『闘い済んで、冬到来』
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【やっとこさ、上映会。】
いやいや、ここまで来るまでの道程の遠かったこと…宍戸監督とは100回位ケンカしました。始まりは、2013年2月の私の誕生日でした。『犬と猫と人間と2~動物たちの大震災』の完成試写会も終わり、春からの全国ロードショーも決まって、気を良くした新米監督がこう言いました。
「映画ができたのも阿部さんのお陰です。今までお世話になってばかりだったから、誕生日に何かプレゼントさせてください。何が欲しいですか?」
すかさず私は答えました。「私、宍戸さんにしかできない物が欲しいんだけど…今回取材しながら映画に全然出て来なかった石巻の人と動物たちの映像を使って、石巻篇の映画を作ってください」。初の大盤振る舞いを企てていた坊主頭の青年は、呆気に取られ言葉を失っていました。年末年始東京に缶詰めになり、飯田プロデューサーにしごかれて最後の仕上げをしていた時に、私が仕送りした『アリナミンVドリンク』も「あの頃を思い出すから飲めなくなった」彼には、胃が逆流するような注文だったかもしれません。「この映画はこれでいいでしょう、勘弁してください」って感じに肩を落として「今すぐは無理だけど…」と答えました。
私は私が紹介した人達が全く出て来ないのが申し訳なくて頼んだだけではありません。あんなに沢山の取材をして、いろんな事実を知ったのに、映画になったのはごく一部。「私だったらあのエピソード入れるな~」というプロデューサー的未練もあったし…何よりも、この先、映画監督を職業にしていくなら、宍戸さんには被災地の動物と動物達を救おうと頑張った人達のため、そして動物と共に生きる人達の励みになる映画を作って欲しかったのです。
思い起こせば…2012年8月、宮城県多賀城市で、皆さんの感想や意見を聞くための最初の試写会を開催しました。上映後、ロビーで宍戸さんに詰め寄って険しい表情で何か話している60代位のご婦人がいました。確か、何度か取材に行きながら映画には登場していない川並さんご夫妻のお友達でした。そっと近づいて、様子をうかがいました。
そうそう、おばちゃんの名前は佐藤さん。娘さんは獣医さんで、震災後は神奈川から駆けつけて医療支援してくださった、と聞いていました。佐藤さんも近所の野良猫に不妊手術を施して、世話をしています。「川並さん、津波で家ダメになって大変な時に、あんなに一生懸命あの猫達助けたのに、全然出ないってどういうことなの…」と言われていました。「そうだ!そうだ!」と私は心の中で挙手しました。宍戸さんは大きな体をかがめて、苦笑いをしていました。佐藤さんは良識のあるご婦人で、狭い了見の感情論を言う人ではありません。勇気を出して、「川並さんを出さないのは理不尽」だと監督に抗議したのです。
震災後に『被災地支援』と銘打って作られた作品や企画の中には、「誰のために作ったんだろう?」と感じるものもありました。宍戸さんには「カメラを向けた人が例え映らずとも、その人の願いは映像となる作品」を作ってもらいたいと思いました。後で知ったのですが、佐藤さんは学校の教師だったそうです。佐藤先生に《良くできました。》のハンコをもらうことが、石巻篇の映画製作の目標になりました。
それから1年、私は待ちました。次の誕生日が過ぎ、3回目の3月11日が過ぎた途端に堪忍袋の緒が切れました。「今作ってない人は一生作れないと思う」と絶交した時には、「石巻篇は夢のまた夢だったか…」と思いました。それから2ヵ月後、宍戸さんから「分かったよ、作ればいいんでしょう?」と電話が来て、「そう、作ればいいんだよ」と私が答えた時も、彼はまだ乗り気ではありませんでした。「阿部さんプロデューサーね、どうしたいか指示して」と投げやりでした。編集と追加取材が始まっても、なかなか形にならず、障害者の記録映画の仕事を抱える彼は東京や大阪に行って、帰ってきません。とうとう10月になり、上映会の前の3週間はうちに泊まり込みで編集をしました。思ったことは何とかして実行したい私と、のんびり屋でお天気屋の宍戸さんは、可笑しいくらいに衝突しました。4日前にナレーション録り、2日前にDVDができて…ギリギリ間に合いました。
