幸せになった猫DANZO
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食べ物を探していたのか、メスネコを追いかけていたのか、ケンカ相手に追われていたのか・・・
遠くの意識の中で、道路に飛び出した理由を、思い出すこともできない。
車にはねられた茶トラのノラネコは、道路の端っこに吹き飛ばされた。
「車にひかれたんだよ。かわいそうに・・・」
「近くに行かない方がいいよ。気が立っているかもしれないから・・・」
「死ぬのかな?誰か助けてくれればいいのに」
近寄ってくる子供たちが、さっきの激しい衝撃の続きのように思えて、ノラネコは逃げようとした。
しかし、体が動かない。最期の力をふりしぼってヨロヨロと立ち上がり、 前脚でいざるように歩き出した。かろうじて左の後ろ脚はついてきたが、 右後ろ脚はメチャメチャになっていた。引きずられていくダメになった足と、 切れてブラブラしているしっぽから血が流れ、アスファルトの上に、ノラネコが確かに 今日までは生きてきた証を残した。
道路から一番近いアパートの階段下に身を沈めて、ただひたすらじっと痛みに耐えた。
日が沈み、また日が昇り、雨が降っても、晴れ上がっても、ノラネコの命が、 この先も続くかどうかを考える人はいない。そこに居ることさえ、誰も知らないのだ。
痛みを忘れるためにノラネコは眠り、また目が覚めた時、まだ生きていることを知る。
その繰り返しを重ねた。
傷口から血が流れなくなり、何か食べたいと感じた。
アパートの窓から流れてくる焼き魚の匂いに誘われて、起き上がる。脚はまだ痛いが、 歩いて行かなくては・・・。右後ろ脚は、もう使い物にならない。その重さが重荷になって、 ノラネコは前のめりに一歩づつ、ひどいビッコをひきながら進んだ。
エサをくれるおじいさんの家はすぐ近くのはずなのに、随分と長い道のりだった。
「あっ、ノラだ!おじいさん、ノラが帰ってきたよ」とおじいさんの孫が叫んだ。
「すごいケガをしている。交通事故にあったんだ。病院へ連れて行ってよ」
けれど、おじいさんは首をふって言った。
「ノラは家の猫じゃないんだ。ノラネコだから、なめて治すよ。それでダメなら運命なんだ」と。
かろうじて、ノラネコはエサにありつくことができた。久しぶりに、 見慣れた風景の中に身を置くことができて、ほっとしたが、右後ろ脚としっぽは、 泥にまみれたボロキレのようになってひきずられた。
近くを通りかかって、その姿に一瞬足を止める人はいたが、 「かわいそうに・・・」と思うだけで、すぐに目をそむけて通り過ぎた。 小学生と同じように「誰かが助けてくれればいいのに・・・」と思った人が、その誰かに電話をした。
電話のベルが鳴った家には、たくさんの猫と犬もいた。どの子も捨てられて、 他に行くところのない子たちだ。目の見えない子もいれば、足の不自由な子もいた。 人間が恐くてすぐに隠れてしまう子も・・・。
その家の“サラ”という女の人は、その子たちを養うために昼も夜も働いていた。 だから、とても忙しくて疲れていたのだけれど、電話をかけてよこしたオバサンはこう言った。
「その大ケガしているノラネコを、そちらで何とかして欲しいのよ」
「とりあえず病院へ連れて行ってもらうことはできませんか?」
「なぜ私がそこまでしなくちゃいけないの?私の猫でもないのに」
「大ケガをしているなら、一刻も早い方がいいと思うんです。病院で診てもらった上で、 今後のことは協力しますから」
すると、おばさんが怒り出した。
「そんなヒマないわよ。かわいそうだと思って教えてあげただけなんだから。もういいわ」 と電話は切れてしまった。
