ご無沙汰を引きずって新年です
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『介護が半分になりました』
支えてもらったお礼も伝えられないまま、2013年が終わってしまい、焦燥感に追い立てられて携帯に向かいました。相変わらずどこでも開ける携帯電話を使って文章を書いていますが、スマートホンにしたので操作がままならず、これまでのような早打ち技は、到底披露できません。
『勝手に動く、思わぬ所に行ってしまう…』スマートホンみたいな《用事の連鎖》に翻弄されていました。8月に今はシェルターと化した自宅前に不妊予防センターを再建してから、病院の開院日以外でも訪ねて来る人や電話が増えて、何かに関わることで、誰かと知り合うことでやることが増えていきました。いろんな約束や目標が同時進行しながら、途中経過のまま毎日が過ぎていくと、疲れて眠ってしまった後も、「あれはやったっけ?夢の中でやったつもりなだけじゃないの…」と自問自答していました。そんな時、目覚めた傍らに長年苦楽を共にしてきた猫がいてくれると、ほっと救われます。
しかし、その子達ももはや15歳の大台を超えています。やせ細り、食欲が落ち、食べても吐いて、撫でた体のどこかにしこりを見つけて、ドキリとすることもあります。慢性の腎臓病などで毎日自宅で哺液している猫も6匹います。
しかし、犬の哺液は1匹になりました。11月27日、介護していた老犬ペアの片割れ『チッチ』が亡くなりました。前回の活動報告を書いてからしばらくは、後ろ脚をベルトで支えて散歩したりもしていたのですが…日に日に衰えて、散歩に連れ出しても、道端に転がり立ち上がることもできなくなりました。寝たきりになっても「美味しい物は食べるんだよねー」と笑えたのも束の間でどんどん食が細くなり、噛む力もなくなって、目も見えていないようでした。
その日、私は不妊予防センターに来た足に肉腫ができた猫を手術してもらうために、先生のクリニックに運ぶ用がありました。もう何も食べられなくなったチッチの口に、シリンジで水を入れてやるとコクリと飲みました。「すぐ帰って来るからね」と声を掛けて家を出ましたが、休日出勤して手術してくれる先生への差し入れを買い物して車に戻ると、電話が鳴ってまゆみさんから「チッチ、今亡くなりました。苦しまないで静かに逝きました」と報告が来ました。看取ってくれる人がいた時で良かったと思いました。
クリニックの看護士さんに手術する猫をお願いして、帰り道、ようやくチッチとの思い出に浸れる時を得ました。17年前、多頭飼育していた飼い主が破産してトラックの荷台に置き去りにされた中の、一番若く臆病な犬でした。山の畑の土地を借りて十数匹の犬を置いて、毎日通いました。今は大学生になった娘をおんぶして、水のタンクを両手に持って山道を登ると、途中でヘビが道をとうせんぼしていて、跨げなくて車に戻って通過してくれるまで待ったこともありました。 チッチは一度里親さんが見つかったのですが、3日後にそこから逃げ出したと聞き、山の麓の農家だったから、早朝や夜も山の中に捜しに行きましたが見つかりません。東京からペット探偵を頼んで来てもらいました。探偵さんの指示に従って、群れのボスだった犬を連れて来て木に繋ぎ、使っていた小屋と毛布を置いて、しばしその場を離れると…チッチが現れた感動は忘れられません。嬉しくて、嬉しくて…「もう一生どこへもやらない」と誓いました。
そして、その通りそれからずっとチッチは家で暮らし、『クマ』という親友を得ました。チッチはクマが大好きで、オス同士でしたが恋人同士みたいに見えたから、知らない人はみんなチッチは女の子だと思っていました。今年の秋に殆ど同時に倒れてからは、並んで眠る姿を見ながら、私は『君に読む物語』という映画を思い出しました。深く長く愛し合った夫婦が年老いて、認知症になって夫のことも忘れた妻に、夫がボランティアのふりをして自分たちのラブストーリーを読んで聞かせる話で、最期は寄り添って安らかに死んでいるところを発見されます。そんな風に、チッチとクマも一緒に消えていくのではないかと感じていましたが、床ずれに腹巻きをして、クマは生き残りました。
1匹になってからは、夜は借家に連れて来て、私のベッドの脇に寝かせています。日付が変わる頃、クマを連れ出し、オシッコさせながらゆっくり一つ隣の路地まで歩くと、鈴を鳴らして『うそじゃ』がついて来て曲がり角まで見送って、また自分の小屋に戻って行きます。子犬の頃からスパルタ教育で育てたクマだから、あっけなく逝かないでくれて、こうした時間を持てて良かったと感じています。
