NPO法人になって1年経ちました

 この1年を振り返ると、相談件数が増え、抱える猫が増え、支出が増えて、忙しさも増して、NPO法人になったメリットは何もなく、 自分の首を自分で絞めることに拍車をかけてしまった、というのが正直な感想です。
NPO法人と聞くと、人は何人ものスタッフが従事する力のある団体だと思うらしく、頼って良い所だと認識して、 相談とはいえない問題解決を迫ってきます。
毎度おなじみの「引き取ってくれないのなら捨てるしかない」という脅迫や、「少しの間でいいから預かってください」、 「必ず返すからお金を立て替えてください」といった騙しに翻弄されながら、それでもそうすることで助かる命を『嘘から出た真』として、 私達は無理を重ねています。
家族ともめ、仕事が遅れて職場で小さくなり、食事する暇もなく車の中でパンを食べて、信号待ちやお風呂の中で居眠りしてしまう毎日の中で、 この活動を続けて行く必要を再確認するのもまた、動物たちの命の軌跡に遭遇した時です。

1.川から子猫
5月19日の午後8時過ぎのことです。
腎臓の悪いポンタの点滴から帰って、仕事場近くに車を停めた私は、子猫の鳴き声に気づき、近くの公園を捜しましたが見つからず、 声のする方に耳を澄ませると、なんと北上川を流れるビニール袋から聞こえていたのです。
子猫が生まれる度に川に捨てる人がいると聞いていたし、流れついた死体を引き上げたこともありましたが、 現場に遭遇したのは初めてです。
私は川岸に這いつくばって手を伸ばしましたが、届きません。
辺りを見回し、か細い小枝を見つけました。
届いたものの、引き寄せようとしてポキンと折れてしまいました。
川に降りようかとも思いましたが、深さが読めず、目を凝らすと岸辺がこの先でいくらか川寄りにカーブしていたので、 先に走って行って、岸辺ぎりぎりに腰掛けて袋を待ち伏せて、足を伸ばして引き寄せ、手ですくい上げました。
中が見えないグレーのビニール袋には既に水も入っていて、私は急いで袋を破り開けました。
長いへその尾が付いた、生まれたての子猫が1匹絞りだすような声を上げている傍らで、そっくりの黒いトラの兄弟が2匹、 氷のように冷たくなって動きません。
死んでいるのだと思いました。洗面所に運んで、鳴いている1匹にドライヤーを当てて、 びっしょりと濡れた体をひたすら温めました。あらかた乾いたところで、死んでしまった子もせめて冷たい体のままでなく…と思って、 温風を当てました。そしたら、まず1匹がかすかに動いたのです。
夢中になって温めました、冷えきって動かないもう1匹も。
そしたら、その子も動きだしたのです。

川から引き上げて乾かした直後。
手前が鳴いていたチェリー

左から、チェリー・ハーちゃん・カブ

夜の川で、一人きりで遭遇した事件に、「初乳も飲んでいないような子達が果たして育つのだろうか」と、 胸に不安がみるみる込み上げてきました。
すると、てのひらにすっぽり収まる小さな命をひたすら温める私の耳に、ピアノの音か聞こえた気がしました。
車を運転する時に聴いてたフジコ・ヘミングさんの「ラ・カンパネラ」でした。
美しい音色が波のように私の胸に流れ込んでいき、やがて「生物は一つの大きな連続です…」と言った宮沢賢治の言葉を運んできました。
ピアノの旋律が探るように問い掛け、烈しく打ち寄せていくうちに、「私が命を助けてやるなんておこがましいことは考えまい、 この子たちがどうなっていこうとも、その命につき合うことならできるじゃないか」と考えついたのです。
それから10日ほどは、子猫たちは思いのほか順調に育ちました。最初は便がなかなか出なくて、せっせと肛門マッサージして、 出てきた時の感激は、わが子のことのようでした。
川を流れる袋の中から、鼻を真っ赤にして助けを求めていた「チェリー」、 歌舞伎の隈取のような柄がくっきりとりりしい「カブ」、全員アメショーのような太い縞が入ったキジトラなのですが、 鼻の両脇にカタカナの「ハ」の字の模様が入った「ハーちゃん」は一番のおチビさん。
一生懸命ミルクを飲む姿に、まだ目も開く前から、「つむっている目のなんて長いこと。
この子はきっと目の大きな可愛らしい顔になるわ」とワクワクして、子育てを楽しみました。

