『 アニマルクラブがなくなる日 』

【 苦労の舟唄 】

「アニマルクラブがあって助かった」「阿部さんのような人がいてくれて良かった」と言われる度に、違和感を感じてきました。好き好んでやっているわけではなく、動物たちの身に起きている不幸な状況を知る度に、どうやったら良い方向に向くかと考えて、その都度思いつく、できる限りのことをやってきたに過ぎないので、動物達の現状が理不尽だと感じるならば、他の人もやるべきことだと思ってきたからです。
令和の幕開けは、昭和に生まれ、平成に活動を展開してきたアニマルクラブにとって、変わっていく世情と、抱える課題を強く認識させたと思います。

春先、中心になって不妊予防センターを支えてくれた獣医さんがもう来れなくなりました。センターができてまもなく、新米先生の頃に、先輩獣医師の見習い研修で来ていた女医さんでしたが、その頃から医療従事者としての真摯な姿勢と動物への思いやりを持った人で、外科医として腕を磨いた数年後に、今度はリーダーになって来てくれました。彼女が居た間は、他団体から相談を受けた多頭飼育崩壊現場の猫達を連日、毎日10匹以上も避妊・去勢手術したり、一般の動物病院で高額な手術代を提示されて、とても無理だと諦めていた経済的に苦しい人達の犬や猫の、乳ガンや断脚、膀胱結石を取り出す手術などを格安で引き受けることができました。
しかし、不妊予防センターにスタッフを派遣してくれている動物病院も深刻な人手不足のようで、優秀な女医さんは本院での仕事で手一杯となり、「自分はもう来れないので、後輩に後を託す」宣言を受けたのです。オフコースの『サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~』が頭の中を一巡りして飛び出して行き、先生が小さく見えました。当たり前だと思っていた風景が突然変わるのが、人生です。

誰かにとってありがたいことは、他の側面から見れば望ましいことではなかったりするので、昨日と同じ明日が来なくなることは、何度も経験しています。良い一時期があったということが、試みた成果であり、それを伝えることが、次にどこかで花咲く種蒔きになると、夢を託すしかないのだと思います。
平成20年にスタートした不妊予防センターは、すでに5年前から週2日だった開院日も1日となり、2年前からは外来担当獣医師も半日のみの勤務となり、午後の外来は、手術室に2名居る獣医師のどちらかが合間を縫って出てきて、対応している状況です。そうなると、経済的に困っているわけではない人達の多くは、毎日やっている他の動物病院に流れて行きました。つまり、ちゃんとお金を支払える飼い主さんが大分来なくなってしまいました。
一般の病院には行けない、すぐにお金を払えない人達の割合が多くなり、不妊予防センターは《慈善病院》の色合いがどんどん濃くなってきました。もちろんそれが社会に必要な存在であり、幾らかでも貢献しているなら甲斐のある活動ではあるのですが、公的バックアップがないのですから、採算が合わなくなって、持ちこたえられない時が来れば、存続はできなくなります。

そして、分割払いでもきちんと返済してくれる人が相手なら、受ける側もこちらもお互いに有意義な活動ですが…中には、『煮ても焼いても食えない』類の人達がいます。二転三転する言い訳や、前の借金を払う素振りで次の猫を連れてきて、またしても反故にする人や、他の動物病院の領収書を広げて見せて「こんなにかかっているんだから、もう払えないんだ」と開き直る人、挙げ句は…窮状を訴えて砂やフードまで貰い、さらには送迎してくれたボランティアさんに猫を押し付けたり、お金を借りて返さない人もいました。
他団体が個人からの相談には応じず、保健所から引き出した犬や猫の里親探しを活動のメインにしている所が多いのが、よく解ります。アニマルクラブが敢えて、個人の相談に応じてきたのは、個々のケースから社会の問題点を探り、解決策を提言していくためでした。動物の問題は人の心の問題であるから、根深く困難で、相手が高齢になるほど一方通行の様相を呈してきます。

