猫と新天地へ…

里親の申し込みや、その他の要件でメールや電話をくださった方々に、対応の遅れをお詫びいまします。3時に寝たり、3時に起きたりしているのですが、耐久性がないので、どこでも居眠りし、少しは家事や母親業もあるので、やるべきことが終わらずに翌日になる繰り返しです。

毎度ご無沙汰です。相変わらずの余震に加え、台風の大雨で付近は冠水。橋も車両通行止めになり、膝までの長靴履いて歩いて渡ったり、遠くの橋を渡り、冠 水の手前で車停めて歩いたり、2晩避難勧告も出て…みんな大変でした。大雨降る度にこうでは、前の場所で不妊予防センターを再開することは無理なのだろう か、と頭悩めています。

猫と新天地へ…

震災直後から、避難所で猫を抱えて困っていた方々から、預かれる範囲で引き受けてきました。

4月。突然、チャミの飼い主が来て「これから四国の親戚を頼って行くので、迎えに来た」と言うのです。心配だったので「落ち着いてから迎えに来たら?そ れまで預かるから」と答えました。しかし、彼は「もう石巻に帰って来れるかどうかわからないから、今連れて行かないと…」と言います。

「それなら、キャットフードや砂を持って行って。支援物資が届いたところだから。トイレはあるの?」と言うと、「車ん中、荷物でいっぱいでもう積むとこ ないんで、少しでいいよ」と言われました。家の前に停められた軽自動車の中には、布団や段ボールが詰め込まれていました。

「短い間だったけれど、チャミは良い子で私も可愛いいから、様子を知らせてね」と私が言うと、彼は親戚の住所とメールアドレスを書いてくれました。

行き先は香川県でした。確か去年、アニマルクラブからパネルを貸し出した団体の代表者がいらっしゃいます。チャミを入れたキャリーバックを、ただひとつ 残った宝物のように抱えて、何度も頭を下げながら石巻を離れて行く彼を見送った時、「まるで戦争中みたいだ…」と思いました。

その時、私の暮らす町はまだ水道も電気もガスも通っていません。電車だって走ってはいません。どんな未来が待っているかわからなくても、知らない街にとにかく行ってみるという選択肢しかない人を、心配しながらもただ見送るしかない状況が、そんな風に感じられたのです。

数日後、津波で泥だらけになった引き出しから、ようやく香川の藤原さんの連絡先を探し出して彼とチャミのことをお願いしました。藤原さんもまた、私の安 否を心配してあちこち問い合わせていたそうで、快諾してくださいました。「猫のことで困ったら、この方に相談して」と彼に伝えると、親戚の家を出て県営住 宅で暮らし始めたとのこと。チャミがいたから、頑張れたんですね。

その彼、山口さんから8月に、暮らしも落ち着きチャミも新しい生活に慣れたと写メールが届きました。同じ避難所から、チャミと共に我が家で預かったプク ちゃんの飼い主さんも仮設住宅が決まり、私が送り届けました。お返しに、プクちゃんを抱いた飼い主さんの写真をメールすると、自分のことのように喜んでく れました。

みんな、否応なしにそれぞれの新生活を懸命に生きています。誰もが身近に命を失った人々を知っているから、不満や愚痴は呑み込んで同胞の悲しみも喜びも、痛いほどわかるのです。

そしてまた日本のあちこちから、外国からも、被災地には様々な支援が届けられました。「災い転じて福となれ」の願いを込めるなら、今だからこそ気づいた動物達の痛みや、社会の不備と矛盾を正して形にしていく好機だと、私は捉えています。

四国へ行ったチャミ。知らない土地では、飼い主の心の支えになりました。
再会が嬉しくて、抱きしめる飼い主。プクも安堵の表情。

 

マイクロチップキャンペーンがスタート

三菱商事の復興支援金を受けて、被災地のペットにマイクロチップを装着するプロジェクトが、動物愛護週間に合わせて今月20日からスタートしました。

日本の企業が動物達のための企画書を選んで、250万円もの義援金を付けてくれたことに対して、1年をかけて成果を出し、動物達が社会の構成員と認められるように努めていきたいと思います。

この企画は、動物病院が協力してくれなければ進みません。まず、地元石巻市と東松島市の動物病院に協力要請をしましたが、回答がありません。メンバーの 聖くんが「なんで協力してくれないんだか、俺、聞いてくるよ」と、石巻に被災動物救護センターを立ち上げた獣医さんを訪ねました。

