『一寸先は闇だから…』

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【 パンデミック襲来 】

 

ご無沙汰しました。2月、4月と書けたから、「次は6月かな~ あれもこれもと沢山書かないで、その時のニュースや感慨をそのまま書けば、案外早くできるよ」なんて楽観していたら…活動報告どころか、満足に食事もできない惨劇が待っていました。

感染性胃腸炎とは、《お腹の風邪》のことです。人間でも、これは非常に感染力が強いです。四半世紀前の私の夫は内科医でしたが、結婚して最初の2年、お腹の風邪の流行時期になると、自宅に居る私が感染しました。突然の激しい嘔吐と下痢に襲われ、とんでもない難病になったのかと、うろたえました。診察室に入ったこともなかったけれど、脱いだ白衣を片付けた~その程度の接触です。3回ひどい目に遭い、あとは免疫ができたようでしたが、程なく…アニマルクラブの活動を二の次にはできない私は、猫と犬を引き連れ《離婚》の道標に進みました。
それから10年余経って、震災後に遠方から来てくれたボランティアさんにせがまれて、地震直後に大勢の市民が駆け上がって命拾いした日和山の神社に何十年ぶりに初詣に行った時も、3日後に2人ともすっかり同じように吐いて下痢して苦しみ出しました。人混みの中を並んで、お参りした時に感染したようです。「何回でもかかるんだ~」とショックでしたが、猫も全く同じなのです。

パルボ並みの感染力で、ワクチンがない分、防ぎようがなく、厄介です。私は毎日20回以上手を洗っていますが、そんなことでは歯が立たない~年に何度か流行します。今年は、その流行が6月末にやって来ました。湿度と温度も上がって、それだけでも疲労感が増すのに、心身に課される重荷~木曜日の不妊予防センター開院日だけでは足らず、看護士のボランティアさんを連日呼び出して、注射を準備してもらいました。
だいたい4日位で治まりますが、人間同様、中には重症化する子もいれば、ぶり返す子もいます。圧倒されるのは、患者の数で、「昨日はあの部屋」「今日はこの部屋」「自宅もやられた」「え~ボランティアさんの家でも発症?」と、毎日10匹以上に注射して回りました。
さらに、吐いて下痢するという症状は、あちこちが感染物で汚れるということですから、掃除や洗い物も引っ切りなしで、仕事が山積みになっていくのです。

7月の深夜、「何か食べなきゃ」と思い立ち、1週間に一度注文して焼いてもらっているパンを目の前にしたのですが…睡魔の方が強くてコックリコックリ…たまにガクンと目覚めて、大好きなメロンパンの格子をちぎって口に入れるのですが…次に目覚めてもパンは少しも減っていなくて、むしろ氷山みたいに立ちはだかっていました。
1日がどこで始まってどこで終わるのかがわからない日々でした。のべ60匹位~全体の3分の2に感染した、アニマルクラブ史上最悪のパンデミックの襲来でした。
この時季は、子猫が集まってくるシーズンでもあります。「子猫には絶対うつさない!」誓いを立てて、服も着替えて死守しました。

 

~白血病部屋スケッチ~

 

《シンバ》女川港から来た、エイズ・白血病ダブルキャリアの少年。この子は残して見守ろうと当初から決めていましたが…まさか6匹も残留することになるとは…

 

新入りで定員オーバーとなり、押入を空けて改造。上段をくろつぎスペース(食事時は個室)に、下段はトイレスペースに。

 

《ミケン》震災2年後に、仮設住宅で可愛がられていた野良猫が去勢に来たら、白血病キャリアと判り、誰も引き取りません。以来10年以上、ミケンは立派な体格になって生き抜いています。みんな、ミケンに続け~!

