人生で一番忙しい日々

【 看取りの秋 】

患った ねこが化石に なった時 
日々の暮らしに 解き放たれる

9月は半月のうちに、腎不全の『より』と『チャオ』を続けて亡くしました。よりは震災の3日前に、避妊してリリースするつもりで市街地から連れて来た野良猫でした。北上川沿いの中央地区は津波で壊滅的被害を受けて、一時野良猫の姿が消えたと言われていましたから、運の強い子といえます。シャムミックスのより目で、長年飲食店界隈でエサを貰って生きてきた穏やかで利口な猫で、ガッツがありました。BUNの値が120~140、リンの値も上がってきても…亡くなる前日まで食べて、ヨレヨレになって命の芯が燃え尽きるまで生き抜きました。

 

5月のより。血液検査の値はかなり悪くても、まだ元気でした。

 

亡くなる前日。ごはん時になると、体を起こして鳴いて、流動食を食べました。

 

 

訃報を聞いて、ボランティアの平川さんが描いてくれたよりのポートレート。

 

 

 
一方、18年前に中央から湊に架かる内海橋の中間にある中州《中瀬》~今では石巻市の観光名所になっている石ノ森章太郎漫画館付近で保護した野良猫三兄妹の次男チャオは、もう2ヵ月以上殆ど食べなくなり、ここ2週間は全く食べず、3日前からは水も飲まなくなり、数ヶ月毎日200ミリリットルの皮下点滴だけで生き延びていました。何も食べられなくなった命を支えるのは、《共感》だと感じます。好物を並べても見向きもせず、口に水を入れられることすら嫌がっても…鳴いて呼んだからです。だから私も「お母さん居たよ、大丈夫。」と言い続けました。
家を留守にすれば「まだ生きているだろうか?」と心配になり、階段を駆け上がりドアを開ける前から「チャ~オ、チャ~オ」と呼んでいました。もしも今、死にかけているなら、少しでも安心させたかったからです。ドアを開けると、チャオはケージの中で、いつも同じようにこちらに顔を向けて横たわっていました。ケージが嫌いで、私が帰って来て出してもらえるのを待っていました。まともに歩けなくなって倒れ込み、トイレの前でお漏らしをするようになっても、家にいる限りは自由にさせていました。周りも似たような年寄りばかりなので、みんなチャオに寄り添ってくれました。夜は私のベッドにおねしょシーツやペットシーツ敷き詰めて一緒に寝たのですが、夜中に居なくなっていて慌てたことも何度もありました。体調が悪くなると、べッドの下や空気清浄機の陰などに身を隠す習性があるから、布とメッシュでできた折りたためるケージを私の枕の隣に置いたら、そこが安心スペースになったようで、付き添いの『チャチャ』も入り込みました。

「いよいよダメかなぁ~」と感じさせながらも、1日1日を乗り越えて、避妊予防センター開院日の木曜日になりました。さすがにその日は部屋に残しては行けなくて、アニマルクラブに連れて行きました。ボランティアさん達に会い、体調が悪化する前に長年暮らしていた部屋の仲間達、兄妹にも会いました。そして、その日の夜中、チャチャと私と川の字になって眠りながら、だんだんと鼓動が弱くなり、体が冷たく固くなっていきました。チャチャも気づかないくらい、静かな死でした。
ここ半月位は何度も死んだのではないかと覗くと、ちゃんと生きていたから…火葬に向かう道すがら車を路肩に停めて、私はもう一度だけダンボール箱のふたを開けて、顔を覗いてみました。夕方にもう一度クリーンセンターに行き、チャオがお骨になって目の前に運ばれて来ると、「ここが頭で、ここが背中、こっちが前足、後ろ足」と…生きて動いていた身体が、化石になった気がしました。職員のおじさんとも顔なじみです。「しばらく来ないと思ったら、続いたねぇ~」と彼なりのお悔やみを述べながら、いつも独りで行く私を気遣い、収骨を手伝ってくれます。おじさんと骨を拾いながら、「命を生かして、化石になるまで見守ることを、抱えている動物の数だけ繰り返さないと、活動も終わらない」ことを考えていました。

 

 

いつも仲間が一緒でした。

 

 

弱ってきたチャオを護るように、取り囲んでいました。

 

 

しっぽでしっかりとチャオを抱きしめるチャチャ。

 

 

メッシュケージの中が安心スペースになりました。

 

 