そして、迎えた10月26日はお天気にも恵まれ、予想を超える来場者と、遠くから駆けつけてくれた支援者、そして川並さんや佐藤さんとの再会…。佐藤先生は笑顔で「あの時は怖いオバサンでごめんなさいね」と、花丸付きの《たいへん良くできました。》をくれました。
翌日には東京へ行き、当分取材先の施設で暮らすことになった宍戸さんから手紙が届きました。「上映会にたくさんの人が来てくれて、嬉しかった。川並さんも喜んでくれてホッとした。佐藤さんに会って、ようやく胸のつかえが取れた気がした。その他の方々に対してもずっと背負ってきた負い目を、幾らかでも返せた気がして安堵した。石巻篇を作れて良かったと思いました。」と書かれていました。
彼はこの映画のDVDを仕事の合間に焼いて送ってくれます。アニマルクラブの仲間とレーベルプリントしたり、宛名シールを作って、支援者の方々に送ります。少し時間はかかりますが、待っていてください。カンパや物資を送ってくれた方の中には住所がない方もいます。お知らせいただければ幸いです。
上映会のポスター(※デザイン/島根動物愛護ネットワーク 西原範正さん)
会場にはたくさんの方が来てくださいました。
アニマルクラブ四守護神~しんちゃん稲荷~ こと佐藤心ちゃんも東京から駆けつけてくれました。記念にパチリ★
30年以上おつき合いいただいている中島さん。「私がもう少し若ければ、ちゃこぶーを引き取るんだけれど…」といつも言う。
【あれから40年…】
考えてみれば、私は宍戸さんが生まれる前からこの活動をしています。ケンカするのは大人げない話だったかもしれません。普段の社会生活では人と争わないように努めています。できるだけ相手に合わせて動物達のために働いてもらい、「この人とはやっていけないな…」と感じた時は、言葉にはしないで距離を置き、時の指針に従いました。結婚した相手とさえそうでした。そして、年を重ねるにつれ「どうしても…」は何もなくなってきました。「なるようにしかならない」人生に翻弄されて、今を生きているからです。それを想えば、今回の映画製作は、学生時代の部活のように燃えました。お人好しの宍戸監督は「また阿部さんに怒られながら映画を作りたい」と言っています。果たして、凸凹コンビはこれからも、動物ドキュメンタリーを手がけるのでしょうか…?
私が子供の頃は野良犬もいたし、飼い猫の子供が生まれる度に川に流す人がいました。その頃のニュースでは戦火に追われるベトナムの人や飢餓に苦しむビアフラ(アフリカのナイジェリアにあった旧地域名)の子供、中国残留孤児などが報じられ、小学生の私は自分の身近にいる悲惨な動物達を難民だと感じました。「邪魔な犬や猫を集めてガス室で殺すなんてナチスと同じ」、「黒人を奴隷にしていいと勘違いしていた時代と同じだ…早く間違いに気づいてもらわねば…」と、高校生になった頃から新聞に投稿を始めました。
野良猫を避妊手術するために捕獲器を運ぶ車の中で、綾小路きみまろの歌がラジオから流れました。「あれから40年~君はこんなに変わり果てた」という夫婦の歌でした。私は40年前から変われないまま、ここにいます。不平不満を言いながら添い遂げる夫婦のコミックソングを聴きながら、動物のことを優先して離婚を繰り返してきた人生に、後ろめたさを感じていました。
大学1年の動物愛護週間に河北新報の『論壇』に掲載されたことがきっかけで、同志と出会いました。戦争中も自分は食べずとも飼い犬や野良猫を守ってきた主婦、保健所から実験動物に払い下げられて来る犬や猫に心を痛める、大学病院勤務の女性…人生の先輩から私は「いかにして助け護り抜くか」、庶民の知恵と信念を学びました。
