『寝ても、覚めても…』

【 個人情報流出 】

春の活動報告を書けないままに、もう夏が来てしまいます。春先から尋常でない忙しさに身を置いていました。妊娠する猫が多くなるのも、あちこちの物置などで野良の子猫が生まれるのも、どこかしこで捨て猫が見つかるのも例年のことですが…今年はひっきりなしに相談が来ました。
特に、知らない人達から続々と携帯に電話がかかってきました。そのたびに、「引き取ることはできないが、協力するので、助けるために頑張って欲しい」と話し、個々のケースに前向きなアドバイスと具体的な協力を提案しました。もちろん、引き取ってくれるところではないとわかると、「じゃあ、いいんです」と話を終わりにされたり、「家族と相談してまた連絡します」と言われたのに、《続き》が聞けないことも度々ありました。

途中まで聞いた子猫たちのその後が頭をよぎることもありましたが、「何とかなりそうな子を助ける」ことで精一杯でした。まるで戦争中のように、できることは制約され、選択肢は限られ、関われば想定外のことが勃発して、「引き取らない」はずが、風呂場も洗面所も、待合室にまでケージを置かざるを得ない《難民キャンプ》が続きました。

 

 

「ねぇ、ねぇ、知ってる?携帯電話がバレバレだって…」「そりゃあ、ヤバいっす~」 みつまめ姐さんは、渋い顔…

「ねぇ、ねぇ、知ってる?携帯電話がバレバレだって…」「そりゃあ、ヤバいっす~」 みつまめ姐さんは、渋い顔…

 

【 うまい話の罪と罰 】

夜中や明け方に薬を点けたり、掃除や洗い物をしていると…「不幸な命は生まれ続け、可哀相だと思う人は多いけれど、それに行政が適切に応えていないから、伝え聞いたボランティアの携帯電話に、藁の代わりにすがりつく人が多いのだろう。待ったなしの切望や個々の事情や、経済面での要求までもが突き刺さってくる現状は、我々が受け止めきれるものではない」ことを、ひしひしと感じました。
「殺処分するところなら、居なくなるから次々引き取れるでしょう。でも、ずっと生かして養っていくところで、次々引き取ったら…どれだけのお金と人手がかかると思いますか?そんなことができるわけがないじゃないですか?」と、私は相談者に説明します。大抵の人は「そうだよねぇ、そんなうまい話あるわけないよねぇ」と理解してくれます。そこからが、現実的方策のスタートなのですが…、誰かに何とかしてもらうことしか考えない人は、時に恐ろしい過ちを犯していることもあります。

避妊予防センターに野良猫の手術に来た二人組のおばさんが、「子猫生んじゃったんだよね~前は子猫を引き取ってくれる人がいたけど、引っ越してしまったから、困っているのよねぇ」と言いました。
不審に思って聞くと、知っている人でした。一主婦であったその人が、行き場のない猫を次々引き取ったのは、里親探しをするためだったと思います。家庭生活への負担が重くなり、ご主人とも揉めて、経済的にも苦しいと相談されて、避妊手術やワクチンを何度か無料でしてあげました。付き合いが途切れたのは、彼女がパルボに感染している子猫を置き去りにして行った時からです。その後も彼女から貰った子猫がパルボで死んだとか、市内の動物病院の先生から、「パルボの子猫ばかり連れて来る」と聞きました。家の中にウイルスが蔓延しているのに、子猫の引き取りを続けているようでした。
「そうか…あの人、引っ越して行ったんだ、離婚したのだろうか、随分苦労しただろう」と感慨深い私をよそに、おばさん達は彼女の家に行ってまもなく、元気いっぱいだった子猫が死んだと聞かされた話や、猫を引き渡した薄暗い部屋がとても生臭かったら、死んだ猫がいたのかもしれない、なんておしゃべりをしていました。ゾッとしました、彼女の家がどんなことになっていたのか…よりも、そんなところに、何もできない幼子を置いて来て、「お金も渡して来たし、できることはしたよねぇ…」なんて言ってるその人達にです。
憤りをそのままぶつけました。「助けたつもりが、殺したと思うよ。前に預けた猫も死んだって聞きながら、死体があるかもしれないって感じた部屋に、なぜ置いてきたの?」と。子猫がまた死ぬかもしれない予感は、なかったわけではないと思います。まるで、『口減らし』のための《子殺し》みたいです。自分に見えないところで起きたことは、「しかたがなかった」で済ませられるのでしょう。
「だって、私らだって飼えないもの~」と言い訳するおばさん達に、「自分の事情と、猫の命を守ることは別々に考えていかなければならないんだよ」と諭しました。遠慮会釈のない私の話と、自分達も不可解だった経緯がつながったらしく、おばさん達は募金箱にお金を入れて、お礼を言いながら笑顔で帰って行きました。

私は、まだ付き合いがあった頃に、彼女から引き取った弱々しい子猫が、ケイレンを起こした後で冷たくなっていった夜のできごとを思い出していました。ひたすら暖めながらも、このまま息を引き取るのだろうと思い込んでいました。痩せっぽちの茶トラの男の子は、何度も息が止まったかと思いましたが、午前2時に大きな声で鳴き出して、ミルクを飲んで、奇跡の生還を遂げたのです。この子は姉妹2匹と共に、仙台の里親さん宅に行きました。見事なデブ猫に変貌を遂げて、毎年、避妊予防センターにワクチンに来てくれます。兄妹揃って里親さん宅に迎えられたことを伝えた時、彼女はとても喜んでいました。「不幸な子猫を助けたい」純粋な志から始めたことだったのだろう、と想います。見過ごしにできない人に押し付ける人々、そして自分の力量を超えて引き受ける人…人間の都合や感情で転がされる命を、守り導くことができるのは、やはり人間の《知恵と勇気とコミュニケーション》だと、感じます。