お別れの日。ベッドの上にメッシュケージを置き、その隣に私~川の字になって、眠りました。

 

 
そして、昨日まで一日の最優先事項だった介護の任を解かれて、私は日常を取り戻していきます。トイレやベッドに敷き詰めていた大判のペットシーツを外し、色んな物が乗っかってごちゃごちゃのテーブルの上を片付けて、伸びた自分の爪を切り、コーヒーの注文をしました。そして、私しかお参りする人がいない人の、お墓掃除に行くことを思い立ちました。
世間はお彼岸で、どのお墓も色とりどりの花々が飾られている中で、私のかってのお姑さんのお墓だけがお盆に供えた枯れ花のままだったから…チャオの待つ部屋へ行くように、駆け登りました。嫁いだ時には既に老人ホームに居て、その後入院したから、一緒に暮らしたことはないのですが、訪ねて行くと「よく来てくれたね~」と喜んでいた十数年前の声が、耳に蘇ってきました。後妻であるために家の墓地には入れられず、独りぼっちのお墓の場所を知っている人間も殆どいません。俳句の名人で、何十枚もの賞状をお持ちでしたが、亡骸と一緒に灰になりました。先人の生き方は時には反面教師となって、私の人生に道標を立ててくれます。お墓周りの草むしりもして、お線香の煙がまだ立ちのぼっている間に「また来るからね~」と言い残して、帰途につきました。

山のてっぺんのお寺から車を出すと、山道はすでに薄暗くて対向車もなく、夕暮れは焦燥感を連れて迫って来るようでした。スモールランプを点けて慎重に下りながら、「活動報告を書かなくちゃ…」と思いました。何から書いたら良いかと思うほど…春以降様々なことがありましたが、あまりに忙しかったので私はすっかり疲れてしまい、記憶は断片になって、あちこちです。拾い集めて繋ぎ合わせれることで、動物と社会の問題とアニマルクラブの抱える課題がまた浮き彫りになる気がしました。

 

 

【 恍惚の犬 】

 

坂道を転がるような忙しさの始まりは、老犬ユキの認知症が悪化したことのような気がします。去年から、「年取ったね~、ボケてきたね~」と話題に上がり、後ろ足がおぼつかなくなって、散歩の時は補助ベルトを使い、夜鳴きやクルクル回りなど、これまでに何度も見てきた症状には、さほどの驚きはありませんでした。仰天事件はゴールデンウイークの早朝、いつものようにアニマルクラブに見回りに行った時でした。ドアを開ける気配で始まるユキの何かを要求するような続けざまのおたけびが聞こえてきません。部屋に入って、びっくり…。ユキはゲージの中で、敷いていた綿毛布をこんもりと被って、腰から下しか見えていません。急いで綿毛布を剥ぐと、さらにオネショ対策に敷いていたペットシーツも被っていて、湯気の出そうな熱気が立ち上りました。ユキはゲージの隅に鼻を押し込むように倒れ、熱い体を引っ張り出すと、ヨダレをダラダラ垂らして、目が虚ろで、意識がなくなっていました。
「熱中症だ!」と思い、窓を開け、エアコンを点け、フリーザーから保冷剤を出して体を冷やし、20ミリリットルシリンジで、ユキの口の脇から水を流し込むと、ゴクゴクと飲み続けました。気温はまださほど高い時季ではありませんでしたが、ゲージの中から出ようともがいて、顔がどんどん毛布やペットシーツで埋まり、呼吸も苦しくなって、湿度と体温が急上昇したものと想われました。少し前まで、ユキはサークルに入っていたのですが、サークルの縁に前足を掛けて吠え続けたり、飛び越えようとして、サークルごとひっくり返ったので、上もしまっている大型のゲージに入れ替えたばかりでした。安全対策のつもりでしたことが逃げ場をなくし、《5月に室内で熱中症》という事態を引き起こしてしまいました。

 

 

こちらが蒼くなって手当てしていたら、気持ち良さそうに寝息を立てていました。

 