サラは、どこかで苦しんでいるだろうその猫のことが気になって仕方がない。仕事の最中も、 まだ見ぬ猫の姿を、頭の中で追い求めていた。だから、仕事が終わるとすぐに車を走らせ、 その子がいる町に向かった。電話をかけてきたオバサンは、名前も電話番号も教えてくれなかったが、 一番最初に、その猫を見た場所を話していた。見当をつけて車を止めて、 猫が潜んでいそうな路地や植え込みを捜して歩いた。しかし、そんな方法では、 いつ見つかるか分からない。サラはこの町に、数年前に捨て猫の里親になってくれた お宅があることを思い出して、訪ねた。
事情を話すと、そこの奥さんが、知り合いに電話をかけて聞いてくれた。 サラがミルクを飲ませて育てた三毛猫は、丸々と太って、座布団の上で身づくろいをしていた。
受話器を持つ奥さんの声が弾んだ。サラの方に振り向いて、
「三丁目の自転車屋のおじいさんがノラネコにエサをあげていて、 その中に足をケガした猫がいるんだって」と言った。
三毛猫の“ミィ”の背中を撫でて「サヨナラ」を言おうとしたら、 ミィがフーっと怒って2階へ逃げて行った。飼主の奥さんが、「命の恩人を忘れたのかしら。 ごめんなさいね」と謝った。
不幸な過去など忘れていい。私のことも。今、幸せになったのなら、 それでいいと思いながら、サラはミィの家を後にした。今、サラが向かわなければならないのは、 助けを必要としている傷ついたノラネコの所だ。自転車屋の場所を教えてもらい、向かった。
自転車屋の裏の空地に、おじいさんが居た。足をケガしている猫のことを尋ねると、深くうなづいた。
「それで、あんた、どうするんだね」
「病院へ連れて行きます」
「右の後ろ脚はダメになっとる。治らんよ」
「ダメになった脚をそのままにしていたら、もっと悪いことになります」
「そうかもしらんが、金もだいぶかかるよ」
「知ってる病院があるので、大丈夫です」
かすかに笑みを浮かべたおじいさんは、ついて来るようにと、指で合図して、 自宅に向かった。物置からキャットフードの缶詰と、色のはげたお椀を持ってきて、 中身を開けると、縁の下の前に置いた。
「こいつにだけは特別に缶詰やっているんだ。力をつけなきゃいかんからな」と一人言を言いながら。
そして「ノラー、出てこーい。ノラ、めしだー」と呼んだ。
茶トラの猫が顔を出した。目が吊り上がっていた。知らない人がいたからか、 すぐに頭を引っ込めた。けれど、缶詰の匂いに誘われて、あたりをうかがいながらまた出てきた。 サラは少し離れて、猫を見守った。右の後ろ脚としっぽが、泥だらけのボロキレのように ひきずられていた。お椀に顏を突っ込んで食べ始めた猫を見て、おじいさんは物置からダンボール箱 を持ってきて、猫をその中に入れ、ふたを閉めた。ガムテープでしっかりと止めて、サラに手渡した。
「こいつの足を診てもらって下さい。その後は、俺が面倒見るから」と頭をさげながら・・・。


「こりゃーひどい。足はもう壊死している。根元から切るしかないな。シッポもだね」 と獣医さんは言った。ノラネコはガリガリにやせていて、おどおどした黄色い目が、 時折険しく震えた。入院して手術を受けることになった。ボロ雑巾になった足をひきずって 逃げようとするみじめなノラネコは、何が何だか分からないまま、犬の声が聞こえ、 消毒液の臭いが立ち込める入院病棟へ連れて行かれた。
サラは時計を見て、あわてて病院を出た。とりあえず命を拾い上げることができたことを 今日の糧として、大急ぎで家に戻って犬と猫にエサを与えて、遅刻の口実を考えながら、 アルバイト先の居酒屋へ向かった。
時々病院を訪ねると、先生が看護婦さんに「断脚した猫を連れてきて」と言う。 “断脚”という言葉が繰り返されるうちに、猫はいつしか「ダンちゃん」と呼ばれた。
ダンちゃんの右後ろ脚はつけ根からなくなり、しっぽも親指の先くらい残して切り取られた。 退院も決まったので、自転車屋のおじいさんに電話をしたが、おじいさんはとても喜んでくれたものの、
「ノラネコを家の中に入れることはできない。今まで通り、外でエサは続けるから」と言う。
ダンちゃんが、夜も、雨の日も、真冬も外で暮らすことはかわいそうにも、危険だとも思えた。 サラは、ダンを自分の家に連れて帰ることにした。