社会貢献していますが、公務員ではないので、どんなに頑張って働いても、この忙しさはお金を生みません。むしろ、関わるほどお金は出て行くので、他でお金を稼がねばならないのです。「そこをうまくやって、活動で収益を上げて、給料をそこから得てこそNPOだよ」なんてアドバイスは、「いろんなことを諦めながらも、なぜボランティアを続けるのか?」を理解し得ない人の考え方だと感じます。
避妊予防センターが一般の動物病院と同様の料金を取り、どんな境遇の人からでも費用を払ってもらうのならば、その存在の意味を見失うし、たとえ幾らかの収益が上がったとしても、それは衣食住が足りている自分よりも、明日の命がわからない野良猫や、守る力のない飼い主と暮らす猫や犬のために生かすことが、私達の望みなのです。

もっとも、《収益が上がる》ことは、おとぎ話になってしまいました。震災後は年々収益は下がっています。週1日の開院となった避妊予防センターは、この春、疾風怒濤の煩雑ぶりでした。手術が深夜まで続くこともあったし、それでも追いつかず、獣医さんと看護士さんに休日出勤してもらって、手術をこなした日も何度かありました。薬品類の購入費も、週2日開院していた頃よりも多いくらいです。
それなのに、なぜ収入は少ないのか?それは、お金の入って来ない手術や治療の割合が多くなったからです。避妊・去勢手術の他にも、大ケガをしている猫や重い障害を持った猫も連れて来られて、大手術を受けることもありました。「普通の動物病院なら10万、20万かかる手術が、あそこなら格安でやってくれる」というような噂が流れているらしく、多くの野良猫が医療の恩恵を受けました。飼い主がいても、「他の病院で診てもらったら、とても払えない位かかるって言われて…」と連れて来られる猫や犬もいます。この意味においても、避妊予防センターは、役割を果たしていると思います。でも、誰もお金を出してくれる人のいない野良猫の費用は、飼い主がいる子達から得る収入で賄うコンセプトでしたが、現実には、開院日が減ったことで混んでいるため、普通にお金を払える人達は、他の病院に流れてしまいました。赤字の避妊予防センターを支えているのは、それを承知で来てくれる里親さん達や、そしてカンパを送ってくださる皆さんのおかげなのです。
震災後、被災地には以前の生活を取り戻せない人達がいます。もともと貧しかった人は、さらに困窮している現実も聞くし、《被災者慣れ》して、何でもかんでもやってもらって当然のように認識しているタイプの人達が、仮設住宅に残っています。どこの仮設にも、「引っ越して行った人が、餌付けしていた野良猫」がいて、「妊娠している」「子を生んで増えた」とい訴えてくる人の多くは、「置き去りにして行ったんだよ~」と、非難している人達と同様にエサを与えるだけで、お金も手間も「ボランティアさんがしてくれる」と思っています。「費用はかかるんですよ」と言っても、「自分の猫でない」「エサ代だけで精一杯」と始まり、「家も流され、財産も家族も無くした」話を、免罪符のように提示してきます。どう折り合いをつけて、「親は手術して、子猫を里親探しまで保護してもらい、引っ越す時には猫達をどうするか?」は、TPP(try  personality  psychology) を駆使して、ケースバイケースで交渉ですが、手術までは持っていけても、その後の責任や費用の回収は、逃げられっぱなしです。

 

 

おばあさんが餌付けした大きなお腹の野良猫を捕獲、避妊して10日後、いた場所に放しに来ました。

おばあさんが餌付けした大きなお腹の野良猫を捕獲、避妊して10日後、いた場所に放しに来ました。

 

5匹の子猫を、懸命に育てていた野良猫。1匹が交通事故死した後、3匹を保護して里親探し中。母親も避妊しました。

5匹の子猫を、懸命に育てていた野良猫。1匹が交通事故死した後、3匹を保護して里親探し中。母親も避妊しました。

 

認知症のおばあさんが餌付けした野良猫が、家に入って出産。独居老人が猫を増やすケースが多いです。

認知症のおばあさんが餌付けした野良猫が、家に入って出産。独居老人が猫を増やすケースが多いです。

 

食品会社に住み着いた野良の親子。見つかれば山に捨てられる決まりだとか。母さんは大きな臍ヘルニアもありましたが、避妊と同時に手術しました。

食品会社に住み着いた野良の親子。見つかれば山に捨てられる決まりだとか。母さんは大きな臍ヘルニアもありましたが、避妊と同時に手術しました。

 

 

【 眠りの国へと 】

私は根性はないので、寝ないで働くことなどできません。アルバイトからの帰り道、駐車場に車が入った瞬間に寝てしまったり、お風呂に顔が入って津波の夢を見たり、歯磨きを飲んで咳き込んで目覚めたり…震災直後の《睡魔との闘い》再来の日々でした。
当然、忘れたり、なくしたり…過失も増えました。やらなきゃないことが山積みなのに、置き忘れた物を捜している自分に腹が立ち、情けないまま半日過ぎたら、誰かに救いを乞い、窮場を凌いできました。私はすぐに人に助けてもらおうとするから、精神のバランスは崩さずにやって来れたのだと思います。

そして、このあわただしさの中でこそ、瞬時にいろんなことを想いました。自分では5分位のつもりが、ハンドル握ったままで1時間経っていたり、湯船に45分浸かっていたり…お腹がすいてお菓子を取りに行った戸棚にもたれて夜が明けたり…、浅い眠りの中で、幼い日の自分や、もう会えなくなった人達に出会いました。これまでの生き方も、影響を受けた人々も、今につながっていて、これからの自分を創っていくことを感じました。
どこででも寝てしまうから、「起きていられる間に、できるところまでやってしまおう」と心がけています。その割りには、成果が見えないことも多く…「何もしてないのに、疲れた~」という独り言が口癖になりました。一つの用を終わらせないうちに、次の動作に移るので、ついていけない顔面に小さな傷を何回も作りました。それは、とりもなおさず、決して優秀なわけではない私が、子供時代に痛感した動物たちの痛みや不条理への反発を、社会に投げかけ続けても、「善きことはカタツムリの速度でしか進まない」現実の一方で、年老いてきた自分の限界を知ることでもありました。

