「ご心配かけました。私は大丈夫です」

地震のあった夜から私の携帯電話は圏外表示で繋がらなくなり、そのうちに電池もなくなり、1週間余り携帯は使い物になりませんでした。その後、家に寄っ てもらったボランティアさんに頼んで市役所で充電して来てもらって以降、ようやく電話に入っていたメールや留守電を聴くことができました。
アニマルクラブの犬や猫と私の身を案ずる連絡が沢山入っていました。
私の方も里親さんの元に行ったたくさんの犬や猫たちがどうなったか、ラジオで沿岸部の壊滅的被害を聴く度に悶々としていました。ネットやメディアで取り 上げてもらえば、より多くの人に声が届けられるかなー、里親さんからも無事の知らせが来るかなーと思い、連絡がついた仲間のうち、津波の被害は免れた地区 の、ライフラインが復旧してきた人達にメールを送って、私の体験と状況をホットラインにつないでもらいました。

ホームページ担当の司くんともようやく連絡が取れ、大変な被害を受けたにも関わらず、彼が更新しましょうと言ってくれたので、お言葉に甘えます。ご心配 かけましたが、私は大丈夫です。浸水した家の2階で、62匹猫と3匹の犬プラス震災後に引き取った子犬2匹の命を繋ぐために、一生懸命頑張っていますの で、これからすべきことに、ご協力をお願いしたいと思います。

1、その日

3月11日の朝、私は気味の悪い夢を見ました。井戸のような水溜まりの中で、犬が死んで浮いている夢でした。目覚めた時の、何ともいえない後味の悪さを 抱えたまま、昼過ぎ、私は多賀城市民会館に向かいました。昨年11月に開演されたフジコ・ヘミングコンサートの収益からの寄付がいただけることになり、翌 日から2日間、記念のパネル展をすることになり、市民会館でその準備をしていました。地震が起きたのは3時からの贈呈式に出席するために、市長がいるすぐ 近くの市役所に移動しようと言われて、事務室に行った時でした。
ものすごい揺れを机の脇にしゃがみこんでしのいで、大きな揺れが治まったところでパネル展の準備をしていたホールに移り、片付けをしましたが、何度も何 度も地震は繰り返し襲って来て、職員の女性達の悲鳴が響き、女も男も顔面蒼白でした。32年前の「宮城県沖地震以上だよ」と誰かが叫んだのを聞いて、私は 早く帰らないと、もう戻れなくなると感じました。あの時は学生で、電車が止まり、仙台から動けなくなり、友人宅に4、5日泊めてもらって、バスを乗り継い でようやく帰ったのです。多賀城市民会館は地元の人の避難場所になっていたので、続々人が増えてきました。危険だから、ここから出るなと言われないうち に、パネルは落ち着いたら取りにくるから保管しててくださいと伝言して、すぐに車に乗り帰路に着きました。

ところが、あちこち通行止めと大渋滞で、いつもなら1時間の道のりを5時間かけて石巻に戻りました。全然進まない車の中で、『大津波警報』を聞いた時、 私は、今朝の夢と外に繋いである犬の「リコ」と「マメコ」が頭に浮かび、「なぜこんな時に私は家にいないの?寄付もらいになんて来なきゃ良かった。お金な んていらないから、早く帰して!最近、リコとマメコが特にうるさくて怒ってばかりいたけれど、天変地異を察して吠えてたんだ。あんな夢も見たのに、気づか なかった私が馬鹿だった」と繰り返し頭の中で渦を巻き、今朝散歩して、出掛けに、リコが倒して壊した犬小屋の中で寝てる写真を撮って、笑ってきた幸せが崩 れていく恐怖が、ひしひしと胸を締め付けました。とにかく、帰りつかなければ…という決意だけを強く、地震で段差が生じてガタガタになった道を行ったり、 戻ったり、いろんな人に道を聞きながらゆっくりゆっくり石巻に近づいて行きました。
あたりは真っ暗になり、出先から私より先に石巻に帰りついたメンバーから、携帯メールで、バイパスが水没して、車は進めずパチンコ店の屋上駐車場に避難 したら、もう歩いても行けない、という情報を聞いてたので、メインストリートは避けながら、何とかいつも買い物に行く生協までたどり着き、駐車場に車を置 くことができました。ここからは歩いて橋を渡るべきだと判断しました。まず、近くの消防署に「トイル貸して下さい」と入って、私が住む町の情報収集しよう としましたが、増水して通行止めだとしかわかりません。

