■活動報告『クラファン、お世話になっております』
投稿日:
お陰様で新しい景色を見せてもらっていますが、この活動の宿命ともいうべき、『一寸先は闇』の日常に翻弄されて、毎日やっとやっと暮らしています。ご支援へのお礼も迅速にできず、申し訳ありません。
_________________________
【 まさか、いなくなるなんて… 】
想定外でした。かなりの年寄りなのだから、当然の成り行きなのですが、またしばらく調子悪くなっても、持ち直すに決まっているように思い込んでいた気がします。
しかも、捨吉から亡くなって10日には『おさと』、その10日後には『ペル』と…同じ部屋の老猫3匹に次々にお迎えが来たのです。
どの子も以前はアニマルクラブで暮らしていましたが、高齢になり、体調が悪くなって対応しきれなくなってきたので、余生を過ごすために私が住む借家に移って来ました。皮下点滴に注射を入れたり、食べさせる内容を工夫したりして、それぞれ2年余生き延びました。
『捨吉』は震災後、泥の上がった川辺の神社に、成猫なのに箱に入れて捨てられ、動きもせずにその中にいたそうです。その神社というのは、震災の2年前まで私が住んでいた嫁ぎ先の目の前にあって、乞食のお爺さんが住み着いていました。私は時々、大きなおにぎりを握って届けていたので、ぞろぞろと犬や猫を連れでその家を出た後で、おにぎりを届けられなくなったお爺さんのことを時折思い出しては、申し訳なく思っていました。津波で亡くなったものか、その前にいなくなったのか…その後、近所にお住まいの人に聞いても「見なくなったねぇ」と言われただけでした。
その神社に捨てられていたのは、酷い風邪を引いたシャムミックスで、子供が拾って来たからと動物病院に連れて来た奥さんは「家の猫にうつるから、連れては帰れません」と言い張っていました。当時、不妊予防センターも被災して、ショッピングモールの動物病院の第2診察室を間借りして営業していた私は、思わず第1診察室に飛び込んで、目ヤニと鼻水で顔もはっきりしないこの猫を保護しました。先生は老猫だと言い、その顔が私には乞食のお爺さんと重なりました。
おどけた顔で、やることなすこと笑える猫でしたが、気が強く、嫌なことは頑として受け入れず、補液や注射するのも一苦労でした。食欲旺盛で、食べた物をベロっと吐いた後でも、すぐに食べたがっていました。
その捨吉が、何を見せても食べなくなりました。食べなくなってから半月、それでもこれまでと変わりないように過ごしていました。その間3回思い出したようにミルクを飲み、水だけは飲み続けていたのが、3日前から飲まなくなり、シリンジで与えると嫌がり、少しずつ死に向かって行きました。前日から寝たきり動かなくなっても、咳き込んだりけいれんしたりすることもありませんでした。
ここまで生き抜き、最期は枯れるように歩けなくなり、食べなくなり、飲まなくなり…まさに老衰でした。堂々たる風貌で、愛嬌者〜『くよくよしないお守り』になっています。

死に臨む捨吉は、ありのままを受容しようという、慈悲の眼差しをしていました。
『おさと』はトラバサミに掛かって左前足の肘から下をちぎって抜け出し、その体で子育てしていた、たくましい野良猫です。目の大きなキジトラの美人さんだったから、アニマルクラブのエイズ部屋にいた頃はモテ過ぎて、オス猫にしつこくされているのが可哀想で、部屋を替えたこともありました。
人懐こく甘えてくるので、ボランティアさんにも人気でしたが、老いて乳がんになり、手術後、転移を観察するためにこちらへきました。でも、そこから復活して、捨吉や、交通事故の後遺症でオシッコもウンチも自分では出せない『カラ』とウマが合って、仲睦まじく暮らしていました。近年は認知症で、夜中朝方叫びまくり、異常食欲で、息絶える日の朝まで完食していました。波乱万丈な女の生涯は、眠るように穏やかに幕を閉じました。