聖くんは高校時代ボランティアに来ていましたが、大学生になり仙台に住んでからはあまり会うこともなくなりました。けれど、震災後は真っ先に駆けつけて くれて、部屋の中に溜まった泥を出して片付けて、支援物資を入れるスペースを作り、避難所を回ったり石巻市のボランティア会議に参加して、そこで救護セン ターの獣医さん達とも面識があったからです。

聖くんがいただいてきた回答は「石巻市被災動物救護センターは9月末で活動を終える。この半年間に、センターに来た動物達300匹近くにマイクロチップを入れて、やれることはやった」でした。

“それで良しとする”のは、やった人の気持ちであり、成果ではありません。

そもそも、マイクロチップは(社)日本獣医師会が推進、管理している取り組みです。東京の企業が大金を投じて、「動物達のためにお使いなさい」と与えて くれたチャンスを生かして、マイクロチップを装着する犬・猫を300匹から1300匹に増やすことに、もう一働きして欲しかったです。

私達は、動物と飼い主サイドからの、視線と要望とデリカシーを備えています。マイクロチップを埋め込んでいることを表示するナンバープレートの装着も、 是非採用して欲しいノウハウでした。ボランティアは、“誰がそれを成したか”を称えられる必要はなく、“何がどう変わったか”を判断して、さらに次の方策 を立てていくべきです。

このナンバープレートも、東京の佐藤さんと高見澤さんの会社が、ボランティアで製作してくださっています。アニマルクラブの彫刻機は津波で流されたし、 人手不足で今は猫と犬の世話で時間切れの毎日で、とてもアニマルクラブだけでは実施できない企画でした。私の思いつきが進化して形になっていくことへの感 謝が、「生かされた分、頑張ろう」という気持ちに自然とつながって、また私は新しい欲望に翻弄されて、誰かを巻き込んでいくのだと思います。

震災後、動物達と生きるために頑張っている人がたくさんいます。私の元に届いたメールをご紹介します。

 

梅が生きていた!

幼名を「小梅」と、私が名付けました。野良猫が生んだ子猫を持て余した人から押し付けられ、最初の里親からも返された、不憫な子猫でした。

初めて猫を飼うという土井さん宅に小梅を連れてお見合いに行ったのは、平成20年1月のことです。真面目なお父さんと、優しいお母さん、待ちに待ってい た猫との対面に、嬉しさと戸惑いがありありと伝わってくる純真な子供達…。誠実で暖かいこの家族に迎えられて、今度こそ幸せになれると安心して託しまし た。

その後、思った通り、幸せ太りして、“もう小梅とは言えないサイズ”になり、「梅」に昇格しました。土井さんの住まいがあったあたりは、津波の被害が大きかったところ。頭に浮かびましたが、連絡を取る術もありませんでした。

そして8月に入ってから、深夜に突然、土井さんの奥さんから電話がかかってきたのです。

「行方不明になっていた梅が戻って来てくれたが、大ケガをしている」と…。

仙台の救急病院を紹介しました。それから4週間ほどして、こんなお便りが届き、それからは不妊予防センターにて治療しています。

―以下、メールより紹介―

梅は、食欲も出始め、お腹空いた!オシッコとって!ウンチとって!外に出して!撫でて!と、主張もしっかりして来ました。ガツガツとご飯を食べる姿は、なによりホッとします。。

8月のはじめ、夜に、梅と再会した時は、首輪が脇の下に回って食い込んだらしく、傷口からは糸が引き、強烈な腐臭が漂い、再会を喜ぶよりも、どうか助 かって欲しいと、苦しく祈るばかりでした。あの晩、智子さんに救急病院を教えていただいて、救われました。梅が帰って来てから、あっという間の1ヶ月でし た。何から何までお世話になり、感謝に絶えません。

目に見えて、梅の快復の手応えがあります。家から出たことのない箱入り娘のお嬢さま猫で、向かいの家へ宅配便が来ただけでも、身体を低くして、二階へ逃げようとする臆病な猫でした。

震災直後、水がまだ引かない我が家へ戻ると、階段にヘドロのついた梅の足跡があったので、二階へ逃げて生きている、と確信しました。梅は、二階のタンスのさらに上に置いてあるダンボールの中にいました。

