~活動報告~『師走、夜明け前』

《とうとう年末になりました》

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いろんなことがありすぎて、何から書いたら良いのか思いつかないけれど…とにかく『活動報告』という文字を打ちました。活動報告が遅れるのは毎度のことで、非礼をお詫びしてから本題に入るのが常でしたが、ここまで空いてしまうと、お詫びも空々しくて、むしろ、やっと書けるところにたどり着いたことが、何だか嬉しくてホッとします。長い旅から故郷に帰り着いたような、悲喜こもごもの入院生活から解放されて自宅のドアを開けたような…安堵感に背中を包まれる感じです。
とはいえ、まだ里親が見つからない《春~夏生まれの成長した子猫達》と、「引き取ることはできません」とバリケード張ったつもりが、ズボズボ侵入して来る《訳ありの猫》も後を絶ちません。「こっち終わってないけど、あっちもやらなきゃ~、あそこにはまだ行けてない、それは忘れてた~」という《自転車操業の日々》は延々と続いているので、連続朝ドラみたいに、細切れに書いていくしかないでしょう。
完成するのは師走になりますが、「疲れた~眠い」とぼやいて座った途端に居眠りして、夢の中でも欠伸を100回していた今年を振り返って、動物たちのために私が伝えられることを、書き残していきたいと思います。

一寸先は闇です。毎日何が起きるか、予測もつきません。ホッとしたと言った途端に、猫が1匹急逝しました。いつも通りにごはんの催促をして、5分後にお皿を運んで行ったら、前のめりに寝ていたので、「アミちゃん、ごはんだよ。何寝てるの~」と、顔を上げたら、唇が紫色になって小刻みに震えていたので、ただ事でないと抱き上げたら、体がフニャフニャで…まもなく息を引き取りました。15歳近かったと思いますが、元気でした。血栓でしょうか…
捨てられて足をケガして、月夜に助けを求めて泣き叫んでいた子猫の『月子』を拾い上げて、歩き出した私の後をついて来た、母性愛の強い野良猫でした。『アミ』の後ろにくっついて来た実の息子の『流星』は昨年秋、突然泡を吹いて倒れました。声が枯れて、動けなくなった時も、アミはずっとそばに付いていました。「咽喉癌か…」と言われましたが、病名ははっきりしませんでした。脳障害が残ったようですが、流星が回復すると、アミはシルバーエイジを謳歌するように、子離れして好きなように、我が儘に過ごしていたのに…。
朝にお盆に並べたお皿の場所が、その夜ポツンと空くのは、何とも不思議で寂しいものです。そこにある幸せは永遠不変ではないから、あの日あの時の絆を生かせる所まで護り続けていくことを、日常生活の最優先に置かなければならないと思っています。

 

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病気発症前の『流星』と『アミ』ママ。オジサンになっても《超マザコン》な息子と、《ちゃっかりばあちゃん》でした。

 

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眠るように死んでいったから、誰も気づかず、いつものように仲間が添い寝していました。

 

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《捨て猫ラッシュ》

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今年の夏は、例年より多くの、捨て猫や野良が生んだ子猫の相談が相次ぎました。法律が変わって以来、テレビやネットの影響もあり、動物愛護ムードは徐々に高まって、昔のように安易に保健所に渡すことは、はばかられる風潮が広まったようです。しかし解決は自分でなくて、「動物愛護団体にお願いしよう!」と他力本願な人も多く、「そんなことできるわけがありませんよ。国や市から予算が出ているんじゃないんです。あちこちから猫や犬を引き取って、どこで誰が世話をしていくのですか?沢山の人手と莫大な費用が、ずっとかかっていくことですよ」と私が諭すと、「えっ、そうなんだぁ…そりゃあ、そうだよね~」と理解してくれた人達には協力して、里親探しをしています。夏以降は月に2~3回のペースで里親探し会もやってきているのですが、募集が多すぎるので、総数はなかなか減ってはいきません。子猫は兄弟で発見されることが多いので、「里親探しで2、3匹に候補者が現れて喜んだ翌日に、4、5匹増えた」なんてことの繰り返しでした。
そして、猫問題を引き起こしているのは、老人や生活困窮者、心の病を持つ《社会的弱者》であることが多く、この人達は感情任せの考えなしの行動の挙げ句に、泣きついたり嘘ついたり脅したりして、他人に押し付けるのがパターンです。それを助長しているのが、《被災者馴れ》のような気がします。石巻には、まだ一部被災地支援ボランティアも残っています。この人達は、相談者に敬語を使って優しく接し、反対意見を言いません。頼まれたことには言いなりになって、自分が解決できないことは、代わりに何とかしてくれそうなところに振ってきます。
まもなく復興住宅への引っ越しが決まっているお年寄りの仮設住宅に、猫が8匹いて問題になっているので、協力して欲しい」と相談がきた時のことです。石巻のはずれの仮設住宅まで出向いて、「子猫は里親を探しましょう」と説得すると、86歳のお婆さんが「あんだ、随分一生懸命だな、おらいから子猫連れて行って売ろうとしてんのか?」と私に食ってかかったのですが、ボランティアさんは、注意も説明もしません。お婆さんは「全部連れて行くんだから、いいんだよ。オレが死んでからのことまでは知らないよ」とだだをこねていましたが、「母猫はまた妊娠しているかもしれないから早く避妊して、大きな臍ヘルニアのある子猫も手術が必要ですよ」と私が言うと、今度は「それなら、手術してからまた連れてきて~」と言い出しました。費用は払う気もありませんが、ボランティアさんは、その時も何の助言もしてくれませんでした。自分の管轄ではないという認識で、『その人のこれからの生活や人生を見据えて、連携して援助していく』というスタンスからはほど遠い姿勢に感じ、「いったい何のためにこういうことをしているのか?」が不可解でした。それでもまだ2匹残して行くので、「引越して片付けが済んだら、あとの2匹を去勢手術に連れて来てくださいね」とボランティアさんに頼んで、私は母子6匹を連れて来ました。
それきり連絡が来なかったので、後日、去勢手術の予約を入れようとその方に電話をすると、「お婆さんが復興住宅に引っ越してまもなく、2匹共逃走してしまったそうなんです」と言うのです。誰も宛にはならないと判断して、母猫と子猫5匹はこちらで里親を探すことにしました。母猫と子猫3匹には里親が決まったのですが、一度里親さん宅に行ったオスの子猫2匹が出戻り、先日去勢手術も済ませました。『めろりん』と『パロディ』、健康で明るく順応性もありますが…大きくなり過ぎて、里親探し会場でももう声がかかりません。