長年生活保護等をもらって暮らしている人の中には、自分が飼っているペットや関わっている野良猫にかかる費用や面倒も、どこかが負担してくれて当然と認識している人がいます。アニマルクラブが何とかしてくれる所だと思い込み、言葉で何度説明しても伝わっていない現実があります。それを認めてしまったら、自分の日常生活全てのつじつまが合わなくなるからかもしれません。
知的障害のある人や精神的な病を抱えている人はなおさらで、困ったことが起きれば、立て続けに電話やメールをよこします。訴えて肩代わりしてもらう以外に、解決の術を知らないのです。

こうした腐れ縁の『常連』が何人かいると、その《ツケ払い》が回ってきて、破産しかねない状況です。この手の人は自分勝手で肝心な所が抜けているから、病気がかなり悪くなってからしか気づかない、そして、気づいた途端に大騒ぎします。先月も「秋田犬の腹が黒く膨らんで、血が出てきた!早く診てもらわないと死んでしまう」と慌てて電話をよこしたおじいさんと犬を、ボランティアさんが動物病院に運びました。乳ガンがかなり大きくなって自壊したとのことで、大手術となりました。費用は割引してもらっても約250000円かかりました。口では「少しずつ返す」と言っていますが、以前にも別な犬や猫にかかった7~80000円×2匹分の入院費も返してはいないのですから、できないことだと解っています。
生活保護を受けて、犬2匹、猫7匹も飼っています。成猫5匹の避妊・去勢は、送迎して全部無料でやりました。フードや砂が足りなくなってさえ、「貸して欲しい」と言って来る状況です。「手に負えないことをしてはいけない」と、勿論何度も注意して来ましたが、聞く耳は持たずに、また増やしていました。強く言えば逆ギレして、サンダルをぶつけられたボランティアさんもいました。

 

無事に手術を終えた秋田犬の『ハナ』。アニマルクラブに置いてやる場所はなく、シャンプーや爪切りのボランティアに来てもらっているトリマーさんの、老犬ホームに預かってもらっています。癌が転移していたので、もう外の暮らしには返せないことを、おじいさんは解ってくれるでしょうか…。
飼い主は話にならないけれど、犬は利口で従順で可愛がられ、幸いでした。

 

 

これまでにも何度か避妊手術を勧めて、費用はこちらが出すと言っても、「良い犬だから子を取るんだ」と、言うことを聞きませんでした。生活保護のアパート暮らしで繁殖させる~勿論相手も見つからず、こんな結末になったことに、飼い主本人は反省もなく、ただ子供のように、犬に会いたがっています。

 

「近くの野良猫を助けて、里親を探す」と宣言して次々と避妊・去勢や、風邪やケガの治療に連れてきたオバサンは、途中から何やかんや言い訳して「ちょっとだけ預かってもらいたい」と置いて行った猫たちをそのままに、勿論支払いも滞ったまま、「重度のうつ病と診断されて、入院治療となりました」という《大義名分》で、自分は責任を逃れたつもりでいます。
つまり、自分の力量を省みることもなく、感情だけで集めた命を、困れば丸投げしてしまう人達がかなりの割合でいます。引き受け手がなければ、保健所に送られるか、野良猫となって増えていきます。そうなると、そもそもの『動物のために』は名目で、自己実現の欲望や自己顕示欲から、自分のために始めたことだったのではないかと感じます。
『多頭飼育はやめましょう』というCMも流れていますが、この手の人達は、呼びかけではびくともしません。「自分はちゃんとやるつもりだった→だからウソではない。でも、そうはいかなくなった→しかたのないこと」という論理です。自分がしでかしたことの《責任》は、他の誰かに解決してもらう→「助け合いの社会だから」という《合理化》が成り立つので、性懲りもなく同じことを繰り返すのです。