 

《ローリー》唯一キャリアでない猫。元々はこの部屋にはキャリアと白血病ワクチンを受けている猫が同居していたのですが、今回の増員対策で、キャリアでない子達は他の部屋に移しました。ところが、一昨年保護したキャリアの子猫3匹を我が子のように可愛がっていた、《子煩悩パパ》ローリーは必死になって戻ろうとして、子猫も鳴き続けて収拾がつかず、戻しました。改めて血液検査しましたが、ローリーは陰性。やっぱりワクチンってすごいね!

 

 

《ポンコ》昨年の初夏、去勢に連れて来られた野良猫。エイズ・白血病ダブルキャリアでひどい貧血、黄疸も出ていました。「手術は無理、命も長くない」と宣告されると、連れて来た人も引いてしまいました。長くないならここで看取ろうと思ったのですが…居心地良く余生を送ってもらうつもりが、復活!血液検査もすっかり改善して、今春去勢手術も受けて、気ままに暮らしています。

 

前から居た子も、新しく入って来た子も、気が合えば新しいグループが形成されます。

 


 

【 《脱あかんやつ》作戦 】

 

1カ月余経って収束した頃、私は痩せて服がブカブカになっていたようで、ケージが立て込んでめっきり狭くなった各部屋で、度々袖や裾や首根っこを何かに引っ掛けて、《囚われの身》みたいな有様になりました。味もわからなくなって、びっくりしました。『家庭の医学』を開いて、亜鉛のサプリを買いに行きました。そんな時、震災直後からずっと応援してくれている、同い年の大阪のおっちゃんから「阿部さん、元気ですか?」とメールが来たので、「忙しくてパンとヨーグルトばかり食べていたら、味覚がなくなって亜鉛のサプリを飲んでました」と答えたら、「あかんやつ」と、にべも無い一言。

そうなんです、《あかんやつ》は、今始まったことではないのです。前出の5年で離婚した夫も、優しい頃は「お前は付いてて食べさせないとダメだな」と言っていました。店のお客さん達もよく美味しい食事をご馳走してくれました。もはや、そんなことを言ったり、やってくれる男性は現れないのだから、《脱あかんやつ》は、自身の課題です。8月からは自炊生活やっています。
震災前夜までは私はスナックのママでしたから、料理が苦手なわけではないのです。あの当時は、「安い材料費でどれだけバリエーション豊かに作れるか」が日々の課題で、翌日は残り物を自分のごはんにして、食費を浮かせて、お金を貯めていました。隣の店のママが70歳近くで、商店街のご隠居さんや、会長職のお爺ちゃま方の憩いのサロンだったから、自分もお得意さんとの縁をそんな風に繋いでいきたいと願っていました。震災で失われて還らないのは、命や住まいだけでなく、未来や夢や心のよりどころです。

現実的にはお金を稼げなくなったことが、選択肢をぐっと狭めました。生きる姿勢が《守り》と《抑え》になってしまうと、つまらないものです。震災後10年以上経って、昨年末にようやく念願だった「次に津波や洪水が起きた時に備えて、1階には猫を置かない」小さな家を建てました。

やるべきことはもう一つあります。私の持ち家は、アニマルクラブ本館と不妊予防センターになっているので、震災後は近くの借家に住んでいます。古いけれど広いので、アニマルクラブに置いておけない老猫や病気持ちや障害のある子など、手のかかる猫達の《養老ホスピス》みたいな状況です。
春に女川港の野良猫の避妊・去勢に乗り出した若い女性に、馴れている若い猫達には里親を探すことを勧めたのですが…土壇場で彼女が保護は無理だと言い出したので、生後半年余の子猫6匹は港に返さずにアニマルクラブに置きました。子猫達は手術した日の血液検査では陰性反応でしたが、港の雄の成猫が殆ど白血病キャリアだったことを考慮して、1カ月後に再検査しましたところ…5匹が陽性に転じていました。みんな妊娠していたから、交尾でうつされてしまったのでしょう。里親は探せないけれど、今さら港にも帰せず、ホスピスの《白血病部屋》は、総勢12匹になってしまいました。押入を改造して増築しました。『為せば成る為さねば成らぬ』とは言いますが…為したがために労苦は積まれていきます。自宅は30匹の大所帯になりましたが…たまに羽アリを見かけるような古家ですから、崩れる前には引っ越さなくてはないのです。
昨年末に実家の庭を潰して建てた猫ハウスと、これまで亡くなった子達のお骨を埋めたお墓を作って、貯金通帳もすきま風です。次は、どここから捻出しよう?大学を卒業した翌年に最初の見合い結婚をしながら、20代で最初の離婚もした私は、1人で子育てする生活が長かったから、生命保険はしっかり掛けていました。子供達も成人して自立したので、弁護士さんに相談して、私が死んだら動物達のために使えるように遺言書を書くつもりでしたが、そこまで待ってもいられず、「満期が来るので解約してそれを資金に充てよう、あとは…」と算段しています。