 
奇しくも避妊予防センターの開院日でした。始まるまでにやることが山ほどあったので、ユキを抱いて、路地を1本隔てた自宅に連れて行きました。私のベッドの上に寝かせて、窓を開けて、エアコンも点けて、皮下点滴をしました。ユキはまだ意識はないままでしたが、顔つきが穏やかになって、幸せな夢でも見ながら寝ているように見えました。ふっと、私が子供の頃にセンセーションを巻き起こした本で、映画化された『恍惚の人』を思い出しました。認知症で溢れる近未来を予見したかのような話でしたが、まさかペットまでそうなるとは…原作の有吉佐和子さんも天国で驚いているだろうと想うと、ちょっとホッとして、私は猫達の水替えやトイレ掃除をして、ごはんを作って各部屋に配っていました。突然、「うぉぉお~ん」という凄い声が響きました。慌てて戻ると、ベッドの上で起き上がり、宙に向かって吠え続けるユキがチラッとこちらを見ましたが、その目はまるで私を認知していなくて、何かに取り憑かれているみたいでした。「復活した~でも、一段と痴呆が進んだ!」と感じました。
「何をしでかすかわからない…やっぱり人の目の届くところにおいて置かなくてはないな~」と思いました。日中はアニマルクラブでボランティアさんに見てもらい、夜は自宅に連れてくることにしました。ユキは昼間は殆ど寝ていました。足はいっそう動かなくなり、外に連れ出しても前のように排泄してくれなくなりました。水も自分からは飲まなくなり、シリンジで入れても嫌がり、ミルクなら器を口まで持って行けば、なくなるまで飲み続けました。食欲は旺盛で、ボランティアさんが付いて食べさせている限りはよく食べました。昼間は「お利口さん」と誉められるユキでしたが…夜に自宅に連れて来て、日付が変わると…マグマが噴出するように吠え出し動き回って、猫と私の生活を浸食していくのでした。

持ち家をアニマルクラブに提供した私が借りている家は、皮下点滴が必要な腎臓病の老猫や、脳の障害や老化でぼんやりしたりお漏らししたり発作を起こしたりする子や、慢性の便秘症で排便をチェックしなければならない子など、夜も身近に置いて見守った方が良い猫達のホスピス兼支援ホームになっています。ユキがむっくり起き上がり、おぼつかない足取りで徘徊を始め、猫達のトイレにドサッと倒れ込んだり、飲み水の器をひっくり返したりするので、猫達は戦々恐々として、高い所に避難して身を寄せ、私も眠れません。何度も外に連れ出し排便を促しても、ユキはどこ吹く風で…戻った途端に、床に垂れ流しされたこともありました。動き回るユキを止める術はなく、二次被害を食い止めるしか手立てはないと感じました。夜明け前の絶叫にも身が縮み、その苦情でここに住めなくなったら、猫達と私の生活も立ち行かなくなると思いました。
悪戦苦闘の1週間の末に出した結論は、アニマルクラブの中に、ユキの自由空間を作ることでした。とはいえ、家一軒で足りずにプレハブまで建てて、既に80匹以上居て、空いている場所などありません。しかも、人の目が届く所でなければないから、台所が面しているかってのリビング~これまでユキが居た部屋しかありません。犬の『ちびめ』と『チッチ』も、里親募集中の猫達もゲージに入って居ました。ユキのゲージは取り払い、隙間を板やダンボールで塞いで、徘徊してもどこかに挟まったり、何かを倒したりしないように気配りして、ユキにはオムツを穿かせることにしました。

 

 

ばあさんの背中も、じいさんとばあさん~昼間は延々とお昼寝タイム。

 

 

ユキが自宅に居た1週間は、まさに《要介護》老人ホームでした。

 

 

おばあちゃんと孫みたいだったユキと『おむすび』。

 

「ユキが来てから、オレ達眠れないよ~」「疲れたね~」「太陽が眩しいぜ~」

 