おさとは捨吉の押しかけ女房みたいに、汚い捨吉の顔をかいがいしく舐めていました。

年下のカラといる時は、アバンギャルドな雰囲気で…場面場面で表情が変わる女優さんみたいな『いいオンナ』でした。

人に対しても、甘え方を心得ている一流ホステスで、こうやって子供育てて、避妊手術も受けさせてもらって、アニマルクラブにたどり着いた才女とも言えます。
『ペル』もまた大分ヨレヨレになりながら、紙切れみたいに薄っぺらに痩せた身体で食べ続けて、頑張ってきました。2日前まで完食して、前日からいよいよ食べられなくなってきて、それでも皿を見ると顔を上げて、亡くなる直前まで食べようと構えていました。
田んぼや沼がある田舎から不妊予防センターに避妊手術に連れ来られた野良猫でした。連れて来た人は、里親が見つかった子猫の方だけ連れて行き、ペルを置いて帰りました。
アニマルクラブの2階の部屋で生活を始めたら、マンソン裂頭条虫の頭部を吐き出しました。虫は凄く怖い顔をしていました。来た当初から小柄で痩せていたのにガツガツ食べたのは、お腹に巨大なサナダムシがいたからだったのです。当時来ていた獣医さんが「頭はすごく貴重、標本にしたい」と、サナダムシ頭部を持って帰りました。
置き去りにされて、10年以上アニマルクラブで暮らして、だんだん弱って、一度死にかけたので借家に来ました。しかし、その後蘇り〜すっかりボケて体重1.5キロ足らずまで痩せ衰え、素っ頓狂に鳴き叫んでいました。
ごはんの支度している時までは、何とか生きていたのですが、運んで行った時には息絶えていました。周りのみんなが食べたくて大騒ぎしている声に送られて、旅立って行ったようです。

アニマルクラブにいた頃はなかなか触るのも難しかったペルですが、ボケたお陰で補液や注射もできるようになり、その結果、長生きすることができました。
3匹ともみごとに生き抜いた、『あっぱれトリオ』でした。
みごとに長寿を全うした猫達との別れは寂しいけれど、納得はできます。そして、ごはん作りの時、これまではようやくのっけて運んでいたお盆がスカスカになって、掃除するトイレも減って…確かに作業が軽減したのです。看取って解放される〜それを繰り返して、自分の体が動くうちにこの活動を終わらせていく責任も感じました。
やりきれないのは、突然の悲劇です。ペルを看取った翌日、隣の部屋でバタンバタンと音がするので行ってみると、三毛の『乙姫』がケージの中で転げ回っていたのです。呼吸がおかしく、一目でただ事ではないことを悟り、動物病院に直行しました。運転しながら、ずっと「おとひめー、おとちゃん、お母ちゃん、いるよ〜一緒に病院行くからねー」と声を掛けていました。想った通り、心筋症から血栓ができた重態で、入院。
過去にも同じ病気になった猫が2匹いました。1匹はさっきまで「早くごはん持って来て〜」と鳴いていたのに、持って行ったら、前のめりの姿勢で即死状態でした。もう1匹は、体に水が溜まったようにパンパンに膨れて、入院して3日後に亡くなりました。
ところが、今回は4日目に面会に行くと、「経過が良いので、週明けに退院できそうです。帰っても酸素室に入れて、静脈点滴を流してね」と注文が付きの退院宣告。酸素室を覗くと、いつも通りの可愛い顔で小さく「シャー」と言ったから、回復したと思いました。獣医さんから「後ろ足がダメになっているだろう」とも言われました。乙姫はすでに腫瘍で左前足を失っているから、前後1本ずつしか使えない重度障害になりますが、これまでに6年共に暮らした間柄だから、面倒は見れるだろう、と想いました。生きていれば何とかなる…と喜んだのも束の間、翌日、「急変して亡くなった」知らせが来ました。
そして、遺体を引き取りながら、支払いをすると、4泊5日の入院・治療費は15万円でした。