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夏に向かって『かき氷兄弟』として売り出したが、『メロン』と『ハロハロ』は出戻り。心機一転を願って、傷を癒やすパッド『メロリン』と、どっかで見た顔だから『パロディ』に改名しました。

 

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『ちゃこブー』と『ミケン』が親代わりになって、子育て中。猫嫌いのちゃこブーでしたが、《世話焼きママ》に変身です。

 

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《誰がために道を拓くのか?》

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取り組みが曖昧なのは、行政も変わりないと感じています。「虐待被害にあったお婆さんが施設に入り、加害者の同居人は退去させられたが、家の外で飼われている犬を助けたい」という、市役所職員からの相談に協力した時のことです。彼女は献身的に犬の世話に通い、臆病な犬を馴らしていきましたが、その過程で、「虐待といっても暴力ではない。お婆さんの家に入り込んで、お婆さんの財産を使った男は、経済的虐待をした。お婆さんと男がここで飼っていたのは犬だけでなく、猫も親子で10匹位いたそうだが、男がこの近くの借家に引っ越して連れて行ったそうだ」ということを聞きました。
彼女が自分で犬の里親も見つけてきたので、「次は猫達の避妊・去勢をしないと…」と提案したら、意外にも「自分は犬のことで精一杯やった。職務でやったことではないのだから、虐待するような男と接触して、何かあったら困る。もう関わらないでください」と断られました。
自分を守るため線引きする必要がある場合もありますが、どこで線を引くかはその人の度量と客観性にかかっています。個人のキャパを超えたことと、問題の解明・解決は、別の話です。要は「誰のために考え、動くのか?」です。良いことをして、「職務でないことをしたから、知られたら困る」と言うのでは、日本の役所は、やるべきことをやっていないことになります。現場に居合わせ、不備に気づいた職員が、なぜ提案しないのか、不可解です。
この人とは関係なく、隣人から情報を収集して、住まいを確認した私は、ひょっこりその初老の男性の借家を訪ね、「ここに子猫が居るって聞いたから、見せてもらえますか~?」と声を掛けました。戸建ての古い狭い家の中で、おじいさんは猫達と仲むつまじく暮らしていました。生活が貧しいことも見て取れましたが、見ると聞くとは大違い~《虐待の加害者》は、どこかユーモラスな《インチキおじさん》って感じでした。「子猫、欲しいのか?ほれ、こっちさもいるよ」と、得意気に次々連れて来ました。合計6匹、どの子も目やにと鼻水を流し、痩せていました。親猫は3匹、この人の手に負えるのはここまででしょう。
「あら、可愛いね~欲しい友達連れて来るから。でも、風邪引いてるね~。私、動物病院で仕事しているから、診てもらうから。親も避妊しないと、また生まれたら大変だよ」と誘導しました。最初は「手術はいいよ。生まれたら飼うんだから」などと言っていましたが、「あららら、これ以上増えたら、大家さんに出て行けって言われるよ~」って振ったら、「んだって、金かかるべ~」と本音が出たので、「うちの病院が暇な時に、無料で手術してもらえるように、先生に頼んであげようか~」と持ちかけました。
こうやって、ボランティアのちえさんを猫の里親希望者に仕立てて、風邪の治療と称して子猫を連れ出し、避妊予防センターで治療してもらいました。子猫は返さないで、ちえさん、かなえさん宅に預かり、おじいさんには「風邪がひどいので病院で預かるからね」と恩に着せ、続いて親猫3匹に、避妊・去勢手術をしました。
子猫6匹のうち5匹に里親が見つかり、喜んでいたら、兄弟で行った2匹が出戻って来て、1匹がFIPを発症して亡くなりました。2匹が返された理由は「前の猫がヤキモチを焼いていると、祈祷師に言われたから」だとか。いろんな価値観で生きている人がいることを、また知らされました。
一方、子猫のFIP発症に気づいのは、トライアルを経て、誓約書を交わしに行った日でした。異常なお腹の膨張と背中の削痩…「これで家族の一員だ」と喜ぶ人達を前に、病院に診断を受けに行くように伝えることは、辛い役割でした。不安的中、病名は確定し、子猫の『然(ぜん)』ちゃんは、1週間後にこの世を去りました。「最後まで苦しむ様子を見せずに静かに逝った」と報告をいただき、後日、お線香を上げに行くと、然ちゃんは小さな骨壷に納められていました。然ちゃんの病気が持って生まれた宿命だとしたら、数日でも家族として慈しんでくださったこのお宅に迎えられたことが、この子の幸せでした。
そして、こういう人達には、また別な子を助けて欲しいと心の中では願いましたが、すぐには口には出せませんでした。だから、先方から「今度の里親探しはいつですか?」と聞かれた時は、とても嬉しく感謝しました。そして、11月末の里親探し会場に来て、候補者を決め、12月の第2日曜日にお見合いに行くことになりました。悲しみも残念も踏み越えて、道を拓いて行かなければ、小さな命は救われません。人間の心は、それについて行くものでいいと感じます。

