闘い済まずに、年暮れて…

【 上京の道すがら 】

春先に、大学を卒業して社会人になる娘のために、死期の迫った老猫に心残して上京して、かつての舅と姑のお墓参りや、娘の父親や叔母さん達に会って、「この先も東京で暮らして行くこの子を頼みます」とお願いをして、「もう、これで東京に来る用もないぞ~」と、駆け足で帰って『チャチャ』を看取ったのに…。
今また私は東京に向かっています。れっきとした用事ができました。麻酔薬を受け取りに行くのです。日本中の動物病院で、手術に使う麻酔薬が手に入らなくなるなんて、想定外の事態が起きています。イギリスからの輸入がストップして、流通していないのが何故なのか、私には分かりません。

10月末に、宮城県獣医師会から「飼い主のいない猫の不妊去勢手術の助成金にまだ余裕があるから、割り当ての年間40匹をオーバーしても大丈夫」と言われたので、野良猫に餌やりしている人達に、「この機会にまだ手術していない猫を手術するように」と、声を掛けたところでした。そもそも県獣医師会がそんなことを言い出したのは、石巻市内の《地域猫推進おばさん》の直訴がきっかけでした。

その人の町内でも野良猫が子を産んで増え続け、何とかしなければ…という話になって、相談を受けました。捕獲器で3回、計7匹手術しましたが、助成金の割り当て分も底を突いてきたし、他の方にも3匹位ずつしか出せていない事情を説明し、「支払いは無理のない分割で何年かかっても構わないし、それでも無理なら、アニマルクラブから助成できないか、考えるから、とにかく残さず手術して欲しい」と話していました。まだ手術できていない野良猫が同数位は居たからです。
そしたら、そのおばさんは私にではなく、県獣医師会に「何故全員分、助成してもらえないのか?」と抗議したようです。県獣医師会から、電話が来ました。「今年から1人10匹まで申請できるんですよ」と言われましたが、「野良猫の溜まり場には、ざらに10匹前後いますよ。年間40匹の割り当てでは、4人に支給して終わりになります」と答えたら、「それなら、他の病院に紹介してください」と言われました。「同じ価格設定なら紹介できますが、誰だって定価の安い所でやりたいですから、それでは納得しませんよ」と問答が続きました。すると、40匹は目安だから、文句を言ったおばさんの町内会の野良猫には全員分出して構わないと言われたので、「だったら、同様の他の方からの申請も受け付けて良いのですか?」と尋ねると、「その都度報告してもらえば…」と言われました。つまりは、苦情から『瓢箪から駒』が出て、結果『棚からぼた餅』が落ちてくるラッキーチャンスだったのに…。「想定外のことが起きたり、思うように進まないのは震災ばかりではないんだなぁ」と感じています。

折しも、春生まれの猫達の避妊・去勢の時季でもあり、秋から冬は、手術の予約が多いのです。今日分けてもらえる麻酔薬で、いったい何匹手術できるのだろうか?と、予約表の優先順位を考えあぐねていました。「他の動物病院でも受けられる経済力のある飼い主さんには、そうしてもらおう。大きな病院には、麻酔薬のストックもある程度はあるようだし、うちでしか受けられない野良猫や分割払いしかできない人の猫だけは、何とか手術したい」と思いました。

でも、車窓から『スピード、スピード、窓の外~畑も飛ぶ、飛ぶ~、家も飛ぶ~』景色を見ていたら、ちょっと解放感が湧いてきました。この歌は、いつもは老猫に皮下点滴する時に、滴下が早くなって早く終わるようにと、励ますように歌っています。でも、今日は抑揚をつけながら歌って紛らわせたりしなくていいし、24匹分の特別メニューの夜ごはんも作らなくて良いのです。何よりも、こんな事態の中で、分けてくださる方がいることに感謝。何の《つて》も持ってはいないNPOの病院が、野良猫の不妊手術をすることに賛同、応援してくれる人がいたから、私はこうして清々しい気持ちで晩秋の田園風景を眺めていられるのです。

 

石巻市内のある町内~独居老人が野良猫に餌付けして、どんどん増えて15、6匹はいるようでした。

 

 

昔からの町内で、高齢者が多く、餌を与えたおじいさんを非難するのではなく、不妊手術しようということに…。触れる子猫も居ました。

 

 

「子猫を保護して、里親探しましょう」と持ちかけましたが…生活侵害がなければ良い、負担は背負いたくないという姿勢で拒否されました。

 

 

放すつもりで耳カットしましたが、寒い外に置いてくることが忍びなく、『さくら耳兄妹』として、里親募集にデビュー。

 

 


 

【 失踪騒動 】

気がつけば11月末…40年余活動してきて、今年ほど子猫を見た年はありません。寝てもさめても里親探しに追われて、今なお続いています。多頭飼育や野良猫の増加が社会問題とされるようになりましたが、対策はまだまだ不十分で、的外れ。『意識はしていますよ~』という、言い訳止まりの感を否めません。猫を増やしている人の認識の低さに、それを取り巻く人達の優柔不断さが、嘆いて騒ぐところで止まり、解決にも、改善にさえも届いていない現状があちこちで見受けられ、私は日課のように「疲れた~」と呟いていますが…猫に逃げられたのは、一番体に堪えました。

ひさびさのアニマルクラブの猫の逃走事件は9月末の夕方に起こりました。私は里親探しを終えて、参加した子猫を送り届けに回っていました。そこに、ボランティアさんから「二階の窓掃除をしていたら、コムギが窓から屋根に降りてしまった」と電話がきました。送る予定の子猫達を乗っけたまま引き返し、アニマルクラブに向かいましたが、10分以上はかかりました。
コムギはすでに屋根から降りて、隣のアパートのバルコニーの下にいました。そっと近づいたのですが、パニクっていて、一目散に逃げ出し、隣家のブロック塀を超えて姿を消してしまいました。うろたえて謝るボランティアさんの手前、「何とかなるさ」と振る舞いましたが…長丁場になるかもしれないと感じました。
コムギは、以前不妊予防センターに派遣されて来ていた、若い男性看護士がアパートの中で飼っていたのを「転職したいので、落ち着くまで預かって欲しい」と置いて行って2年余り…外の世界を全く知らない子だったから、しばらく隠れてしまう予感がありました。

気を取り直して、子猫を送り届けに向かうと、とっぷりと日は暮れて、おじいさんが野良猫達と暮らす古い借家の裏…砂利山の裾に駐車するつもりが、勢い余って幾らか登り、タイヤが砂利を巻き込んでしまった感がありました。遅れた言い訳をして戻り、車を出すとガラガラとタイヤから変な音が聞こえましたが、走行しているうちに砂利が落ちると思いました。しかし、細い路地から通りに出ても音が聞こえると不安になり、交通量の多い大通りに出る前の路肩に車を停めて、降りてタイヤを確認しました。目に見えてのパンクはなく、解らないので、《おくるまQQ隊》に電話して、来て貰うことにしました。幸い20分程で来ていただき、点検して異常はなく、「挟まった砂利が落ちたのでしょう」と言われ、無事に帰ることができました。平静を装いつつも、かなり身に堪えていることを痛感しました。

不妊予防センターに来た猫が、キャリーの扉が壊れていたり、ちゃんと閉まっていなくて逃げられたことはあったのですが、アニマルクラブの猫が逃げたのは、10年ぶり位のことです。過去の苦い思い出~見つかるまでの2、3週間の苦難の日々が蘇ってきました。何が辛いって、猫に突然居なくなられるくらい嫌なことはないのです。昨日までとまるで世界が変わり、見るもの聞くもの、全てがその子に終始して、それが頭から離れないうちは帰って来ない~そんなジンクスがありました。

夜中町内を歩き回っても手がかりなどあるわけもなく、翌日早朝アニマルクラブに行ってみると、敷地内にコムギが居ました。猫なで声で名前を呼んでみましたが、昨日同様あっという間に消えました。近くに居るのだからと、深追いせずに、町内にたずね猫のポスターを貼り、郵便受けに、チラシを配布して回りました。
夕方、並びの4軒隣の家から電話が来て、そのお宅の庭にいるとのこと。すぐに向かいましたが、「車の下に入ったから、覗き込んだらあっちに逃げてしまった」とすまなそうに言われました。