そして、それを悟ると、「今できることをやっておかないと…」という衝動と、「先が長くない命には、今手をかけないと…」という焦燥に駆り立てられて、ますます、《猫だらけの日々》にがんじがらめになっていきました。助けたいという願いの陰には、消えていった命があります。苦境を越えて豊かな日々を生きた命と、日の目を見ずに消えた命の両方を知っているから、何とか生かして、楽しいことや美味しいことや、「人間もいいもんだにゃ~」という暮らしをさせたいと願うのです。

 

私の寝姿はとても公表できないので代わりに唯ちゃんです。こう見えて、多頭飼いでケージに閉じ込めて放置され、餓死・共食いの大惨事の唯一の生き残りです。

 

 

【 わかれうた、鳴り止まず 】

《まめつぶ》
1月にキタを看取った後で、2、3年前からアニマルクラブの外猫に仲間入りしたものの、絶対に捕獲器には入らず、去勢もできなかった根性も容姿も筋金入りの野良猫『まめつぶ』が、目に見えて弱ってきたので、猫小屋に入っている時に、出入り口を塞いで、小屋ごと家の中に運んで、何とか捕獲しました。去勢ついでに、麻酔下での診察と血液検査で、腸に癌と思われる腫瘍があるようだと言われました。もう手術も無理ということで、ケージに入れて、自宅に置きました。
当初は、ケージの中でも威嚇して、ごはんの茶碗もひっくり返すので、炉端焼きみたいに、お玉に茶碗を乗せて、顔の前まで運ぶことにしました。まめつぶはどんどん弱って動けなくなり、やがて寝たきりになりました。初めてシリンジで水を飲み、ジッと穏やかな目でこちらを見るようになり、死期が近いことを感じました。
野良猫でなくなったまめつぶは、2月半ばに、暖かい部屋の中で、息を引き取りました。それはまめつぶ自身が望んだ終末ではなかったかもしれませんが、私にとっては、人知れず苦しんで、なお脅えながら死んでゆく野良猫の最期を、改めて認識する機会となりました。

 

日当たりの良い、アニマルクラブの物干し台がお気に入りの場所でした。

日当たりの良い、アニマルクラブの物干し台がお気に入りの場所でした。

 

保護されて…毛並みがきれいになり、威嚇しなくなって目つきが穏やかになったのは、死期が近い知らせでした。

保護されて…毛並みがきれいになり、威嚇しなくなって目つきが穏やかになったのは、死期が近い知らせでした。

 

 

《ムー》
そして、4月には、これまで虹の向こうに旅立つ仲間ひとりひとりに、最期まで付きっきり付いていてくれた《介護猫》のムーばあちゃんが、静かに息を引き取りました。ほとんど手も煩わせずに逝ったから、なおさら…決して目立つキャラクターではなかったこの猫の存在が、いかに大きかったかを失って初めて知りました。
前の飼い主に「預かって欲しい」と連れて来られてそれっきり…すでに10歳を過ぎていると聞いて、あれから10年余、ムーはたくましく、明るく、そして優しく生き抜きました。他の人から見れば、ヨレヨレの汚い婆ちゃん猫でしたが、お茶目なムーがいなくなって…動物愛護の担い手としてではなく、家族として心から「寂しい」という喪失感がつきまとい、今こうして書いていても『鬼の目にも涙』だから、長くは書けません。

 

いつもそこに居て当然だったから、ムーの居ない家に帰ると、忘れ物をしているような気持ちになります。

いつもそこに居て当然だったから、ムーの居ない家に帰ると、忘れ物をしているような気持ちになります。

 

みんなを介護してくれたムーは、トラが看取りました。生涯誰とも争わず、皆に優しく、明るくて面白いムーを尊敬していました。

みんなを介護してくれたムーは、トラが看取りました。生涯誰とも争わず、皆に優しく、明るくて面白いムーを尊敬していました。

 

 

《面影》
ムーとは逆に、震災の前の年の夏、ノミだらけで行き倒れていたところを連れて来られ、そのまま置いて行かれてしまった『面影』は、様々は薬や療法食も効果がなく、慢性の下痢が治らない、非常に手のかかる猫でした。でも、震災直後からずっと、山形から通って来てくれる加藤さんのお陰で、アニマルクラブで二段ケージの中にペットシーツを敷き詰めて、閉じ込められていた面影を、私が暮らす借家に連れて来ることができました。
いつもケージの中から「出たい、出してよ~」と鳴いていた面影を、畳の部屋にウッドカーペットを敷いてもらって、自由に出してやることができたのです。年々症状は悪くなり、面影は痩せ衰えて、下痢の回数も増えて部屋中を汚して、踏んで歩いて…時には嫌気が差しました。その都度、加藤さんは、大型トイレを並べられ、汚れも簡単に拭き取れるトイレ置き場を作ったり…手を加えて、面影や同居の猫が、できるだけ快適に暮らせるように工夫してくれました。

他の施設であったなら、面影はずっとケージの中で、もっと早くに死んだかもしれません。震災という不幸な出来事で多くを失った一方で、出会うことのできた加藤さんのお陰で、猫達が望む暮らしを実現できることは、何よりの財産です。
面影は力の続く限り、仲間と暮らす生活を味わうことができました。体は紙切れのように痩せましたが、白髪も増えて、かなり高齢であっただろう面影は、晩年をちゃこブーの《一の子分》として過ごし、6月初めに私の傍らで生涯を閉じました。6年前の夏、行き倒れて死んでゴミにされなくて、本当に良かったと思います。

そして、面影がいなくなると、部屋は嘘のようにきれいになって…《地獄の仁王様》のように怖いちゃこブーの検閲はあるのですが…何とか通過した2匹と、許可は出ないものの、他の部屋でもうまくやれない『ラジオ』も、3段ケージを組み立てて、引っ越しました。チャコが因縁つけるから、1階には降りられないように塞いで、1階はチャコの弟分の『ミケン』の食事処にしました。複数飼いの鉄則は、『誰が、何を、どれだけ食べたか?』が判るように、別々に食べさせることです。
「できるだけのことをして面影を見送った後には、こうして面影が、3匹暮らせる場所を空けてくれた」ような気がします。旅立つ命は何かを教えたり、残したりしていきます。2年前、面影と似た配色の子猫が来た時は、迷わず『ちびかげ』と名付けました。この子は布製品を食べる癖があるので、里子には出さずに残留しています。他にも…グリの小型版の『こぐり』、団蔵と同様に、交通事故で前足を切断した子猫は『豆蔵』…今は亡き猫達の名前は後輩達につながり、宮沢賢治が言ったように『命は繰り返される営み』なのだと、改めて感じるのです。