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《神様のお告げ》により返されて来た『みぎめん』と『よつめ』。《神様のお導き》で、今度こそ良縁に恵まれますように…。

 

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誓約書を書いてもらいに行った日の『然ちゃん』。聡明で穏やかな少年でした。名前の通りありのままに命と向き合い、見守ってくれた里親さんには、私達も支えられました。

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《対策は生ませないこと》

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最近、トライアルに行った子がうまくいかなくて戻って来るケースが多くなりました。猫にではなく、人間側の問題であることが殆どです。猫アレルギーの子供がとても多くなりました。小さな子に限らず、高校生や成人でも症状が出たからと、出戻って来ます。その他「馴れずに鳴くから」、「走り回って夜眠れない」、「爪とぎを置いたのに、壁で爪とぎするのを止めない」…と、自分が想定していたことと違うことが起きると、顔色を変えて「返したい」と言ってくるケースが増えました。
めろりん、パロディや然ちゃんの兄弟のように、トライアル期間を引き伸ばして迷った挙げ句に、大きくなってから「やはり無理」と返されると、次の里親が見つかりづらくなります。残留組が増えれば、私達もその世話で手一杯になり、社会的役割を担えなくなっていきます。ひいては、活動の存続が危うくなってしまいます。長年活動してきて、「日本人は心身共に弱くなったのだろうか?」と感じる場面が多々あります。猫を助けられる人が減少しているのだから、なおさら避妊・去勢手術を徹底させるしか現実策はありません。

宮城県でも飼い主のいない猫の避妊・去勢手術への助成金が出るようになったのに、「非営利の避妊予防センターで使えないのでは、何のための助成金なのか?」と不条理を感じてきました。そしたら、助成金の実現に尽力した県議会議員が、アニマルクラブの活動を知って、県の担当課に働きかけてくれました。県から獣医師会に打診してもらって、面倒で時間のかかるプロセスを経て、アニマルクラブが県獣医師会の賛助会員になるということで、避妊予防センターも助成金を受けられる道筋がつきました。
そして、入会金と年会費を納入して会員になってみてわかったことですが、現行の制度では《毎年6月~翌年2月までの9ヶ月間で各病院30匹まで》という制限があり、避妊予防センターなら、2、3ヵ月で使い切ってしまう数です。なので、複数の野良猫の手術を申し込んでいる方や、経済的に苦しい方にのみ申請書を渡すように調整していますが、数を病院に割り当てるのではなくて、県が希望者に助成金の申請書を発行して、手術を受ける人が受けたい病院で使えるようにはできないのか…、春先の出産と妊娠のシーズン3ヶ月に助成がないのはなぜなのか…議員さん達とも話し合い、能率的な方法を模索してもらっています。

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9月、カラスに目玉を突かれた野良の子猫が2匹続けて、避妊予防センターに連れて来られました。どちらも手術に耐えて、幸せをつかみました。(左がミャーちゃん、右がこむぎちゃん)

 

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「トラバサミで足先を失い、とても人馴れしているのに、飼ってはやれない」と、猫オバサンが置いて行った野良猫『たまちゃん』。半年余りかかりましたが…11月、ピッタンコなお家に迎えられました。