腫瘍ができて左前足を付け根から切断した乙姫は、しばらく人馴れしませんでしたが、ここ1〜2年、お腹を出して甘えるセクシーポーズを見せるようになりました。

動物病院の酸素室を覗いたらシャーと威嚇されたから、「おっ、元気になったな〜」と嬉しくなって、介護する準備をしたのに…一寸先は闇です。
【 重くのしかかる医療費 】
交通事故の後遺症で自力で排尿も排便もできなかった『カラ』も、昨年末、何をやっても便が出なくなり、痙攣も起きて死にそうになり、入院。その後仙台の病院に移って、肛門を広げる手術を受け、今年になって歯肉炎の悪化から食べられなくなって、2回に分けて殆どの歯も抜きました。カラは治療の甲斐があって、この春からウンチは自分で出せるようになり、食も進んで、目に見えて、摂った栄養が身に付いてふっくらしてきました。しかし、この健康体になれるまでには40万円近くの費用がかかりました。
不妊予防センターがあった頃は、獣医さんが毎週診てまめに検査してくれたし、そこで手に負えない手術や治療は、先生が勤務する病院で、割引してやってもらえました。
状況は一変しました。その後体調が悪くなって、一般の動物病院に連れて行った犬も猫も、3〜4万円ずつ支払っています。医療費をどう賄うか〜それが大きな課題なのです。
お陰様で、ケアハウスのクラウドファンディングは期間半ばで達成することができました。リモート会議で、クラファン会社のスタッフから、ネクストゴールの説明を受けました。次の目標を立て、到達しなくても入った分はいただけると聞いても即答はできませんでした。その翌日、地元紙から「アニマルクラブのクラファン挑戦を取材したい」と連絡があり、今回返礼品を提供してくださっている、イラストレーターの柴本礼さんから、「是非ネクストゴールを立てるべき」と背中を押されて、この先を見つめました。
チャンスがまだ半分残されているのであれば、医療費を備えて、体調不良に怯えることなく、ちゃんと対処する姿勢を守りたい気持ちが本心だと気づきました。いつも使っている薬や点滴、定期的な通院、検査、ワクチン〜そして想定外の病気に備えて、必要となる費用を概算してみました。それをクラウドファンディングの折返し地点から掲げ、ネクストゴールを目指すことにしました。せっかくの機会だから、最終日まで、できることをやって行きます。
なお、今回ご支援くださった皆様の多くが、応援コースを選んでいます。
柴本さんが描いた【アニマルTOWN】のクリアファイルやポストカード、システィーナさんがご提供くださるダイヤモンドのネックレス、そして、
【アニマルTOWN】に開店する『ねこ小物・雑貨 やまきん』は、クラファンのリターンを前哨戦にすべく、猫グッズ福袋や捨吉や梵天丸、たけやん、幸多のお守りに続いて、犬派のために、わんこグッズも製作しています。丁寧な仕上がりでリバーシブルで使える、渋谷さんオリジナルのお散歩バッグも、わんこ福袋に入ります。だから、もっと多くの方が希望してくだされば、みんなで作ったケアハウスの素敵なメモリアルになります。発送はクラファン終了後でまだ先だから、「応援コースで申し込んだけれども、ダイヤのネックレス、シルバーを希望します」というような変更も歓迎です。アニマルクラブにメールでお知らせ下さい。どうぞ、ご遠慮なく〜皆様に心おきなく、できれば愉しんでこのプロジェクトにご参加いただくことが、何よりの願いです。
クラウドファンディングは1度限りのビッグチャンスです。そこで繋がった多くのご縁を、今後はアニマルクラブ石巻のホームページやインスタグラム等を通して、紡いでいきたいです。リニューアル準備中の【アニマルTOWN】に、面白くて役に立つ施設や店舗を並べ、訪れる人を増やし、買い物したりサポーターズクラブに立ち寄ってくれる人も増やしつつ、皆さんが日常に疲れたら、行きたくなる街にしたいです。
【 サポーターズクラブ 】
今回のプロジェクトは、夢のあるサポートに支えられています。返礼品【アニマルTOWNマップ】のクリアファイルに、作者の柴本礼さんがオマケに付いてくれたポストカードに描かれているブチ柄のデブ猫さん〜いつも愉しそうで、ちょっとトボケてて、チャーミングなので、「モデルは誰なんですか?」と、柴本さんに聞いてみました。
『絵のモデルのぶち猫「にゃんにゃん」のエピソード』
柴本礼
私が中学生だったある晩に、兄が友人の家で生まれた白黒ぶちの子猫を、突然連れて帰ってきました。
家で動物を飼っていなかった当時、母は驚いて「やだぁ〜」と言ったのですが、兄が箱を開けて顔を出した子猫を見た瞬間、母は「あらぁ!かわいい!」と歓声をあげ、以来14年の猫生を全うするまで、それこそ猫可愛がりしました。猫が亡くなった後も自分が亡くなるまで33年間、毎日愛猫のことを話していました。今は天国で、愛猫と両親は仲良く暮らしていることでしょう。
私もその大人しいおデブ猫が大好きで、ユーモラスな絵にして描いて発表していたところ、その絵に目を止めてくれた広告デザイン会社の人から西友のカレンダーイラストを頼まれました。全国250店舗以上の店頭で無料配布されて大人気になりましたが、5年続けたところで一休みしたくなり継続依頼を辞退しました。けれど26年経った今、また描きたくなっています(笑)。
とのこと〜全国制覇した人気者だったんですネ。【アニマルTOWN】でリバイバルとは、光栄です。愛されるものは、無邪気でどこか懐かしい〜『にゃんにゃんファン』を増やしていきましょう!