スポイトで授乳

子猫たちは順々に下痢になってきましたが、元気でした。
まずカブが目を開け、翌日にはハーちゃん。
最後に目を開けたチェリーのミルクの飲み方が落ちたと思ったら便に血が混じり、 翌朝死んでしまっているのを見つけた時は、何が起きたのかわかりませんでした。
一番大きくて元気だと思ってたチェリーが死んでしまったのですから、次はどうなるのか、怖くなりました。
病院に行き検便をしてもらいましたが、下痢の原因は判らず、薬をいただいてきて飲ませましたが、ハーちゃんはひどくなる一方でした。

突然なくなったチェリー

そんな中で、フジコ・ヘミングさんからのカンパを受け取る(「猫が取り持つホットライン」参照)ために、 柴田町に住むにゃむにゃむ企画の沓沢小波さん宅を、中学1年の娘とお訪ねする日を迎えました。
バスケットに一匹づつ入れて行こうと言ったら、娘は「具合の悪い、こんなに小さな子を電車に乗せて連れ歩いたりして大丈夫?」と心配しました。
「ハーちゃんはもうかなり悪くて、あと少ししか生きていられないと思うよ。誰も居なくなるこの家に置いて行くより、一緒に居れば、 何かハーちゃんの役に立てるかもしれないから連れていこうよ」と私は言いました。
カイロを入れ、上着でバスケットを覆って風を遮り、気が気でない道中でしたが、あの子たちとの最初で最後の小旅行でした。
仙石線の中、東北本線の中、沓沢さんのお宅でミルクを作って飲ませた時も、バスケットを開ける度に、「ハーちゃん」と呼びかける私に、 やせ細っていっそう大きな目が愛らしいハーちゃんがかすれた声で返事をします。
痛々しくも、あの子は確かにあの時生きていました。

だんだん弱くなっていくハーちゃん

二日後、ハーちゃんは静かに息を引き取りました。
開いたままの大きな瞳は、何と言いたかったのでしょうか。
そして、比較的元気だったカブもとうとう下痢がひどくなり、一縷の期待を持って、点滴に通っても回復は望めませんでした。
体力がついてきただけに、弱りながらもまだ生きている姿を「見るのが辛いからバスケットのふたを開けられない」とメンバーは言いましたが、 私だけは覚えておこうと思いました。
一匹でも生きて欲しかったという切なる願いも叶わない今となっては、私にできるのは、 この子たちが生きた2~3週間をありのままに伝え、命あるものを捨てるという行為は許されない、 残酷なことだと気づいてもらい、そしてまた、生きていくということは、 どんなにか素晴らしい可能性を持つことかわかってもらうことだと思いました。

ミルクも飲めなくなってきたカブ

ハーちゃんが逝った4日後に、カブも短い命を生き終えました。
この間に、パルボで入院していた兄妹の1匹も15日目に合併症で亡くなりました。
4,5日おきにクリーンセンターに通う私に、職員の方も同情して、小さな骨が残るように配慮して焼いてくださいました。
小さな骨袋が4つ、仏壇に並びました。
生き残ったのは、パルボから生還した真っ白な女の子1匹だけ。
そして我が家には他にも拾われた子猫たちがいるから、命が続いている子たちには、 亡くなった子たちの分まで幸せになれる里親さん宅へ導くことが私たちにできることだと思っています。