チッチが亡くなる間際は、クマも後を追いそうに弱っていたのですが、借家に来てからは、夜食(スーパーが値下がりする頃に仕入れるローストビーフやヒレ肉を焼いたご馳走です)を食べたり、深夜オシッコしたくなって徘徊することも…。その周りに寝そべる猫達も高齢で、私のプライベートルームは、さながら老人ホームです。
『送り人稼業』
80匹以上集めてしまったということは、80以上の命に付き合い、送り出す責任があるということです。ここ1年の間にも、『ミケ』『たま』『ハナ』『ジミー』『どんと』『ムク』そして『チッチ』…7つの命の《送り人》になりました。
年末に要らない物を処分して少しでも広くしようと大掃除の真似事をしていたら、『ジミー』が以前行方不明になった時に、五井さんが描いてくれた『たずね猫』のポスターが出て来ました。
「うちの犬の小屋に真っ白の可愛い子猫が入り込んで動かない…」と電話が来て、「子猫なら貰い手もあるだろう」と行ってみると、ガチャ目の年寄り猫がスーヒースーヒーと鼻を詰まらせていたのが出会いで、エイズキャリアとわかり家で暮らしました。
温和な愛嬌者でしたが、プレハブから逃げ出し、3週間余り行方不明になったことがありました。車でも15分はかかる水産加工の工場街で発見された時には、体の芯まで魚臭くなって、一回り太っていました。そこに行き着くまでには山を越え、トラックが頻繁に行き交う二車線道路を横断して行かなければならないのだから、見た目以上に賢いタフガイでした。その利口な辛抱強さは、命が尽きていく時も然りで、苦にならず、最期まで頑張ってくれました。虹の橋も慎重に渡り、きっと五井さんと出会えたことと思います。
大掃除では、2009年1月30日に来たこんなメールをプリントした紙も出て来ました。
『ボランティアを希望しています。家の事情で動物を預かることは無理ですので、散歩やお掃除のお手伝いが出来ればと思っています。パソコンはあまり好きではありませんが、犬や猫のイラストや文章書きは好きなので、何か役に立てればよいのですが。宜しくお願いします。』これが五井美沙さんとの付き合いの始まりでした。
私は彼女の控え目な愛情深さが好きで、来てくれる日は、ささやかな予算の中で、美味しいおやつを探しました。いただき物をした時はメンバーに分けるのですが、奥松島の焼き海苔をもらった彼女が「父親のお弁当に使います」と喜んでくれたことを、今年のお正月も磯辺餅を作りながら思い出していました。多くの死を看取らなければならないとしたら、その命が教えてくれたことを心に灯して生きていくことが、この世で出会った意味なのだろうと感じています。
『優しさを形にした人』
震災後、私は震災が起きなければ知り合うことはなかっただろう方々に出会い、助けてもらってここまで来ました。そして、出会いはタンポポの種のように心地よい風に運ばれて、あちらこちらに幸せ色の花を咲かせることもありました。
《鏡の国から》
五井さんの作品集を自費出版したことを『河北新報』の記事で見た仙台市のガラス店の社長さんが、猫の里親探しの会場を訪ねて来ました。この方は、震災で亡くなった方々の在りし日の姿を鏡に入れて、遺族に贈るボランティア活動をされていました。
「五井さんのお父さんにも、亡くなったご家族の写真を入れた鏡をプレゼントしたい」と言ってくださいました。五井さん宅は津波で何もかも流されてしまいましたが、お母さんの実家に何枚かの写真が残っていました。鏡ができたおかげで、美沙さん、お母さん、おばあちゃん…3人の笑顔が映る鏡に、お父さんは毎朝「行って来るよ」と声を掛けて出かけられるようになりました。
アニマルクラブから里子に行った犬の『モモ』ちゃんを娘のように可愛がり、震災後一緒に逃げる途中で津波に巻き込まれた森さんも、モモちゃんと一緒に鏡に入りました。震災後、森さん一家は引っ越し、息子さんにお子さんが生まれました。おばあちゃんが微笑みかける鏡が、お孫さんの成長を写していくのです。
そして社長さん、今度は、不妊予防センターのカルテ整理をしてくれているボランティアの女子大生はじめ、被災した新成人に、成人式の晴れ姿を鏡に入れて贈る提案をしてくださいました。若者の前途を祝い、家族に希望を贈ろうというのです。
