなくてはなりません。
私がみつまめにやってきたことを、行政に持ち込まれ、里親が見つからなかった全部の猫と犬にやり続けるためには、どれだけの人手とお金がかかるか…想像してみてください。人間の子供は基本的人権を持っていますから、親がいなくなっても、社会が面倒を見るシステムができています。動物達にそれを広げるというのなら、動物達が生きる権利を日本国憲法で保障した上でなければ、莫大な予算も職員も確保されるわけもないと思います。
それを近年問題が明るみになったような団体が、一地域で先駆者として始めるにしても…内容の明確化と透明性、査察と公表が義務付けられなければ、ユートピアの看板の陰で、苛立ち脅えながら生かされる、残酷な現実がはびこってしまう危険性があります。それを知ろうともせずに、お金を送ることで安心している人達がいたら、愚像崇拝の片棒を担いでいるに過ぎないと感じます。

まず、自分が飼っている、あるいは餌を与えている猫に避妊・去勢手術を施すことが常識化すれば、捨てられる命はかなり減らせます。身近にそれをしようとしない人がいたなら、するように促し、手助けをすることが、確実に成果を上げる活動です。危機に瀕している動物に遭遇した時は、まず自分が窮地から救い出した上で、ボランティアのアドバイスや協力を得るようにすれば、動物愛護は合理的に実践されることでしょう。ネットからの情報をよりどころに、なんでもかんでも提供してもらって問題解決しようとしている現代人が、自らの目で見て頭で考えて、担い手になる勇気を持つことが、動物愛護のスタートになると思います。

昨日まで大騒ぎして、大食らいたったのに、突然どんよりしてしまった、みつまめ。病名は不明。

具合の悪いみつまめに、覆い被さって眠るシマ。何度はがしても、また重なる認知症のシマを、みつまめも嫌がる様子はありません。

それぞれに病を抱える老猫トリオ。『人』という文字のように支え合っています。

不思議なことに、こんなことになってから、ミルク飲ませて、育てていた時代の写真が出てきました。

 

 

 

 


【 一期一会の力 】


綾小路きみまろも言うように「あれから40年…」という歳月は、別人のように変わってしまう長い時間です。
私がこの活動を始めたきっかけは、仲良しだった近所の犬『メリー』が引っ越した先で飼えなくなって、保健所に渡されたと聞いたことに始まります。隣のおばさんもメリーを可愛がっていましたから、何とか助けたくて、保健所に行く途中にうちに立ち寄り「お宅でも無理だべか?」と聞いたそうです。その頃は道路に面した寿司屋の二階住まいでしたので、「置いてやる場所がない」と、断ったことを後日母から聞いて、私は心底母親を憎みましたが…その心の裏側で「でも、やはり引き取ってやることは無理だったのかもしれない」と諦めようとした自分は、もっと許せなくなりました。
メリーはどうなったのか?と調べた結果、「日本では動物に、ナチスのホロコーストと同じことをしている…」という事実に、衝撃を受けました。当時は、東北大学の医学部に、実験用にかなりの数の犬が払い下げられていました。従順なメリーは、実験動物に使われたかもしれません。

石巻の繁華街で生まれ育った私は、幼稚園の頃から映画館に通っていました。当時は同じ映画館で、1日に何本かの映画を上映していました。本当はいけないことですが、最初に上映される作品のチケットで入場して、終わると次回上映予告をくまなく観て、それからトイレに行って、自分の目の瞳孔が開いているのを面白がって、コーラとピーナッツを買って、次の作品をタダ観する《ペロンコ》行為を度々やっていました。その手口で、たまたま観てしまった『夜と霧』は、不鮮明な映像だったからこそ、これは本当にあったことなんだと…小学生の胸に、尋常ではない人間の残虐性と戦争の恐ろしさを焼き付けました。
私と同じように考えていた先生が小学校に居て、担任の教師が休んで、たまたま受け持った授業で、事細かくアウシュビッツの話をしてくれました。同級生はちんぷんかんぷんだったり、気味悪がったりしていましたが、私の頭の中では映画で観たことが繋がっていき、ますます恐ろしく可哀想になって…しばらくは休み時間になると、アウシュビッツの絵を描いて過ごしました。そして、中学生になって再び、メリーをみすみすそんなところに送ったことの罪深さに苛まれて、悶々とした日々を送りました。