私達が、飼ってはいけない人に飼われてしまっている犬や猫のために奔走してきたのは、人間の子供が、役割を果たせない親に代わる支援を受けられるように、国や社会に、その方策やシステムを実施してもらえるよう、実例を発信するためでした。
宮城県動物愛護推進計画が実施されることに決まった2007年、地元選出の県会議員に県庁の担当課に案内してもらったことがありました。その2年前には、県議会の動物愛護に関わる議員さん達に配布してもらえると聞いて、『カイが行くはずだった場所』という、宮城県動物愛護センターをレポートしたドキュメンタリーの自費出版の本を40冊近く寄付して、村井知事から手紙ももらっていました。
私を連れて行ってくれた議員さんに、「この計画では動物愛護推進委員が置かれるから、ボランティアの経験が県民に貢献し、県政にも反映されるようになるでしょう。阿部さんも、きっと推進委員に推薦されるでしょう」と言われました。しかし、知事もお礼状止まりだったし、動物愛護推進委員も依頼されませんでした。

その数年前、県が動物愛護週間に実施していた『動物フェスティバル』にアニマルクラブもボランティアで参加した後で、「動物を使って、人間が楽しむお祭りになっている」と批判した私の投稿が地元紙に掲載されると、「アニマルクラブは来年から参加しなくていい」と言い渡されていたから、レッドカードだったのかもしれません。
条例ができようとも、職員が移動しようとも、体質に変わりはないのでしょう。しばらく経ってから、動物愛護推進委員になって会議に参加した方から、「形だけの会議で、質問してもはっきりした答えがないまま、うやむやになる感じだ」と聞いたこともありました。改革につながらない、形だけの役職で時間を失うのはもったいないので、推薦されなくて良かったです。

アニマルクラブがやがては力尽きることは、勿論ずっと前から認識して来ました。私は高校生の時から活動を初めて40年以上経ち、60歳ともなると体力も大分落ちてきました。私より年上のボランティアさんからは「いつまで手伝えるかわかんないよ、あんまり宛てにしないでね」と言われるようになりました。
私も疲れやすくなって、1日にできることがぐっと減ってしまった、と自覚しています。同居する家族がいないので、「ちょっとこれやって~」と頼めないから、負荷がかかります。重い物を持ったり、遠距離の運転もしんどくなってきました。失敗も多くなり、自分のやったことに《確かでない》部分が増えてきたので、認知機能も落ちてきたのだと想います。

それでも、気の休まることのない日々は延々と続き、精神的な負担も大きいです。冬場は深夜と朝方にアニマルクラブに行って、暖房を再セットしなくてはなりません。 令和元年は《ベビーラッシュ》で、里親が見つからずに残っている子達も増えたので、暖房費も例年以上にかかっています。
老猫ホーム兼ホスピスの自宅でも、暖房費は高騰ですが、命の最期にしてやれることは、暖めることしかありません。秋に活動報告して以降も4匹亡くなり、《看取りラッシュ》にもなりました。『パニ』、『さく』、『とむすけ』はいづれも19~20歳です。被災猫の『女川クロ』の年齢はわかりませんが、来た時から、おじいさんでしたから、かなり高齢になっていたと想います。誰かを看取って、介護から解放されても、またすぐに誰かの状態が悪くなります。女川クロととむすけは同時進行で、1日違いで亡くなりました。

 

『パニ』

北上川に架かる二本の内海橋の間にある中州《中瀬》に『石ノ森漫画館』が建つ前、あの辺に居た野良の子猫でした。
1999年、中瀬にあった船の塗装会社が倒産して、12匹の犬が置き去りにされて、2年間世話に通って里親探しをした時に出会い、「何かを建てる工事が始まるようだから、ここから動かさないと…」と捕獲した3兄妹。漫画館が完成したのが2001年だから、連れて来たのは2000年のことだったと思います。

 

 

可愛くて人なつこい兄の『チャオ』は、一昨年亡くなりました。
警戒心が強くてすぐパニくるから、この名前ですが、何年経っても、誰も触れなかったのに…12月、「パニちゃんが触らせるから、よっぽど具合悪いのだと思います」と連絡を受けて、アニマルクラブから自宅に連れてきました。最期の2週間、パニは甘えて、皮下点滴もさせて、大晦日、穏やかに息を引き取りました。
意外なことに、慢性膀胱炎で度々真っ赤な血尿をして、皆を心配させてきた『シマ』1匹が残りました。

 

 

平川さんが描いたパニ。優しい表情をしています。

 

 

『さく』

「さくちゃん、ガンバレ!」同年代の『のんたん』と『こぐり』はボケていますが、寄り添って温めてくれました。

 