その日の夜中、猫でも犬でもない、雄叫びが聞こえて、外に飛び出しました。声が聞こえた山の方向に向かうと、猫のような影が、犬より鼻の長い影に追われて逃げ去る場面が、一瞬見えました。夜になると、野生動物が山から下りてきて、猫を襲うのか…とゾッとしました。そして、それきりコムギの姿を見ることはなくなったのです。
そして、代わりに…仕掛けた捕獲器には次々と違う猫が入りました。メス猫は避妊してから放そうとケージに移すと、乳房が膨らんでいたことに気づき、子猫が母親の帰りを待っているのでは…と想うと、手術しないで放そうかとも悩みました。でも、もう二度と捕獲器に入らないかもしれないから、不幸の種を産み続けることを考えれば…子猫探しをすることにしました。
深夜、耳を澄ませば聴こえてきた子猫の鳴き声…見つけあぐねて、朝になり、塀と塀の間の、ようやく入れる隙間に、体を横にしてカニ歩きで入ってみたら、自宅隣家の裏庭の植木の間から、捕獲したメス猫と同じキジ白の子猫が顔をのぞかせました。隣のおばあさんに、子猫を保護したい旨を伝えて、捕獲器を設置させてもらいました。その日の午後に、最初の1匹get。
まだ鳴き声は聞こえてきました。妹も聞いたと言うので、実家の勝手口に捕獲器を仕掛けました。深夜に様子を見に行くと、一瞬黒い子猫を目撃しましたが、捕獲器には入りませんでした。翌朝、近所のお宅から電話がきて、「チラシ見て電話したの~。コムギちゃんのことではないんたけど、相談に乗ってもらいたいことがあって…」と言われました。「庭に子猫が現れた」とのこと。黒猫と、もう1匹兄弟がいたそうです。
早速、捕獲器を持って訪ねました。数時間後、家で保護した『さわちゃん』(騒いで居所を教えたから命名)と同じ位の、生後2ヵ月ほどの黒猫とヒマラヤン似の子猫2匹が捕獲器に入りました。アニマルクラブももう満杯なので、ケージを運んで、そのお宅に置いて欲しいと、お願いしました。やれやれ3匹getして、夜鳴きは聞こえなくなりました。

次に捕獲器に入ったのは、キジ白のオス。もうこうなれば、去勢してから放すことにしました。そして、その猫が捕まってからというもの、捕獲器とは別に玄関先や勝手口に置いておいたごはんが減らなくなったので、食べに来ていたのはコムギではないことも判明しました。何の手がかりもないまま1週間以上が過ぎました。
最後の目撃情報があったお宅の庭にも置かせてもらった捕獲器に、朝夕ごはんを入れ替えに通い、深夜は一度捕獲器を閉じに行きました。3、4年前の冬、避妊手術に連れてこられた野良猫が、キャリーバックから飛び出して、捜索した時も、このお宅に捕獲器を置かせていただいたのですが、深夜の見回りに行ったら、タヌキが入っていて、強烈な臭いのウンチをされて、おまけに酷いカイセンにかかっていたから、洗浄・消毒が大変でした。
それに、違う野良猫が入って何時間も拘束されたら、虐待になるし、閉じ込められた猫が夜中に鳴いたり暴れたりしたら、そのお宅にも迷惑をかけるからです。
あの時逃げた猫は、その後、このお宅の捕獲器に入って、無事に保護。数日経過を観察して避妊手術も済ませ、『災い転じて福となって』飼い猫にしてもらって、幸せに暮らしています。

深夜捕獲器を閉めに行くと「今日もダメだった」とガックリして、疲れて寝てしまいます。そんな中、《踏んだり蹴ったり》の事件が置きました。その日も、宛もなく夕暮れの団地の裏を探し回って蜘蛛の巣に引っかかったのですが…山を歩き回った時のお土産なのか…午前2時頃、『おむすび』が床に落ちている何かにじゃれて、飛び上がっていたので、スタンドの灯りを点けると…12センチくらいはあるムカデがくねくねしていました。近所の美容室で聞いた「ムカデに刺されて、物凄く腫れて痛くて、日赤病院に駆け込んだ」話を思い出し、おむすびを持ち上げてキャリーに突っ込んでから、スリッパで夢中で叩いてしまいました。体は黒くて足はオレンジ色で、ゴムの玩具のようでした。こんな所に入り込んでしまったムカデも気の毒で、私は泣くに泣けないような情けなさに打ちのめされそうでした。

コムギが疾走して10日目の夜のこと~水曜日の7時過ぎ、私は待合室で翌日の不妊予防センターの準備をしていました。ふいに、猫ケンカのような声が聞こえて…外に飛び出しました。最後の目撃情報があったお宅とアニマルクラブの間の、今は空き家になっているお宅の庭から聞こえたので、懐中電灯で照らしてみましたが、誰も居ません。門扉が閉まっているから、入れないと思い、ブロック塀の上を照らすと、木の枝の陰に誰か居るような気がしました。もっと近くに行こうとして、さらに1軒隣の家の前の側溝の縁を歩いて近づいて、灯りを向けると…白っぽい猫がお座りしてこちらを見ています。
「コムギなの?」と自問してしまったのは、頬がこけて、目がつり上がり戦々恐々とした顔をしていたからです。そっと懐中電灯をずらして、体の模様を照らしてみました。薄いベージュの縞模様が見えました。間違いありません。できるだけ優しく「コムギ」と呼んで近づくと、コムギは向きを変えて、ブロック塀の上を奥の方に歩いて行きます。この家もまた空き家で、草が茫々と生い茂り、履いていたサンダルの片方が絡まって見えなくなりましたが、構わず靴下のままでブロック塀の間を進みました。またしても蜘蛛の巣の応酬…コムギは時々振り返りながらも、塀の最後まで歩いて行って、ストンと落ちて見えなくなってしまいました。

翌朝確認すると、門扉に鍵はなく、入ることができたので、この2軒の空き家に、『並びの阿部ですが、猫が外に出てしまい、お宅の敷地内に居るのを見たので、捕獲器を仕掛けて、定期的に見回りに来させてもらっています』という伝言を貼りつけました。昨夜なくしたサンダルの片方が、側溝沿いの雑草の中に、シンデレラの忘れ物のように落ちていました。《コムギへの道標》にも想えて、集中的にこの2軒に捕獲器を仕掛けることにしました。
その他にもカメラをセットできる場所に、コムギが食べていた食器に、いつものpHコントロールの処方食を美味しいフードでカムフラージュしたごはんを置いて、コムギが食べに来るかどうかを確認することにしました。捕獲器には入りませんが、ごはんはキチンと完食されていました。しかし、カメラに映っていたのは、去勢して放したあのオス猫でした。なるほど一度捕獲器で捕まっているから、捕獲器には入らないのか…猫の捜索に熱意は必要ですが、思い込みはナンセンス。科学的根拠を礎に、あの手この手をやってみることで、次の方策が見えてきます。

3日後は雨で、私は濡れない屋根のある場所に、捕獲器を仕掛けました。草茫々の隣家は、玄関先に運びました。毎晩見に行っていたのですが、その日は敢えて行かないで、朝を待ちました。ちょこちょこ行くから警戒されて、捕獲器に入らないのではないか…なんて想ったのと、かなり疲れが溜まっていたからかもしれません。
逃走して、明日で2週間になろうとしていました。深夜の徘徊をしないで迎えた朝は、雨に濡れた緑も鮮やかで、空気も新鮮に感じられました。何の期待もせずに覗いた、草茫々の空き家の玄関先…艶やかな葉っぱの奥の、茶色の捕獲器の中に、懐かしいベージュの縞模様が見えました。その瞬間が、体中に温かい血が流れ、ほどけかけていた絆が結ばれ、元の生活を取り戻す時なのだと実感しました。