◎にゃんにゃんのポストカード8枚組は、クラウドファンディングの返礼品に、【アニマルTOWN】クリアファイルを希望された方へのオマケに付いてきます。
◆カルロスの粋なはからい
どこから見ても日本人ですが、「カルロスと呼んでください」と彼は言いました。幼少期をブラジルで過ごしたそうです。大人になってからは、ダイヤモンドの買い付けで世界を駆け回る、インターナショナルな方です。そのせいか、フットワークの軽い、自由人〜震災後に、支援物資を届けに来てくださったのが出会いでした。それから、東京や仙台で何度か会いましたが、その度にサプライズを披露してくれる方でした。
今度は…「クラファンの返礼品にダイヤモンド?」と驚嘆の声が上がる仕掛け人。このチャーミングな人がアニマルクラブに支援を続けてくれているのは、彼自身が長年、障害のある猫さんのお世話をしてきたからなのです。
『我が家に幸せを与えてくれたラッキーの物語』
高見澤浩
2011年、東北の震災があった年の1月4日の朝、愛犬とお散歩に出掛けた際に、自宅近くの杉並区の環状八号線で、若い猫が車に轢かれてしまいました。
中央分離帯で、パニック状態になっているところを抱き上げたら、胴体がダラーンと伸びてしまい、慌てて毛布に包んで、動物病院に駆け込みました。
色々と検査した結果、背骨が折れていて、3箇所も骨折があり重体との事でした。
治療するにはかなりの大手術をしなければならないとの事でした。「検査までの治療費は頂きますが、それ以降の入院費や手術代は動物病院の方で面倒を見ましょう」と言っていただきました。ただし、治癒した後の引き取りと面倒を見ることが条件でした。
もちろん救った命ですから悩むこと無く、「わかりました、お願いします!」と返答しました。名前も無かったから、命拾いしたので『ラッキー』と名付けて、週に2〜3回面会に行きました。
ラッキーは2011年に3回も大手術を行い、1月から11月まで入院生活を送りました。里親探しもしましたが、結局我が家の仔になりました。
我が家に来た当時は人見知りが酷くて、すくんで動かず、人間に懐くか心配していました。それでも、背骨を折った後遺症で、神経が切れていて毎日オシッコを圧迫排泄したり、肛門から指で摘便しなければならなかったので、触れ合っているうちに自然に懐いてきました。
しかし、野良猫ちゃんなので、家のありとあらゆる物を漁っては食べて、キャットフードだけを食べるまでに1年ほどかかりました。そして、隙があれば外に脱走してしまいましたが、家にはご馳走がある事も学習して、毎日お腹が空くと帰ってきていました。
先住猫のモモちゃん(同じく保護猫)にはしょっちゅうシャーっと怒られていましたが、3年目くらいから完全に家族の一員になり、夜は毎日お母さんとベッタリくっついて寝る様になりました。
そのラッキーのお母さん(私の妻)は2020年に突然亡くなってしまい、毎日ラッキーは1人で妻の写真の横で寝る日々になりました。
当初は妻と交代でオシッコとウンチを世話してましたが、妻がいなくなってからは毎日最低2回、私一人で、どんなに酔っ払って帰っても二日酔いでもお世話していました。
可愛いのは、私が晩酌する際には必ず横について寄り添ってくれて、ぷるにゃん!ぷるにゃん!と甘えてくれていたのがとても愛おしかったです。実は私のおつまみを貰うのが目的でもありましたが…
男の子だったので、色々な動物を捕獲してきては自慢して見せてくれましたが、ヘビやら鳥のヒナやらネズミやらで家に帰ると家の中が血だらけで何度も驚かされました。
女の子の友達も出来て、家の中で仲良くしていてびっくりした事も何度か….
仕事から帰宅して家の近所で「ラッキー」と呼ぶと、どこからともなく走って現れて、毎日お迎えをしてくれました。
そんなラッキーも歳と共に膀胱炎を頻繁に起こしやすくなってしまい、抗生剤を飲ませても食べ物ごと嘔吐して、薬を受け付けなくなって我が家で2011〜2025年の15年過ごしましたが、残念ながら家の片隅の目立たない場所で息を引き取ってしまいました。
思い残すことはとても多いですが、瀕死で死にそうな状態から、16年間も私達の家族として生きてくれて、たくさんの笑顔を与えてくれた事に心から感謝しています。
今は天で元気に走り回っている事だと思います。