サラの部屋には何匹もの猫がいて、ダンが入るスペースはない。サラの母親はダンの姿を見て、 プリプリ怒った。
「なんだって、また猫を拾ってくるんだよ。それも三本脚だなんて、誰ももらってくれないさ。 これ以上家に猫が増えるなんて、思っただけでうんざりだよ。」
ダンは、首輪に付けた長いヒモをテーブルの足に結びつけられて、台所で暮らした。 もうそこしか、置き場所を見つけられなかったからだ。サラには人間の子供もいて、 その小さな女の子は、「ダンちゃん、ダンちゃん」と追い駆け回した。
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ダンの耳にリボンの付いたゴムを巻いたり、首におもちゃのブレスレットをはめたりして遊んだ。 その子が台所を出ていくと、ダンはほっとして、新聞をストックするカゴの中に入って、静かに眠った。 サラの母親が急いで台所に入ってきて、ダンのヒモにつまづいて「あーっ、じゃまだねー、まったく」 と怒った時も、カゴの中に入って、影のようにじっとしていた。 そこが、ダンの安全地帯だと分かったので、サラは新聞をよけて、初めてダンを抱き上げ日 に着ていたトレーナーを敷いて、寝床を作ってやった。冬には小さなヒーターを入れてあげた。 ダンはもう、寒さに震えながら眠るノラネコではない。吊り上っていた目も、丸くなった。
けれど、時々、食卓の椅子に座って窓を見上げていると、青空に浮かぶ白い雲や、 カサカサと風になびく葉っぱや、小鳥のさえずりや、かすかに聞こえてくる車の音や人のざわめきに、 すぅーっと熱いものが体の中を流れることがあった。そんな時、ダンは窓に向って、 「あーうー」とか「うにゃにゃにゃにゃ」と変わった声で鳴いた。
ある時、テーブルの足からヒモが外れて、ダンはヒモを引きずったまま外へ逃げ出してしまった。 サラはあわててポスターを作って捜し回ったが、ダンは隣の家の庭にいた。
それなのに、いくら呼んでも来ないし、近づくと逃げてしまう。そこに一番近い窓を少し開けて、 サラは夜の仕事に出かけた。
夜中に帰ってくると、サラの家の庭の木陰から、ダンが「あごーん」と少し哀しそうな声で鳴いたが、 それでもやはり家の中には入ってこない。サラはとり肉をゆでて、庭側の窓から入って すぐのところに置いた。おいしい匂いに誘われて、ダンが戻ってくるように・・・。
翌朝、ダンは自分のカゴの中で、何事もなかったかのように眠っていた。用済みになったポスター をたたんで捨てながら、サラは「ダンの幸せは、どこにあるんだろう」と思った。

サラのところへ時々、犬や猫が欲しいという話もくる。そんな時、サラは相手の人をじっくり見て、 その人が「何があってもこの子を家族として、一生守ってくれる人かどうか」考える。 そうやって慎重に相手を選んだつもりでも、救いの手からこぼれ落ちる子も出てくるから、 サラは時々、言葉でははかり知れない人間の気持ちの移り変わりに、深い悲しみを味わう。 しかし、サラ1人では救いきれない不運な命を幸せにしてくれる人もいるから、人を信じて、 願いを託すことはやめられない。
その繰り返しの中で、すり減っていくサラを、酒場の窓ガラスが映し出していた。 その少し疲れた横顔に、声をかける人がいた。作り笑いを浮かべてサラが振り向くと、 この店にはふさわしくない立派な紳士が、「君に頼むと、犬や猫がもらえると聞いたものだから」と言った。
サラは、犬や猫の里親になりたいと申し出る人がいると、その家を訪ね、よく話し合った上で、 そのお宅にちょうど合うと思える子を紹介する。
数日後、あの紳士の家を訪ねることにして、母に場所を確認すると、目を丸くして答えた。
「あんた、知らないのかい?昔の王様のお城だったところだよ。そんな立派様が、 捨て犬や野良猫をもらうもんかねぇ・・・」