振り返れば、お金のやりくりが頭から離れることのない活動でしたが、それでも長年続けることができたのは、その時々に、あるいはずっと応援してくれた方々がいたおかげさまです。私は最近年老いてきて、足腰の不調も抱えたから、日々やらなければならないことで手一杯になって、ますますお礼状など書けなくなってしまいました。この場でお詫びできる方がいれば、感謝とご無礼をお伝えしたいです。

 

~野良猫ブブの最後の3カ月~

 

ボランティアのあゆみちゃんが、仕事で出向いた施設の敷地で見つけた猫。「交通事故に遭って顔ぶつけたのか…鼻から下がえぐれているんです、診てもらいたいので、捕獲器貸してください」と来て、捕まってきた日。みんな外傷だと想っていました。

 

獣医さんの診断は『扁平上皮癌』。悪性腫瘍で、もう長くないと言われました。でも、れんちゃん親子と同じ部屋に置かれたブブは、落ち着いた様子で、子猫達を見守っていました。雨風も、追う人もいない環境に、安堵したかもしれません。

 

 

小康状態が2カ月続きましたが、予告通りその後は食べられなくなってきました。「もう何も食べなくなった」と聞いたので、その態勢のままで舐めやすい皿を探して、ピュアスープを入れて、皿を手で持って与えたら舐めました。皮下補液もさせたので、注射もすんなり入れることができました。生まれて初めて人の手の中で、食べ物や薬を施された、最後の1週間。

 

 

満ち足りたような表情のまま逝ってくれたことが、救いでした。ブブのような野良猫が、人知れず苦しんで誰からも助けられずに死んでいっている現実を、どうか忘れないでください。

 


 

【 幸多のその後 】

 

『幸多のリハビリ日記』も、パンデミックで停止したままです。気に掛けてくださっている方々もいらっしゃるようで、恐縮です。
5月にアニマルクラブに届いたメールは、若い女性からの「飼い犬に里親を探して欲しい」という相談でしたが…その文章の辻褄の合わない不自然さに、胸騒ぎがしてきました。

「仕事の繁忙期で犬に関わる時間が減ってしまい、餌を与え忘れてしまうことがあった」、「余裕がなくケージに入れたままの状態が続いてしまった」。
「繁忙期が終わりふと気づいた時に犬は立てなくなっていました。ガリガリになり諦めたような表情を見てなんてことをしてしまったんだと思いました。それが1週間前です」。
犬の世話もできないくらい仕事が忙しかったのに、「ミスが続いてしまい減給され病院に連れて行けません。このまま、飼っていくことは出来ない、本当に申し訳ないことをしていると思います」。
私は大学で心理学を専攻しましたが、本当に学んだのはアニマルクラブの活動を通してだと実感しています。このケースは緊急SOSだと直感しました。翌々日が不妊予防センターの開院日だったので、「無料で診てあげるから連れて来れますか?」と聞くと、「はい、ありがとうございます」と返事が来て、その後も何度か場所や持ち物の確認や「体にウンチがこびり付いて取れなくても良いですか?」とメールをよこしながら…約束の日時に現れません。