高齢化が進む収容猫の最期を看取るホスピスとして、集団生活の中ではリスクが多い脳障害や性格に問題ある子、体の不自由な猫達のケアハウスとして…いつの間にか自宅は、19匹の大所帯です。腎臓病や胃腸病持ちが多いので…朝はあっちでゲコゲコ、こっちでゲロゲロ、《嘔吐協奏曲》鳴り止まず、「ベッドから降た途端に踏んだら、今日はアンラッキー」みたいに…《嘔吐占い》も日常になっています。
散歩、ごはん作り、掃除…早朝からの肉体労働を終えて、やっと座っての昼ご飯も…泥棒集団に囲まれます。ケージやキャリーに閉じ込めればうるさいし、落ち着いて食べることができません。布巾や醤油を取りに行く間でさえ、いちいち電子レンジの中に、ご飯一式しまってからでないと席を立てない不自由さに、食べる気が失せる時もあります。時にはうっかり盗まれて、ベッドの下を油だらけにされて「もう二度と家ではご飯食べない!」などとヒステリーを起こすのですが、寛容な心を持つしか、救いの道はないのは、国際争議と同じです。

 

面倒ばかりかけられたけれど、人懐っこくてひょうきん者で、憎めない子でした。

面倒ばかりかけられたけれど、人懐っこくてひょうきん者で、憎めない子でした。

 

弱ってきた面影を見舞うちゃこブー。「親分、あっしはもうダメです」って言われたのかな…

弱ってきた面影を見舞うちゃこブー。「親分、あっしはもうダメです」って言われたのかな…

 

ノミだらけで行き倒れていたところを連れて来た人は、5000円置いて逃げるように帰って行きました。あそこで、命が終わらなくて良かった…

ノミだらけで行き倒れていたところを連れて来た人は、5000円置いて逃げるように帰って行きました。あれから6年分、命、儲けたね…

 

《レオ》
そして、津波の中を生き延びた命が、また一つ燃え尽きました。ドキュメンタリー映画『動物たちの大震災』にも登場した、秋田犬のレオです。
レオは、石巻市街地で最悪の津波被害を受けた門脇町で暮らしていました。飼い主のご夫婦は亡くなっています。家も流される惨事の中、どこをどうやって、一命を取り留めたのか…震災の数日後にトボトボ歩いているところを見つけた人が、石巻警察署に連れて来たそうです。当時、石巻保健所は機能していなくて、大崎市の保健所に送られたことを、担当課の職員が不憫に思い、電話が回復した後に、アニマルクラブに相談をよこしました。
震災後、被災犬の保護に同行してくれていたボランティアのおじさんが、秋田犬が好きだったので、大崎保健所に送られた犬のことを話しました。そしたら、「俺が面倒見てやるよ」と言ってくれたので、大崎保健所に連絡して、引き取って来ました。
こう思い起こしただけでも…レオは運の強い犬でした。さらに、身の上まで判明しました。アニマルクラブで公開していた『被災犬・猫情報』を見て、飼い主の娘さんが連絡をよこしたのです。こうして、家族とも再会できたのですが、娘さんもそのお兄さんも、今はレオを引き取れる状況ではないということで、しばらく預かって欲しい、と頼まれました。この時、レオがすでに10歳を過ぎていることを聞きました。

しかし、1年経っても2年過ぎでも…レオが帰れる家はなく、去年からめっきり足腰も弱くなったので、息子さん夫婦に「介護が必要になれば、おじさんでは面倒見きれないから、犬を飼える借家を探して引っ越して欲しい」とお願いしました。しかし、言い訳ばかりで…動いてはくれませんでした。
人の心とは、なんと移ろいやすく、いい加減なものだろう、と感じました。レオが生きていたと知った時には感激して、「親の形見だ」と喜んでいたのに…5年経っても迎える家は用意されることなく、立て替えていた費用も完済されてはいません。「お世話になった感謝」がいつの間にか「もっとお世話してもらいたい甘え」になり、《自分の都合》を『できない事情』にすり替えて、スルーしようとする人が大勢います。そんな人達に『糠に釘』の論争を仕掛けても、動物達は助からないので、できることだけは、やってもらうしかないと考えるようにしています。
5月半ば、おじさんから、レオの後ろ足が動かなくなったと連絡がきました。「レオちゃん、もう歩けないよ」と聞いて、すぐに頭に浮かんだのは、ハエに卵を産みつけられて、ウジ虫が発生することでした。そうなってしまった犬や猫を…何度か見てきたからです。ウジ虫はものすごい勢いで増え、床ずれの褥瘡や肛門から入ってどこまでも食い破って進むから、動けない動物にはどれほどの苦痛でしょう…。

加藤さんの出番です。犬小屋を修理をして隙間を塞ぎ、床を敷き直し、網戸を張り、おじさんが「オラも住めるな~」と言うくらい、立派になりました。アパートの二階のおじさんの部屋から、屋外用延長コードを3本つないで、小屋の中で扇風機も回せるようにしました。
「病院で診てもらおう」ということになり、送迎を息子さんご夫婦にお願いしました。「老衰」と言われたそうです。大型犬で16~7歳は、なかなかいない長寿です。
食欲もあると聞いていましたし、お見舞いに行って小屋の扉を開けると、レオは前足で居座って出て来て、嬉しそうにしていました。おじさんは、ウンチもオシッコも垂れ流しになるレオを、まめに洗って、小屋の中は大判のペットシーツと皆さんからいただいていたタオルケットなどが敷かれて、きれいにしてくれていました。
しかし、大型犬をずっと飼ってきたおじさんは「こんな状態が長引くようなら、安楽死してもらった方がいいんだ」と当然のように言い、飼い主の息子も「両親の分も頑張ってここまで生きて、最期に苦しむのは可哀想だから安楽死してもらった方が…」と、妙なところで意見が一致していました。《犬は人間のために存在している》という考え方です。