プレゼンターの大友さんの事務所をお訪ねした時、耳も遠くなり、目も見えなくなってきた柴犬が、暖かい所でお昼寝をしていました。特に言葉で聞かなくても、『誰の悲しみでも悲しいことだから、自分にできるお慰めと元気になるお手伝いを…』という大友さんの姿勢を感じました。この《ミレールミラー「癒やし」》に関心ある方もいると思うので、ホームページをご紹介しておきます。
㈲大善硝子店http://www.mille-le.jp/
《シカゴから愛をこめて》
2013年10月、私はとうとう《運命の人》と会うことができました。最初のプレゼントが届いた時から、「なんて素敵なことをする人かしら!」と感激しました。幅は80センチくらい、縦120センチほどの手作りのタペストリーには、刺繍と言っていいのでしょうか…犬と猫が描かれて…ダイナミックで繊細なタッチと「命を助けてくれてありがとう」のストレートなメッセージに、《気が合いそうな予感》がしました。彼女『サラ・イタミ』さんは、シカゴに嫁いだ日本女性。現地でもセラピードッグの養成などのボランティアをしていますが、東日本大震災後は、祖国の動物達のために活動している団体にエールを送ろうと、タペストリーを作ったそうてす。アニマルクラブの存在は、私の著書『動物たちの3・11』を日本のお友達に送ってもらって知ったそうです。私はこの手の贈り物に弱く、サラさんが男性だったら恋をしたかもしれません。彼女とは、学生時代の文通のようなワクワクするメールのやりとりをしました。
「動物たちのために頑張っている人を応援したい!」と言う彼女に幾つかのボランティアを紹介して、タペストリーがプレゼントされました。一昨年亡くなった地球生物会議ALIVEの代表だった野上ふさ子さんにも、コンサートの収益を動物たちに寄付しているフジコ・ヘミングさんにも…タペストリーが贈られました。「バザーで売って収益にして!」と、アメリカの古い布で作ったバッグもたくさん送ってくれました。
夢がどんどん形になるこの人は、ついには自分を届けに空を飛んで来ました。
今度は不妊予防センターの《看板犬》を連れて来ました。一緒に松島遊覧船に乗って楽しい1日を過ごした後で、クリスマスまでにビッグプレゼントの予告をして帰って行きました。
そして…《サラ・サンタ》の傑作はやってきました!『アニマルクラブの四守護神』のタペストリーです。『キタの天満宮』も『心ちゃん稲荷』も『ビーナスちゃこぶー』も『ふてえ様』もそっくりで、生き生きとしています。四守護神はいずれも被災動物。震災がなければここに来なかったし、サラさんとも見知らぬ他人のままだったから、《縁は異なもの》です。
《普通の人々の涙と明日》
サラさんが石巻を訪ねてくれた翌日、石巻の『イオンシネマ』で、「犬と猫と人間と2~動物たちの大震災」の上映が始まりました。その初回に気仙沼から来てくれたご夫婦から、後日、マルチーズの写真が表紙の本が送られて来ました。
『そばにいるよ』は、小野寺敬子さんが震災で亡くした『レオ』くんの写真を挿し絵に交えながら、津波で命を落としたお父さんと愛犬への…「まだ信じらんないよ」「助けられなくて、ごめんね」「寂しいよ~」「思い出いっぱいありがとうね」「いつかまた会いたいなぁ」…そんなありのままの気持ちが、切々と伝わってくるドキュメンタリー絵本でした。今は仮設住宅で暮らす小野寺さんが「レオが家族として、自分達と暮らして来たことを残したい。東日本大震災で犠牲になったのは人間だけじゃない」ことを《普通のお母さん》の目線で伝えます。
気仙沼もまた津波被害が大きかった所です。小野寺さんのように、家族も友人も近所の人や動物たちも亡くして、家も流された人たちが大勢います。その小野寺さんが「同じ悲しみを抱いている方達の寂しさが、少しでも和らぎますように」と自費出版した、書店には並ばない本を、是非紹介させてもらいたいと思いました。1冊1200円です。ご注文は、アニマルクラブが取り次ぎます。
不妊予防センターにも、津波で町が壊滅状態になった北上町から猫の手術を受けに来る老夫婦がいます。「おらほの部落で残った家は2軒だけなんだ~。んだから、震災の後、帰る家なくなった猫が集まって来たんだよ」とのこと。待合室で、周りの人に「大変だでば~」「困ってるんでがすー」と言いながらも、「風邪引かせてなんねがら、ストーブ1日炊いてってば~」と可愛いがっています。「いつもまけてもらって、どうもね~」と、私達にも大根やジャガイモをお土産を持って来てくれます。