おもむろに、ゆっくりと捕獲器を持ち上げ、3軒隣から家路をたどりました。今なら近所の人にも、心から笑顔で挨拶ができますが、夜が明けたばかりで、誰も居ません。玄関を入った途端に、コムギは大鳴きして落ち着きません。やがて思い出したように、体をくねらせて、甘えてきました。さぁ、大きめのケージに移して、自分の部屋に戻しましょう。あんな草茫々の中に隠れて、ダニやノミ、お腹の虫も付いたかも…薬を点けて、しばらく隔離です。

さぁて、みんなに報告しなくちゃ!…いなくなった猫が帰って来るおまじないを教えてくれた人、神社にお参りしてくれた人、捕獲器に呼び込もうと、トッピングを工夫してごはんを作ってくれた人…逃がしてしまった彼女はどんなにか喜び、ホッとすることでしょう。

 

 

空前のベビーブームで、寝ても覚めても里親探しに追われた年でした。

 

 

コムギが飛び出した二階の窓に置いたカエルちゃんの背中にも、哀愁と疲労が漂ってきました。

 

 

捕獲器に入ったコムギ。戦々恐々とした表情で、身じろぎもしませんでした。

 

 

玄関を入ると、思い出したように大騒ぎ。13日ぶりの帰宅。ルームメイトは待っていてくれたかなぁ~

 

 

部屋に入っても、ちょっと落ち着かない様子。元飼い主はとうとう来なかったけれど…カエルくんがお出迎え。

 

 

だんだんと感覚を取り戻して、導線が繋がってきたようで…リラックス~こちらもドッと眠くなりました。

 


 

【 台風襲来 】

コムギは1週間ケージに入れられて隔離され、体調に変化もないので、釈放されました。性懲りもなく、逃げた窓辺に鼻を押し付けて、また出れないか…探っていましたが、その窓に吹きつける風が強くなってきました。ボランティアさんが窓を補強しようと、ダンボールや養生テープを持ってきてくれました。台風19号が接近していました。

待合室には、一昨日去勢した大きな野良猫が2匹と、その前の週に、日和山から連れてきて避妊したものの…心臓が悪くエイズキャリアであることが判り、放せずにいた『晴れ子』がケージに入っています。その後ろのプレハブには、里親募集中の生後半年の兄弟『ダル』と『スプー』がいます。震災の時、津波被害が深刻だったのは、この2つの建物です。「ダルとスプーは3段ケージだから、大丈夫だよ」と言うボランティアさんの言葉に頷いて、「浸水したら、待合室の床は危ないね。なんぼでも高い所へ運ぼう」と相談。診察待ちの人用の作り付けのベンチに、外にも置いてあるベンチや補助用の丸イスを並べて段ボールを敷いて段差の調整をして、台を作って、大ケージ2つ、中ケージ1つを何とか高い所に上げました。すぐ近くの実家の庭に居る犬の『バロン』も、実家の家の中に入れて来ました。
それから、物干し竿を下ろして飛ばされないように縛り付け、ゴミ箱やバケツや掃除用具を玄関や診察室のドアと内扉の間に突っ込みました。日は暮れて…ボランティアさん達は「あと大丈夫?」「大したことないと良いねぇ…」と心配を残しつつも、家路を急いで帰って行きました。そこからが、孤軍奮闘の始まりでした。

気象庁が言っていた通り、これまで経験したことのない大雨が襲来しました。
自宅に居る24匹にごはんを食べさせ、水替え、トイレ掃除…一通り終わってテレビを点けたら、どんどん迫り来る台風の猛威が放映されて、各地の凄まじい被害状況に唖然としました。夜10時過ぎにアニマルクラブを見に行こうと外に出ると、道路は、膝までの長靴ギリギリの水位でした。野原のあちこちで冠水した車のブザーが鳴って、震災の時みたいでした。
アニマルクラブの前の堀の水量が、めきめきと増えていきます。雨が勢いを増して、ドンドン降ってくるので、待合室と奥のプレハブは早々に浸水するかも…と不安になってきました。人馴れしていない野良猫3匹を、棒を使って洗濯ネットに入れて、キャリーに移しました。使っていた大きなケージも畳んで、母屋2階へと運んで、『コロ部屋』にシェアハウスをお願しました。次に、裏の倉庫から大ケージを出して2階へ運んで組み立て、ダル&スプーはコムギの部屋にシェアさせてもらいました。
それから、母屋に居る生後2ヵ月の子猫達に夜食をあげて外に出たら、もう水は堀から溢れて家の車を置いている坂の手前まで来ていました。これでは母屋も浸水するかも…と思い、目についた物から片付けて、テレビ点けてアニマルクラブで夜明かしすることにしました。倉庫からキャリーバッグをあるだけ出して並べて、いざ玄関に入りそうになったら、1階の猫達を、とりあえず2階に上げようと思いました。

一方、自宅では、『ユウちゃん』が老衰で、もう自分で動いたり水を飲んだりできないし、重い心臓病を持っている『かりんと』も風邪がひどくなり、酸素テントに入っていました。1時頃、様子見に一度戻ることにしました。外に出てギョッとしました。豪雨で、路地は川と化してしました。一歩ずつ進むと、水位は腿までありました。路地1本隔てた自宅までの道のりをこれほど遠く感じるとは…夢の中で、知らない川を渡っているようでした。家に着いても、すぐには入れず、玄関の前で、カッパを脱いで、入って玄関で、全部着替えました。アニマルクラブに戻ったらまた着替えなくてはないから、着替えを用意してビニール袋に入れました。ユウちゃんに水を飲ませて、かりんとに点眼点鼻薬して、着替えの袋を首から下げてカッパの中に入れて、またアニマルクラブに戻りました。町内の車は、みんな半分位まで水に浸かっていました。
3時頃が水かさのピークで、入り口から傾斜がつき、玄関前が高くなっている所に停めていた私の車は、タイヤ半分まで水に浸かり、待合室の裏口から浸水しかけていたので、ウエス用のバスタオルを敷き詰めました。母屋も玄関ギリギリまで水が上がってきました。
家の裏でゴタゴタと音がするので、行ってみると、灯油缶とゴミストッカーが流されて外壁にぶつかっていました。猫砂も浸水していたので、猫を2階に上げて空いたプレハブの中に、運びました。ビニール袋4つが1つの紙袋に入っているのですが、浸水した紙袋を持ち上げたら破れて、ビニール袋の中で砂が一部固まっていました。震災の時、家の裏に積み上げていた、買い置きの砂がみな流されて、いくつか拾い上げても、固まって使い物にならなくなって、教訓にしたはずなのに…。昨日一緒に台風対策をしたボランティアさんと早く会って、「肝心な砂運びを忘れたね~」と話したくなりました。半日も経っていないのに、れい子さんの明るい笑顔が、懐かしい思い出のようでした。徹夜になりましたが、家も車もギリギリのところで難を免れ、ホッと肩の荷を下ろしました。

明るくなると、雨も上がり、風もだんだんと弱まってきました。でも、町内は水浸かりで、家の周りは水位が膝上まであって、長靴は役に立ちませんでした。大通りは川状態で、進めません。通りに面したコンビニや飲食店、マンションの1階の部屋は、壊滅的被害を受けたそうです。
この日の当番ボランティアさんの住む辺りも水没したそうで、「車が出せなくて、行けません」と電話が来ました。そんな中、真っ先に自転車を漕いで登場したのが、コムギを逃がしてしまったボランティアさんでした。その後からも2人、「何とか通れる道を探して」やって来てくれました。仲間が居てくれることを、しみじみとありがたく感じました。

やっと水が引いて車が通れるようになった15日、ユウちゃんは安らかに亡くなりました。18年位前に、精神科の入口で待ち合わせ、入院する人から預かった時に、2歳と言われました。ペルシャ雑種の白の長毛で、若い時はとても綺麗な猫でした。主張して引かない気の強さで長生きできたと思います。食い意地も張っていて、前日まで食べていましたが、骨と皮ばかりにやせ細っていました。
最期は、私のベッドの上で、ちびりちびりと一晩中下痢を漏らし…私は、ウエスを濡らしてビニール袋に入れてレンジで暖めて拭き取り続けました。翌朝は大きなウンチとオシッコもいっぱいしてから、昏睡状態になり、昼頃、そのまま呼吸しなくなりました。
あの飼い主は、まさかユウちゃんがここまで生き抜いたなんて、想いもしないでしょう。私もその人の顔も名前も忘れました。でも、ユウちゃんの生きた証は、共に暮らした家のここかしこに残っています。

 

 

 

里親探し一番の難題は、《スルメーズ》。見よ、このめちゃくちゃ模様の『ダル』!