私は変わり者でしたので、教師には興味を持たれるか、疎まれるかのどちらかでした。中学2年生の時、素晴らしい先生に出会いました。私の父親と同い年で、苦手な英語の先生でしたが、通信票に『単純な繰り返しを苦手とする、頭の良い子だと思います』と書かれていたことが、とても嬉しかった。ありのままの自分を認めてくれる人に、初めて出会えたような気がしました。
生徒の自主性を尊重する先生で、クラス内でいじめが発生した時も、自分は何の意見も指示もしないで、生徒だけで忌憚のない本音が出るような雰囲気作りをしてホームルームを開きました。私は、いじめの対象にされていた3名の女子の弁護人のように、バリバリ男子とやり合いました。3年後、高校生になって、進学校には珍しい不良っぽいタイプの親友から、ある日、「昨日遊んだ子がさー、トモの中学の時の同級生なんだって~あの人は、人を見かけで判断したりしない、信用できる人だって誉めてたから、私嬉しくなっちゃったよ~」と言われました。私が弁護したいじめられていた子の1人でした。卒業して会うこともなくなっていましたが、誰の心にも、自分の存在を認めて欲しい思いがあることを再認識しました。

中学3年生になり、先生のクラスでなくなり、今度の担任とは全く合わず、模擬テストの点数がその時々で100点も違う私を、「この谷の所の点数だったら、志望校は空に梯子掛けるようなものだね」と切り捨てました。私は先生の似顔絵を描いて授業中に回し、担任と私の敵対関係は有名でした。

放課後のある日、私は校舎の陰で蟻を踏まないように歩いていました。変な恰好だったのかもしれません。2年生の時の担任の先生が通りかかって、「トモー、何してる?」と声をかけてくれました。笑顔になって、「蟻踏まないように、歩いていたの」と答えると
先生は私の傍に来て、幼い子供にするように、私の頭を撫でて、静かな優しい声で「先生はトモのそういうところが大好きで、そしてちょっと心配なんだ」と言いました。先生と少し立ち話をしました。先生は「トモの考えていることを皆に伝えてみたらどうだろう?」と言って、資料室を片付けて場所を作ってくれました。私は校舎に手製のポスターを貼り、放課後の3日間、詩や物語などの個展を開催しました。
その時に展示した詩の一部です。

『捨て猫』

たったひとりぼっち、捨てられた子猫は、
その日のうちに、強い風に吹き飛ばされた。
川に落っこちるその時、子猫は考えた。
自分は何のために生まれてきたのだろう、と。 