大きな不幸を経験しても、心優しく他者を思いやる普通の人々に、私もまた心暖められて、できることをやっていこうと思います。
『元旦の決意』
去年のお正月は散々でした。家が津波で全壊した近所の人が、自分達だけ仮設住宅に引っ越して、さら地に犬小屋みたいな簡易な木の小屋を2つ置いて、そこに10匹ほどの猫を残して行ったのです。うちに来るようになった2匹は保護しましたが、去年の冬に生まれた子猫3匹のうち、1匹は凍死、もう1匹は元旦にカラスに襲われて殺され、生き延びた1匹を保護して『のび』と命名して、里親さんを見つけました。
飼い主のおばさんは毎日のようにエサを運んで来ます。馴れている猫が、帰ろうとするおばさんの自転車のカゴに飛び乗ると、おばさんは「連れて行けないんだよー」と言いながら、猫を降ろしていました。するとまた猫が乗る…その繰り返しを3回も4回も続けているので、たまりかねて「連れて行けばいいじゃないですか。仮設はペット可なんですよ」と声をかけました。「狭いし迷惑になるから…」と苦笑いするばかりで、おばさんは猫を降ろし続けます。猫が可哀想で、その場で引き取って来ました。その子は、その後、震災前にせっせと浜辺の野良猫を不妊手術に連れて来ていた若夫婦に引き取られ、震災を生き延びた野良の1匹と共に、仮設住宅で暮らしています。
のび達の母親を捕まえて手術したかったのですが、捕獲器を仕掛けても他のオスばかり入って、とうとう捕まらずに1年経ってしまいました。春には次の子猫が生まれてしまいました。「無料で手術するから、捕まえて」と言っても、おばさんは「もう野生化して捕まらないの~」などと言うばかり。「また凍え死ぬ猫が出たら大変だから、冬が来る前にプレハブ建てて、電気と水道引いた方がいいですよ」と勧めても、「なかなか難しくて…」と言うばかりでした。その土地と近くにもう一カ所広い駐車場を所有している人で、経済的に無理なわけではないのですが…自分で事態を変えようとはしない人です。
やる気がないので、こちらが保温シートや毛布を持参して、小屋の補強をしましたが、大した効果は期待できません。12月の深夜には、猫小屋のある空き地の方からすさまじい猫の悲鳴が聞こえてきたので、見に行ったこともありましたが、何もわかりませんでした。
そして…年末におばさんが私の顔を見るなり、「猫が虐待されているの!」と泣きついてきたのです。おばさんがエサやりに来ていた時も、後方から石が飛んできたことがあるそうです。近くの会社の事務員さんも窓から、誰かが猫に石を投げつけているのを見たそうです。猫小屋の隣の物置には石をぶつけたようなキズやヘコミが幾つもありました。側に駐車していた車の後ろのガラスも粉々に割られて、警察を呼んだそうです。
「馴れてる猫は虐待されやすいから、その子だけでも仮設に連れて行ってください。プレハブを建てて入れて、鍵をかけないと猫を守れませんよ」とまた言ってみましたが、おばさんは「無理です~」と考えを変えないのです。何もしないで「仕方がない」と言われる命が口惜しくて、せめてできる対策として、防犯カメラを設置しました。
アニマルクラブに寄せられる《相談》の多くも、自分はできない事情を並べ立て、代わりに解決してもらうことを待っている《押しつけ型》が大半です。そんな中で、まず自分ができることで動く人には、できる限りの協力をしたくなります。
12月、不妊予防センターに、風邪を引いた野良猫を連れて来たおばちゃんがいました。聞けば、市内の山に猫がたくさん捨てられている場所を見つけて、エサやりに通っているそうです。そこには十数匹の猫がいるとか。私は「エサをあげるだけではダメだよ、不妊手術もしないと…」と話しました。すると、おばちゃんも「このまま増えていったら大変だと悩んでいた」そうです。でも、たくさんいる猫の手術代と術後はどこに置いたらいいのか…思案していました。「手術費用は無料にしますから、お宅に置いてもらえませんか?」と頼むと、住まいは小さな借家とのことで、気難しい先住猫がいるところに、風邪の2匹は連れて行くと言うので、それ以上預かっもらうのは無理な話かな、とも思いました。でも、どんどん寒くなる山の上にいる猫達を、誰より助け出したいのは、おばちゃんです。「庭に小さな花壇作っているの。そこ潰せば小屋を建てられるかも…」と言ってくれたのです。