 

 

負けてないぞ!『スプー』だって。でも、めっちゃ性格良いんです。台風の時も笑わせてくれました。

 

 

「台風だから2階へ避難しよう」と言っても、『晴れ子』はイカ耳でシャーシャー抗戦。

 

 

「世間はどうでも、オラ知らん」。雨にも負けず、風にも負けず~ユウちゃん、威風堂々でした。

 

 

翌朝も何事もなかったかのように、《寝たきりごはん》。

 

 

『かりんと』を酸素テントに入れていたから、留守にしてても、ちょっと安心できました。

 

 

でも、町内はこんな景色になっていました。外に出たら、水かさは膝より上~

 

 

被害は甚大。あっという間にゴミの山ができました。

 

 

台風から3日目、ユウちゃんはやりたいことをみなやって、思い残すことなく昇天したという感じです。

 

 


 

【 訴えてやる! 】

石巻市内で飲食店を経営している若い男性からの相談でした。大家さんの住まいが店舗の上にありますが、今は、近くの中学校に通う娘さんだけがそこに住んでいて、他の家族は市内の別の住まいに移ったそうです。その娘さんも卒業すれば、家族は市外に引っ越すかもしれないそうです。
店舗2階の室内で以前飼われていた猫が、下の子がアレルギーになったからと、2年近く前に外に出されたそうです。その猫が野良猫になって、生んだ子猫がそのあたりに住み着いて、成長したそうです。「親猫はたまに姿を見せるけれど、すっかり野良化した」とか。
2匹の子猫には、飲食店のスタッフや近所の人、大家さんも来れば、エサを与えていたようです。当然迷惑になることもあり、誰かが保健所に連絡して、職員が行政指導に来たこともあったそうです。飲食店内に入ってきたり、駐車場に居て危ないので、困った店長さんは、鳥小屋のような金網小屋を作って、中に雄と雌の猫を閉じ込めました。
今年の春に出産して、1回目は飲食店スタッフが友達を頼って里親を見つけたそうです。その時協力したのがアニマルクラブの若いボランティアさんで、彼女は親の避妊・去勢を勧めたそうですが、実施されないままに秋にまた子猫が生まれて、困った店長さんから、アニマルクラブホームページにメールで相談が来たという経緯です。

11月1日、見に行ってびっくりしました。日に日に寒さに向かう季節に、まるっきりの吹きさらしで、暖を取れる物が何もなくて、吹き込んだ雨水もそのまま溜まっていました。あの台風の時も、親子はこの中に居たそうです。生後1ヵ月ちょっとの子猫が4匹いて、目やにと涙目の風邪症状があり、この大きさの子をこのままここに置いておくことには、命の危険を感じました。「店のスタッフが自宅に連れて行って、面倒を見ることはできませんか?」と聞いても無理だと言うので、店長さんにこちらで保護する旨を伝えると、とても感謝されました。
子猫達には手厚いケアが必要と感じたので、台風の後から『日和山晴れ子』を預かってもらっている、名取市のボランティアさん宅にお願いしました。しかし、弱っていた1匹は間に合わず…翌日亡くなりました。あの金網小屋の中ではなく、暖かい部屋の中で、看護の手に包まれて命尽きたことが、せめてもの救いでした。あとの3匹は、日に日に回復に向かいました。

この店長さんには、相談を受けてから再三、避妊・去勢手術をしなければ、繰り返し生むからと説得したのですが…大家さんに話してもやる気はないし、それを差し置いて自分がやるのは角が立つようで、踏み切れないでいました。
親猫達のことも心配になり、こちらが動かない限り手術も実行されないと痛感したので、翌日また行ってみると、親猫2匹は外に出ていました。「どこからかよく出てるんですよ」と言い訳する店長さんに、「こちらで保護して、手術しますから」と伝えました。猫達は翌週の開院日に、不妊予防センターで無事に手術やワクチンを受けました。

親猫を連れてくる時、店長さんは感謝して渡したのですが、その後大家さんに報告したら、彼女が「娘が寂しがるから、猫を返して」と言っていると、慌てて連絡をよこしました。大家さんは感情的な人で、「勝手に連れて行って泥棒だ、警察に訴える」と激怒、店長さんは狼狽して、「名取市まで自分が迎えに行くので、一旦返してください」と言い出しました。
これまでの経緯を聞いて、置かれていた状況を見る限り、私は彼女が飼い主だとは言えないと感じました。飼っていた猫を避妊手術もしないままに外に出して、その猫が外で産んで、複数の人からエサを貰って成長した猫に、所有権を主張することはできるのだろうか?と。それが認められたら、「自分の猫(犬)だから、どう飼おうと自分の勝手」という理屈が通ってしまい、動物愛護は進まないと思いました。ネックは、彼女が日本人ではなく、中国人だということでした。
「中国では猫は外で飼うのが当たり前だ」と言っていたそうですが、ここは日本ですから、日本の動物愛護法を遵守した飼い方をしてもらわなければなりません。自分が飼い主だと主張するなら、やるべきことをやってもらわなくてはないし、できないのなら猫を飼うことはもうやめてもらわなくてはない~当事者と直接話せば、感情的になるのは目に見えているので、誰かに間に入ってもらった方が良いと考えました。

話し合いの間に入ってくださるのに、適任の方が見つかりました。中国のイタリア大使館に勤務していた方が退官して、石巻の離れ小島に住んでいます。猫島で有名になった田代島の近くで、ここにも野良猫はいるから、手術に連れてきたこの方の奥さんとお友達になりました。彼女も国連に勤務していたそうなので、外国人との付き合いは馴れています。ご夫婦で土日なら、悪天候で船が欠航にならない限りは来てくださると返事をもらい、店長さんに伝えました。
中国の文化や生活様式をご存知で、中国人に馴染みのある方になら、大家さんも打ち解けて本音で話してくれるのではないか~話が噛み合わないまま、いきなり顔を合わせては物別れになりかねません。まずは大家さんの言い分を、第三者に聞いてもらうのが目的でした。
絶版になって、なおファンが多い『捨猫』のカメラマン溝淵さんにも、トラブル解決の相談をしました。行政への抗議のエキスパートだからです。「動物愛護法で、繁殖制限も、適性飼養も飼い主の義務と定められています。大家さんが飼い主であると主張するならば、行政指導の保健所職員も入れて、避妊・去勢手術の費用を負担するだけでなく、家の中で適性飼育していくことを約束してもらい、それが守られているかを定期的にチェックしてもらうようしなければなりません」と言われました。

店長さんはお人好しなのか、揉め事は避けたいのか、「大家さんも元々は動物好きだ」とか、「これからはちゃんと飼ってくれるはずだ」などと、根拠のない結論で丸く納めようとしていました。彼に限らず、最近、相談しておきながら、厄介なことが持ち上がるとすぐに引き上げて、うやむやにする若者が多いことに、私は失望しています。
「アレルギーの子供がいて、近い将来引っ越すかもしれない、という状況は変わっていないのに、なぜこれからは家の中でちゃんと飼えるなんて言えるの?それはあなたの願望であって、根拠がないのだから、ウソになっちゃうんだよ」と言いたかったけれど…これ以上、敵を作るのは得策ではなかったし、真面目な彼が可哀相に思えて、3分の1位に留めておきました。