そこは街の中心部でありながら、川が流れ、海も山も一望できる高台の大きなお屋敷だった。 門を入ると、お手伝いさんらしい人がガレージを開けて掃除をしていた。 海に沈む夕陽のように美しい色のオープンカーと、海の底に眠る真珠のようにしとやかなセダンと、 どんな山道も突き進んでいけそうなジープが並んでいた。
サラの家の台所くらいの広さの玄関ホールを通って、ホテルのスィートルームのような客間の ソファーに腰を降ろし、話し始めた時、電話が鳴った。受話器を取った王様の子孫は、 相手が自分の思い通りに動かないことを怒って、電話を切った。そして、すぐに別な人へ電話して、 その用事を言いつけた。現代の王様にも、手足となって動く部下や使用人がいるようだ。 王様が今も王様のようにしていられるのは、きっと仕事も忙しいからだろう。
窓から見える中庭には、ゴルフの練習スペースもあった。休日も予定が入っていそうだ。 絵のようにきれいに手入れされた庭の木々の緑を見つめながら、サラは
「この人は、なぜ動物と一緒に暮そうと思ったのだろう」と考えていた。
「失礼しました」と頭を下げて、自分も腰をおろした王様は言った。
「家の中で飼える小さな犬がいいかな・・・」
「室内で犬を飼うには、まず気長にトイレのしつけをしなくてはいけませんよ。それに、 私達がお世話できるのは雑種の犬だから、そんな小さくはないです。 小型犬はやはりペットショップへ行かないと、無理かもしれません。でも、 小さな犬は甘えん坊の寂しがり屋が多いから、お留守番が多いと可哀想です」とサラは答えた。
「そうだね。妻がいた頃、小さなテリアを飼っていたんだ。 いつも家族の後を追っていたもんな・・・」“家族”というフレーズが耳に残った。 王様の親も奥さんももうこの世にはいなくて、大人になった子供たちは遠くで暮らしていた。
王様が時計を見て、そわそわし出した。
「お出かけの予定でもあるんじゃないですか?」とサラが尋ねると、照れたような笑みを浮かべて、
「いや、違うんだ。今日はスズメが遅いなと思って・・・」と言った。
「スズメが来るんですか、毎日?」
「あぁ、今頃、パンをもらいにベランダへ来るんだよ・・・」と言ったちょうどその時、
「チ、チ、チ、チ」というさえずりが聞こえてきた。
王様は部屋を飛び出した。すぐに持って行けるように、客間の金のドアノブに、 細かく切った食パンが入ったビニール袋がぶら下がっていた。毎日、 王様はスズメが来るのを待っているのだ。
「その時間に家にいない日は、パンをカゴに入れて、ベランダへ出しておくんだ」と言った。 スズメたちにパンを与えながら、川面を指差して
「カモもパンをもらいに、列を作って坂を上がって来るんだよ」と言った。
「まぁ、楽しそうな風景ですね。今日は見ることができないかしら・・・」
「さぁ、どうかな?そろそろカモが北へ渡って行く季節だから、めっきり少なくなったんだよ」 とちょっと寂しそうに答えた。
スズメにパンを配る嬉しそうな後ろ姿を見守りながら、サラは「この人には、家族が必要なのだ」 と感じた。犬や猫が幸せになるには、大きな家も大金も必要ではない。なくてはならないのは、 失くしてしまった親や元の飼い主に代わって、ずっと一緒にいてくれる“家族”だ。そして、 それはそのまま人間にも言えることだと、サラは想った。
「わがままで気むずかしいところもあるけれど、家族がいればもっと素直にやさしさが 出せるんじゃないかな・・・」というのが、サラが美ケ丘の王様に抱いた感想だった。
さて、サラは美ケ丘のプリンスorプリンセス候補に、誰を推薦したでしょう。 その子は、まるでシンデレラのように、狭い台所の隅っこで、目立たぬように暮していた。 ガラスの靴をはく足も一本たりない、しかもオトナのオス猫のダンちゃんだった。
ダンはどこか王様に似ていたし、王様にはない我慢強さと控えめな性格が、きっとちょうどいい 取り合わせになる、とサラは感じていた。