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《猫の手も借りたいが…》

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避妊手術の助成金の件でアニマルクラブを訪れた議員さんと新聞記者が、口を揃えて「きれいで、臭いもしなくて、びっくりしました!」と言いました。「動物が沢山いる所は臭くて当たり前なのだ」と思っていたそうです。私自身も、保護施設、個人宅でも、予算と手が回らず…汚れて臭い場所で、暑さ寒さもしのげずに、適正な食事ももらえていない猫や犬達を何度も見てきました。難民キャンプ、あるいは収容所といった環境の中で命をつないでいる動物達は、幸せには見えませんでした。
助けるとは、人間が暮らす場所で、必要な光熱費や医療費をかけて生活させることだと感じてきました。アニマルクラブの建物は、元々は私の自宅でした。猫に明け渡して、私は近くで借家住まいです。使える電力をはるかに超えてしまうので、全部の部屋にエアコンを設置することは無理です。寒くなったので、アニマルクラブまで、夜中も温風ヒーターのタイマーを再セットしに行かなければなりません。一度寝ても自然に目覚めて行くから、疲れて辛い時は斜めに歩いていたり、目と鼻の先の距離が異常に長く感じられることがあります。着いて、各部屋の温風ヒーターのスイッチを入れて回ると、安心してその場に横になって寝てしまう時があります。あっという間に1時間経っています。いつもリアルな夢ばかり見るのに、この時だけは安心して熟睡しています。暖房の再セットが、冬の重要な責務だと、体にインプットされているのだと思います。
動物に対しては、いつも真剣勝負です。我が子の教育には、力を抜いて放任主義でしたが、我が家の猫にはド迫力で怒鳴りまくっています。それが危ないこと、いけないことだと解らせたくて…一生懸命になっています。他人からの猫の相談にも、聞いた途端に、どうにかして助けられないかと、いろんなことを考えて、押したり誉めたり勧めたりしながら、良い方向に持っていけないかと懸命になっています。
しかし、それは私が1人でできることではなくて、役割分担をしてくれる仲間がいてこそやっていけることです。個体管理して、気遣って世話をすれば、猫は長く生きます。殆ど腎臓病を患うから、工夫して療法食を食べやすくして、家で毎日皮下点滴をしなければなりません。今は点滴組が6匹います。犬は、足腰が立たなくなり、痴呆になってくるくる回り、夜中に遠吠えをするようになります。背中や足を支えて歩かせ、寝たきりになったら床擦れしないように向きを変えたり、流動食を口に入れて、下の世話をしなければなりません。11月から、とうとう老犬『ユキ』が自分では歩けなくなり、持ち手の付いた服を着せて、その手に風呂敷で作ったバンドを通して散歩の補助をして、水もシリンジで与えています。命を全うさせるためには、人手とお金を掛け続けて行かなければならないのです。
必要なお世話をボランティアだけでやっていくのは無理です。自分が勤労奉仕できる時を提供するのがボランティア活動ですから、誰も都合のつかない日にも、働いてくれる人が必要です。有給ボランティアさんに入ってもらって、やりくりしてきました。貴重な存在ですが、仕事として見れば割の合わない重労働で、責任も重いのに、保証もありません。「動物が好きで、それでお金がもらえるなら…」と始めても、その人の生活の中でさらに収入が必要になった時、体への負担が重く感じられるようになった時…辞められてしまいます。その人が抜けた穴は、他の人達が無理しながら埋めるしかありません。

常にボランティアは募集していて、問い合わせは時々あるのですが、「それでは体験にいらしてください」という段になって、来ない人が6割、1、2度来て続かない人が2割で、自分の時間が空いた時、思い出したように来てくれる人が1割位いて、レギュラーメンバーになってくれる人は1割いるかどうか…というのが現状です。ボランティア志望の動機も「動物と触れ合って癒やされながら、社会参加したい」といった《自分のために》が多くなり、ボランティア歴20年のベテランの岡さんは「自分探しで来た人は長続きしないよね~」と見ています。
何の拘束力もなく、想いや願いだけが頼りだから、ボランティアは若き日の恋愛のように、心許ないです。誰かが降りたら、また別な人を求めて綱渡りを続けて来ました。もう随分長い月日をそうして凌いできましたが、私自身が年を取り気力・体力が続かなくなった上に、自宅が老猫と病気持ちの猫のホスピス化して時間を取られるので、前のように代わりにアニマルクラブに行って、働くことができなくなってしまいました。

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精神科に入退院を繰り返していた、統合失調症の男性の飼い犬だったユキ。「飼えない」「返せ」と言われつつ、ここで年老いて痴呆になり、突然遠吠えを始めるようになりました。

 

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歩行も困難になり、狭い所に頭を突っ込んで、動けなくなることもしばしば…。《老い》に付き合い、看取るところまでが、家族になった《約束》です。

 

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《うそじゃとの別れ》

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忙しさのさなかで、私はかけがえのないものを失いました。震災後まもなく現れた、野良猫の『うそじゃ』です。そもそも震災前に庭に住み着いていた野良猫『ジャイアン』の帰りを待ちわびていた時、同じキジトラの背中に思わず声を掛け、振り向いた顔の片目が白く濁って哀愁を帯びた老猫であったから、《うそのジャイアン》の意味で名付けました。とても人馴れしていて、非常に賢く、そして、抜群に面白く味のある猫で、通りすがりの人達からも色んな名前で呼ばれていたから、《100万回生きた猫》みたいだと感じました。
ずっと外で生活していたこともあって、この子との思い出は尽きません。何度も家の中に入れたのですが、落ち着かなくなって何とかして出て行ってしまうのです。そのくせ、台風や寒い夜は自分から家に入って来ました。そして、天気が回復すると、地震で歪んで鍵がかからなくなった窓のつっぱり棒を、うまいことやって外して…外に出ていました。朝に犬の散歩のためアニマルクラブに行くと、涼しい顔して外で出迎えるので、「また知恵比べに負けた!」と思いました。『おっかあ』、『にせお』と《野良猫トリオ》を結成して、二階の洗濯干し場で日光浴したり、暑い日は家の裏の屋根の下のゴミストッカーの上で昼寝していました。
エイズキャリアで、歯肉炎が悪化してきたので定期的に抗生物質の注射を打つようになると、木曜日に限って避妊予防センターが始まる頃に姿を消すので、《うそじゃ捜査網》が張られました。アニマルクラブを訪ねて来る人を誰より先に出迎える《親善大使》を勤め、ボランティアさんが帰る時には、駐車場まで送って行くので、誰からも最も愛されていた人気者でした。私の夜中の見回りにも付いて回り、老犬の体を支えて外を歩かせ排尿させる時もお供してくれました。一通りやることを終えて、借家に帰ろうとすると、鈴の音を響かせて追って来ました。借家にはすでに、体調を崩した時を機に、捕獲して連れてきた『おっかあ』が居たから、うそじゃを何度も入れようと試みたのですが、それたけは頑なに怖がるので諦めました。