橋の上を人間は今日もまた、
愛する家族の元へ、
愛すべき未来のために、
足早に過ぎ去ります。

橋の下を、
空き缶や古靴に紛れて、
愛のかけらも知らずに消えた、
小さな命が流れて行くことに気づきもせずに…

『毒ガス』

さながらトイレはナチ収容所
殺虫毒ガスにやられるハエはユダヤ人
息絶え絶えのアンネ・フランク…

いつまで見とれていると、
ほら、始業のベル
また、世間から置いてきぼりを食っちまう


先生が後押ししてくれたから、「黒人を奴隷にしたことも、当初は違和感を持たない歴史があった。現実を知れば、皆も間違いに気づくはずだ」という信念が生まれ、高校生になってからはより広く、新聞等に投稿を始めたことで同志と出会い、仲間もできていきました。
なのに、私は中学校の卒業式の日に、世界地図が描かれたランプの贈り物に名前も書かずに、先生の下駄箱に入れたきり…先生と会うことはありませんでした。3年前に、中学校の同級会が開かれ、私は40年余の時を経て先生に会えるものと思い込んで、著書の『動物たちの3.11』やドキュメンタリー映画『動物たちの大震災石巻篇』のDVDを手に、勇んで会場入りしました。会場に先生の姿はなく、なんとすでに他界されていたことを聞きました。『きよ』を失った『坊ちゃん』のような気持ちになりました。
そして、今は、長く一緒に居るとか、何回も会うとかしなくても、人生の礎や道標となる《一期一会の出会い》にこそ、真実があるような気がしています。


大好きで
少し心配
そう言って
頭を撫でた
先生がいた

 


【 夏来たるらし、雨の里山 】


礎があり、道標が立っているなら、波が来れば乗り、追い風を受ければ進んで行くことができます。
『チャオ』も『パニ』も死んだけれど、三兄妹のもう1匹『シマ』は、認知症になり、ごはんくれくれと泣き叫びながら、便秘症の固いウンチを出し切れなくて、時折手袋をかけて取り出してやりながら…かれこれ20歳になりました。生まれてから3回捨てられて同じ軌跡をずっと共に生きてきた『モモ』と『サク』も、とうとうモモひとりになってしまいましたが、震災翌日、泥水が入ったプレハブから、何とか連れ出そうと必死になる私の手をしたたか噛んだ気の強さは健在で、今も皮下点滴をさせてくれません。腎臓の数値は年なりに悪いのですが、食欲は旺盛です。数え切れないほどの蘇り劇を果たしてきた『トラ』は、とうとう1.6キロにまで痩せました。喉のところに、無気味な腫瘍ができ、日に日に大きくなっていくから、悪性のものには違いないのですが、麻酔をかけての外科処置は無理なので、毎日生理食塩水で洗い流して、抗生物質とステロイドが入った軟膏を点けています。たまに一緒にお風呂に入ると、「さぁ、きれいにしてくれ」というように、首を伸ばしてゆっくり洗わせます。
老いていく私に、猫たちは、『生きていかなければならないということがどういうことなのか』を教えてくれます。

今年の梅雨は雨量が多いですね。でも、雨上がりの道すがら、葉っぱに張られた蜘蛛の巣がキラキラと輝いて、上等なレースみたいに見えます。私は昔、四つ葉のクローバーを見つける名人でしたが、ここ10年以上は無縁でした。それが、身近な里山で久方ぶりに出逢いました。犬の『バロン』が厭きない程度に探して摘んで、「あとはこの次」と思って帰って来たら、翌朝、町内のお年寄りが草刈作業をして…秘密のクローバー畑も刈り取られてしまっていました。まるで人生のようです。


山道は
不思議な図鑑
蜘蛛の絵に
模様を付ける
梅雨のいたずら


コロナの影響で、山の神社のお祭りも中止になりました。坂道の両側に、滑稽な川柳と絵が描かれた行灯が灯される『あんどん祭り』は、私が幼い頃から続いてきた里山の風物詩で、描いたのは、小学校1、2年生の頃に絵を習っていた、お爺ちゃん先生。《町内の良寛さま》みたいな人でした。お祭りはできなかったけれど、今、山は例年のようにアジサイに彩られています。