しかし、いちいち敬語を使って私の取った行動も褒め称える気遣いをする彼が、「なぜ、あの金網小屋の中をもっと暖かく、住み良くする配慮をしていなかったのか?」が不思議でした。
また、名取市のボランティアさん宅に預けて間もなく息を引き取った子猫のことを報告した時も、「不慮の死に、自分達と大家さんもショックを受けた」という返信が来て、自分達が子猫の風邪に気づきもしなかったことを反省もせずに、お世話になった人のミスであるかのような『不慮の死』なんて言葉を使うことに、慇懃無礼な無神経さを禁じ得ず、自分の子供の世代の若者達が優しい心を持ちながらも、それを役立つ行動に移せない、広げられない~創意工夫とコミュニケーション能力が不足していることが残念でなりませんでした。

そして、そんな涙ぐましいおとぎ話でカムフラージュされようとしていたのが、《文化の隔たり》の高いバリケードだと感じていました。現在、日本で沢山の外国人が暮らしています。石巻のような田舎町にも、多くの外国人妻がいて、不妊予防センターにも、台湾、韓国、タイ、インドネシア、フィリピンなどから嫁いで来た奥さん達が来てくれます。
彼女たちはとても愛情深く、猫を我が子のように可愛がっています。野良の子猫を保護して連れて来たりもします。そんな時、「親猫を避妊手術しないと、こういう可哀相な子猫が次々生まれるから」と説得して、受けやすくなるように助成金の説明などするのですが…「この子はうちに来たから、もう幸せだよ。親猫は飼わないから関係ない」という態度を取られることがあります。「うちの猫じゃない猫のことまでは知らない」という《割り切り》に、入り込めない隔たりを感じます。外国で暮らす人々が、自らの生活を守ろうとするのは当然でしょう。その際、まず「自分のものかどうか?」という価値基準で物事を見て、客観的視野や社会的配慮にまでは及ばない気がします。
そして、彼女たちは自己主張が強く、意思表示がはっきりしています。対して、日本人はどんどん軟弱になり、自己表現できなくなってきています。社会や相手の身を案じて提案したことが却下されれば、日本人の側には不信感が湧き、相手の態度が強ければ嫌悪感にもつながっていくでしょう。そうやって、社会の分断が起こっていく構図を感じ取ることはできます。

店長さんから、仲介者が週末に話し合いに行ってくれることを伝えてもらい、話し合いが2日後に迫った夜のことでした。「大家さんから、猫はボランティアに引き取ってもらって良いという連絡がきました」というメールが来たのです。「前にトイレでない所にオシッコされて困ったから、戻って来ても家の中でなく、また外の小屋で飼うと言っていたから、ホッとした」とも。
「ほらね、大家さんはやっぱり家の中で飼うつもりなんてなかったんじゃない」と言ってやりたかったけれど、猫が安泰ならばそれで良かったので、そのことには触れませんでした。彼は、自分がつい2、3日前につじつまの合わないことを言ったことさえ忘れて、ただ喜んでいました。うまく流れてくれれば「ラッキー!」、うまくいかないことは「仕方なかった」と諦める受動的な姿勢と、巻き込んだ人達にかけた無礼と迷惑には無頓着な鈍感さが、今の若者気質のように感じられます。

一方、超ポジティブな大家さんは、激怒して「訴えてやる!」と脅したことが、『飼い主だと主張するなら、手術代や、子猫の治療費を負担して、今後は家の中でちゃんと飼っているか、保健所が定期的に見に来る。言い分は第三者が聞くために、わざわざ訪ねて来る』とおおごとになって、面倒になったようです。仕事上で中国人とトラブった方から、「お金がかかること、役所が介入してくることを嫌がる」と聞いたことがありましたが、今回もそのパターンだったかもしれません。

 

店舗の裏に建てられた金網小屋の中で暮らす親子。外とまるっきり同じ温度で、中も寒そう。

 

 

手前が父親、奥が母親。子猫は5匹生まれて、すでに1匹は死んだと聞きました。

 

 

父親はこの生活が嫌でたまらない様子。後にアニマルクラブに来てからの顔と見比べて欲しい。

 

 

こんなに可愛いのに煤けちゃって…。鼻水垂らしていたから、居てもたってもいられなくなりました。

 

 

拳ほどの背を丸めて、吹き込む風に耐えていました。「あーっもう、連れて行くしかない!」

 

 

ひとまずアニマルクラブへ。風邪引きさん達に、暖かい部屋で温かいごはんをあげましょう。

 

 

ひとり、あまり食べられない子がいました。弱っているのでしょうか…

 

 

名取市のボランティアさん宅で手厚い看護を受けましたが、間に合わず…お星様になりました。

 

 

両親は無事に避妊・去勢手術やワクチンを受けました。もうこれで、子猫で悩むことはありません。

 

 


 

【 令和の脱獄王 】

金網小屋から連れてきた子猫達は、名取市のボランティアさん宅ですくすくと愛らしく成長して、親猫2匹は私の自宅に置いていました。『チャコぶー』の部屋で、3段ケージに入っています。
奇しくも…この猫達のために、中国人の飼い主をイタリア人の元大使館職員が訪ねてくれることになっていた、幻の会談の日の夜明け前のことでした。
前夜11時に見回りしたときは変わりなく、朝方4時に暖房の加減を見に行ってみたら、部屋が寒かったので、ドキッとして灯りを点けました。カーテンが外れて大きく垂れ下がり、サッシの前に下げているワイヤーネットも…結束バンドが噛み切られて斜めに傾き、桟に突っ張り棒を置いて、開かないようにしているサッシもわずかに開いてました。
3段ケージの扉は3つ共閉まったままで、メスは中で寝ていました。同室にフリーで置いている猫達もみな居ましたが…オスだけが姿を消していました。ケージのドアには丈夫な洗濯ばさみやカラビナを付けて補強していたのですが、2つ落ちていました。
大きな体で無理矢理ドアの隙間から出たようです。ここに運んで来た時も、キャリーバッグに入れて、車に乗せている間に座席に出ていて、びっくりしました。さらに、車の中に入って、キャリーの上の扉も前の扉も閉まったままなのを見て、ちょっと怖くなりました。《忍術使い》なのかと想いました。

サッシの鍵はしめていたのですが、古い家の昔のサッシなので、強い力で揺さぶり続ければ開いたと思います。体が特別に柔らかいようで、ちょっとした隙間から抜け出し、力もあるから、突っ張り棒で押さえていた網戸も突き倒して、外に出たのです。《伝説の脱獄囚》のエピソードが頭に浮かびました。
アニマルクラブに捕獲器を取りに行くと、逃げた猫が近所のブロック塀の上に居て、私を見たら背を向けて走り去りました。捕獲器は、逃走現場のベランダと玄関前に設置しました。頭の良い野性味の強い猫なので、帰巣本能が働くかもしれないと想い、店長さんとボランティアさん達にメールしました。コムギの失踪で苦労した彼女が、早々に捜索のポスターやチラシを作りに来てくれました。

その日の午後、家事がすっかり遅れた私は、玄関前の物干し場で、洗濯物を干していました。そこに、ドンドンドンと大きな音が響いて、屋根伝いにあの猫が現れたのです。猫は私のすぐ前に降り立ち、捕獲器を一瞥して、階段を駆け下りて消えました。大胆不敵さに圧倒されました。
次に登場したのは日付が変わった深夜1時。捕獲器とは別に、玄関前に置いておいたごはんを食べていました。私が出て行くと、舌なめずりしてこっちを見ながら、また走り去りました。「こりゃ~知恵比べだ」と思い、明るくなるのを待って、近くのコンビニにフライドチキンを買いに行きました。良い匂いに釣られたのか…奴は現れましたが、捕獲器には入りませんでした。しかし良く見ると、チキンは一切れなくなっていました。食べやすい大きさに切って小皿に入れて置いたのですが、小皿が手前に来ていました。頭が良いから皿を前足で引き寄せ、体が大きいから足踏み台を踏まずに、手前の一切れだけには届いたのかもしれません。旨かったから、きっとまた食べに来ると想い、次は皿に入れないでチキンだけ置いてみました。