3週間生きたカブの最期の姿

 2.10年を経て 

写真をクリックすると拡大画像が表示できます。

   平成9年4月3日、地元紙をにぎわせたニュースです。
この後、漁港管理事務所に電話すると、「飼い主に連絡が着いて、 トラックは撤去した」と言われたので、石巻保健所に頼んで、飼い主の住所を聞き出し、会いに行きました。
彼は私と同じ年、犬が好きで、また捨て犬を見るとほおっておけなくて、どんどん増えてしまった、と言い訳をしました。
それでも、以前は自営の工場の敷地に置いておくことができたのだが、商売がうまくいかなくなって、引っ越さざるを得なくなり、 犬達の置き場所に困って、11匹積み込んだ大型トラックを、漁港の駐車場に置いて、夜中に餌やりに通っていたそうです。
 私が訪ねたところは、彼の店。モーターボートの販売や自動車修理を請け負うその店にも、5頭の犬がいました。
幸いなことに、ここの犬達は、向かいの飲食店「K」の親子が餌を与えてくれていましたが、彼はあまり他人に干渉されたくないらしく、 向かいの人もそれ以上の関与はできないようで、犬小屋の周りにはフンが転がり、うるさい犬はコンテナに閉じ込められていました。
病気の犬もいて、病院に連れて行くことを申し出たのに、自分で行くからいいと断られました。
その子は4日後に差し入れを持って訪ねると、もう死んでいなくなっていました。
こんなふうに相当数の犬が弱いものから死んでいたようでした。
漁港に居た9頭の犬達(失踪したうちの1頭は戻ってきた)は隣町の山林に移されていました。
 4月半ばの彼の店の休みに、犬達に会いに行きました。
車を停めて、先の見えないヤブをかき分けて5~6分登った雑木林の中に、人間社会から隔絶された犬達がいました。
風で犬小屋が倒れても、水の入ったバケツがひっくり返っても、次に飼い主が来るまでは、そのまま我慢するしかありません。
犬達の短い鎖はコンクリートの重い石で固定されていましたが、力の強い犬はそれをひきずって歩き回って他の犬の鎖に絡まり、 どちらも身動きとれなくなることもわかりました。
それからメンバーの千葉さんと何度か通いましたが、犬の体がダニだらけになること、人の目が届かないし、遠いので、 いつまでもこんなところへは置いておけないと思いました。
相談したら、「K」の女将さんが知り合いの農家の小高い丘の上の土地を借りてくれました。
5月12日、犬達の引越し。
メンバーの男性と土地の所有者のお父さんが塀をまわし、屋根をかけ、フードや用具を置く場所まで作ってくれました。
青空が見え、風通しが良く、丘の下には畑や田んぼが広がり、人間の姿も見えました。犬達の棲家はこれまでよりずっと住み心地が良くなりましたが、 人と一緒に暮らせない寂しさや心配は相変わらずでした。
里親探しも始めました。
もらってくれそうな人が見つかると、そのお宅にちょうど合いそうな犬を丘の上か飼い主の店から連れて来て、 我が家に一時預かり、シャンプーやワクチンをして、お見合いをしました。
そして、女の子には不妊手術をしてから届けました。
飼い主のNさんのアパートは、犬達の引越し先の丘から車で10分ほどで、以前の山に比べれば格段に通いやすくなったはずでしたが、 彼は次第に私達をあてにして通わなくなり、病院にかかる費用も一切出そうとはしませんでした。
当時私の娘は2歳。
おぶって丘を登るから、アセモと虫刺されに悩まされました。
時々途中で蛇がとうせんぼする坂を通い続けることができたのは、千葉さんという相棒がいてくれたからです。
犬達は約半数に里親が見つかり、寒くなる前に丘の上の避難所を解散しました。
残った犬は、飼い主のNさんが3頭は離さないと言い張り、「K」の女将さんと私ともう一人のメンバー宅で1頭づつ引き取りました。
その後、Nさんは「K」の向かいから店舗を引越しました。
新しい店にも時々ドッグフードやフィラリアの薬を届けに行きました。
2年ほどして1頭が亡くなりました。
さらに、1年ほどして、差し入れを届けに行った私は、クレーン車がモーターボートを吊り上げて、 大型トラックに積み込んでいる現場に遭遇しました。
作業している人に聞くと、Nさんが倒産して夜逃げしたのだと教えられました。
とにかく私は店にいた2頭の犬、最古参の「モク」とリーダー格の賢い「ブブ」を車に乗せて、激しい騒音が乱れるNさんの店を離れ、 取りあえず預かってくれる動物病院を探しました。
モクとブブはそれから一時また農家の庭先に預かってもらい、結局モクはメンバーの高橋さん宅、ブブは「K」に引き取られました。
モクはその時点ですでに15歳ほどの高齢でしたが、高橋さん宅でさらに5年近くの長寿を全うして、 寝たきりになっても、一輪車に乗せてもらって散歩したり、家族が腹を押して排尿させる手厚い介護を受け、幸せな老後を送りました。