胸騒ぎが喉まで上がって来たところに、ボランティアの有田さんが、保護猫のワクチンにやって来ました。事情を話し、帰り道に行ってもらうことにしました。こんなこともあるんじゃないかと想定して、住所も聞き出しておいたのです。Googleマップで見たら、立派なお家でした。有田さんが訪ねると、応対したおばあちゃんは、犬のことなんて知らないようだったとか。そこに、相談者が帰宅して、「自分の具合が悪くて、病院に行ってきた」と答えたそうです。「それなら無理しないで。私が連れて行きます」と有田さんが気を効かせて、犬だけ連れて来てくれました。

愕然としました。雄の柴犬なのに、体重が4キロまで落ちて、あばら骨が浮き出て、爪は魔女みたいに伸びて、下半身は下痢便がこびり付いて悪臭を放ち、立つこともできません。ここまでになるには、かなりの時間が経過していると想われますが、彼女はその犬を「2019.3.25生まれ チーズおやつと芝生が大好きな4歳柴犬」と紹介、ドッグランで遊んでいた頃の元気いっぱいの写真が添付されていました。
彼女の《私時計》は、もはや時を刻まず、思い出のアラームを鳴らすだけなのかもしれません。他人に伝えた《言葉》も、自らの安定剤に過ぎないのかもしれません。ネグレクトの加害者に罪の意識がなく、ただあまりにも無知でぼんやりしていて、一つ屋根の下に住んでいる家族も気づこうとはしないコミュニケーションの欠如は、現代人の心の闇を具現しているように思えました。

様々な血液検査をしました。獣医師からは、末期癌とか致命的な病名が告げられると思い込んでいましたが…診断は「重度の飢餓状態」でした。
しばらくは毎日皮下点滴で薬を入れて、子犬用の消化器サポートの療法食をごくわずかずつ与えて、胃腸の回復を見るように言われました。血便や下痢が治まってきて、1週間後の健診で、先生からも「体重も順調に増えて、血液検査も問題ないから、食べる量も内容も増やして良いよ」と言われ、私達もホッとしました。動けない状態から2、3日経って、食べ物を見ると顔を上げて目を輝かせるようになって、もっと食べたくて仕方がないのに、わずかで打ち切るのは、とても忍びなかったからです。ただ撫でて、声を掛けてやるしかできませんでしたこれまで苦労した分、これからは沢山の幸せを味わえるように『幸多(こうた)』と名づけました。

幸多はケージの中でお漏らしして、体が濡れてもケロッとしています。その環境を強いられてきたからです。汚れたペットシーツを取り替えるためには、幸多をシーツごと引き寄せて、抱き上げねばなりません。初めは弱っていたから、されるがままでしたが、食べるようになると、みるみる体重も2キロ近く増えました。そして、体力がついてきたら、ググッと唸ったり、私達の手に噛み付く素振りを見せるようになりました。
そもそも、しつけをちゃんとしていなかったから、持て余して閉じ込めてしまったのかもしれません。
き然とした声で「いけない」と言って、しわを寄せて威嚇する鼻づらを左手でつかんで、やがて落ち着いてきたら右手で体を撫でながら、「お利口さんだね~」と誉めました。
排尿や排便を済ませて、ケージに戻す前には、体を撫でながら仰向けにして、膝の上に抱き上げて、しばし左手で鼻づらをつかみ、右手で両前足をつかんで、動けないようにして、服従を教える《拘束静止》を試みました。やんちゃが過ぎる子犬の鼻づらを母犬が大きく開けた口の中に入れ、前足で押さえつけて動けなくするのを真似たトレーニングです。少しずつ、ひとつずつ…身につけるべきだった落としてきた物を拾い集めていく学習が必要でした。