「抱っこして甘えて、一緒に寝てくつろいで、アドベンチャーもやらせてもらえて、ボクも100万回生きたみたいに幸せだったよ」 by ラッキー
【 夏祭りの夜 】
8月1日、2日は石巻市の『川開き祭り』でした。ずっと雨が降っていたので、「今日やるのかな?」「花火、無理なんじゃない」と、ボランティアさんも噂していました。それでも、日が暮れると、花火が始まりました。私はもちろん見物に行きませんが、猫達のごはん作りをしている台所の窓から、何割か…見えました。窓を閉めているから音もあまり聞こえなくて、暗闇にパァーッと一瞬、赤や黄色や緑色の大輪の花が咲き、光の粉になって散っていくことが繰り返されました。窓に細かな雨が当たって、涙の向こうの遠い思い出のような景色でした。
震災があった年も、『復興花火』と銘打って、夏祭りは開催されました。当時、遠方から若いボランティアさんが来てくれていて、促されて私も何十年ぶりに花火見物に同行しました。ボランティアさん達を喜ばせたくて、母に浴衣まで着せてもらって出かけたのですが、だんだんしらけてきて、「疲れたから先に帰るね」と言って、群衆から離れました。
馴れない下駄で足を痛めながら、家に向かっていると、「アニマルクラブの阿部さんじゃないですか?」と、中年の女性に声をかけられました。息子さんらしい若い男性と並んでいました。夜だし誰だかわからなかったのですが、「猫の避妊手術でお世話になった女川の…」と名乗っていただき、すぐにわかりました。女川町といえば、海辺で、原発もあり、石巻市以上に津波被害が深刻な所です。
「あら〜、震災、大丈夫だったんですか?」と思わず尋ねてしまいました。すると…
あの優しいご主人が、近くの町営住宅で暮らす両親を助けに行って、3人とも亡くなったことを聞きました。そもそもそのおじいちゃんとおばあちゃんが野良猫に餌付して、「野良が増えていく」と悩んで相談をよこしたのが、息子であるご主人でした。ご主人はお店をやっていて忙しく、奥さんは車が運転できないと聞き、私が猫達の避妊手術の送迎をしました。ご両親に対しても決して怒ったり責めたりしないで、猫を可愛がり、いつも私にお土産まで準備してくださる、懐の深い、情の細やかなお父さんでした。巨大津波の中、年老いた親達を庇って、どんなにか苦しく恐ろしい思いで絶命されたのだろうと想うと、返す言葉もなくなりました。
奥さんはあの日、息子さんの車に乗せてもらって、石巻の病院に来ていたために、難を逃れたそうです。「もうすぐ引っ越すので、今日、阿部さんに会えて良かった」と言われると、こちらが泣きそうになってしまいました。