 

『もも』は変化していく『さく』の様子に戸惑っていました。

 

 

それでも、最期は添い寝して見守った兄貴です。

 

 

一緒に生まれて、一緒に捨てられ、一緒に拾われて、また捨てられて、拾われて、里子に行って、出戻りしてきました。今製作中の画集は、この兄弟の物語から始めたいと、構想を練っています。

 

 

『女川クロ』

震災の時、壊滅の女川町の高台に逃げてきた老猫。野良猫生活をしていましたが、繰り返し痛めた右前足を切断しなくてはならなくなって、引き取りました。

 

 

エイズキャリアでありながら、よくぞここまで頑張りました。最期は目と鼻からドロドロと膿のように出て、ケイレンも起こしました。
とむすけと《W介護》になりました。

 

 

どこかの飼い猫だったのではないでしょうか?クロは、利口で辛抱強く、立派に生き抜いたと伝えたいです。

 

 

『とむすけ』

「毒を撒かれて死にそうだ!」となだれ込んで来たオバサンが連れてきた野良の子猫でした。毒ではなくて、パルボでした。

 

 

一命を取り留めましたが、慢性の重度の鼻風邪があり、年中鼻水、鼻づまりで苦しそうでしたが、とても明るく優しい子で、テンカン持ちの『トラ』と親友でした。

 

 

平川さんが描いたとむすけ。凛々しいですね~

 

苦楽を共にして来た昔馴染みがどんどん姿を消していくのに、震災後は里親募集の子達を含めると、常に100匹以上抱えています。そろそろ《ノアの箱舟》の行き着く先も見据えておかなくてはなりません。『体力・気力・経済力』どれ一つ欠けても、舟は沈み兼ねないのです。
私は津波で、生活の糧であった小さなスナックを失いました。10人も入れば満杯になる店でも、日銭が入るのと、入らなくなったのでは天地の差があります。アニマルクラブの予算が足りなくなっても、補充する能力はもうなくなりました。
それでも震災から2年位は各種助成金や見舞金、入っていた保険などで、生活再建できました。被災動物も多く、当初は仕事をする余裕は全くありませんでしたが、被災地の動物達への関心も高く、アニマルクラブに集まる寄付金も多かったので、何とかやれました。その後は細々とアルバイトをして、生活必需品を購入するくらいだけ稼いできましたが、看取りが増えると、死にそうな猫を置いても出られず、疲労も溜まって、なかなか働きには行けなくなりました。とうとう、「老後のために」ささやかに積み立ててきたお金を、切り崩していく生活になりました。この先は、アニマルクラブ自身が《多頭飼育の崩壊》に至らないように運営していくことを第一に考えて、舵取りをして行かなくてはなりません。
「後継者はいないのですか?」と尋ねる人がいますが、給料が出ないのですから、まず自分の生活を立てた上でなければやれないことです。その上にこんな苦労を強いることを、誰かに頼むことはできません。

だから、「やがて消えていくアニマルクラブが、残された時間内にできることは何か?」と考えるようになりました。そして、行政にはくみ取ってもらえなかった、長年の体験から得たプレゼンテーションを、世間を相手に展開して、心ある人々につないで行こうと考えるようになりました。

 


【 I think so から始めよう 】


身近な異性とコミュニケーションできない若者が、出会い系サイトだと能弁になったり、時には大胆な行動に出て危険な目に遭うように、顔を合わせることもない、名前や住所も伏せておけるネットの世界は、自己構築ができている人にとっては、便利に情報が得られる《優れ物》ですが、あちこち覗き見して『自分探し』している人達だと、したいこととできることがごっちゃになってしまう《魔物》なのかもしれません。