避難先へ連れて帰り、4月初めに二回目の津波警報があった時、もっと安心な河南へ避難することになりました。キャリーバックも流失していましたから、梅 はダンボールに入れました。その時、家族以外の人がダンボールを抱えたからでしょうか…、梅は箱から飛び出し、それっきりでした。

時々様子を見に行きましたが、何の手がかりもないまま、河南に戻らねばなりませんでした。それから5カ月、よく生きててくれたと思います。やっと、私達 も前の避難先まで戻って来れました。6.5キロあった体重は、救急病院で計った時は4キロに減って、毛の下にある背骨や肋骨が、触れずともわかりました。 今日体重を計ったら、5キロに増えていました。このまま順調に快復を願うばかりです。。

まだ飼い主の元へ戻っていないペット達の中にも、梅みたいにどこかで必死に生きている子がいると思います。いなくなったペットを捜している方は、再会を信じて、諦めないで探して欲しいと願います。

この写真は、救急病院受診後、縫合前の梅です。すっかり痩せこけていました。もう1枚は前の家にて。いつかまた、こんな生活を取り戻したいです』。

―以上、紹介終わり―

 

都合によりここに掲載していた文章を削除しました。

 

嫌になったり、助けられたり…

炎天下の公園をフラフラ歩いていた痩せこけた捨て猫が、カラスに襲われていたそうです。カラスを追い払った人も、「このままにはしておけない」と思ったから、「自分は飼えないので、アニマルクラブに連れて来た」と、褒められることをしたつもりです。

その時は、家に子猫が溢れていた頃。「ケージを貸すから、預かってもらえませんか?」と言うと「そんなこと言われるんなら、助けなければ良かった」なんて言い出すから、もう、自分が道端で見つけたものだと思って受け取り、二度とその人の目を見ないようにしました。

こんな場面もありました。事故にあったらしく、動けずに前足だけで威嚇する野良猫を遠巻きに見ながら、「可哀想に」を連発して、尋ねてもいないのにいい 加減なその猫の素性と、こうなった憶測を喋り続ける人…。無視して、ようやく捕獲して車に乗せた私の背中に投げた言葉が、「あー、やっぱりボランティアだ ねー」だって。理解に苦しみますが、自分を悪く思われたくない言い訳と、素直に言えない感謝なんでしょうか?

人は面倒くさい。でも、助けてくれるのもまた人間だから、私は人が苦手にならないように、尊敬できる人や優しい人や温かい人と接するように努めています。

被災して飼い主にはぐれ、ネットで呼び掛けても、3ヵ月経っても4ヵ月経っても、飼い主が出て来ない犬や猫がいました。

瓦礫の下や空き家から、被災した猫が生んだ小さな命も見つかりました。ペット禁止の住宅に住んでいても、助けたいと願う人は行動します。「健康診断やワ クチンの費用は出します。可愛い写真が撮れたら送りますから、里親を探してください」、と言ってくれました。できないことの羅列からは、何も進みません。 足りないところをヘルプするのがボランティアの役割だし、それが理解できる方なら、役割分担を果たしてくれるから、安心して里親さんを紹介できます。

津波で猫を流されたと嘆く人が、子猫が欲しいと里親希望してきたのでお訪ねしました。壊滅した町で、間に合わせの生活をされていました。交通手段もなく、仕事もありません。仮設住宅の環境にも、不安を禁じ得ませんでした。

気持ちはわかるのですが、今はまだ新しい命を迎える時期ではないと感じました。震災により、苦労した子達です。今度はきっと幸せになれるように、安心して送り出したい。

以前は、里親希望者のお宅まで行って充分に話し合い、飼育環境も見せてもらって、遠慮なくアドバイスもさせてもらいました。メンバーも欠けて人手不足だし、今はそうする余裕がありません。しかし、だからといって人を疑い、可能性を狭めることはナンセンスだと思いました。

遠距離LOVEを歓迎します

遠くの人だって、今はメールがあるからわかり合うことができます。相手の方が面倒がらずに、こちらの心配に配慮してくだされば、里親になっていただくこ とも可能です。お家の作りや先住猫がどんな子達か、写真と紹介をメールで送ってくださった神奈川のOさんには、ペット禁止の市営住宅の方が、内緒で育てて いてくれた野良猫の子をもらっていただきました。『日和姫』と名付けられ、意外にお転婆で食いしん坊、先住猫を圧倒する様子がメールで送られて来ます。 元々、災害ボランティアとして当地に来てくださっていた方でした。これがご縁で、Oさんはアニマルクラブにも清掃ボランティアに来てくださいました。