しかし、アニマルクラブには、レオを引き取って世話をする場所も人手もないのです。頼みの綱は、おじさんの家の近くに住んでいる『てい子』おばちゃんでした。彼女は60代の主婦ですが、動物への思いやりと行動力にかけては天下一です。山に捨てられていた沢山の猫達の相談に来て知り合い、協力を約束したら、早速捕獲を開始して、19匹も保護してくれた《鉄腕ダッシュ》です。その後も、町内に虐げられている猫や犬がいると聞くと、飛んで行ってせっせと世話したり、飼い主を諭したり交渉したり、警察や保健所にも出向いて…『すべては愛のために』のアンジーのような女性です。てい子さんは、毎日のように通って、レオだけでなく、お世話するおじさんに差し入れしたり、励ましたり…サポートしてくれました。
これからが長丁場になると思っていました。それなのに…6月15日の夜におじさんから電話があり、レオが苦しそうに鳴きだした、というのです。もう病院は終わった時間でした。私は避妊予防センターの準備でやることが山積みでした。もっとも私が駆けつけても何ができるわけでもないし…てい子さんに行ってもらいました。電話で様子を確認し、翌朝、先日行った動物病院に運ぶことをお願いしました。飼い主の息子宅にも知らせました。しかし…朝を待たずにレオは亡くなってしまいました。
翌日、レオは、息子夫婦が火葬場に運びました。お骨を巡っても…おじさんは震災後暮らした庭に埋めると言い、飼い主側はおじさんの所有地でもない場所に埋められたくないと言い出し、ペット霊園と考えたようですが、費用が高額だったようで、結局レオは、私の自宅の納戸を加藤さんが改造して作ってくれた《納骨堂》に収められました。
穏やかに生き抜いて、まるで世話になった人達に迷惑をかけまいと逝ったような…潔い最期でした。写真に残るレオの困ったようなひょうきん顔は、「人間はそれぞれ勝手なことを言うけれど、言葉の奥にある想いを理解する寛容さを持てば、嘘から誠が出ることもありますよ」と私に遺言しているような気がします。

 

加藤さんが犬舎を作りに来てくれた日。レオはおじさんの奥で、起き上がっています。

加藤さんが犬舎を作りに来てくれた日。レオはおじさんの奥で、起き上がっています。

 

「今日は、みんなが来てくれて嬉しいな~」そんな表情で待っていました。

「今日は、みんなが来てくれて嬉しいな~」そんな表情で待っていました。

 

網戸も付いて、立派にリフォーム完成。「これからが長くなるな~」と思っていました。

網戸も付いて、立派にリフォーム完成。「これからが長くなるな~」と思っていました。

 

扇風機を届けた日。「これで大丈夫だね?」って言ったら、「了解!」って感じだったのに…

扇風機を届けた日。「これで大丈夫だね?」って言ったら、「了解!」って感じだったのに…

 

 

 

【 命の洗濯 】

超多忙の春から夏の間に、一度だけ遠征することができました。5月末、煩わしい日常から抜け出して向かったのは、千葉県柏市と、東京です。新幹線の中で、年末からの激動の半年間を振り返りました。長年のボランティアさんと頼りにしてた有給ボランティアさん…続けてが3人が抜けてしまったのです。「津波でなくした家を再建するために、フルタイムで働かなければならなくなった」、「震災後、職場がどんどん忙しくなって休めない」、「動物の世話はキツくなってきた、もっとラクで安定した仕事に変わりたい」…震災は生活に影を落とし、年月は人々の状況や考えを変えていくことを感じました。ボランティアは気持ちで動くもので、何の拘束力も義理もありません。これまでを想えば感謝の一言だし、その人がいなくても、明日からも同じように必要なことをこなしていかなければなりません。新しい働き手を探して、コミュニケーションを取り、仕事を覚えてもらうことから、また始めなければならないのです。

追い越して行く知らない町の景色を見ていたら、彼の言葉が浮かんできました。「他の人は、嫌になったら辞めればいい。私だって車椅子を送ることに疲れたら、辞めてもいい。しかしあなたは、辞められない。相手が命あるものだからです。だから、あなたは大変なの。だから、私はあなたを応援します」大阪在住の《詩人》トーマス・カンサさんです。祖国南アフリカ共和国に、日本では壊れて使わなくなった車椅子を修繕して送る活動をしています。震災後に、突然自転車でアニマルクラブにやって来ました。大きな体で手振り身振りを交えて、きらきら光る瞳で、大阪弁で人なつこく語りかけるから、アポなし来訪者には決まって嫌な顔をする私も、つい引き込まれて笑顔になってしまいました。それからも年に1~2回、『風のトーマス三郎』は突然現れ、どこからか集めて来てくれたカンバを置いて、一編の詩のようなメッセージを残し、《風と共に去り》ゆくのです。