「私は、可哀想な動物を助けたいんです」とメールで決意表明しながら、実際には踏み出せないでいる人も多く、あるいは、この先をよく考えることもなく手を出して、猫を集めてから収拾がつかなくなっている人達もいます。
アニマルクラブのホームページに寄せられる、《ご相談》と称するそうしたメールに返信を送るだけでも、一苦労です。たまたま自分の目についた可哀想な犬や猫のことを細かく描写して、こうなれば…と願望を列挙して、「どうすれば良いのですか?」と委ねられると、「こんな風だから、日本人は簡単に詐欺にも遭うのだろう」と感じます。
あるいは、誰に頼まれたわけでもなく、自分の意志で保護した猫を、「ここまで何とか頑張ってきましたが、もう私の手には負えないので、よろしくお願いします」なんて、唐突にフラれると、見当違いのことを頑張ってきたのではないかと…どこを切り口に話を始めたら良いのか、薄氷を踏む思いで、通じる言葉を探します。

せっかく芽生えた志は、挫折することなく伸ばして欲しい。それには、ハードルを高くしないで、責任が取れる活動を担えば良いのではないでしょうか?
『ポスターを貼ろう』という提案をします。人の目に付く所に掲示することは、明確な啓蒙活動だし、自分が貼るということは、「私も同感です」という意思表示になります。そして、どこかに「貼ってもらえませんか?」とお願いするコミュニケーションで、『Me too』の輪を広げることができれば、動物を助けるために実際に行動する時も、力になってもらえるかもしれません。私はそうやって、仲間を得てきました。

前回の活動報告で予告編しましたが、ようやく4種類が揃いました。そして、さらにもう1枚製作中です。サイズはA3です。5種類を2枚ずつセットにして折らずに10枚、大きな封筒に入れてお届けします。送料と合わせての実費程度の費用ご負担をお願いします。3月には5枚フルラインナップで、トップページにて頒布のご案内ができると思います。

 

 

※前回ご紹介した2枚に加えて、新作2枚を発表します。

森さんの水彩画の中で、哀しみと希望が交差する、レトロな仕上がりです。

 

 

この悲しみをいかにせん~無念のひこうき雲が、私に書かせた短歌に、平川さんが描いたアニマルクラブの猫達が友情出演。

※もうすぐ、頒布開始!あちこち、どんどん広めてくださいね~

 
4枚目の短歌のポスターは、降って湧いたように思いつきました。
先月、ボランティアさんの1人が仕事中に突然倒れて、救急車で運ばれて入院するという事件がありました。実はその3日前、彼女から、「近所の一人暮らしのおじいさんが年末に亡くなっていたことを聞いた。猫が家の中に残っているかもしれない」と相談されました。彼女を促し、道もない土手下にあるおじいさん宅に案内してもらいました。案の定、ごみ屋敷でした。少し開いた台所の窓の前に立つと、染み付いた猫のオシッコ臭が漂ってきました。彼女が持参したキャットフードを、その窓辺に置きました。
以前は生活保護を受けていたけれど、トラブルを起こしてそれが止められ、やがて電気やガスも止まったと聞いた彼女が、フードを届けたり、何とか支援してもらえる術はないのかと、市役所に相談に行ったりしていたそうですが、功を奏する前に命は途絶えてしまいました。死因はわかりませんが、インフルエンザとか衰弱死とか、防ぐ手立てのある、治療を受ければ治るものであったなら、何とも痛ましい、無念な結末でした。

鍵が掛かった玄関前には『メリークリスマス』と書かれたダンボール箱がありました。のぞいて見ると、レトルト食品や飲料水、お菓子が沢山入っていました。ダンボールの上に市内にある生活困窮者等の支援団体と、個人名が走り書きされていました。定期的な訪問はあったのかと、少しほっとしましたが、こうした人達でも、ライフラインを復活できるように、市に働きかけることはできなかったのでしょうか…。
クリスマス辺りに届いたこの支援物資には手を付けてない様子なので、「おじいさんはいつ亡くなって、猫達はいつからエサもらえなくなったんだろうね?」と振り返った時、彼女の顔が何だかとてもしんどそうに見えて、私は一度帰宅してから、愛飲しているアリナミンVドリンクを届けたのですが、そこまで重病だったとは気が回りませんでした。

彼女宅には、昨年の春先の活動報告で紹介した、野蒜の人里離れた山の下に繋がれたまま放置されていた犬の『みかん』を預かってもらっています。同居する家族は高齢のお母さんだけで、お家の中の猫達と、通ってくる野良猫のご飯はやってもらえるので、みかんの散歩には私が行くことになりました。そして、ごみ屋敷へのエサ運びも日課となりました。