あの頃50代だった《アニマルクラブ最初のメンバー》岩井さんは90半ばとなり、市内の老人ホームに居ます。1年に1度位しか行かないから、行く度にもう忘れられたのではないかと心配になります。しかし、私の顔を見れば「今、猫何匹いんの?」と聞いてきます。そして、「80匹」とか「100匹」と私が答えると、片手で顔を覆い、「あららら~」と絶句します。この人も死ぬまで、会ったこともない動物達のことまで気に病んで生きていくのです。
大学病院の構内に捨てられる犬や猫を他の職員に見つかる前に拾い集めて、自宅に連れ帰っていた中島さんも、もはや80歳。《おひとり様》で老猫と暮らしていますが、今回の上映会にも手伝いに来て、ゲストの『ちゃこぶー』の付き添いをしました。
先輩方の苦労を想うにつけても、「法律で『生きる権利』が認められない限りは動物達の受難は続く」と感じて、社会が気づいて動いてくれるように、動物達の現状を知らせていく啓蒙活動に力を入れてきました。
その過程で「今、手を差し伸べなければ消えるだろう命」とも出会い、年々抱える動物の数も増えていきました。どこからも補助金は出ないから、必要なお金を調達するために、昼夜働きました。特に医療費が大変でした。
アニマルクラブに寄せられる相談の解決策にも、治療が必要だったり、避妊・去勢手術が有効なケースも多く、その際、「こうするべきです」と言うかけ声だけでなく、費用を援助することが実行力となりました。石巻市に何度か「ペット条例を制定して欲しい」「避妊・去勢手術の助成金を出して欲しい」と請願し、宮城県には意見書を送りましたが、行政からの返答は、「こちらはこちらでやるべきことをやっている」という、にべもないものばかりでした。
行政との協力体制は難しいと悟り、平成20年4月から、フジコ・ヘミングさんからのご寄付でプレハブや備品を購入して、仙台の若林救急動物病院グループの協力を得て、石巻市で『避妊予防センター』を開院しました。
カルテの数は現在3400余り…遠方からも野良猫の避妊・去勢手術に来てくれるのは、低価格なだけでなく、「触れない猫の保護」、「送迎協力」、「術後管理のケージなどの貸し出し」など個々のケースにアドバイスできる経験があるからだと思います。
動物を連れて来る人の中には、生活困窮者、社会的弱者と呼ばれる、他の動物病院には行けない人達もいます。全く無料の手術や治療もあるし、分割で払う約束が反古になったり、そのまま犬や猫を押しつけられるケースもあります。治療費を払わない上に、「エサ貸してください」と来る人もいます。猫が飢えては可哀想だから、ホームセンターから買って渡すと、当然の配給のように定期的に受け取りに来るようになりました。
そしてまた、避妊予防センターは、《行政が市民とどう関わっているか》が見えてくるところでもあります。
「近所で野良猫が生まれて、このままでは増えて大変だと保健所に相談したら、動物愛護法が変わったから捕まえたりしないで、共生するようにって言われました」、「市に不妊手術の助成金はないのかと問い合わせたら、アニマルクラブを紹介されたんです」、「一人暮らしのおじいさんが亡くなり、外に出された猫がケンカしてケガをしたので役所に電話したら、引き取ることも治療費を出すこともできないと言われました…」
ここにいると、行政が本当は何をするべきなのかが見えてきます。
「論壇」に掲載され仲間を得て、パネル展や絵本を作った大学時代
1989年。仙台市一番町での里親探し。
2004年。東松島市野蒜でイベント。避妊手術の相談会も始めた。
【愛護法が遺棄に続く行政の不備】
最近、日本中のあちこちで犬が大量に捨てられる事件が続発しています。法律が変わって、保健所が安易な引き取り要請を断ることができるようになっても、そういう人は他の場所に捨てるだろうから、こんな事態を危惧していました。子供を養育する能力のない親に、「親なんだから責任持って、愛情をかけて育ててくださいね~」と声を掛けるだけで返しているのと同じことです。引き取ってもらえないために、子供はさらに悲惨な目にあい、殺されるかもしれないのです。