車から持って来た懐中電灯で照らしながら、ブーツより深い水の中を進み、橋を渡りました。いつもこの橋を渡る時、町内のパチンコ店の協力で、店の広告用 の電光掲示板に、「動物の遺棄・虐待は犯罪です」や「不妊・去勢手術で捨てる命は生ませない」などのコピーが流れているので、私はこの橋を通るのが好きで した。ところが、外灯も信号もなぎ倒され、景色は一変していました。橋の上には、立ち往生している車が止まっていました。橋を渡りきって、そのわけがわか りました。水が私の胸の下までありました。「リコとマメコは死んでる、実家に置いてるムックだって…」とわかりました。家の中の子たちだってどうなってい るかわかりません。いろんな物が流れて来ます。大きな木の枝や材木や船の浮きや灯油のポリ缶などの漂流物にぶつからないように、漕ぐようにして家に着く と、マメコとリコを繋いであった庭も水浸かりで、犬小屋を持ち上げることすらままなりません。  家に入ると、玄関には膝近くまで泥が入り込み、廊下に上がっても、泥が30センチほどたまっていました。ゲージに入れて洗面所に置いてた子猫を、恐る恐 る覗き込むと、私を見つけゴロゴロ喉を鳴らしたので、胸を撫で下ろしました。キャリーバックを持って来て、2階へ運びました。リビングに並べていたゲージ にも、泥はたっぷり入り込んでいましたが、みんな無事でした。1階の犬と猫を2階へ運びました。

猫を入れているプレハブ2棟は、土台のブロックから外れて、傾いていました。元野良猫10匹を収容している大きい方に入ると、オシッコをあちこちにかけ るからと入れていた「クララ」の2階建てゲージが倒れて、水に濡れたクララの死骸を発見しました。他の子は高いところに上がり、怯えきっています。明るく ならないと運び出すことは無理と判断して、もう1棟のエイズキャリアの子達のプレハブを見に行くと、みんなの寝床になっているこたつが泥を被っていたの で、この部屋の子5匹はキャリーに入れて、家の2階に移しました。 次に、通りは水かさが引かず、隣のアパートを通って実家まで行き、泥に浸かっている犬小屋を覗いた時、私はここで10年以上暮らしたムックの最期を目撃す るのかと思いました。ところが、小さく名前を呼んでみると、泥だらけになったムックが出て来ました。嬉しくて、担いで家に運んできました。
その夜は、泥に浸かった部屋の中から着られる服を探して着替えて、机の上に腰掛けて、猫の「団蔵」を抱いて、毛布にくるまって寝ようとしましたが、一睡もできませんでした。

2、その後

翌日、確認すると、買い置きのドライフードは水に浸かり、家の裏に積んでいた猫砂も流されていました。意を決して、リコとマメコの犬小屋を引き上げる と、マメコは小屋のなかで、リコは小屋の脇で、泥でできた人形のように横たわっていました。ふたりとも目をあけたままで、心細げな顔をしていました。マメ コを抱き上げた時の体の冷たさは、一生忘れないと思いました。クララは、物凄い形相でした。どんなにか怖かったのでしょう…。その後、油臭い黒い泥が溜 まったクララのプレハブから、人なつこくない猫達を、2階に移す作業が大変でした。その時に噛まれた傷が、腫れて痛くなってきました。