アニマルクラブのお勝手口にハウスを並べて、家から延長コードでペットヒーターも入れたハウスに寝泊まりしていたのですが…今年の春、カイセンを患ったタヌキが入り込むようになり、これを機に、うそじゃとにせおを捕獲して、アニマルクラブの中に入れたことは、前回の活動報告でお伝えしましたね。これから、《うそじゃ話~indoor篇》をいろいろ繰り広げてくれると想っていたのですが、家の中に閉じ込められた『にせお』が「出たい、出たい」と鳴いてばかりいた一方、『うそじゃ』はめっきり大人しくなって、もう《100万回生きた猫》の魔法は解けて、普通の猫になったように見えました。
これから段々に弱っていくのは覚悟していましたが、介護まで一緒に居られるものだと思い込んでいました。9月の始めに「随分痩せたな」と気づいたと同時に、お腹に水が溜まっているように見えて、ギクリとしました。FIPは子猫の病気だと思っていたから、「まさか…」と思いましたが、《まさか》が現実になり、うそじゃは、あれよあれよと言う間に、悪化していきました。

時を同じくして、避妊予防センターに、去勢手術に連れてこられた野良猫の額にケンカ傷がありました。連れてきたのは、これまでにも何度か野良猫を保護しているオバサン。抗生剤の注射を打ち、傷の手入れもして、消毒と軟膏を渡し、大きなケージに入れて返しました。何の連絡もなかったから、順調に回復しているものと思っていました。ところが、1週間後、「ごはんを食べなくなった」と連れて来られました。「額の傷から大量の膿が流れて目に入っていた」と言うのです。さらに驚いたのは、オバサンはこの猫のケージを自分の家ではなく、隣の家の物置に置いて、世話をしていたのは隣のお婆さんだったということです。
餌付けした野良猫の扱いを巡って、関わっている人同士が《負担や責任のなすりつけ合い》をする場面をよく見ます。お金を出す側が優位に立って、面倒なことはもう一方にさせて、自分は逃げ腰なのが、よく見る構図です。お金を出せない側は老人や精神的に弱い人が多く、気が回らないので、体調の変化も見逃しがちです。聞けば聞くほど、この猫は重症でした。《ネコおばさん》歴が長い人の家に置かれていると思い込み、うそじゃの看護もあって、すっかり頭から抜けていたこの1週間の間に、野良猫は額の傷から、髄膜脳炎を起こしていたのです。
その日からこちらで引き取りました。最初は眼球の振動から始まり、発作はどんどんエスカレートしてきました。頬や唇がビクビク勝手に動き出し、四肢を突っ張らせて、体は死後硬直のように固くなるのです。事務所にしている4畳半の小さなプレハブの中にケージを置いたのですが、私もその横に、支援物資で貰った毛布を敷いて寝泊まりして、時折うそじゃを見に行く生活が続きました。クロと呼ばれていたこの野良猫は、発作が始まると「自分でもどうなっているのか解らない」といったふうに目を見開いて、私を見つめました。ヨダレを垂らしながら、必死に助けを求めるから、抱いたりさすったりして、治まるのを待ちました。すると、そのうちに歩けない不自由な体を引きずって、私の元にすがりついて来るようになりました。千葉院長の「薬よりも愛情です」という名言を思い出しました。ギリギリの命が求めるものは、《ぬくもり=共感》なのだと感じました。

そして…いよいようそじゃが危なくなり、借家に連れて来ました。たった一晩抱いて寝た翌日、犬の散歩から戻ると、うそじゃは大量に吐いて倒れていました。そして、それきりもう立ち上がれなくなりました。寝たきりになって、それでも撫でると喉を鳴らして応えてくれました。もうできることはなかったから、ただずっと一緒に居ました。
9月29日の深夜、うそじゃは血を吐いた後で静かに死んでいきました。こんなにも早い別れが無念でなりませんでした。うそじゃに、いつか知らないうちに、外のどこかで死なれるのは嫌だと思い続けてきましたが、うそじゃは、外の景色も風もない家の中で命が尽きるのは無念だったでしょうか…。家に閉じ止めたことがFIP発症の引き金になったのではないか…という後悔は胸を去りませんが、外で暮らす、外に出した…多くの猫の悲劇を知っている身としては、「何が正解なのかは解らない」のが本音です。

脳炎のクロは、うそじゃ亡き後、借家に連れて来て、ステロイド、利尿剤、抗生剤も種類を変えて…毎日毎日5本も6本も注射しましたが、発作は治まりませんでした。毎日脳圧を下げる点滴をするようになると、その後しばらくは落ち着いていました。そして、来てから2~3週間経った頃、ようやく回復の兆しが見えてきました。効く抗生剤に出会えたのです。食欲が出たのが嬉しくて、「これも食うかい?あれも食うかい?」から、『くうかい』と改名しました。
くうかいは、その後この名が仇になったのか、脳炎の後遺症なのか…食欲が止まらなくなり、台所の排水溝のゴムの蓋や食器洗いスポンジまで食べたので、食べ物のある所には置けないと判断して、今はアニマルクラブに居ます。痩せ衰えていた体は立派な体格になり、甘えん坊で気の良い奴なので、ケイレン止めの薬は続けながら、ボランティアさん達に可愛がられています。