カラスにつつかれて首の毛もなくなり、ひどい風邪を引き、一時はパルボまで疑われた『アイアイ』は、旭川に行きました。小野寺さんは飛行機で迎えに来てくれましたが、石巻への電車が動いていないため日帰りは困難でした。

仙台空港から、車での送迎を二つ返事で引き受けてくれたのは、やはり被災して飼い主とはぐれた成猫の里親になってくれた、名取の鈴木さん。台風が近づい ていて不安でしたが、お陰さまでアイアイはその日のうちに旭川に到着することができて、『銀ちゃん』に改名。先住の犬や猫とも仲良くなって、ご主人お手製 のキャットタワーやキャットウォークを作ってもらい、誰かが寝てるハンモックに割り込んで、天真爛漫に過す日々が、目に浮かぶようなメールが届きました。

こうやって、すべて人と人とのつながりの中で、色んな試みが形になり、進展していきます。

私がもっと外に出て、情報発信をしたり、他の組織や行政にコンタクトを取ることが動物たちの役に立つなら動きたい気もするけれど、そのためには、代わりにうちにいる70匹余を見てくれる人がもう少しいないと、時間がありません。

被災後の経験でわかったのですが、助かる協力は、離れていても短期でも、引き受けたことや来てくれた時には、しっかり働いてくれるボランティアさんで す。具体的には、猫の爪切りや毛玉カット、ブラッシングができる方に来てもらえると助かります。あるいは、近くの方で継続して来られる方がいるなら、少額 ですが有給でも、動物達の身になってお世話してくれるスタッフが見つかれば心強いです。アニマルクラブがどこまでできるか、私が何をやれるかは、誰と、ど う出会うかだと身に染みて認識しています。

『日和姫』のお陰で、お父さんがボランティアに来てくれました!
わざわざ旭川から迎えに来てくれた小野寺さんと、旅立ちました。
猫仕様のお宅で生活。はるばる行って、良かったね~銀ちゃん!

 

20キロ圏内に行って来ました

運良く入ることができました。迷惑がかかっては申し訳ないから、案内してくれた方のことは、一切書きません。ただ、その方のお陰で、私は自分の目で、宮 城の隣の県、福島のキリングフィールドに立ち、おびただしい数の牛の死体を目の当たりにして、涙腺に染みる腐臭を嗅ぎました。

泥のような糞尿に塗れて、干からびて板のように見えたものには、ホルスタインの柄があり、牛の体なのだとわかりました。苦しい時は寄り添うのでしょうか。顔と顔を近づけた白骨も、何箇所かで見ました。

誰も世話に行かなかった牛舎に続く道を、降りだした雨の音なのか、自分の心臓が脈打つ音なのか、わからないまま歩いて行きました。地震でできた地割れの 間からも雑草は伸びていたけれど、牛舎は、暗く、静まりかえっていました。しかし、確かにそこにも数え切れない牛の死骸があるのです。そこで起きた大惨事 を、焦土と化して済ませようとする人間のエゴイズムが罷り通るうちは、思いやりも平和も絵空事だと思いました。

他の牛舎では、わずかに生きている牛の姿も見られました。しかし、今まで生きていたのは、うまく柵を抜け出して草を食べることができたから。それが再び 柵の中に入っているということは、人がしたこと。なぜって、処分するためにです。 殺すしかないという考えしか出てこないなら、なぜ、立ち入り禁止を決めた時点で実施しなかったのか?いつも伝染病の家畜は凄まじい速度で処分しているの に。マスコミ等で、取り残された家畜の惨状が公表されて批判の声が上がったから、殺して終わりにしようというのでは、施策としても稚拙すぎます。しかし、 現実には牛を入れた柵の中には、まもなく追い込んで薬殺するためのスペースが作られ、近くには、埋めるための大きな穴を掘る準備がされているのです。「遺 体を埋める穴を掘らせて、ガス室に送り込むナチスのようだ」と感じました。

歴史のあやまちは、案外同じパターンで繰り返されるのかもしれません。なぜなら、そんな“人でなし”の方法を考えつく人は、「自分や近親者でなければ痛 まない」差別の上に立って、合理性だけで判断していくからです。麻酔は高価ですから、薬殺に使われるのは、安価な『パコマ』という逆性石鹸だそうです。