震災後に出会ったいろいろな人に支えられて今日を生きる私は、震災で別れた隣人を訪ねて、千葉県に向かっていました。大切に抱えていたのは、アニマルクラブの敷地内で暮らしている野良猫『にせお』の実物大のそっくり人形です。アメリカのサラさんのお手製の傑作です。
にせおは、アニマルクラブのすぐ近くにある私の実家のお隣の、鈴木さんの家に住み着いていた野良猫でした。白地にキジトラの大きなオス猫で、おばあさんは『しまたろう』と呼んでいました。おばあさんは静岡から嫁いで来た人で、近くには縁者も少なく、子供もいないので、震災の数年前にご主人を亡くしてからは、しまたろうを話し相手に暮らしていました。自由に内外を行き来して、お刺身や焼き魚をお相伴して、幸せだった暮らしは、震災で一変。しまたろうは、半月くらい行方不明になりました。一方、おばあちゃんも避難所生活になり、そして3月末には、千葉県から甥っ子さんが迎えに来て、連れて行かれたことを、後から母に聞きました。
震災がなければあの家で暮らし、いよいよ体がいうこときかなくなって、施設に入ったにしても、石巻市内の老人ホームなら、時々会いに行けたでしょうが、千葉県ではそうもいきません。たまにおばあちゃんと電話で話すのですが、しまたろうとの思い出ばかり言うので、もう会うことはできないことが可哀想でなりませんでした。何度か写真は送っていましたが、だんだん老いて、言葉数も少なくなるおばあちゃんがボケてしまう前に、何とかできることを考えた結果が『しまたろう人形』の製作でした。これができるのは、世界中に唯一人、海の向こうのサラ・イタミさん以外にはいません。
いつもながら、サラさんの《風神業》には、驚きます。お願いして2週間もしないうちに、「できた!」とメールが来たのです。サラさんはいつも犬の人形を作っているから、最初のしまたろうは、ちょっと面長で犬っぽい顔をしていました。正直な感想を言うと、2日後に「整形しました」とイケメンの写真が届きました。いやいや、びっくり!そういえば…以前こんな風に言ってました。「お金をもらっても気持ちが乗らない物は作れないの。私が作りたいと思うものは、自然にできていくのよ」~サラさんは、まるで手塚治虫の漫画に出てくるような…神秘的なクリエーターです。
大宮から2本乗り換えて、随分時間がかかりました。ずっと隣に住んでいた老人が、今はこんな離れた所に独りでいるのかと想うと、切なくなりました。きれいな建物で、廊下には、食事の献立や趣味の集いの案内などが掲示されていました。おばあさんは、個室でひっそりと暮らしていました。電話では少しボケてきたように感じましたが、昔と変わりありませんでした。私の娘や甥っ子や、母親のことを聞いてきました。おばあさんが行っていた近所の美容院の美容師さんの写真にもすぐ反応して、「毎年春にタケノコもらったよ、柔らかくて美味しかった」と懐かしそうでした。遠くにいる私ができることは、こうしておばあさんが長く暮らした石巻で、付き合いのあった人達とのきずなを、もう一度結びつけることだと思います。
枕元には、30代の若さで亡くなったという、最初のご主人の写真が飾られていました。大学ノートには、猫とバレリーナのような…踊っている女の子の絵ばかりが描かれていました。心は少女の頃に戻ったのかもしれません。アニマルクラブでは『にせお』なんて不名誉な名前で呼ばれていますが、正式名は『鈴木 ゴーゴリ しまたろう』だとか。野良猫にロシアの文豪の名前を付けたのは、東京外語大卒の小説家志望だったという、写真の彼の影響でしょうか?甥っ子さんが迎えに来て、「石巻を発つ前に家に戻ったら、しまたろうが居たんだよ。ああ生きていたんだ、良かったね、って言ったの。最後に会ったんだよ…」という話は、この時初めて聴きました。人は望むようにばかりは生きられないけれど、様々な場面を生き抜いた最後には、なりたかった自分になって、行きたいところへ行って、会いたい人に会えるのかもしれません。

愛おしそうにしまたろうを抱くおばあさんに別れを告げて、今度は東京に向かいました。明日は、猫の里親で、アニマルクラブの支援者で、デザイナーの久世アキ子さんの個展に行くのですが…今日の残り時間で探しに行きたい、買い物があったのです。

 

本物のしまたろう(にせお)

本物のしまたろう(にせお)

 

最初の、ちょっと面長な犬顔のしまたろう人形。

最初の、ちょっと面長な犬顔のしまたろう人形。

 

整形して、イケメンになったしまたろう人形とサラさんの愛犬Jr.

整形して、イケメンになったしまたろう人形とサラさんの愛犬Jr.

 

アメリカ→石巻→千葉県長旅を経て、おばあさんの元へたどり着いたしまたろう人形。

アメリカ→石巻→千葉県長旅を経て、おばあさんの元へたどり着いたしまたろう人形。

 

 

【 東京めぐり逢い 】

私は正真正銘の《おのぼりさん》で、私の《はとバス》のガイドは、宍戸監督です。宍戸さんは、私のリクエストに応えて、まずお洒落な街、広尾に案内してくれました。アニマルクラブを支援してくださっている神戸のジャーマンホームベーカリー『フロインドリーブ』の東京店があるからです。いつもご馳走になってばかりいる美味しいパンやお菓子を、自分の目で選んで、わずかでもお金を払って買ってみたかったのです。どれにしようか?本当に迷って、そんな無邪気なことを悩める幸せを感じました。

帰り道に偶然、戦後の少女達に夢を与えたデザイナー、中原淳一のお店を見つけたのも儲けものでした。私はソレイユ世代ではないけれど、高校生の頃に愛読していた『詩とメルヘン』に、寺山修司が紹介していました。あの頃から動物の活動はしていましたが、他のことも楽しめたし、自由な時間がたくさんありました。何にしようか、店内を見回し、最近ついに買ってしまった老眼鏡のお供に、見覚えのある赤い水玉模様の帽子と蝶タイの、ツンとすました大きな瞳が美しい女性の絵の、メガネ拭きを選びました。
広尾の後は下町、谷中です。《猫通り》があるのだと、はとバスガイドは得意顔でしたが、この人の情報はうる覚えで、詰めが甘いことから、私達はよくケンカになるのです。この時も夕暮れにかかると、下町は店じまいが早く、ボランティアさん達へのお土産に、猫のチョコと手作りの飴を買ったところで、ツアー終了になりそうでした。「えーっ、肝心なもの、まだ買ってないよ~」私は出会いを求めて、ここに来たのです。昨年子猫の里親になっていただいたご夫婦の、旦那さんがガンで急逝した知らせを聞いて、車椅子の奥さん1人が2匹の猫と暮らす家に、何か少しでも…心を明るくする贈り物をしたかったのです。
ガラガラと軒並みシャッターが閉まる通りを小走りに…吸い込まれるように私は、たくさんのランプが吊り下げられた店に入り、導かれるように、一つのランプを見つけました。そこは、お客さんが、ステンドグラスのように色とりどりの小さなガラスを貼り付けて、オリジナルのランプを手作りする工房でした。私が指差したランプは、見本として飾られていたようです。灯りの下に、睦まじい姿の2匹の猫がお座りしていました。「あのランプを売ってもらうことは、できませんか?」と声をかけました。奥さんのMさんから訃報を聞いたのは、数日前のことでした。忙しい私を気遣って、葬儀が済んでからお知らせくださったのです。私とて忘れていたわけではありません。むしろ、やることがたまって身動き取れない時ほど、Mさんの旦那さんはどんな具合だろう?と気になりました。でも、今すぐに自分が行けるわけでもないと思うと、聞くに聞けずに、日常に追われていました。ご主人は被災地の福祉担当の職員として、奔走してきました。定年を来年に控え、これから自分と奥さんのために時間を使うつもりだったでしょう。そして、障害者である妻を残して自分が先に死んでしまうなんて、どんなにか悔しくて、心残りだったでしょう。東京から戻って、避妊予防センターをやって、週末に猫のお見合いに行って、週が明けたら…お参りに行こうと決めていました。