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アニマルクラブの物干し台が、うそじゃとにせおのお昼寝場所でした。

 

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隣の空き地に行って用を足すうそじゃ。「やっぱ、外だと気分スッキリ~」って顔をしています。

 

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いつもひょうきんなのに、時として精悍だったり、黄昏れたり…うそじゃほどバラエティーに富んだ、面白い猫はいません。

 

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うそじゃ、最期の日。意識が続くギリギリまで、喉を鳴らして応えてくれました。

 

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発作に苦しんでいた頃。眼球が縦に揺れ出し、頬が引きつる、足が硬直する。「いよいよ酷くなったら、座薬を入れなくては…」と、気が気でない夜が続きました。

 

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元気になって、アニマルクラブに移動したくうかい。ごはん作りの様子を、真剣に見守っています。

 

 

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「甘えん坊さんで、めっちゃ可愛い!」と、おやつをおかわりしています。

 

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《衰退と共存しながら…》

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くうかいが生き延びてホッとした途端に、うそじゃを無くした喪失感が現実のものになり、私は風邪をこじらせて、具合の悪い日々が1ヶ月間続きました。病院に行っても治らず、何十年ぶりに熱を出し、鼻が額まで詰まっているようで、頑固な咳と痰が続き、息苦しくて《ヴィックスヴェポラップ》を胸に繰り返し塗りました。それでも、11月初めにあった中学校での講演と、息子の結婚式での締めの挨拶は《龍角散ダイレクト》を飲みながら、そつなく乗り切りました。

震災前は時々頼まれていましたが、ひさびさ講演に行った中学校では、目の前に並ぶ生徒達がとても幼く見えて、講話が進んでいくうちに、口を開けたまま白目になって、船を漕ぎ出す少年も見えて、私は自分が話している…人間社会から排除された動物の行く先や、ペットショップでお金を出して命を買うことや、この活動を始めるきっかけになった、中学生時代の近所の犬と恩師の思い出や、「戦争が起きませんように…と脅えて願うだけでなく、起きないようにするためにはどうしたら良いのか、考えて動く人間になって欲しい」と…、一生懸命話しましたが、頭の片隅では、この子供達にはピンと来ない、時代遅れのテーマのように感じてもいました。
話は滞りなく、スムーズに進んだのですが…帰り道には、「もう依頼がきても、子供相手の講演は断ろうか…」と考えていました。最近、耐久力がなくなって、ますます時間が足りなくなるのです。私でなくても良いことからは撤退して、自分を保たせていかなくてはならないような気がしていました。
しかし、2週間ほどして届いた子供達1人1人の感想文を読んでいたら、私が感じていたよりは、ちゃんと話を聞いていたことが分かりました。中には「阿部さんの話を聞いて、動物への思いが変わった。人間と動物が同じ立場に立てる社会が必要だと思った」とか、「阿部さんの言ったように、口だけでは何も変わらないから、自分で行動していきたい」とか、「捨て猫が可哀想でならないが、親の許しがもらえず飼えない。独立したら、1匹でも多く助けたい。捨て猫を集めての猫カフェは、猫を助けられますか?」なんて…真面目に考えていて、「またお会いしましょう」とか、「将来アニマルクラブから猫をもらいたい」、「ボランティアになりたい」と言われると、「行ったことで、誰かの起爆剤になれたかなぁ~」とも思いました。青少年を動かすのは、知りたい分野の、知らない世界からのカルチャーショックだと思うからです。

私という人間が形成された過程においても、時には本や映画から…たくさんの異文化体験をして、何人かの先生たちの導きや、名も知らぬ人の温情が幹を成して、年月と共にあちこちに枝葉を伸ばしてきたように感じます。幼い頃からの夢であった、「本を出版すること」「映画を作ること」「病院を開院すること」も、当初の夢とはズレてはいますが、それなりに叶いました。
私の著書『動物たちの3.11』を読んで、9月にポーランドから、ワルシャワ大学の教授が会いに来てくれました。良いこともまた、人生何があるかわかりません。彼女は、日本文化と動物をテーマに研究しているので、取材を受けました。「阿部さんは、なぜそんなに動物のことが気になるようになったのですか?」と聞かれて、私もまた自分の生い立ちに興味を持ちました。日本人がもっと動物達のことを考えるようになるためには…案外、ヒントは自分が育ってきた環境の中にあるような気もしてきました
まだ叶えていない私の夢の1つが、エッセイストです。数年前から、自分なりの《戦争回避のメッセージ》を小さな作品にしたいと思いつつ、形になっていません。映像にしたいとか、音楽に乗せたいとか、演出を考えると、独力では作れませんでした。中学校から大学まで文芸部で、大人になってからは、やはり幼い頃の夢の1つの「宣伝を作る」広告のライターと水商売を掛け持ちをしてきたのだから、ボールペン1本で広がる世界に独りで入って行こうか…と思うようになりました。