動物愛護管理法を強化するなら、社会が受け皿も用意しなければ、愛護法ができたことで、さらに不幸になる命が出てくるのです。《悪質なブリーダーが商売できない法律を作る》なら、ブリーダーを廃業する人の相談に乗り、手放す犬を保護する場所を用意しなければならなかったと思います。
仮設住宅でペットと暮らす人達から、復興住宅への不安や不満も聞こえてきます。「説明会に行ったら、一世帯1匹だの、体重10キロまでだのと制限されて、『2匹飼ってたら1匹は保健所にやれと言うのか』、『迷惑かけなくても体が大きい犬はダメなのか』と険悪なムードになり、結局『飼育容器1個に収容できるなら複数も可』ということになった」なんて、変な報告も聞きました。現場で対応にあたる職員が、法改正を言葉で復唱しているだけで、人の心情にも、動物の命の重さにも気づいていないことが問題だと思いました。
それにしても、『基本的人権』に匹敵する《生きる権利》が認められない限り、動物は値段を付けて売られ続けるし、交通事故にあっても放置され、飼い主がいなくなれば最終的には殺処分されるルートをたどります。行政に代わって自前の小さな受け皿を差し伸べるボランティアも、《多頭飼育の崩壊》の不安を抱きながら、先の見えない活動を続けていかなければなりません 。
昨年上映会で訪れた茨城県牛久市で、助成金がうまく回って地域猫活動が進んでいたのは、現場を知っているボランティアが動物愛護推進委員になって、行政と獣医師会を先導していたからです。県知事や市長や担当課の職員と知り合いの方がいたら、「実践経験のあるボランティアに一目置いて耳を傾け、役割分担で進める姿勢を持つべきだ」と、話して欲しいです。
20年位前に、啓蒙活動として製作したポストカード
【冬の陣が始まる。】
収容頭数が増え住む場所がなくなって、私は昨年から近くの借家に住んでいます。高齢や病気持ちで目が離せない猫を「1匹、また1匹、もう1匹だけ…」と連れて来てしまい、とうとう10匹いるのだから、ここはもう『第2シェルター』…というより『ホスピス』といえるかもしれません。食の細くなった子にあれこれ工夫して食べさせたり、痴呆の老猫達に点滴したり、排泄のケアして…先月もここで2匹看取りました。
家賃は安くて広いのですが、倉庫2階の古い建物で、すごく寒いのが欠点です。最近私は室内でもオーバーパンツを履いて防寒着を着ていますが、体調の悪い高齢の猫に寒さは禁物です。省エネしたいのは山々ですが、部屋を回ってストーブ点けたり、温風ヒーター点けたり、エアコンにしてみたり、あまり温度が下がらないように、気を配っています。
アニマルクラブの冬の悩みは、光熱費がかかることです。最近、野良猫がたくさんいる地区の住民と協力して、避妊去勢手術を進めています。しかし、いざとなると、術後傷が癒えて放せるまでの期間預かることを尻込みする人が多いのが現状です。アニマルクラブの室内にスペースはもうないから、苦肉の策として、風呂場の浴槽に蓋をしてケージを2つ乗せ、洗い場に1つ、最大3つ置いて入院させています。狭い場所なので石油の温風ヒーターでは場所もないし、温度が上がり過ぎます。小型の電気ファンヒーターしか置けません。
フードの貯蔵庫にしていた小さなプレハブの中にも、犬が2匹います。飼い主の独居老人が亡くなり、片付けに入った市役所職員経由でここに来ました。小型犬なので人の姿を見れば吠えてうるさいから、苦情が来ては困るので夜間は入れません。石油の温風ヒーターは3時間で切れるから、ここも夜間は電気ファンヒーターです。
この電気のファンヒーターは電気代がかかります。昨年真冬に、カイセンの野良猫を借家の納戸に隔離した時に最初の1台を購入したのですが、電気代が1ヵ月で10000円余り増えて、びっくりしました。気をつけて見ると、ホームセンターの棚に『1時間の電気代16.2円』と表示されていました。なるほどこれ1台で24時間で390円、1ヵ月で11700円になります。