お会いしたこともないけれど、埼玉のおばちゃんは、遠くから気遣ってくれる親戚の叔母さんか、従姉みたい。「開けましてこんにちは」で始まる差し入れ小包は、かつての『おもちゃの缶詰』みたいに、私を無邪気にしてくれます。
熊本でまた地震が起きました。15年前、私が暮らす町の避難所になった小学校では、犬を入れることを禁止され、小型犬以外は外に繋がれました。校庭に押し寄せる津波に驚いて、犬を助けに行こうとしたご主人の腰にすがって「お父さんまで犠牲になるから行かないで〜」と止めた奥さんの後悔や、溺死した愛犬の遺体が車の下に挟まって取り出せなくて、ずっと泣いていたおばあさんの話を聞きました。
年月を経ても…熊本でも、ペットがいるから避難所には行かず、車中泊しているという高齢者が映っていました。熱中症やエコノミー症候群になるのが心配なら、ペットを連れて堂々と入って行ける避難所を用意するべきです。
近年、地震や地球温暖化による異常気象のニュースや特集が増えました。多くの日本人が「これからどうなっていくんだろう?」と怯えながら生活しています。怖いと感じているうちに対処しないと、取り返しのつかない事態になるのは、小さなコミュニティでも、国家でも一緒だと思います。
日本の動物愛護には、国や自治体から助成金は支給されていません。必要な経費は、自分達で用意しなければなりません。どうやったら活動が認知され、援助してくれる人が増えるか?それぞれの方策を打ち出していかなくてはないのです。
会を立ち上げる時に相談され、その後もできる協力はしてきた仙台の愛護団体の代表者は、よくテレビに出ていました。有名になり、寄付も集まったけれど、あちこちから依頼を受けて、収容する猫や犬も増えました。忙しい彼女は、癌になったのに治療も受けず、心身の限界を超えたのか…ボランティアさんと衝突して、会は分裂。1人で70匹も連れて、辺ぴな所に引越し、無理がたたり病気も悪化して倒れたことを、救急搬送されてから、初めて聞きました。本当に切迫した状態になると、人は助けを求めることもできないのかもしれないと悟りました。道連れになるのは、「助けて欲しい」と託された動物達です。彼女は亡くなり、お金はもう残ってなくて、残された動物達は、仙台のいくつかのグループが引き取ってくれたそうです。
綱渡りの動物愛護事業を長年続けてきた私は、頼みの綱のスペイクリニックを失って、クラウドファンディングに打って出ました。お陰様で、借家を出て、住みやすいケアハウスに引っ越せます。当面の医療費も蓄えて一安心したら、ホームページの中に、【アニマルTOWN】を作ります。ここに集う人を増やして、この先の活動を支えてもらいたい〜それがアニマルクラブ石巻が打ち出す方策です。
小さなコミュニティ〜限界集落の老猫ホーム兼緩和ケア病棟の管理人をやりながら、タウン誌の記者や広告のライターをやっていた頃のように、【アニマルTOWN】を面白がって創っていきます。
私にできるのはそこまでだから、次世代の人達が、日本の動物達の生きる権利を、国政に打ち出していく、レボリューショナリーとなることを期待します。地に足をつけ、客観的、合理的な動物愛護を法律に当てはめることのできる人材に出て来て欲しい〜それが私が見る【真夏の夜の夢】です。

柴本さんが送ってくれた、震災後に石巻に来てくれた時のツーショット。ふたりともまだ若かったね〜

年は重ねても、夢見る心は忘れない。夜空の星に、動物達の幸せを願いましょう。
2026年8月2日