今回の知恵比べは、私が勝ちました。大きな音がして、玄関から出ると、敢えなく捕獲器に閉じ込められてもがく《脱獄犯》が居ました。ここに来てからは『ローリー』と呼んでいましたが、その日以来、歴史に名を残す脱獄囚2人の名前を組み合わせた『白鳥寅吉』という二つ名を持つようになりました。この猫はどこに行っても生きていける逞しさを持っているようですが、サッシや窓が開いたせいで、同室の世間知らずの猫達が外に出てしまったら、コムギの二の舞です。
あれから、脱獄防止対策も細々やっていますが…いろんな猫がいること~対応をどう変えれていけば共存できるのか…?を改めて考えています。動物と暮らすということは、そうやって頭を悩ませ、試行錯誤に疲れ、お互いに理解を深めていくことなのだと、元飼い主の中国人に伝えたいと思いました。

 

 

チャコぶー部屋に居候した『ローリー』と『ミモザ』は、安楽な生活を手にしたはずでしたが…。

 

 

バクバク、ゴロゴロ食っちゃ寝~平穏な生活に飽きたらず、密かに脱出計画を練っていたのか…

 

 

捕まっても悪びれもせず、「おらぁ、この次は負けねーど」って言ってるみたいで…もー、たくさん!

 

 

名取市にいる娘たちは愛らしく成長して、《里親募集》一番人気です。

 

 

ついでに、同じ所に居る晴れ子さんも…イカ耳立てて、甘えるようになったそうです。

 

 


 

【 ポスターを架け橋に 】

東京に麻酔薬を受け取りに行って、10日経ちました。日常に戻れば、なかなか執筆する時間もありません。座れば、寝てしまうからです。寒くなって、午前2~3時頃にアニマルクラブの温風ヒーターを再セットしに行くのも日課となりました。冷えてる日は、とりあえず各部屋のヒーターをまず点けて暖めて、20~30分してからタイマーセットしようと、全部点けたところで座れば、そこで寝てしまうのがいつもの癖です。猫達は暖房が好きで、ヒーターにべったりくっついて、焦げを作って白黒が三毛になっている子もいますが、私も居眠りしている間に、フリースの上着に焦げ穴を開けてしまいました。ダウンジャケットの背中には、3、4年前に開けた焦げ穴隠しのつぎ当てが付いています。

吐いたり下痢したり胃腸炎型の風邪も冬の定番で、アニマルクラブのあちこちの部屋で患者が出て、一組治ればまた別の組と続き…看護士さんに仕事帰りに寄ってもらったりしていました。世間でも流行っているようで、不妊予防センターにも、同様の症状の患者さんが来ています。里親さん宅に行った子猫も感染したようで、初めて猫を飼った奥さんから「動物病院に毎日通っていても悪化していく、入院させた方が良いんでしょうか?」と泣きそうな電話が来たので、その子も預かって治療したら、《里帰り効果》か…翌日から食欲も出て、吐かなくなりました。

 

兄妹でトライアル中でしたが、お子さんにアレルギーが出て、妹だけ飼うことになり、兄は出戻り。離した途端に、どちらも病気になりました。

 

 

妹は病院に行っても悪化していると聞いて、また一緒にしたら…翌日には揃って回復。この絆、人間の都合で断てないね~

あちこちお願いして方策を探っていますが、麻酔薬が手に入る見通しはまだ立っていません。12月後半まで間に合うかどうか…前からの予約だけは何とかやって、後は手術は休むしかないと思い、ホームページにもその旨を掲載しました。

そうなったら、避妊・去勢手術は当分できません。別のこと~啓蒙活動に力を注いで時を待つしかないと考えています。皆さんに向けて伝えるべきことを創る余裕がないことを、ずっと気にかけてきました。五井さん亡き後も、アニマルクラブには絵描きさんが揃っています。森さんの水彩画、平川さんの鉛筆画…2人が描く猫と犬の絵に、私がエピソードを付けた本を製作中です。じっくり仕上げたいので、完成は来春になると思います。それに先駆けて、形になる物を生み出したい気持ちもあり、今、この2人の力を借りて、ポスターを手がけていて、もう少しで出来上がります。

 

 

※『ゆい』                                      森さんは、こんな優しい絵を描く人~ノーファー運動の成功を受けて、今、ペット不買運動のポスターを手がけています。

 

 

 

※『茶々』                                           平川さんは鉛筆画の写実派~今回発表の2枚のポスターのデザインも担当。

※『より』

 

なぜ、今、ポスターなのか…?私はそれを、動物愛護運動を志す方々に活用してもらいたいと思っています。私は高校生の時からこの活動を始めて40年間、世の中の移り変わりを見てきました。家族の一員として幸せに暮らすペットの数は、各段に増えました。飼い主のモラルや知識も向上したとは思います。雑誌もテレビ番組もSNSも…頻繁に動物のことを取り上げ、日本はあたかも動物愛護国家のような一面を見せる一方で、社会の流れから置き去りにされたり、目の届かない場所で苦しんで、見過ごしにされている動物達の受難は続いています。虐待やネグレスト、責任を取れない飼い主~老人や精神障害者の破綻、ブリーダーや助けるつもりで始めた人の多頭飼育崩壊…と、さらに深刻な問題も頻発しています。
そんな現実に居ても経っても居られない人達から、相談のメールが頻繁に来るようになりましたが、そこからまた問題も生じています。
「捨て猫を拾った」「近所で野良猫が赤ちゃんを生んだ」と、自分が直面した問題解決に協力してもらったことをきっかけに、《もっともっといる不幸な動物》に心が惹きつけられて、《自分の世界での活動邁進》にのめり込んでいくケースがあります。このタイプの人は、社会性に乏しく、気分や行動に波があり、動物を助けることで自己実現を果たそうとしているところがあるので、一々聞いてくるくせにアドバイスには従わず、自分流を通して堂々めぐりになり、行き詰まると、また助けを求めてくる人騒がせな人達で…いつまでも縁が切れないし、進歩も見受けられません。

「野良猫を集めて餌付けしていた老人が亡くなり、猫達がエサを求めていたから…」などと《やむを得ない大義名分》の元、自分が餌やりさんになって、こちらが不妊手術や里親探しの協力していくうちに、燃えてきて「救いを求めている子は私が助けなければ…」と、まだ全部の手術も終わらないうちに、さらに活動範囲を広げていったりする人もいます。
このタイプは能弁で、収拾がつかなくなると「破産寸前です」とか「うつ病になってしまいました」とか《逃げても良い理由》を付けて、途中放棄してしまうこともあるので、猫にも私達にも…非常にはた迷惑な《危険人物》です。

本心が見えなくて、決心できない~不可解な若い人達からの相談も増えました。
職場で餌付けした野良猫を保護しようと、春から自分で捕獲器を購入して、家には二段ケージを購入してスタンバイしながら、捕獲できないでいた人がいました。秋口に相談されて、こちらの捕獲器も貸しました。見かねて2度ほど私が行って捕獲しようとしたのですが、その都度、職場の都合や家の事情でドタキャンされ、野良猫の数は段々増えて、家族に相談したら反対されて、「家が揉めているから、時間をおきたい」と捕獲器やケージを一旦返しに来ました。
そして、1週間後に「ずっと後悔していました」と、また捕獲器を借りに来て、やっと昨日、子猫2匹を捕獲できたそうです。保護する前の段階で右往左往していたのは、真面目一方の彼女の視野が狭く、何でも自分で抱え込んで、空回りしていたからだと思います。保護したことが自信となって、地に足の着いた歩みを進めていってくれれば良いのですが…。