15年来のボランティアの岡さんが、おにぎりと水を持って来てくれました。「リコとマメコとクララが死んだよ」と言うと、岡さんはわぁーっと泣き出し、 「昨日来てみればよかった。来れなかった」とすすり泣きました。その日は、2人で庭に山になっていた瓦礫を片付けました。
日本動物福祉協会にSOSを送ろうと思いました。私の携帯は使い物にならないから、電話かそれに代わる通信手段があるところに頼みに行こうと思いまし た。福祉協会の連絡先、電話が出なかった時に仲介してしてくれそうな人の携帯番号、欲しい物のリスト、私の住所などを書いたメモを数枚書いて、早朝出発し ました。車が動くか確認しに生協の駐車場へ行きましたが、浸水していて、エンジンがかかりませんでした。消防署に行き、電話か無線のような物で伝えて欲し いと頼みましたが、電話は通じないので指令部に伝えるからとメモを受け取ってくれました。帰り道、自衛隊のジープとすれ違ったので、手を上げて、メモを渡 してお願いしました。

家に戻ると、岡さんがまた来てくれたので、市役所勤務の岡さんにもメモをお願いしました。岡さんは看護師の仕事で忙しくなり、手伝いにはもう来れないとのこと。しかし、その後も水と食料は届けてくれます。
午後から、いつもリコとマメコの散歩をしてくれていたまゆみさんが来てくれて、死んだとわかるとどっと泣き出したので、私もつられて泣いて、少し気がラク になりました。その時、近所の一人暮しのおじいさんが、家の中で亡くなっていたのが発見されました。いつも柴犬を散歩させていたおじいちゃんです。犬は元 気で、ガラスを壊して入った娘さんのご主人が連れて行ってくれました。翌日もまゆみさんは来てくれたのですが、あとはガソリンが手に入る来れなくなるとの こと。三浦さんのご主人も自転車で来てくれました。外れて危なかった蛍光灯の傘を直してもらい、倒れていたプロパンガスを直して使えるようにしてもらい、 とても助かりました。パチンコ店の屋上に2日降りられなかった高橋くんも帰って来て、高校時代ボランティアに来てた大学生の聖くんも来て、掃除を手伝って くれました。津波に追われて、山の上に駆け上がり野宿したそうです。翌日下山して、近くの避難所に行ったら、人で溢れ、食料もなく悲惨だったと言っていま した。アニマルクラブ縁の方々が何かしら物資を届けに来ててくれたので、一安心できて、本当にありがたかったです。さらに、その翌日には、福祉協会から依 頼を受けた新潟のボランティアさんが砂やフードを届けてくれました。その後も他県のボランティアさんが避難所にフードを届けなから、家にも寄ってくれまし た。そして、男性が2人揃った時に、いつも散歩に行く山に穴を掘ってもらい、リコ達を埋葬しました。

私の住む不動町災害本部を中継地にして、看板立てたので、何人かの人がフードや薬をもらいに来ています。避難所に入る人から猫預かったからと、ゲージを 借りに来た若者がいました。津波で自分の愛猫は流されたおばあちゃんが、避難所に猫連れて来た奥さんが困っているからと、タクシーでトイレやキャリーを借 りに来ました。尿道結石などで療法食与えてた子、慢性疾患で薬を切らせない子は深刻です。さまよっていた犬を連れて来た人もいて、千恵さん、裕子さん宅で 保護してもらっていますが、裕子さん宅に頼んだナナちゃんは、余震が怖くて大騒ぎして、あちこち噛んで壊して、一度逃亡しました。

地元のラジオ石巻で、支援物資を配布できることを伝えともらうことにしました。NHKにもお願いしました。取りに来れない人には、今野さんの携帯に電話 もらって話を聞き、避難所を回っている方々に連絡取ってお願いすることにしました。そうしていく過程で、必要な協力を皆さんにも呼び掛けていきますので、 どうかよろしくご支援ください。なお、私の手の傷は抗生物質を飲んで治まりましたので、大丈夫です。車も、心配して電話くれた、自動車修理業の私の店のお 客さんに直してもらいましたので、動けます。昨日は、高橋くんが近くの避難所に物資を届けました。猫のトイレ砂、缶詰め、つめとぎ、小型犬のフード、リー ドやブラシが欲しいと言われました。避難所内で犬に猫が噛み殺されたことを聞きました。動物アレルギーの人もいるから入れてはダメと言われた所もあったそ うです。私達自身も被災者なので、充分なことはできませんが、もっと大変な人と助けを求めている動物達のために、一致協力、役割分担して頑張りましょう。