そして、半月が経ちました。幸多を出して、ケージ内の掃除をしていたら…私の背を寄りかかりながら動こうとしています。次の瞬間、振り向くと、「おっ、立ってる~」。3歩歩んで倒れた翌日には、スタスタと歩き回って、やって来たボランティアさんを驚かせ、涙ぐませる急展開となりました。
そして数日後、どれぐらい久しぶりなのか…外の空気を吸いました。お散歩デビューは、最初、ちょっと足がすくんでしまう場面もありましたが、風の匂いや太陽の眩しさ、木々の囁きや小鳥のさえずり…いつか身を置いた幸せな景色に、幸多は再び還ることができました。脆弱な足で大地を踏みしめ、未来へ歩み出したのです。

お伝えできたのは、ここまででしたね。ドキュメンタリーなので、きれいごとでチャンチャンとはなりません。

この後、力を付けた幸多の《積み木崩し》が始まったのです。これから里親探しをしていくのだから、誰の言うことも聞くようにと、昼と夕方の散歩は、ボランティアさんにお願いしてからのことです。
アニマルクラブのメンバーは、動物に優しく懸命に尽くすタイプが殆どです。ある時、散歩から帰ってケージに入れるのに、言うことを聞かない幸多を、ボランティアさんが2人がかりでおやつで釣って誘導している場面に出くわしました。幸多はボランティアさんの手からジャーキーを奪い取り、もっとよこせと威嚇していました。ボランティアさんは「ごめんね」なんてなだめています。
「犬に謝ってはダメだよ~」と私が入って行くと、私にまで鼻にしわを寄せて、空威張りしました。このままにしておいては、《噛み犬》になります。話を聞くと、すでに何人か噛まれているそうです。ネグレクトの被害者は、DVの加害者になっていました。殴られても「私が悪かったのかもしれない」なんて庇う、心優しき女性の側に置いておくとDVはエスカレートすると判断。昨年末に実家の敷地に建てた猫ハウスの玄関を開けてすぐの土間にケージを移動して、優しい人達は《出禁》にして、私だけが日に3回散歩に行きました。

私は、人間の子供と犬には「ダメなことは絶対にダメ」を貫きます。今や40歳近く、身長も185センチ近くに大きくなって、2人の子を持つ息子も、保育園の頃はよく、当時のNHK『お母さんと一緒』のキャラクターになぞらえて、叱られる度に「ママは頑張り屋のガンガンだけど、おいは嫌だ嫌だのヤダモンで、怖がりのブルルだからできないも~ん」と、しゃくり上げていました。私が反面教師になったのか、子煩悩なマイホームパパになりました。
女の子はもっと反発するから、娘は中学生になると毎年夏祭りで酎ハイを飲んで補導されて、警察に迎えに行くと「お母さんが厳しすぎるからだよ~」と泣きじゃくっていました。よほど酒好きなのか、文系コースから農大の醸造科に進んで杜氏にでもなるのかと思いきや、3年生になると「学校に来ていない」と連絡が来て、「今何やってるの?」と電話したら「銀座のクラブでホステスしながら、進路変更考えてる」と言って、翌年、文学部のある大学に編入しました。
学費は別れた父親持ちで私に被害はないので、成人した子には何の口出しもしません。小学生の頃、アフガニスタンの医療と灌漑用水路工事に貢献して4年前に凶弾に倒れた中村哲さんの講演会に連れて行ったことがありました。帰り道、仙台駅ビルのカフェでパフェを食べながら「偉いと思うけれど、私はあんな風にはなれない。自分の人生は自分のために使う」と言った娘は、東京の企業に勤め、予告通りの生活をしています。厳しくしつけたって、いずれは好きなように生きるのだから、手元に居るうちが肝心だと思います。