早速、ダンボールに書かれていた団体に電話して、亡くなったおじいさんのことを尋ねると、電話に出た人は分からない様子だったので、明記されていた個人名を出すと、「その人は市役所の保健士で、一緒に回っているんです」と説明されたので、市役所に電話してその保健士さんに取り次いでもらいました。「おじいさんが亡くなっていたのが発見されたのは、いつなんですか?」と尋ねると、「お答えすることはできません」と言われたので、「支援物資を届けに行ったのはいつで、その時は会えたのですか?」と聞いたら、「12月23日で、鍵が閉まっていたから、置いてきました」ということでした。「飼われている猫を見たことはありますか?どんな猫でしたか?」と尋ねると「夏に訪ねた時に、玄関の中まで入れてもらい、部屋の奥に3、4匹居たようでした。白い猫がいました」と答えてくれました。最後に「玄関前にあるダンボールには手を付けてない様子で、沢山の食品が入っていて、もったいないから早く持ち帰って、他に回した方が良いと思います。このままではゴミになってしまうから」と言うと、「いったん差し上げた物を、他人の敷地に入って持ってくることは問題があるからできない」というような返事をされました。
そしたら…4つ目の短歌が電光掲示板のように、頭の中で点滅しました。『お役所は プライバシーの堀を張り 沈む小舟の 櫂にもなれず』

 

片隅で何とか生きていた人を、町は見過ごしていました。役所は規則に合わないから対象外だと判断しました。

 

 

窓辺にエサを置いた時、爆音が響きました。おじいさんのひこうき雲が、空に3つ目の短歌を書きました。
『戦闘機 引き摺る雲を 見上げつつ 主なき窓に  猫の餌置く』

 

 

人は海から生まれて海に還ると言われますが、60歳近くなった頃から、子供の頃の事をよく思い出すようになり、「人生は回帰するものなのだ」と実感しています。父親はじめ、亡くなった人達の言葉やしぐさやあの頃は気づかなかった苦労や哀しみが解るのです。
私が小学校に入る前から、父には幾つかの戒めを受けていました。「嘘は一度ついたら、それを隠すためにずっとつかなくてはならない。それがバレたら、その後の本当のことも嘘かもしれないと信用されなくなる」とか、「世の中は、人に使われる人と、人を使える人に分かれる。どうせ生きるなら、使われる人間で終わるな。やりたいことをやった方が面白い」というような訓戒を覚えています。「わからないことを笑って済ませるな、安っぽくなる」とも言っていました。

公務員は典型的な《使われる人》なのでしょう。自分が判断したり決定したりしないことで、責任は負わないという生き方の道標は、『決まりを守ること』のようです。私は十代からアニマルクラブをやっていますから、仕事も活動が続けられることをしてきました。地元の新聞やタウン誌に『一段いくら、一本いくら』の原稿料で、取材した記事を書くことと、クラブのホステスやスナックのママです。フリーライターも水商売も個人事業主ですから、決まりを守るだけでは稼げません。日々、自分で問題解決しなければ、道を進んで来れませんでした。

私が幼い頃は、伯母や先生から『道理に従って生きていく』のが、人の道だと教えられました。道理を守るために、決まりができたのだと思います。しかし、現代社会においては、非難されたり、責任を追求されたりしないために、決まりから逸脱しないで、目立たぬように生き延びる人が多くなりました。相手の機嫌を損ねまいとして、やたら敬語を使い、お世辞のような誉め言葉で、肝心の話を逸らそうとするのは、まさに《愛想笑い》です。
そんな環境で育つ子供達が、臆病で本心が言えず、想像力も働かないから他人の心も理解できず、時に自由をはき違えて転げ落ちてしまうのも、無理からぬことのような気がします。
現実と問題を意識して、自分にできることから始めていく、社会とつながって広めていくことが、地に足の付いた活動です。私がリレーのバトンを渡すのは、重荷を背負わせる一個人ではなく、自分なりの活動をライフワークとして継続していってくれる人達だと思っています。