息子の結婚式で、久しぶりにロングドレスを着たのですが、私の頭に浮かんだのは、息子との思い出でもなければ、ひとり親で育てた感慨無量でもなく…「あ~あ~、店やっていたかったなぁ~」でした。震災の津波でダメになり、改装工事が済んで後、ビルのオーナーから「またやりませんか?」と声を掛けてもらったのですが、被災動物が多くて、余裕がありませんでした。お得意さんも震災で亡くなったり、引っ越してしまい…街の客層も、外から復興の出稼ぎに来ている人達に様変わりして…再開してもうまくいかないと想い、諦めました。
震災で家族や家をなくした人に申し訳ないから、黙って受け止めているけれど、石巻には、生活がガラッと変わってしまった人が大勢います。私の人生設計では2020年位までは働いて、もっとお金を貯めるはずでした。アニマルクラブの収支報告にも出ていますが、もはや繰越金も底をつき、今後は赤字を累積していきそうです。生き物を養っているのですから、通帳をゼロにしておくわけにはいかないので、《役員借入金》という名目で、私の個人資産を積んであるのですが、震災後はそれを増やすことはできなくなり、減っていく一方です。活動も、収容できる数も、実際のところ、お金がなければ諦めざるを得ません。

そして、自分の店がなくなって、失ったのはお金だけではありません。アニマルクラブから離れて、お客さんと過ごす時間は、私にとって大切な気分転換でした。震災以降は、寝ても醒めてもアニマルクラブです。
先日、東京の支援者の方が現金を送ってくださって、「阿部さん、これで美味しいものを食べて下さい」とメッセージがありました。いつも「阿部さん、体に気をつけて、頑張ってください」と言われるばかりなので、そのご配慮が何だか新鮮で嬉しくて…昔の店の《ごひいきさん》を思い出しました。
暇でしょんぼりしているところに現れ、1杯だけ飲んで「釣りはチップだ、早く店閉めて、向かいの寿司屋に来い!」と言って、夜中にお寿司をご馳走してくれて、「家族は何人だ?」と聞いて、アナゴや太巻きの折り詰めまで持たせてくれた女川の社長さんは、津波で亡くなりました。 お会計の後、財布から3万円出して「これは犬猫のために使うんでねえぞ。お前の服を買いなさい」と置いていってくれた魚町の社長さんも、津波で亡くなりました。あの無条件の優しさ~私はそれに癒やされ、支えられて生きてきたのです。
震災後は、週末だけ他の店でアルバイトしたりしてきましたが、客層も商売のやり方も違う店で、自分より若いママに使われることは、色んなことが目につき過ぎて…ストレスが溜まりました。今は、たまに昔のお客さんの宴席に呼んでもらって、《独りコンパニオン》して、ささやかな小遣い稼ぎしかできません。

昔のことを思い出すのは、年を取った証拠だというけれど、最近、浦島太郎のような感覚にとらわれる場面があります。「いつの間にやらそんなに時が流れたか…」という寂寞の波に背中から押し流される時、仰ぎ見た太陽の残像に、日に焼けた肌がヒリヒリするような…ほろ苦さを感じます。それは老いというより、《生》と《現実》から少しずつ衰退していく感覚です。
希望者は多くないので、細々と…里親希望者宅に、子猫をお見合いに連れて行くことを続けています。先日、市内でも車で30分以上かかる田舎町に行きました。震災後は初めて行ったので、分かるはずの道に迷いそうになり、約束の時間に少し遅れました。その昔、何度も何度も通った道なのに…。そして、たどり着いたお宅は、かつて私が通い続けたゴミ屋敷に曲がって行く道の目印にしていた、立派な邸宅でした。
住人が引っ越していなくなった牡鹿半島の仮設住宅で生まれた野良の子猫を、兄弟でトライアルしてくださることになった優しい奥様が、コーヒーを淹れながら、昔飼っていた猫達の思い出話をしてくださったので、私もこの裏道の廃屋のような小屋に、猫と暮らしていたオバサンのその後を尋ねてみました。「施設に入ったと聞きましたよ」とのことでした。
「あのオバサンが、この辺りをよく歩いていたのも、もう20年近く前の事になりますよね~」と言われて、ハッとしました。なるほど、あの家から引き取った猫たち6匹も…病気と老齢で4匹が亡くなって、子猫の時に連れてきた『チャチャ』と、里親さん宅に行った『ココ』ちゃんだけになり、チャチャもすっかり年老いて、腎臓病で家で皮下点滴しています。

「職員の対応が悪い!」と乗り込んで行って、椅子を蹴飛ばして暴れたりする町役場から相談された、精神病のオバサンさんでした。動物病院へ送迎する時には、「留守中に泥棒に入られるかもしれないから」と風呂敷包みを幾つも車に積み込まれ、帰ってくれば「留守中にストーカーが入って、硫酸を掛けて行った!」と、猫のオシッコで緑青が吹いている仏壇の鐘を、指差すのです。
一度掃除に来てもらった新入りのボランティアさんは、「ボランティアがここまでしなきゃないんですか…」と、それきり辞めてしまいました。それでも、オバサンが、ふっと真顔になって、「私も阿部さんのように強かったら、もっと頑張れたかもしれない」、「いつかまた民謡を唄えるようになりたい」と言った時の、表情の輝きは忘れられません。ゴミ屋敷の壁に貼られた、ポリドールレコードの白黒の古いポスターの着物姿の女性は、若き日のオバサンでした。『誰の人生にも、かつての夢と挫折があり、希望があるうちは生きていける』ことを感じました。オバサンは段々に正常な部分が減っていき、最後に役所から「入院中の猫の世話のお願い」があった時は、近くの小学校に勤務していた知り合いの先生の協力を得て乗り切り、その後は役所からも連絡がなかったので、それきりになってしまいました。