アニマルクラブのペットヒーターの枚数や温風ヒーターやストーブの台数を見た人は驚いて、「床暖房にしたら…」とか「エアコンにした方が安いんじゃない?」と言ってくれますが、そもそも動物シェルターとして建てたわけではない、普通の中古住宅だから、できることにも、使える電力にも限界があります。限界ギリギリに避妊予防センターも建てたから、洗濯干場もなくなり、プレハブの上に特注オーダーした物干し台は、プレハブの倍の価格になりました。
「何とかしないと…」と「とりあえず」をつないで、命を収容してきました。決して「引き取る」と言ってはいませんが、とりあえずここに来たから命を取り留めた子達がいます。
交通事故に遭い、とろんとした表情で動けなくなっていた『トロント』が左の視力も取り戻したようで…健康に遜色なく活発になり、そしてとても可愛らしくなって、里親さん宅に巣立って行きました。避妊予防センター前に親子で捨てられた片目の母猫『片穂』と5匹の子猫達のうち4匹の子猫には里親が見つかりました。このうち2匹は母親から猫エイズをもらってきてしまったのですが、津波で愛猫を亡くした里親さんはこの2匹を一緒に引き取り、惜しみない愛情を注いで育てています。
先月、避妊予防センターに「家の前で、首輪をした猫が口から血を流して動けなくなっている」と電話が来ました。交通事故かと思い、「早く連れて来てください」と言うと「車がないし、お金も出せない」と言うので、迎えに行ける人を探しました。運良く見つかり、女川町から連れて来てもらったものの…すでにハエが集っていたとのこと…ひどい悪臭を放ち、目も閉じて、痩せた体は堅く脱水しきって、皮膚をつまむと全く戻りません。やはり腎臓の数値が計測できないほど悪く、肝臓もやられ黄疸が出ていました。口から血ヨダレを流していたので、てっきり事故で顎を骨折するか歯が折れて口の中を裂傷しているのだと想っていましたが、外傷ではありませんでした。口腔内がただれて血だらけなのは、放浪して衰弱して歯肉炎・口内炎が悪化したからでしょうか…。古い首輪をしてはいましたが、未去勢でしたから、自由に外に出して、帰って来なければそれまでの飼い方だったのだと思いました。
折しも、原因不明の長患いですっかり弱っていたアニマルクラブの『くまごろう』が危篤状態でした。看護助手の手伝いをしてこの猫にかかりきりになっている間に日は翳り、くまごろうは借家でひっそり息絶えていました…。多くに関わるということは、こういうことです。しかし、くまごろうが亡くなって、自動点滴機が空きました。獣医さんが「明日まで持たないと思うよ」と言った死にそうな猫に繋ぎました。「あ~ら、先生。今まで薬なんて使ったことないだろうから、抗生剤がぐんぐん効いて、ほうれん草食べたポパイみたいになるかもよ」と空元気を出しながら…。
それから3日間、『ポパイ』は血ヨダレを流しながら、ペットヒーターの上にうずくまったまま、たまに水をたくさん飲むだけでした。うっすら目を開いてきました。色んなキャットフードや鶏肉を茹でて、目の前におくと、食べたそうにはするのですが、食べることができないのです。
点滴パックが3つ空になりました。「ここまで持ったのだから、何かは食べられるはずだ」と感じました。スーパーの値下げ時を待って、猫のポパイの《ほうれん草》を探しに行きました。「これだ!」と、一番上等な赤身のマグロ刺身を仕入れて来ました。刺身を見たポパイの目の色が変わり、おもむろに皿に顔を突っ込みました。しかし…口が痛くて食べられないのです。泡ぶくと一緒に吐き出しました。痛々しい光景でした。