【 もうひとつの土曜日 】


私は土曜日が好きです。毎週木曜日開院の不妊予防センターの準備や手術する猫の捕獲で水曜日から忙しくなり、金曜日に手術後に預かっている猫の術後のチェックをして、売上を計算して銀行に預けると、目先が変わり、解放感が満ちてきて、里親希望者さん宅へのお見合いなど、他の計画が進んでいくのが土曜日からだからです。
一昔前まで深夜営業のスナックをやっていた人とは信じ難いほど、今の私は夜に弱く、座った瞬間に寝ています。アニマルクラブへの見回りがあるので、2時間ほどで目が覚めて、第一次出動。暖房の再セットをして、盲目の『ニャーゴ』が、ケージの中で踏み散らかした排便を片付けて、足の裏を拭いて、戻ってまた一眠り。3~4時に第二次出動が終わると、そこから仕事始めの6時までがフリータイムになります。その時間を使って、こうして活動報告を書き、ポスターの構想も練って、はた迷惑な時間に、絵描きの平川さんや森さんに、うっかりメールを送ってしまうのでした。

そして、ポスターの次は、画集が誕生します。森さんの水彩画で、平川さんの鉛筆画で…今、アニマルクラブの犬や猫たちが、ディズニー映画のキャラクターのように次々と描き出されて、紙面から飛び出してきそうです。亡くなってしまった子達も生き生きと、ここで暮らした日々が風に乗って、還って来るようです。
カンパや物資のご寄付で応援してくださる方々に、感謝の気持ちを込めた贈り物がやっと形になってきて、肩の荷が少し軽くなってきました。心は昔に遡り、文芸部の部室で恋物語を書いていた頃みたいに、やわらかく澄んでいくようです。完成は春から初夏を目指しています。

 

家の中で飼い主と暮らす犬の様子を、羨ましそうに外から見守っていた賢い野良犬がいました。「この子を幸せにしてくれる里親を見つけるぞ!」と、私が目星を付けたのが、森さんでした。
チビタはフィラリアで短い時間しか生きられませんでしたが、良いことたくさん遺してくれました。

 

 

チビタ亡き後も2匹の犬の里親になり、ボランティアに来てくれて、今では猫達にも甘えられ、私達にも頼られっぱなしの森さんです。

 

土曜日が好きだった子供の頃、よく母の実家に泊まりに行きました。小学校に入ってまもなく、額が広い私は「学校で『デコチャン』とあだ名を付けられた~」とボヤいたら、日曜日の朝、伯母が『兼高かおる世界の旅』というテレビ番組を見せてくれて、「デンビに鈍なし、って言うんだよ。智子は兼高さんに似ているから、きっと頭が良くなるよ」と勇気づけてくれました。それからその番組が大好きになり、自分が大人なって、色々な国に行くことを想像しました。
実際は…「またバカやった!」「馬鹿だね~」と自分に言わない日はないほど、頭は良くならず、中学生の時から『英会話入門』みたいな本を5、6冊買いながらも挨拶もできず、外国に一度も行かないまま人生を終えます。せめて、夜明け前の千夜一夜物語~エッセイ集を遺していきましょう。何年越しの夢でしたが、ようやく着手しました。こちらはゆっくりと人生を振り返り、いつかはどこかで実を結ぶ種を随所に挟んで、世に送り出したいです。

ちなみに今日は、誕生日でした。子供の頃は親が用意してくれたケーキ、恋人や夫がいた頃にはサプライズのケーキ、お店をやっていた時はお客さんと食べたケーキ…一人暮らしになってからは買うこともありませんでしたが、たまたま今日は、飼い主を亡くした犬の『りく』のお見合いに行ってくれた森さんとしのぶちゃんが、お礼にいただいたケーキを分けてくれました。里親さんからいただいたケーキとは、格別です。 今日はいつになく、活動報告を早く書き上げることができました。会えなくなった人達のことも想いながら…回帰の旅が進んだことも自分への贈り物でした。
あと1ヵ月したら、3月11日がまた巡ってきます。5枚目のポスターは『同行避難』です。

 

令和2年2月11日