他人を頼りながらも、尊重して、言われたようにやってみようという素直な心になれないのは、30~40代の相談者に共通の傾向のように感じられます。彼女達は、こちらの提案に、あたかも事を成し遂げたように安易に喜び、「ありがとうございます」を連発し、うまくいかないとすぐに背を向けて、「すみません」を繰り返して終わりにしようとします。「私ってダメですよね」と卑下してみたり、「家族がひどい、大変なんです」と、形容詞を重ねた内輪話で情状酌量に持っていこうとします。そこにはもう、助けたかった猫は不在で、途中まで関わっていた場合は、こちらが代わって責任を負わない限り、置き去りにされた命を助けることはできなくなります。
職場に紛れ込んだ野良の子猫を助けたいと相談をよこした女性に、捕獲器を貸したのに、一足先に上司が段ボール箱に入れて倉庫に入れて、保健所に渡そうとしているから「もう何もできない」と電話をよこしました。「私が飼うから連れて行きます、と言えばいいでしょう?」とアドバイスすれば、「飼えないアパートに住んでいるのを知られているから」などと言い、「実家なり友達なりが飼うと言えば済むでしょう」と知恵を付ければ「嘘はつけないんで…」と答えたので、びっくりしました。助けるための優先順位も分からずに、自分が嘘をついたとバレることを恐れるとは…。
今の若い世代は、コミュニケーションできずに、非難されることに過敏になっています。私は『うまくやる』という《渡世術》を身につけていくのも、人生の本懐でもあろうと感じて生きてきました。危機に瀕している幼子の命より、我が身のちっぽけな保身が優先なら、彼女が望んだ「何とか助けたい」相談とは、『動物愛護団体の人に、自分が言いにくいことを言って貰い、やりたくないことはやってもらう』ことで、それが無理なら「じゃあ、いいんです、すみませんでした」で終わりにすることだったのかと…情けなくなりました。
財力も能力もない私が、この活動を長く続けてこれたのは、出会った人達を「良い人だなぁ」と感じれば、《信じて乗ってみる》ことを積み重ねてきたからだと思っています。他人も自分自身も信じることができなくては、人生は何と薄っぺらで味気なく、さもしいものになってしまうことでしょう。

自分の意志で保護して避妊手術に連れて来た野良猫を、その後飼おうと家に入れながら、「鳴き声がうるさくてイライラして、もう限界です」と持て余したり、「胸にしこりのようなものがあります。乳ガンですか?命に関わるんでしょうか?」と心配したりを繰り返して、連日メールをよこす人もいます。「まず、自分を立て直してください」と言いたくなるような人達が、動物達に関わっている世相が見えてくる気がします。

かと思えば、衰弱した捨て猫を保護して、動物病院に入院させて、大金を払いながら、その猫には一切関わろうとはしなかった不思議な人もいました。何かを負うことが怖い人が、職場で自分を発揮できるのか?子を持って親になれるのか…日本の将来に不安に感じます。どの人も、優しさが消化不良を起こしているような印象です。足りない酵素は、《信念》でしょうか…

一方、本当は十分行動できる能力と責任感のある人が、活動に踏み出せずにいるとも感じています。それぞれが、動物達のために、知性と勇気を出し合って、ありのままの願いを柔軟に、自分にできることから活動して欲しいと考えています。まずはポスターを貼る~そんな簡単なことからでも始めてもらえたら…という提案です。
不妊手術を勧めるポスターには、「悲惨な写真だと拒否反応が出るのではないか?」とか、「悲惨さより、手術しないと爆発的に増えることの方を強調した方が良い」という意見もありました。しかし、もう20年前から、猫がこんなに増えていく図式はパネルにしたり、チラシにして見せて来ました。でも、それだけでは、「これじゃダメだよね~」とは解っても、「行政がもっとちゃんとやってくれればいいのに」とか言って、自分が能動的に動くところまでは持っていけませんでした。
そして、『爆発的に増えたら大変』だと判るのは、社会問題を我が事と考えられる人で、他力本願な人々を動かすのは、目を奪われる悲惨な現実なのではないか…と思い、リアルな写真を使いました。どこかから持ってきたのではない、自分が宮城県動物愛護センターで撮った猫の殺処分と、私が短歌を添えた『捨猫』から、溝淵和人さんが7年間撮り続けた野良猫の姿を選びました。
「無料で沢山配布した方が良い」という意見もありますが、これまで無料で配った物が、大切に生かされた経験はあまりありません。生かしてくれる人に実費程度は負担してもらって、活用してくれる人が多ければ、入ってきたお金を次の製作資金に当てたいと考えています。アニマルクラブの考えを一方的に発信するのではなく、動物愛護活動したい人の手助け、足掛かりにしてもらえれば…というデモンストレーションのつもりです。

昔々観た映画の「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている値打ちがない」というセリフを、ふと思い出しました。「想うだけでは形にならない。できることを始めなければ、何も変わらない」というメッセージを送りたいのです。

 

日本捨猫防止会、新潟動物ネットワーク、そして『捨猫』の溝淵さんのお力を借りて、伝わるポスターを目指しました。

 

 

高村光太郎の『ぼろぼろな駝鳥』に共感した少女時代から、世の中に訴えたかったテーマです。

 

 

あっと驚く大ニュース!
スルメーズ、揃って里親さん宅へ~今ではお嬢さんのバースデーケーキに飾られるまでの出世ぶり~

 

 


 

【 逝く猫、来る猫 】

ユウちゃんの前に『ちゃーちゃ』、後に『かりんと』…この秋も3匹旅立ちました。ちゃーちゃとユウちゃんは20歳前後の高齢で、ちゃーちゃは痴呆が進み、食欲が亢進して色んな物を食べて、慢性の下痢をあちこちに漏らすようになり、突然、宙を見据えて大鳴きを始めて…《恍惚の猫オンパレード》状態でした。

震災直後、中学校の校舎に避難していた人から「津波で死んだ伯母の家の二階に飼い猫が隠れている」と相談されて、押し入れに捕獲器を仕掛けて保護しました。後からわかったのですが、ちゃーちゃの飼い主は不妊予防センターに通っていたおばあちゃんでした。津波に呑まれて階下で、共に亡くなっていたという足の悪い犬や、野良猫を連れて来ては…タクシーを降りた瞬間に「先生~マック来ました~お願いします!」と叫ぶ、愛情深くて一生懸命な人でした。
不妊予防センター設立以前からお付き合いはあり、平成13年におばあちゃんから来たお手紙に、『うちの美人娘ちゃーちゃ』と書かれた真っ白な猫の写真が入っていました。震災後、偶然のように相談が舞い込んだのは、「ちゃーちゃをお願いします!」という、おばあちゃんからの遺言のように想えました。ちゃーちゃは右目が金、左目が青のオッドアイでした。被災したアニマルクラブの片付けに来てくれていた仙台のボランティアさんが、ちゃーちゃを見て「あら、すごい!この目は、タイの王室で代々飼われている金運守神の猫だよ」と言いました。確かに、震災後の2年間は、それまで赤字収支だったアニマルクラブに、被災地支援の寄付や物資が届いたので、「こりゃあ《ちゃーちゃ効果》だねぇ~」と湧きました。
そこから8年…ガツガツ食べても痩せ続け、体重は1.5キロまで落ちて、とうとう歩けなくなって、それでもちゃーちゃは、おばあちゃんやマック、野良猫達の分も、命のろうそくの芯が燃え尽きるところまで生き抜いたから、きっと家族総出で、虹の橋の袂で待っていてくれたことでしょう。この子も《あっぱれ賞》でした。

かりんとは、ちゃーちゃやユウちゃんの半分しか生きられませんでした。それでも、よくここまで頑張ったと思えるほどの、重度の心臓病を持って生まれてきた子でした。
震災の前の年、うつ病の女性が飼っていた猫が生んだ子猫で、兄の『ルーク』と共に連れてきました。教員や銀行員だという兄姉がまるで自分達も被害者のように、何とかしてもらうのを当然のようにして、「ワクチンや避妊・去勢のお金もかかる」と話しても、負担する気もさらさら無い様子が印象的でした。
かりんとは、最初のワクチンの時の聴診で、心臓弁膜症と診断され、「かなり悪く、いつ停まってもおかしくない。麻酔もかけられないから、避妊もできない」と言われました。確かに、子猫の頃、2、3度死にかけ、病院へ向かう車の中で、蘇生したこともありました。慢性鼻炎もあり、鼻も詰まれば余計に息苦しくなりました。そんな不自由な体で、日々を強気で明るく生きて、発情が来るとベタベタ甘えてきました。