翌朝、私はフロインドリーブのパンで『ティーファニーで朝食を』のヘップバーン気分になり、再び、はとバスツアーに乗車。途中、《アニマルクラブ東京支部長》ともいうべき則子さんも便乗して、『久世アキ子のネコ展』に向かったのです。則子さんとは同い年、『突っ走るけど、うっかり屋』の共通点もあり、待ち合わせ場所に、東京生まれのくせに、不安そうな顔をして立っている姿が自分と重なって、嬉しくて…声を上げて笑ってしまいました。

そして、久世さんは《素敵に年を重ねるお手本》みたいな方で、私が女性誌の記者だったら、いろんな角度から彼女を紹介したいです。個展初日この日も、会場に本人の姿はなく、遅れた理由は…「作品が3つなくなっちゃったの~」と言うのです。聞いた誰もが、きっとゴチャゴチャしているであろう…夢の製作現場のどこかに埋もれているのだろうと想像しましたが、当の本人は、怪盗ルパンが現れたのかと想っているあたりが…またチャーミングなのです。会場で知り合った、ご近所に住むファンの方からは…「普段はこんなお洒落な格好じゃなくて、猫の煮干しを買いに来たついでに、家の外から呼ぶんですよ~あなた、最近来ないじゃない、顔見せなさいよ~って」なんてお話も聞けました。素顔も生き生きしていますね~。
久世さんからも、Mさんにあげたくなるお土産をいただきました。コルゲンの『ケロちゃん&コロちゃん』です。Mさんもきっとおなじみの、懐かしいキャラクター、こちらも仲良しペアなところが、またぴったりな贈り物だと感じました。日本中の人が知っているだろう《薬局の青ガエル》の他にも、お隣の懐古展会場には、「あー、このマスコット知ってる~」「持ってたな~このハンカチ」「えーっ、このCMも久世さんなの~」と…彼女が手がけて、世に出た作品の数々が展示されていました。洗練された躍動感と媚びないユーモアが久世さんらしいな~、と感じました。

そして、『ネコ展』は猫愛に溢れ、夢に満ちて「こんな街に住めたら幸せ~」と魅了されました。花屋さん、骨董屋さん、招き猫屋さん、ナチュラルフードのお店…どのお店もネコと猫好きが自然に融合して、和気あいあいのハッピータウンです。素材がダンボールやマッチ棒やロープやペットボトルの蓋など…生活の中でゴミとして捨てられている物を生かしているところが、カッコいいです。
ワクワクしながら会場を一周して、もう一度回ると…細かい発見がまたあって、ドキドキときめいてきます。本屋の棚に並ぶ本は全てネコのタイトルだし、靴屋には猫のカタチの靴があり、看板屋には、ド迫力の猫が描かれていました。街角や各店内には『脱原発』や『戦争法反対』などのポスターも貼られていたりして…大胆に見えて、繊細なところが芸術家です。
そして、さらにもう一周すると、この街の人々の喜怒哀楽と猫達の仕草が、絶妙に絡まって、メッセージのように心に届くのは…長年CMのクリエーターとして活躍してきた人だから、成せる技だと感心しました。
則子さんは大感激のハイテンションで、私達にも買える小さな作品を見つけて、1つずつ手に入れたので、ご満悦。会場で知り合った動物愛護家の方々ともすぐに仲良くなって、久世さんのお宅を訪ねる約束もして、超ハッピーな様子でした。

 

元祖ゆるキャラともいうべきケロちゃん、コロちゃんがお出迎え。

元祖ゆるキャラともいうべきケロちゃん、コロちゃんがお出迎え。

 

テーマは《ネコと共存する街》かな?看板屋さんが巨大な猫の絵を描いています。

テーマは《ネコと共存する街》かな?看板屋さんが巨大な猫の絵を描いています。

 

ブーツ型の靴屋さん。よく見ると、ネコ柄、ネコの形の靴もあります。

ブーツ型の靴屋さん。よく見ると、ネコ柄、ネコの形の靴もあります。

 

「さぁ、お前たち、お腹が空いたろう、お食べ~」ひのでやのおかみさんは優しくて力持ち。

「さぁ、お前たち、お腹が空いたろう、お食べ~」ひのでやのおかみさんは優しくて力持ち。

 

本屋の棚に並ぶ本は、オールネコのタイトル。これなら、読書も楽しいね~

本屋の棚に並ぶ本は、オールネコのタイトル。これなら、読書も楽しいね~

 

タバコ片手に、ため息をつくマダムを慰める、額の中のネコも、タバコくわえているんだよ~

タバコ片手に、ため息をつくマダムを慰める、額の中のネコも、タバコくわえているんだよ~

 

宍戸監督、則子さん、会場で出会った動物愛護家の方々と、久世さんに会えてハッピーデー♪

宍戸監督、則子さん、会場で出会った動物愛護家の方々と、久世さんに会えてハッピーデー♪

 

私は、向かって右の、カエルにも見えるグリーン・グレーのミニフレームをゲット!