幸多の隔離生活が3週間ほど過ぎた頃には、新居のパンデミックは治まったので、1階のメモリアルルーム(これまでに亡くなった猫や犬の写真を飾って祭壇を置いている部屋)に避難させていた子猫達を2階に上げて、幸多をそこに移しました。土間の窓を全開にして24時間扇風機は回していましたが、今年の暑さは尋常じゃないから、エアコンがある部屋に入れて、ホッとしました。
そこから1週間ほど経過してから、昼の散歩は他の人にしてもらって、態度が変わらないか?を見てもらうことにしました。皆は口々に「すごくお利口さんになった~」と感激していましたが、採点するなら、65点というところです。ギリギリ合格ですが…未だにごはんを運んで行けば狂ったように騒ぐし、優しい人達から漂う甘い香りに《おバカモード》にスイッチが入りそうになることがあります。なので、もうしばらく修行は続きます。幸多の里親は、犬のリーダーになれる人が条件です。ふさわしい方からのお申し出があれば幸いです。

 

有田さんが連れて来てくれた日。まさに骨と皮ばかり…あばらが浮き出て、下痢便がこびり付いた足には褥瘡があり、魔女の爪みたいに長く曲がり…抵抗する力もなく、されるがままになっていました。

 

 

だんだん力を付けてくると、執着や威嚇が出てきたので、服従を教えるトレーニングを行いましたが、幸多は私以外の人には、自分が優位に立とうとしました。

 

約束の日時に来ないので、メールや留守電で催促すると、飼い主は「来週に延期して」と返信してきました。1週間遅れていたら、幸多は日の光を浴びて風に匂いを嗅ぎながら、緑の草を踏みしめることもなく、干からびたゴミになっていたかもしれません。

 

 

今はエアコン完備の部屋で、《おすわり》だって《待て》だってできますが…ひとたびごはんの気配がすると、狂ったように興奮します。

 

 

長期間の飢餓の体験が、どれだけ幸多の心や頭を傷つけたのか想像すると、誰にでも生き物を売り渡す生体販売への規制も痛切に感じます。

 


 

【 イオンタウンでリベンジ 】

 

1月に市長を訪ね、動物愛護の推進を請願して色よいお返事をいただきながら、2月に1時間と限定されて、市役所と保健所職員との顔合わせをしたきり、音沙汰ありません。推進する気はないのだと思います。
なので、昨年駐車場で交通事故に遭い、保健所に引き取りを拒否され、社員の方がアニマルクラブに連れて来た、野良の子猫『ハナクロ』で繫がったイオンモールで、企画展を開催することにしました。動物病院に運んで集中治療室で手当てを受けましたが、翌日亡くなったハナクロの事例を教訓にして、アニマルクラブが毎年イオンモールからいただいている黄色いレシートキャンペーンの収益金を、動物救済基金に充てることにして、イオン側も使用期限を1年間に延長するご配慮をしてくださいました。
実際、市民の多くは市役所よりイオンモールに頻繁に足を運んでいるのだから、まさにイオンタウンなのです。11月6(月)~12(日)の開催で、2階の《催事スペースC》でパネル展をやります。最終日は、1階の《海の広場》にて、弁護士さんや獣医さんにおいでいただいて、相談コーナーを開設します。動物問題に関心があり尽力している県議や市議にも来てもらい、地域猫活動や保護猫活動を実践している市民と、行政への要望や提案を話し合う場にもしたいと思っています。