祭りなき
提灯坂で
あじさいが
桃藤色の
ぼんぼり灯す


震災の前の年に、『コロ』をアニマルクラブに預けた若い女性が、10年ぶりにコロに会いに来ました。アニマルクラブに来る色々な相談の対策の一つとして、一時的に猫を預かることがありました。猫が良い子で、相談者が誠実な人だと感じれば、その方の人生がままならない一時期、代わりに面倒を見ることで、猫とその方の絆が繋がるならば…一肌脱ぐのが人情です。しかし、人生は思った通りにはいかず、引き取れなくなることもあります。けれど、猫に対する気持ちが変わらなければ、続けられる誠意はあるはずです。彼女はコロを引き取ることは叶いませんでしたが、10年間、コロの養育費として、毎月5000円の寄付金を送り続けてくれました。聞けば、コロは彼女の飼い猫ではなく、近所に引っ越して来た人がペット禁止の借家だからと、外に出してしまった猫で、入りたくてウロウロしているのに、追い払われる姿を見かねての相談でした。
これまで何人かの人から飼い猫を預かりましたが、当初は送られた養育費も、1年と続いたことはありませんでした。そして、殆どは迎えにも来ませんでした。約束をずっと守ってきた彼女には、老いてきたコロがまだ食べて歩き回っているうちに会って欲しくて、誘ってみたのです。遠慮していたのでしょう…すぐに連絡が来て、早速会いに来てくれました。
コロが彼女を覚えていたかどうかはわかりませんが、彼女がいたから、コロは生き長らえています。車で1時間かかる大崎市からですが、ボランティアにも来たいと言ってくれました。そうやって、時折コロに会ってもらうことは、彼女の人生にとっても、何らかの道標となってくれるような気がしました。

1.6キロの蘇り王『トラ』~三途の川の手前から、毎度Uターンしてくるのは、「生きたい」という強い意志だと感じます。

梅雨の自然博物館~蜘蛛のレース網

あんどん坂。お祭りの夜は、紅白の棒に行灯が下げられ火が灯されます。

今、代わりに咲いているのはアジサイ。この先はヤマユリの芳しい香りが漂います。

10年ぶりに、命を繋いでくれたお姉さんに抱っこしたコロ。涙目になったのは…実は年のせいです。

私が摘んだ四つ葉のクローバーを、平川さんがキーホルダーに加工してくれました。

思い出の行灯祭り…昭和のノスタルジーです。

なんだか…コロナの時代に身につまされる川柳です。

.

 

.

 


【 51年9ヵ月と4日… 】


それは、『コレラの時代の愛』の主人公が、初恋の女性にプロポーズするチャンスを待ち続けた歳月です。私もあと10年位アニマルクラブを続ければ、匹敵する長さで、ヒロインの『フェルミナダザ』と同じ位の年齢になっています。はてさて私には、何が訪れるのでしょうか…
そこまでにやっておきたいことが、まだまだあります。今年は10月16日~30日、仙台市の青葉通り地下道ギャラリーで、パネル展を開催します。建物の中ではない、通気性の良い空間での開催なので、多くの方に観ていただきたいです。

そして、この先、コロナの勢いはどうなっていくのでしょう…。アニマルクラブの絵描きさん達の作品集を皆さんにお届けできるのは、冬に間に合うか、春までかかってしまうのか…まだ見えません。平川さんと森さんは、精力的に作品を製作中です。完成がはっきりしないのは、アニマルクラブに居る子だけでなく、アニマルクラブから里親さん宅に行った犬や猫の絵も入れ始めたからです。
捨てられ、虐げられながら、何とか繋いできた命の灯火が、愛されることで明々と燃えて、周りの人々までも暖めて、かけがえのない存在となっていく…このことを伝えていくことこそが、アニマルクラブが知らしめていくべき動物愛護だと考えています。この先は、「あの子も、この子も描いて欲しいなぁ」と、出てしまう欲を、いかにまとめ上げるか…私のプロデュース力が問われます。とにかく、私達は持てる力を振り絞って、できることで動物達の力になっていく活動を続けていきます。《コロナの時代の愛プロジェクト》に、皆さんからのご支援を、引き続きよろしくお願いいたします。

仙台市青葉通り地下道ギャラリーにて、10月16(金)~30(金)まで開催。自分にできる動物愛護を始めるきっかけになったり、協力の輪が広がる縁が結べたら良いなぁと、願います。

鉛筆画のはずだった平川さん、バリエーションどんどん広げています。

2020年7月30日