生まれつき病身の子は、往々にして普通の猫の寿命の半分位までしか生きられないような経験が、これまでにも何度かありました。かりんとも最近はますます痩せて、胸の辺りが絶えずバクバクと動いて、いたたまれなくて目を逸らしてしまうほどでした。去年、酸素テントをご寄付くださった方がいて、「いくらかでも楽になれるかな?」と、家で介護できたのがありがたかったです。1ヵ月前に風邪をこじらせ、やっと治ったと思ったらまたぶり返して…どんどん体力がなくなって、命がすり減っていくように見えましました。涙目と呼吸はひどそうでしたが、でも、ごはんは完食していたので、また持ち直してくれることを期待していたのですが…。
11月7日は避妊予防センターの日でした。忙しくてカルテ記入が長引き、入院の猫もいたので、終わったのが夜10時でした。帰ってごはん作って、食べたら眠くなって…ベットの上に横になって、そのまま寝てしまいました。虫の知らせというのか…日付変わって2時少し前に目が覚めて、かりんとを見に行くと、ケージ内の手前のトイレまで出て来て、苦しそうに呼吸していました。もうそろそろ危ないと直感したので、酸素テントから出して、抱いていました。
苦しそうに声を上げながら、ビクッビクッとケイレンのようになりましたが、やがて段々静かになって、ペタッと私にすがりついて呼吸しなくなりました。10分ほどの間でした。苦しみが長引かなくて良かったです。心臓が動くギリギリまで、食べて生きようとしたのだと思いました。

続けて3匹の姿が消えた隣の部屋では、かりんとの兄のルークもまた、風邪をこじらせ、長引いています。この子は、一度里親さん宅に行ったのですが、欲しがっていた娘さんが結婚して家を出た後、お母さんも難病になって入院して、世話する人がいないとのことで、2、3年後に出戻りしてきました。
子猫の時は人なつこくて、前回の活動報告で紹介した、2010年3月11日の市長への陳情にも、《動物に優しい町にしてください》というプラカードを首から下げて参加しましたが、出戻って来てからは、誰にも馴染もうとはしませんでした。しかし、不思議なもので、かりんととは、自然と引かれ合うように…くっついて寝るようになりました。
だから、かりんとがいなくなってから、げっそり痩せて涙目が治らないルークが心配です。掻かないようにカラーを付けたら、今度は、首周りの皮膚がただれてきたので、ボランティアの淳子さん手づくりのクッションカラーに替えて、日に2回無理やり目薬を続けています。
隣の部屋は3匹減ったけれども、奥の部屋には寅吉こと『ローリー』と『ミモザ』兄妹が増えました。インパクトある部屋長の『チャコぶー』が霞むほどの存在感で、日々逃亡されないか、緊張の攻防戦は続いています。

隣の部屋では、今度は『こぐり』が痴呆になり、この世への未練を吐き出すような《絶叫タイム》が始まり、ちゃーちゃが帰ってきたようです。こぐりの飼い主もまた、震災で命を落としています。その2年前に、東松島役場から相談された、独居老人でした。その方が急遽入院して、「留守宅に居る猫達を保護してもらえないか?」と電話が来たので「預かることはできないので、通って世話するから、役場の職員にも協力してもらいたい」と言ったら、案の定、自分達はやれないと、気持ちのない逃げ口上でした。

行ってびっくり、猫の糞だらけのゴミ屋敷でした。高校生ボランティアを引き連れ、友人のちえさんにも頼んで、毎日通いました。ちえさんは徹底的な人なので、ため込まれた昭和の新聞や、キノコの生えた布団や、腐った畳などを次々に運び出して、焦げた魚などが入ったままの鍋も捨てて、台所や茶の間も片づけて居住空間を確保しました。近所の人からは「勝手なことすると怒られるよ。変人なんだから。鉈振り回して暴れたこともあるんだよ」などと脅かされたので、退院してくる前日に、アニマルクラブで3匹、ちえさん宅に2匹連れてきて、私達には馴れない2匹だけを家に残して、これまでの経緯を手紙に書いて置いてきました。
すると、電話がかかってきて、穏やかな口調で丁寧なお礼を言われました。それから、この人とのつきあいが始まり、ちえさんと私は衣類や総菜を届けたりして交流していくうちに、このおじいさんがなかなかインテリでセンスあることも知りました。「孤独がこの人の良いところをみんな塞いでいたのだなぁ~。これからは若い頃の生き方を取り戻して欲しい」と願っていました。せっかく生き直したのに、津波に襲われました。お正月に小さなおせち重箱を届けたのですが、会えなくて、留守番電話に届いた、とても嬉しそうなメッセージが最後の思い出です。

震災の翌月相談を受けて、高校生時代におじいさん宅に一緒に行っていた和磨くんと、東松島市の津波で流された家の中に居た猫達の捜索に行ったことがあります。家は1階と2階で分断され、あちこち壊れて窓も開いていたから、ほとんどの猫は吹き飛ばされていて、1匹だけ死骸で見つけました。
帰り道、おじいさん宅に行ってみましたが、何もかも流されていて、どこに家があったのかもわからなくて、役場に行って消息を調べました。すると、おじいさんは橋の向こうまで流されて、遺体は田んぼの中で見つかり、既に兄弟が引き取ったと記録されていました。
役場で、和磨くんの高校時代の同級生が働いていました。彼は私達を見つけると、「混乱している役場に、迷っている猫が連れて来られたが、手が回らず放置されている。弱っているから、心配だ。何とか助けてもらえないか?」と頼みました。体は泥だらけでガリガリに痩せた老猫のようで、ひどい風邪で目やにで目も塞がっていました。
捜しに行った命はどれも見つけられなかった中で、出逢った命でした。震災は生き延びた人々の生活も一変させて、私は生活の糧にしていた店を失ったし、獣医学部目指して浪人中だった和磨くんも家が全壊して、働かなくてはいけない状況になったようでした。この時、唯一助けることができたこの猫は、かなりの高齢になりながらも、手厚い介護を受けて、仙台市の仲間のお宅で幸せに暮らしています。

手をつけてから2週間、何とか活動報告を書き上げようとした段になって、朗報が入りました。麻酔薬、少し手に入ったそうです。次いで、お願いしていた先からも入手できそうだと連絡がきました。ただ一時的なものなので、先々まで手術の予約は入れられません。そして…そういうわけで、休暇はなくなりました。このペースで年越しの中、ポスターは何とか完成させますので、どうか、ご活用ください。

 

我が家の《老にゃんホーム》。『ユウちゃん』と『ちゃーちゃ』はずっと兄妹みたいに暮らしてきました。

 

 

ゃーちゃは体重1.5キロにまで痩せて、体温も低いようなので、赤ちゃんの腹巻きを着せていました。

 

 

とうとう歩けなくなりましたが、寝ながら食べていました。命の芯まで燃やし尽くしたような生き様でした。

 

 

たまに酸素テントを開けて掃除すると、ルークがかりんとのお見舞いに来ました。

 

 

付き添うルーク。一緒に生まれて、別れ別れになって、再会して、また分かれていく兄妹…。

 

 

かりんと亡き後、体調がパッとしないルーク。目を護るために付けたカラーを嫌がって掻くので、クッション型にしたら大丈夫。

 

 

今度は『こぐり』がボケた。突然の絶叫タイム~優しく「こぐちゃん」と呼ぶと、一瞬甘え声になります。

 

 

その後ろの『サク』まで釣られて、変な声で鳴き出した!痴呆って伝染するのかなぁ~誘われるってことはあるかも。

 

 

震災翌月に、東松島市役所から連れてきた『ボクちゃん』。かなりの高齢ですが、至れり尽くせりのケアで、元気に暮らしています。

 

2019年12月9日