近年、飼い主の老人が亡くなったり施設に入って残されたペットの相談がとても多いです。飼い主が認知症になってしまうと、財産があったとしても、ペットのために使って欲しいという意思表示もできません。
単身世帯も多いし、老夫婦だけの世帯も多いのだから、自分がしっかりしているうちに準備しておかないと、間に合わないのです。買い物がてらタウンに行って、弁護士さんに気軽に遺言書の書き方を教わることができたら良いなぁ~と企画しました。仙台でパネル展をする時に共催する動物問題を考える女性弁護士グループ『ハーモニー』の方々が来てくれます。
「野良猫が可哀想でエサを与えているけれど、このままにしていたら増えてしまうので避妊手術したいけれど、触れないから動物病院に連れて行けない」なんて悩んでいる人には、私が捕獲器を使って手術を受ける方法をアドバイス、実践の協力をします。
イオンモールにあるワイワイペットクリニックは、15年前、アニマルクラブが始めた不妊予防センターに、獣医師や看護士を派遣してくれた動物病院で、震災の津波被害を受けた不妊予防センターは、ワイワイペットの第2診察室を間借りして、あの年の5月から再開し、2年余お世話になったので、被災動物の治療に貢献することもできました。相談会も協力してくれます。
タイムスケジュールがはっきりし次第、告知していきますので、誘い合わせておいで下さい。イオンタウンが今後も《動物との共存できる街構想》の舞台となるように、活気ある、未来へ続く企画となるように、応援・参加をよろしくお願いします。

 

11月のイベントに向けて、新しいポスターも製作中です。『老人が残していくペットの命をいかにして守るか?』がテーマです。

 

市内の集合住宅で、現在チェックされるのは種類と頭数のみ。避妊・去勢手術をしているか?していなければ協力して実施するシステムを作り、住民が助け合うスタイルで進める必要があると思います。

 


 

【 終活のスタート 】

 

「生まれる前から育てた」気がしていた『チョビ』が、8月27日に亡くなりました。15歳でした。
半年位前から認知症で異常にガツガツして、ゴミやトイレのウンチまで食べるようになってしまったのに、どんどん痩せ細って補液の針を刺す場所を見つけるのが大変でした。
最近は大嫌いだった掃除機の音にも反応しなくなり、徘徊もしなくなっていたので、そろそろかなぁ…と感じてはいたのですが、前日の夜ごはんまでは完食でした。27日の朝、トイレに入ったまま動けなくなっていたので、ベットごと私が居る部屋のテーブルの上に運んで、様子を見ていました。午前中はまだ名前を呼ぶと反応したのですが、午後からは昏睡状態になりました。2時に出発して富谷市までお見合いがあったので、一緒に行ってもらう森さんにメールして、2時に自宅に寄ってもらって、チョビをベットごと乗せていくことにしました。チョビは、2時5分前に息を引き取りました。

仙台市のアパート住まいの女子大生がゴミ置き場で見つけた、コンビニ袋に入れて捨てられていた新生児4匹。「一晩保護したけれど、翌朝管理人が来て、動物管理センターに渡されてしまった」と、泣きながら電話をよこした女の子に、「管理センターに取り戻しに行くこと。明後日仙台に行く用があるから、それまでミルクを飲ませて面倒を見るように」伝えました。彼女は市内の実家に帰って、子猫の面倒を見て、私は2日後に娘と山崎まさよしコンサートに行った帰り道に彼女と待ち合わせて、子猫の兄妹を引き受けました。
これまでに見たことのない小さな赤ん坊でした。次の日、ワイワイペットクリニックに連れて行くと、チョビの体重は75グラム。兄弟も80~90グラム。院長先生には「未熟児だから、育たないよ」と言われ、2匹は数日で亡くなりました。『チョビ』と『オコジョ』の姉妹は、ミルクもごくわずかしか飲めないので、居眠りしながら1日中飲ませていました。「ちょびっとずつで良いから大きくなぁれ」の願いを込めて、命名しました。体はなかなか大きくならず、頭と目の大きさばかり目立つ宇宙人みたいな姉妹でしたが、育っていることを知った院長先生からは「そりゃーすごい、あなたが生んだようなものですね」と誉められました。1歳近くなって、ようやく普通の子猫のようになって、白くて美人なオコジョは、とても良い里親さんに恵まれて、『ナナ』ちゃんになりましたが、1年後にガンを発症。手を尽くしてもらいましたが、闘病の末に亡くなりました。