お見合いの日、ダンを見た王様は、がっかりしたような表情を見せた。フワフワの可愛いらしい 仔猫が来ると思い込んでいたからだ。さらに、サラの手の甲のひどいひっかき傷が、 昨日この猫をシャンプーして、ドライヤーをかけようとしたら、音に驚いて逃げた時につけた 傷だと聞いて、不機嫌な顏になって言った。
「気の荒い猫なのか?」
「いいえ、気の弱い猫です。大きな音が恐いんです。だから、やさしく接してください」
「どうして君は、この猫がうちに合うと思うの?」
「賢い猫だからです。それに、この子はあなたのような保護者を必要としています。」
「へーえ、僕はこの猫に選ばれたんだ」
「えぇ、選び合った組み合わせだと思います。ダンちゃんには、この静かな環境が落ち着くと思うし、 この子ならあなたの話し相手になり、邪魔もせず、静かに留守番して、 パパのお帰りを待っていられる子です。」
「パパのお帰りを待つ・・・か。待ってて迎えてもらうのは、可愛い女の子がよかったなぁ」
王様の皮肉っぽい笑いが、なんだか和やかに変わった。
サラの傍らで、不安そうな瞳で2人のやりとりを見上げていたダンの額を、 人差し指で軽くたたいて、王様は言った。
「ハンサムボーイとはいえないが、俺の小姓にしてやろう。名前はダンじゃ頼りないなぁ・・・。 DANZOって呼ぶよ」
「あなたとDANZOは、わかり合える家族になれる気がするんです。ダメだったら、 返してください。少しの期間、この子が幸せに暮せるチャンスを与えて欲しいんです。」
こうして街の王様と裏町の元野良猫の、文字通り二人三脚の暮らしが始まった。
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その日からDANZOは、これまで居た台所の何倍も広くてきれいなリビングで暮らすことになった。 初めはテーブルの下に身を隠すようにして潜んでいたが、部屋の三方の大きな窓が映し出す風景が、 時間ごとに変わっていく様子に魅かれて、窓辺へと進んだ。 ノラネコだった頃、 いろんな人に追われたり、食べ物をもらった街は今、ずっと下の方に広がっていた。 |
冷たい風に吹きさらされて、凍えそうになって歩いた川辺も、今はキラキラと輝いてとても 気持ちよさそうで、車にはねられて大ケガしたあの町は、川に架かった橋の向こうだ。
いろんな想いが体の中を巡り、DANZOはその度、懐しんだり、喜んだり、哀しくなって、 様々な鳴き声を発した。そして毎日、玄関が見える窓から、仕事に行くパパを見送り、 坂道が見える窓辺に座って、帰ってくるパパを迎えた。午前中の30分間、きまって入ってくる お手伝いさんが、かけまくる掃除機の音だけは相変わらずとても怖くて、テーブルの下に隠れたけれど、 必ず帰ってくる人を待つ幸せが、DANZOをだんだんあまえっ子にして、まるまると太らせた。
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王様にしても、本当はもう王様ではないわけだから、腹の立つ日も、情けなくなる日も、 むなしくなる日もあったが、家に帰れば自分を待っている猫がいることに、心が救われた。 奥さんが亡くなり、子供たちも家を出てから、仕事にも大した情熱もなく、 他に何をやりたいという意欲もなく、日々を重ねてきた。それがいつしか、誰かのために生きていく、 という暮らしを取り戻していた。
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ある夏の夕方、DANZOが怖がるから幌を付けた、夕陽色のオープンカーに乗って、 王様とDANZOがサラの家に、アイスクリームを届にやって来た。DANZOは、 パパとお揃いのアロハシャツを着ていたが、おなかのボタンがひとつしまっていなかった。 「ダンちゃん、太りすぎだよ」とサラは笑った。何事かと出てきたサラの母親のあわてようといったら、 なかった。よほど興奮して熱が上がったのか、王様が帰ってから、母親は、 「こんなおいしいアイスクリームは食べたことがない」と言って、3つもたいらげた。 |