行動の早い人でした。「大家さんの許可を得て、近所の大工さんに聞いたけど、年末で忙しくてまだまだ先になると言われたの~」と電話をよこしました。不妊予防センターを建てたプレハブ会社に相談しました。2坪(4畳)のプレハブを建ててもらうことが決まり、おばちゃんのヘソクリに、アニマルクラブからも応援しました。不妊予防センターの待合室で知り合った『かなえさん』も仲間に入ってくれました。この人は保護した野良猫の三兄妹が白血病で、すでに1匹を亡くし、現在はもう1匹が抗がん剤治療に通って来ています。自分の家の事でも大変ですが、「だからと言って何もできないわけはないですから、できることはやります」と言う強い人です。
2014年1月1日、お孫さんが来ているおばちゃんに代わって山の猫達にエサやりに行くかなえさんに同行しました。山のてっぺんまで車で登ると、茶トラ、三毛、キジトラ、グレー…待ちかねていたように、車の近くまで駆けつけて来ました。「早くちょーだい!」とかなえさんの回りを取り囲みます。ふっくら太っている子達は人なつこいから、たくさん食べているのでしょう。私の足元にもスリスリしてきて、体を触らせます。飼い猫だったのでしょう。ここで生まれた若い猫達は警戒心が強く、近づくと逃げていきます。一緒に生活してきた生き物を人の住まない場所に捨てる人の心理は到底理解できませんが、我が子でも捨てたり暴行する現実があるのだから、社会が行き場のなくなったペットの受け皿を用意しない限り、遺棄や虐待は防げないと思いました。
おばちゃんは経費節減のため、ご飯を炊いて、猫缶を少量混ぜてるそうですが、それでは猫達も不満だし必要な栄養も取れません。この日かなえさんが持参したドライフードには反応良く、私が持って行ったパウチは大喜びでした。食べ終わった猫達は雑木林に入り、木で爪を研いだり、湧き水を飲んだりしていました。一見のどかな風景ですが、雪が散らついてきました。夜も屋根もない林の中で眠るのです。キツネやハクビシンも棲んでいるそうです。
山を下り、てっぺんの群れには入れない弱い子達のところに行くと、雪は本降りになってきました。黒い子、シャム混じりの子、上にいた茶トラとそっくりな子…ちょっと目が悪かったり、足が不自由だったり…おばちゃんはここの子達を早く保護したがっています。
車の所まで戻ってドアを開けると、茶トラと三毛2匹がすぐに入り込みました。少しでも暖かいからでしょうか…、ここへ捨てられた時も車に乗せられたから、また乗れば家に帰れると思ったのでしょうか…。私は「きっと連れ出すからね」と無言で誓いました。
実は年末に、仙台で同様の活動をしてきた方から「もう疲れました。きりがないし、変わらないし…私はあと4年で辞めると公表しました」と聞き、無理もないと思ったのです。振り返れば『いななき会』の米山喜美子前代表がおっしゃっていた通り、私の人生も「動物ゆえに出もやらず、暮らしも脅かされて…」、何回結婚してもうまくいかなくて、子供達にも「犬や猫とどっちが大事なの?」と泣かれ、引きこもった息子には「俺はあんたとは何もかも正反対だよ」と言われ、時々学校や警察から呼ばれた娘には「お母さんと同じ好きなことしてるだけ」と開き直られて…その子達も自力で軌道修正して、我が道を見つけた年でもありました。また一つ年を取るに当たって、この活動と自分の人生の終わりとどう重ねるか…思案していたのです。
後ろ髪引かれる想いで猫達を降ろして、下山してから猫たちのことがずっと心配でした。寒い夜は特に気になりました。私よりもっと年上のおばちゃんが、「雪の中で震えながらエサ待ってるんだもの、1日だって休めないよー」と頑張るから、6日、「茶白のメス猫が胸と足から出血してたの」とかなえさんから聞いたので、「うちに連れて来て」と頼みました。私の車に乗って来た三毛2匹も一緒に来ました。7日には茶白の『チャオ』を傷の治療がてら不妊手術してもらいました。三毛の『はんちゃん』『あまちゃん』も明日手術して、18日に仙台市で開催される…『ふんばろう動物班』主催の里親会に連れて行く予定です。詳しくはこちらhttp://wallpaper.fumbaro.org/animal/
そして、7日おばちゃん宅の庭にハウスが建ちました。おばちゃんは大工さんも探し出して、プレハブには棚や二重扉が付いて《猫舎》になっていきます。マザーテレサが言っていたように「愛は言葉でなくて行動」だから、やれるだけやっていきます。山にいる猫たちへのフードの寄付も助かります。メールかFAX、留守電にご一報ください。送り先を連絡します。
2014年1月8日