そして、翌朝。もう一度だけ私はチャレンジしてみました。電話が来たのが、たまたま避妊予防センターの開院日。女川町まで迎えに行ってくれる人が見つかり、自動点滴機も使えた…運の良い子は、自分で運を開いて生きてきた子だからです。「昨夜はご馳走を食えなくて後悔してるに違いない…」、死にそうな重病でも、どこかひょうきんな面差しの黒白のオッサン猫です。あの日死んだくまごろうも黒白の10歳くらいの雄猫でした。『命は連続する営み』だから、くまごろうが生きるはずだった年月ももらったような気がしていました。さすが《年の功》です。今度は落ち着いてゆっくり食べ始めました。少しずつ少しずつ…一皿を平らげた時の喜びは、「何とも取り替えられない」といつも感じます。
マグロの刺身をきっかけに、ポパイはその名に恥じない回復を見せ、連れて来られた日から1週間後には、同じ獣医さんが「奇跡だね~」と仰天するほど元気になりました。
私は小さな奇跡を起こすこの避妊予防センターを続けていきたいです。しかし、私自身が獣医ではない以上、医療スタッフが来てくれなければ運営はできません。スタッフを派遣していただいている病院で最近退職者が続いたため、これまで火曜日と木曜日の週2日来てもらっていたのが、12月よりスタッフが補充できるまでの間は週1回、木曜日だけの開院になることが決まりました。地域猫活動も進み、遠方からの利用者も増えて来たところだったのに…残念ですが、世の中は自分の願うようには回りません。しかし、生きていけば、思いがけない喜びや幸せに行き会うこともあります。鍵はいつも《出会い》です。
手の甲が痛むので見ると、両方に大きな内出血ができていました。「紫斑病になったのか…」と驚きました。「そういえば先週も太股に大きな内出血があったっけ…」たくさんの命を預かっているから、病気になるのが一番怖いです。毎日青汁と豆乳と、プレーンヨーグルト1パックにバナナ2本と大高酵素をシェイクしたものを飲んでいます。高いのでいつもは少ししか入れない大高酵素を倍増してバナナヨーグルトを作って飲みながら、一昨日のことを思い出しました。
10日前、避妊予防センターにケガをしたどう猛な野良猫が捕獲器で来て、傷の治療と去勢をいっぺんにしたものの、「麻酔覚めたら誰も触れないから」とエリザベスカラーを布テープで頑丈に留められました。外に放せるようになるまで餌づけしているおばちゃん宅にケージごと運んで、約1週間世話してもらっていたのです。おばちゃんから電話が来て「ケージの中にエサ入れるのもおっかないてば。もう傷も良いみたいだし、早く放せるようにカラーを外しに来てけらいん」と頼まれて行ったのです。仮設住宅の狭っこい玄関で、体を斜めにしながら、ケージは開けずに格子の隙間に無理やり手を入れて、洗濯ネットを被せて、ハサミを使い少しずつ少しずつ布テープを切り、スナップを外す作業をしたのでした。
そういえば、その前の週は、避妊予防センターに連れて来られた野良猫が待合室で逃げ出し、洗濯ネットで捕獲する際に太股をしたたか打ったことも思い出しました。その時はいつも一心不乱だから、他のことは覚えていないのです。思いつめた思春期から40年~『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』モードは進化も衰退もなし、といったところで、冬の陣に突入です。
暖房にかじりついている老猫たち
こんな日が来るなんて夢のよう…里親さんにあまえる『トロント』
片穂の子猫の中で一番のおちびさんだった『鈴』は、お祖父ちゃん子になりました。
片穂の娘のランとカレンは、石巻篇の映画にも登場します。撮影中の宍戸監督。
女川から運ばれて来た猫。数日前から見ながら放置されていた。
やっと家に戻ると、『くまごろう』はすでに息絶えていた。
刺身を食べ出した《復活》への記念ショット。
ほうれん草を食べたポパイみたいに、みるみる力が湧いてきた…
15年前の私。捕獲器がない頃は、ケージの扉に紐を付けて野良猫が入るのを待った。入ったら、ケージを室内に運んで、座布団カバーに入れた。やっていることに、いつも変わりはない…。
(2014年11月17日)