たくさんの人と出逢いましたが、関わるのは人生の一時期、一部分だけのことが多いです。しかし、その関わりの中から連れてきた命は、その後もずっと生き続けています。あのゴミ屋敷の外の狭いケージの中に7匹も入れられて、トイレもないから、トレイの縁に器用にウンチをしていたチャチャは、一度里親宅に行ったけれど、そのお宅が破産して出戻って来ました。よく吐いて、慢性鼻気で目鼻グシュグシュですが、相変わらず利口で人なっこいお婆ちゃんになりました。 猫屋敷だと思われて、誰かが捨てて行った子猫には腹を立てて、「遠くの畑に捨てて来たのに、また戻って来やがった!」とオバサンが言ったので、こっちこそ腹が立って連れてきたココは、里親さん宅へ行きました。毎年避妊予防センターにワクチンを受けに来てくれますが、「うちのココちゃん、お利口よ~」と可愛がられて、今も幸せに暮らしています。
「全部は助けられないからこそ、助けた命はつないでいく~その生き様を伝えていくことが、かつて助けられなかった命を、今度は救い上げられる世の中に変える世論や法律を作っていくのではないか…」それが、活動のポリシーです。

アニマルクラブに夜回りに行った後に寝ないで、夜明けまでの時間を使って数日間をかけて、活動報告を書き上げました。借家は古くて広いからとても寒く、ストーブは猫に占領されているので、《極暖》上4枚、下3枚の重ね着に、帽子、ネックウォーマー、膝掛けの防備をして書き続けました。途中居眠りしてdeleteボタン押してしまって、書いた文章を消してしまったり、眠気冷ましに歯を磨いたら、舌がピリピリして目が覚めて…歯磨きチューブと洗顔クリームを間違えていました。風邪の次は帯状発疹にもなり、重ね着の遥か下の皮膚の上を、虫が走り回るようなサワサワ感やジリジリ痛みが走り、服を脱いで見ようかどうしようかと迷ったのですが、寒いのでやめて、ヘルペスの薬を飲みました。だんだん《猫化》しています。老猫は特に寒がり~これからますます、暖房費がかかる季節に突入です。

「あとは写真を添えて活動報告をアップするだけだ~」と思ったら、解放感からホームセンターに車を走らせていました。すきま風が入り、冷え冷えとした窓からの冷気を防ぐ対策グッズを探しに行きました。とりあえず窓の前に、ビニールのカーテンを下げてみました。一番寒い奥の部屋にはコタツを買おうか迷いましたが…、ふっとひらめいて、アニマルクラブに行って、倉庫の中から使っていないケージを出しました。「明日、《ジャンボかまくら》を作ろう!」と想いましたが、「明日は迷い犬と、飼い主が高齢で飼育困難になってきた犬の2匹連れて3軒お見合いだった~」と思い出しました。
お腹を減らして借家で待っている猫達の晩ごはんを作りに戻る前に、郵便受けを確認したら、北海道の中学校の先生から、11月11日に釧路市市民文化会館で上演された創作劇『石巻のハナ』のDVDが送られてきていました。借家に戻り、「早く飯作れ~」と鳴き叫ぶ猫を尻目に、封筒を開けると、DVDには、演じた子供達の写真と、『残った人は生きなさい。臆することなく堂々と…』という、『動物たちの3.11』の最後に書いた私の詩が印刷されていました。私の知らないところで、知らない人達が、あの本で伝えた、震災を乗り越えて懸命に生きて幸せをつかんだ犬の実話を、自分達の思いを込めた劇にしてくれた。脚本を書いてくれた先生がいて、演じてくれた生徒さんがいたことを想うと…私のてんてこ舞いの日々も捨てたもんでもないのかもしれない、と思えました。

最後になりましたが、今年もご支援、ありがとうございました。皆様の応援があってこそ、ここにいる動物達を護っていけますし、相談が来た動物達にも力を貸せます。それから、今年の春に出した『アニマルクラブに居る子たち~それぞれのストーリー』の本と『キタの応援歌』のCDを、ご寄付いただいた方々にお送りしましたが、転居先不明で戻って来たり、振込用紙に住所の明記がなくて、送れないでいる方々がいます。是非お届けしたいので、ご連絡いただければ幸いです。私も、何とか自分を細く長く保たせる努力をしていきますので、平成30年もどうかよろしくお願いいたします。

 

2017年12月4日

・2017年12月4日・・・・・・・

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『ねぇ、バロン。お母さんは、もっとお店で働いていたかったよ』
「そしたら、オラもお客さんになったのになぁ~」
『ダメだよ。あんたは葉っぱのお金しか持って来ないもん』

 

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腎数値が上がって皮下点滴が必要になり、借家に移動した『チャチャ』(左の茶トラ)。慢性鼻炎と気管支炎に苦しむ『とむすけ』(右)と、すぐに仲良しに~《老猫ホーム》の恋でしょうか…

 

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ちゃっかりチャチャは、ギルのベッドにも潜り込んで行きます。苦労して来たから《世渡り上手》。コミュニケーション下手の人間に見習って欲しいです。

 

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『キタの応援歌』GDジャケット

 

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『アニマルクラブに居る子たち~それぞれのストーリー』は河北新報でも紹介して頂
きました。表紙を片目の『梵天丸』が飾っています。