秋になり、DANZOはリビングの窓辺で紅葉と落ち葉をながめ、毎日パパを見送り、 帰りを待った。パパは時々DANZOを抱いて 「おまえとこんなに仲良しになるとは思わなかったよ」と言う。DANZOも「あーん」と答えた。 パパが言った。 「もうすぐ、隣に面白いものができるんだ。にぎやかになるぞ」 本当に大工さんがやってきて、お屋敷の隣りに何かをつくり始めた。川にカモが帰ってきて、 初雪が降った。お屋敷の隣りに、小さな家が完成した。 |
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クリスマスの朝、サラは招きを受けて、久しぶりに美ケ丘を訪ねた。 DANZOはサンタのような赤い服を着ていたが、おなかのボタンはちゃんとしまっていた。 「DANZO、ちょっとやせたんだよ。パパと一緒にダイエットしたんだ」と王様が言った。 そういえば王様も、なんだかスマートになって若々しい。そして、サラに向ってこう言った。 「今度扱う仕事が一つ増えてね。君に手伝ってもらいたいんだ」 「まぁ、どこで、何をするんですか?」 「職場はあそこだ」と王様はできたばかりの隣りの建て物を指差した。 そこまで一緒に行ってみると、ドアに「OFFICE DANZO」と書かれていた。 |

パパの腕の中で、DANZOは幸せを実感していた。大きなお屋敷に住み、社長になり、 ピンクのアロハやサンタみたいな服を着て暮らすようになったからではない。 自分を助けてくれたサラを助けられる猫になれたことを、とても幸せだと感じていた。
次から次へといろいろなことが起こるので、どんどん忘れてしまう私ですが、 DANZOに初めて会った日のことは、はっきりと憶えています。骨が浮き出たやせこけた背中、 ボサボサでつやのない毛なみ、おどおどと盗み見る黄色い目、そして、泥だらけのボロ雑巾 のように引きずられる右後ろ脚・・・。
同じ猫が今、丸々と太った茶トラの腹に、窓いっぱいに差し込む光を浴びながら、 無防備に眠りこけています。物語の中だけでなく、DANZOは本当に幸せになりました。 DANZOの他にも、かかわった人たちの尽力と、「何とかできないか」と工夫と努力を かき集めるアニマルクラブの活動の甲斐あって、安住の家を得た、元捨て猫や放浪犬もたくさんいます。
しかし、救われた数よりも、もっともっと多くの不幸なままの命が、苦しみの挙げ句に、「何のために生まれてきたの?」というメッセージさえ残せずに消えていく事実は延々と続いています。 ですから、DANZOは幸せになっても、サラのような人は、 自分が置かれている状況が少しでも良くなれば、その分一匹でも多くの命に手を差し伸べてしまうのが、 業みたいなものです。
動物の問題は、人の心の問題です。アニマルクラブの活動は、「逃げ」や「押しつけ」 という形になって突きつけられる、人の心のずるさや弱さとの闘いだともいえます。
私たちの活動を「いいこと、必要なこと」と認めて応援してくれた人でさえも、 何か自分に迷惑がふりかかるようになると、「生活に支障をきたしてまでは関わりたくない」 と背を向けてしまう、ということが度々ありました。
それでも、他の人の良心と勇気に頼らなければ、続けていけない活動なので、 誰かに期待してしまうことと失望することの繰り返しの中で、私はサラのように、 広い心と大きな力を持った王様が、自分を助けてくれる夢を胸の片隅に持ち続けていました。 しかし、本当の王様は、自分が心の中に持つ自尊心なのだということも知っていました。
サラのその後のことを少し書くと、わがままな王様はやがて犬や猫のことがうるさくて嫌になり、 サラはまた別の場所へ引越して動物たちと暮らし、「オフィスDANZO」に通って仕事をしています。 おとぎ話のように何もかもうまくいくことはありませんが、それでも以前の暮らしよりは格段に安心できる生活だとサラは感謝しています。