チョビにも一度里親の話があり、トライアルに行きましたが、泣き叫んで、糞尿を巻き散らかして、一晩で帰って来ました。以来10年以上アニマルクラブの大部屋で過ごしましたが、チョビは私を親だと思っていたようで、部屋に入っていくと、寄ってきてはピタッとくっつくので、高齢になったら、自宅に連れて行って、最後の年月は一緒に暮らそう、と心に決めていました。
自宅に連れて来て2年余…呆けてきてからもチョビは、抱っこしている間は落ち着いてじっとしていました。晩年を一緒に暮らせて、苦しむことのない穏やかな最期で幸いでしたが…まだ母親の胎内にいる大きさだったチョビを育て、他の猫の嘔吐物や糞を食べようとするまで呆け、体重も1.2キロに落ち、静かに鼓動が止まるまで見届けたことで…私は、動物達のために思いつく限りのことを、身も心も駆使してやってきた季節の終わりを告げられた気がしました。もうあんな体力も精神力も夢もなく、あるのは責任感と、不安ばかりです。

チョビ達を保護した当時、私は子宮粘膜下筋腫の手術を勧められていました。年配の婦長さんが「私の長い看護婦人生の中でも、阿部さんは3本の指に入る出血だから、手術してよ~」と心配してくれたのに、入院したら動物達の世話をする人がいなくなると思って、大した痛みがないことを幸いにそのままにしていました。ひどい貧血で、年中顔色が悪かったです。店から帰った夜中にチョビにミルクを飲ませていた時のことです。すうーっと倒れて、目が覚めるとドラマの流産のシーンみたいに床に血が流れていたので、ぼぉーっとした頭で、自分がチョビを産んだような錯覚にとらわれました。怖い物知らずでした。

しかし、今は自分の老いに脅えています。昨日珍しく長い時間腰掛けて活動報告を書いたせいなのか…夜になったら股関節が痛み、太腿が板みたいに固くなって、歩こうとすると左肩がいきなり下がって、ひどいビッコを引きながら、猫達のごはん作りとトイレ掃除をしました。一昨年、不妊予防センターに猫を連れて来ていたおばちゃんの歩き方にそっくりでした。「猫が十数匹いるから入院できない」と言うので、ボランティアが通って留守宅の猫の世話をして、おばちゃんには人工股関節を入れる手術を受けてもらいました。私も手術が必要になってきたのかもしれません。昨夜は痛み止めを飲んで、夜中の2時にやっと、幸多の散歩に行きました。
どうやれば自分を保たせて、まだやり残していることを、どこへ、どんな形でつないで行くのか?それが、これからのテーマです。アニマルクラブに残る子達全員を看取るまでは、人手も費用も必要です。50年歩んできたこれまでを礎に、動物達が救われる橋を架けていくために、どうか今しばらくのご支援をよろしくお願いいたします。

 

ミルク5ミリ飲ませるのに30分以上かかり、排便もいちいち促して出して…まさに手塩にかけて育てた『チョビ』。

 

 

2歳位になって、ようやく普通の猫らしくなりました。親としては鼻の高い~美人娘に成長しました。

 

亡くなる2日前のチョビ。認知症になってからは、部屋中徘徊して何でも食べようとしていたのに…ほとんど動かなくなったから、別れが近いと感じました。

 

 

子猫のお見合いに行く車に同乗させて、最期も腕の中で…と、準備をしていたら、約束の時間の5分前に呼吸しなくなりました。
お見合いはうまく行った帰り道、道の駅で花を買ってきました。

 

 

森さんが花を飾っていると、仲良しだった『チャコブー』がのぞきに来ました。しばし頭を擦り付けて別れを惜しんでいました。チャコももう14歳。飼い主夫妻が津波で亡くなって、連れて来た時は7.2キロもあった体重が半分になりましたが、相変わらず気は強いです。全員を看取らないと、活動を終えることができません。

 

 

 

2023年9月5日