私は、向かって右の、カエルにも見えるグリーン・グレーのミニフレームをゲット!

 

 

 

【 人生の交差点 】

帰りの新幹線の中で、「来れて良かった」としみじみ思いました。《あの日の笑顔》があるから、生きていけることを、若い時は解りませんでした。明日笑顔になれないのなら、生きていても仕方がないように不遜に構えていました。
Mさんの旦那さんが奥さんの車椅子を押して、里親探しの会場に何度か来て、いつも募金してくれて…先住の『慶六』ちゃんのことも気遣い、2人で考えて話し合って…ずっと貰い手が決まらなかった、ハリガネみたいに痩せて、バリ島土産のネコみたいに可愛くなかった『バリ』を迎えてくれた日は、旦那さんも、Mさんも、私も、バリも…みんなみんな笑顔でした。去年の秋のことです。寒くなって来た頃に、病気が見つかったと聞き、入退院を繰り返す生活になり、自宅に帰って来ていた時に2回お会いしました。会う度にげっそり痩せていましたが、「早期退職をして、やりたいことをするんだ~」とおっしゃっていました。私の父親も56歳の若さで亡くなる前に、同じことを言っていました。

予定通り、週明けに、私はMさんのお宅を訪ねました。東京で見つけた贈り物の他に、前にお土産に持参して旦那さんに喜ばれた生ウニと、食欲が落ちてからも「これなら食べられるといただきましたよ~」と聞いた、イチゴも持参しました。お二人はクリスチャンなので、仏壇のようにお線香はありません。バラの花に囲まれた遺影の前で、これまでとこれからを話すことが、供養なのだと感じました。「仏壇の提灯のような明かりがないから、部屋の照明を消すと真っ暗になるのが嫌で、夜はずっと点けていたの。これは、ちょうどぴったりだわ~」と、Mさんは猫のランプを喜んでくれました。バラの隣に、「本当はこれを食べさせたかった!」殻付きの生ウニと、大粒のイチゴを並べて、カエルのケロちゃん、コロちゃんも置いたら、Mさんが笑顔になりました。『ピッピ』になったバリも、はしゃいでいました。旦那さんの愛猫の慶六ちゃんも、初めて間近で会えました。

生まれつきの障害を持ち、施設で生活していたMさんと、職員として入ってきた彼が恋をして、若い2人は結婚することを決めたそうです。思いやりが深く真摯で、仕事にもひたむきに取り組んで社会貢献してきた彼なのに…容赦なく命は奪われてしまいました。津波で亡くなった、私達の仲間、五井美沙さんも然りです。
子供の頃は、善行を積めば幸せになれると教えられましたが、人生最初の挫折は小学校2年生の時に、その理屈では、戦争で罪もない人々が犠牲になる現実を説明できない、と気づいた時でした。自分の意志でコントロールしきれない命に対して、残し伝えることができるのがその人の生き方なのだと、私は小学校の図書室で学びました。宮沢賢治、リンカーン、ガンジー、小説の中の登場人物からも…教えられたことは、今も心の奥底に根を張っています。学校で一番本を借りた文学少女でしたが、中学生になって、頭の中で納得しても社会は何も変わないと感じると、興味は実践に移っていきました。大学は心理学科でしたが、学校で教わったことなど何の役にも立たなくて、《人の心》は、アニマルクラブの活動で翻弄されながら、今も学び続けています。
長さも、どこをどう通っていくかも…なかなか選べない人生だから、途中の出会いがあるかないかは、大きな分岐点になると思います。別な誰かの人生との交差点で…荷物を持ってもらったり、火に当たらせてもらったり、水を飲ませてあげたり背中を押してあげたりしてきました。一服の絵のように心に残る時間を共有すると、《希望》というランプが心に灯ります。希望は、困難の先にあるものを照らし出してくれます。

会えぬまま、私がお二人を案じていた時、旦那さんが先立った後のMさんを想うと、まるで貝殻を耳に当てたみたいに、記憶の彼方から聞こえてきた中島みゆきの『雪』のCDを送る約束をして、別れてきました。もう一つの約束…「この次はピッピの爪も切ろうね」~これは、洗濯ネットが必要そうでした。
帰りの車の中で、ラジオがクマが人を襲うから射殺するニュースを伝えていました。山に食べる物が乏しいのか…野良猫の餌場にも、タヌキやハクビシンなどの野生動物が来て、野良猫が追われたり、カイセンをうつされた話を聞きました。避妊予防センターにも、「キツネに襲われたのかもしれない子猫」が首をぐるりと、肩から前足まで、大きな傷を負って、連れて来られました。生態系の変容は、自分達が被害を受けたから『排除』する、という策だけでは、解決には届かないでしょう。《難民を受け入れない自国の安全策》みたいです。
アニマルクラブの風呂場や避妊予防センター待合室にも、また新しい難民が流れて着きました。「助けたいんです」と言ってた人が投げ出した野良の子猫達が…恐怖におののいて威嚇しまくっています。
一寸先は闇だけれど、明けていく夜と朝焼けと白い空がステンドグラスみたいに綺麗です。七夕の夜空のような希望を散りばめて、《捨て猫シーズン》を乗り切らねば…。次はあまり間を空けずに報告したいです。お礼状の発送も遅れっぱなしですが…ご支援に、心から感謝いたします。

2016年7月4日

 

去年の夏、畑に埋められた生ゴミを食べていたピッピ。これからは、真智子さんのナイトになるんだよ。

去年の夏、畑に埋められた生ゴミを食べていたピッピ。これからは、真智子さんのナイトになるんだよ。

 

 

野生動物に襲われたのか…子猫は首をぐるり、肩から前足まで大きな傷を負っていました。

野生動物に襲われたのか…子猫は首をぐるり、肩から前足まで大きな傷を負っていました。

 

 

3週間後、全快して、保護してくれた方のお宅に、迎えられることになりました。「シロ、良かったね~」

3週間後、全快して、保護してくれた方のお宅に、迎えられることになりました。「シロ、良かったね~」