どこまで自分の生活を犠牲にできるか、どこまで尽くせるか、ということは一人一人異なることだし、 折り合いがつくところまで協力してもらうことの繰り返しでしか、この活動は進んでいかないと思います。
もしかしたら、自分だって、いつかは活動できない事情ができたり、「疲れた」「もう頑張れない」と、 逃げたりあきらめたりしてしまうかもしれません。だからこそ、気力と体力が続いているうちに、 他の人々に伝えておくべきメッセージや残しておくべき命の軌跡がある、と考えて、ホームページを開設しました。
「どうしたらこの子らを守っていけるか?」「どうやったら、不幸な子たちを一匹でも 多く救い上げることができるか?」という日々のテーマの中で、怒ったり、泣いたり、焦ったり、 なさけなくなったりしながら、私と仲間たちは、“それでも生きていく命のために” できる限りの努力を重ねていきます。活動がどこまで続くか、広がるかということは、 理解して力を貸してくれる人がどれだけいるか、ということにかかっています。 何らかの協力を申し出てくださる方をいつも待っています。
人は誰かのために生きてみると、今まで気づかなかったちいさな喜びや、ふとしたときめきに出会って、これまでにない力を発揮したりします。
しかしまた、そのために自分の生活が犠牲になっていると感じるようになると、もう助けられない理由を引き出して積み重ねて、自分の幸せを守るために手を引くことを正当化するようになります。
そして訪れる「別離」。サラが王様のお邸を出て、「オフィスDANZO」に通って仕事をするようになってから、さらに9ヵ月後のこと。
王様は自分が猫アレルギーになったと言い出し、DANZOをケージに閉じ込めて、リビングから離れた部屋に置きました。その姿を見た時、サラは胸が詰まる想いがしました。
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お邸を出てきた日のDANZO |
オリ越しにサラを見上げたDANZOの瞳に、涙が光っていたからです。ピンクのアロハを着て、パパのお伴をした面影はどこにもありませんでした。
「もう、ぼくの居場所はないよ。ここから出て行こうよ」と言いたげでした。サラはDANZOを連れて、お邸を去り、仕事も辞めました。
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DANZOの目に光っていた涙 |
それからは、動物達の世話と、お金を稼ぐことと、さらに動物たちの命について人々に考えてもらうための試みもやって、あっという間に2年近くの月日が経ってしまいました。
忙しい暮らしの中、DANZOはいつもサラの傍にいます。サラが時折拾ってくる子猫の面倒も、よく見てくれます。
心配事がある時、この先を想って不安になる時、DANZOは何もかも見透かしているかのような大きな瞳でサラを見て、てのひらをやさしくなめてくれます。
そんな時、サラはDANZOと自分は運命共同体だと感じます。DANZOのあたたかい舌は、サラに、自分の周りに集まって来た命を守っていかなければならないことを、繰り返し認識させてくれます。
夕暮れに、川岸を車で走り抜けるとき、紫色に暮れていく対岸に、誇り高き王様のお邸が見えても、サラの心の中には涼やかな風が吹き抜けるだけです。
サラはこれから、同じ願いを持つ仲間たちと、一歩一歩、小さな歩みを進めていきます。
世の中を変えていくのは、お金や権力ではなくて、人の心なのだということを、DANZOの涙に教えられたからです。
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・ゴミ屋敷のおじいさんが入院して保健所行き寸前だった『こぐり』(左側)
・放浪してゆるくなった首輪がわきの下に食い込み、大ケガをして観音様の足元にうずくまっていた『チップ』(右側) |
不幸な過去を乗り越えた仲間と、のんびり暮らす、現在のDANZO |