以下が、現地から知り合いの獣医師にメールで尋ねた、『パコマ』による薬殺のメカニズムです。
「パコマ逆性石鹸を血管に入れますと、太い血管では問題なくても、毛細血管で泡状になり、血流が止まり死亡します。」

なんとか生き残っている牛を助ける方法はないのでしょうか?私の友人は、「先週、処分の書類に判子押さないでと畜主さんを説得したが、気持ちは変えてもらえなかった。皆さん疲れ果てて、もう終わりにしたがっている」と言っていました。

この話に出てきた牛舎に行ってみました。近くに、処分された牛が山積みになり、ブルーシートで覆われていました。嵩が減るのを待っているのでしょうか、ブルドーザーで巨大な穴が掘られていました。

もっと早い時期に、国と県と町が、酪農家やペットを残してきた住民とも話し合い、他地域から来てくれるボランティアにもどんな協力をお願いしたいか、情報を開示して、危険回避を図りながら、生かす対策を模索するべきでした。
「生き残った牛は殺さない」と、牧場を守っている方もわずかにいました。ここが、放浪してる牛を引き取ると言ってくれても、耳に付いている番号札が示す所 有者が了承しなければ、牛は殺されるしかないのです。道路を歩く牛の行列に遭遇しました。「処分されてしまうのか、保護の柵に入れるのか…」。祈るように 見つめることしかできませんでした。

ある方の牧草地に、そこの牛舎で死んでいた牛達のお墓がありました。こうして、不条理な死を痛み、忘れまいとする畜主さんもいて、少し救われました。

放射能の汚染度が急上昇したので、圏外に出ました。事故が起きた当日も、何の説明もないままに「ぼやぼやしてたら死ぬぞ、一刻も早く逃げろ」と言われ て、牛の首かせも外さずに、人が逃げ出した牛舎の雌牛達は、ほとんどが妊娠していたとか。腹の重みもあり、どれだけ苦しんで死んでいったのか…。想像する と、身震いします。「だから、死んだ数は腹の子牛を入れたら倍なんだよ」と、案内してくれた方がポツリと言いました。

自分自身も、目に見えない放射能への恐怖を感じました。越えてはいけない領域に踏み込んだ人間の驕りのツケが、ここに毎日牛の世話に通う人々に回って来るやりきれなさを痛感しました。ここで牛を守ろうとしている人達を護らなければなりません。

帰り道、今は仮設住宅に住んでいる酪農家のご夫妻を訪ねました。ご主人から、牛の処分方法などをうかがいました。「安楽死って言われてっけど、安楽死な んかじゃないよ。死にきれなくて泣く声は、今までに聞いたことのない苦しい声だよ。その声、何べんも聞こえてきた。うちは、生き残った牛は育てていく。 ペットか?と言われたっていい。牛は搾乳する人によって、お乳の出も変わる。良い音楽聞かせると、乳の量が増える。犬や猫と同じように、人の気持ちがわか るんだよ。最近、子牛が生まれたんだ。良い草を食べさせて育てていけば、いつの日にか、汚染されてないお乳を出すかもしれない」と、一縷の希望を語ってく れました。

口の重かった奥さんが、私が帰る頃になってようやく話してくれたことを皆さんに伝えます。
「4月22日から一切入れなくなってからは、避難所でご飯食べる時に、飢えてるだろう牛達のことを思い出して咽が詰まって食べらんなかった。次に家に入れ たのは7月だよ。牛舎をチラと見たらば、足広げて死んでる姿見えて、中に入られんかった。牛は何にもしてないのに、何にも知らないのにさぁー、何でこんな 目に合わせられたんだか…」。
ご主人は、各牛舎で死んだ牛の慰霊碑を建てたい、と語っていました。私は、生き残った牛を養っていくことで、人間が起こした大失敗を動物の死で終わりにし ようとしたあやまちを償うべきだ、と感じています。それには、20キロ圏外に、牛を飼育する場所を確保して、世話をする人間の健康を守らなければならな い、と提案します。

白骨の数だけ、罪もない命が苦しみ抜いて死んでいきました。
処分された牛が埋められる穴に、花が手向けられていました。
数日後には、処分される牛達の足元には、仲間の遺体が転がっていました。
牛の行列が、葬列にならないように、私達かできることを考えています。