飼い主に翻弄されて数々の苦労を重ねたモクは、幸せな老後を送った

ブブもかなりの高齢となり、最近は少しボケてきて、私が行っても誰だかわからなくなったようですが、 「K」の自宅で大勢の仲間達とのんびり暮らしています。
そして、私には気になって年に2,3度は訪ね続けていたあの時の犬がいました。
新聞の写真の手前に写っていた白いやや長毛の「ムック」です。この子は大きいけれど可愛くて人なつっこかったから、 一番初めに里親が見つかりました。
貰われた先は、隣町の大きな農家でした。
家族も多いし、裕福なお宅に見えましたが、次第に犬に対しては昔ながらの「家畜」という感覚の人達だと感じるようになったからです。
初めの2年は「ついでだから」と言い訳して、混合ワクチンやフィラリアの薬をもらう時期に迎えに行って、 私が連れて行き、費用は出していただきました。
3年目から「ワクチンは狂犬病だけでいい」と言われ、フィラリアの薬代も惜しむようになったので、 知り合いのルートで安く購入できたアニマルクラブ用のフィラリア予防薬を実費で分けるようにしました。
たまにフードも持参してサポートしてきたムックの家から、5月初旬、「明日が狂犬病の予防接種なのに、 ムックは足が弱って会場まで歩けないかもしれない」と電話がきました。
私はてっきり関節の痛みかと思ってしまい、「近いうちに病院に連れて行って、足診てもらいながら、受けれたらワクチンもしてもらうから、 明日は無理して行かないで」と言いました。
それから続けて子猫を拾って忙しくなり、ムックを訪れたのは、1週間近く経っていました。
農機具を置く納屋の入り口に横たわり、荒い息をしているムックを見た時、私は自分の認識の甘さを恥ました。
名前を呼んでも反応がありません。
まもなく死んでも不思議ないような重態でした。
飼い主は「あんたに電話した時はまだ立っていたんだよ」と私のせいであるかのような言い訳をしました。
運動会の代休で家に居た5年生の甥を乗せてきて正解でした。
「今さら病院に診せたってしかたないよ」と言う飼い主を尻目に、 持参した毛布を担架代わりにして、甥に手伝わせて、ムックを私の車に乗せました。
切羽づまっていたからとはいえ、里親の選択を間違った自分の眼鏡違いをただただムックに詫びながら、病院へ運びました。
診断は、肝臓が悪く、かなり貧血もしており、神経麻痺のために四肢を突っ張り、排尿も困難、体を痛がっているようだとのことでした。
しかし、数日しか生きれないのかと思ったムックでしたが、毎日6時間点滴に通院した甲斐があって、 少しづつ回復して今は足も動かせるようになり、チーズケーキやカステラ、ドッグフードの缶詰などを食べるようになり、 通院も2日おきになりました。
しかしまだ寝たきりで、おしっこもカテーテルをつないで出しています。
飼い主は一度だけ「お金かかるから、連れてきて」と電話をよこしましたが、「こちらでお金も出して面倒みます」と答えたら、 それきり連絡はありません。
どこまで回復できるか、一喜一憂を繰り返しながら、ムックの命につき合っていこうと思います。
そして、今年からNPO法人として名実伴った活動を少しづつ展開していこうと考えています。
まずポストカードとオリジナルバッグの販売を開始します。
アニマルクラブの活動が続いていきますように、より助けられる命が増えていきますように、ご支援ご協力をお願いいたします。

保護されたばかりの頃のムック

元気になってきたムック

2007年6月21日 NPO法人アニマルクラブ石巻理事長阿部智子