ところが…それから何度も、ユキの《あっと驚く壮絶シーン》に遭遇することとなるのでした。昼間はどんどん寝ている時間が多くなり、事件が起こるのは誰も居ない深夜~いつも私が目撃者でした。隙間というと、人はゲージと壁の間など縦の面しか思い浮かびませんが、ユキはゲージの底のキャスター1つ分の隙間にさえ鼻先を突っ込んで、動けなくなっていたり、ちびめのゲージのドアの取っ手にオムツを引っ掛けて宙吊りのようになっていたり、台所に入り込まないように取り付けた仕切り板に突進して頭から落ちた状態で眠っていたり…。丑三つ時の夜回りは、アニマルクラブに近づいて、ユキの声が聞こえては小走りになり、玄関を開けて静まり返っていても不安で、廊下の灯りが点くのを待ちかねて部屋を開けました。
ボランティアさんがせっせと食べさせてくれるので、そのツケは夜中に回ってきます。オムツからこぼれたウンチを踏み散らかしていたり、オムツの上に赤ちゃん用の紙パンツを履かせても、洪水のようなオシッコまみれは恒例の光景となりました。ユキのお尻や体を洗って拭いて、オムツかぶれや床擦れの薬をつけて、床を消毒液で拭いて…1時間余を要しました。夏になるにつれて、部屋には保護した子猫のゲージも次々並び、その前に倒れて寝込んだユキが、子猫達の格好のおもちゃにされていることもありました。介護していた犬が急に死んだという話を何度か聞いたことがありますが、事故死であることも多いのではないかと感じました。
これまでも何度も老犬を看取ってきました。しかし、なぜユキはこんなに手が掛かるのか…それはユキがまだ体には余力があるのに、痴呆性になってしまったからです。ユキは15歳、これまで看取った子達は18歳以上で、頭がボケる頃には寝たきり状態になっていました。先に頭がダメになるのは柴犬の特徴でもあるそうです。なるほど、これまでは雑種しか知りません。震災の2年位前に「病状が重く明後日入院するが、その間犬を預かって欲しい」と電話をよこした元の飼い主は、ユキが血統の良い賢い犬だと自慢していました。

そして、行ってみてびっくりしたことですが、この男性には過去に2度被害を受けていました。最初は、私がまだ二十代の頃、「妊娠しているかもしれない捨て犬を保護した。避妊手術してもらえるなら、飼っても良いと家族が言う」との相談を鵜呑みにして、こちらで費用を払った後で、彼の母親から「あの犬を友達から引き取ったのは去年のことで、最近放れているオス犬と交尾したから慌てた」ことを聞きました。さらに私が四十代の始めに、オンボロアパートで同棲する五十代のカップルから子猫の里親になりたいと申し込みがあり、行ってしばらく話すうちに、男性の方が20年前に私を騙した人だと気づきました。どうやら2人は精神科の病棟で出会い、結婚を夢見ていたようです。ままごとの家庭に子供の代わりに猫を欲しがるのはよくあるパターンで…それを断られたので、「貧乏人だと思って、馬鹿にしたのか~実は自分には多額の親の遺産がある」という、誇大妄想のような長い手紙を送ってきました。
それなのに性懲りもなく、また精神科に入院するのにアニマルクラブを頼ってきたのは、他に誰も力になってくれる親戚も友人も居ないからでしょう。犬には罪はないので、預かりました。小鳥や金魚も飼っていて、当初はアパートに餌やりにも通いました。彼は2ヵ月ほどで退院してきたのですが、また2、3ヵ月すると入院すると言い出したので、小鳥と金魚は貰い手を探しました。当時、ユキは7歳。これ以上年を取っては里親を探すのも難しくなるから、と手放すように説得しました。

今の社会は言いにくい事や聞こえの悪い事をぼかしてかえってわかりにくくしているように感じますが、ユキの今の症状がまさに『痴呆性』という言葉がビッタシくるように、飼い主のあの時の様子も、『精神分裂病』という、私が大学の心理学科に入った40年前に使われていた病名がピッタンコでした。正座してうなだれて、ユキのこれからを考えて欲しいという私の話を聞きながら、膝の上に置いた握り拳を固くして…「阿部さんの言う通りです。私だってユキには幸せになってもらいたいです」と言うから、てっきり解ってくれたのだと安堵しましたが…突如、膝に置いた手を振り上げ、泣き顔になって「でもねぇ、ユキはオレの娘なんだ~家族なんだ!あんた、それを引き離すのかー」と絶叫したのです。私はショックで免疫力がぐっと下がり、インフルエンザにかかってしまいました
「アニマルクラブになんかもう頼まねえ~」と啖呵を切っても、どうにもならないことは分かっているので、その後は私ではないボランティアさんがその方の個人宅で預かるという名目で、連れて来ました。震災にもなり、その後は彼も老いて病状も悪化したようで、退院して数日でまた入院して以来、ユキは返さないことにしました。風の噂で、震災見舞金でペットショップから柴犬を買い、飼い切れなくなって手放したことを聞きました。あの人も精神科の次は施設に行くのでしょう。あの人との《腐れ縁の置きみやげ》のユキは、足腰も弱って前ほど徘徊できなくなってきましたが、市民の方からいただいたお散歩車に乗せられて、ボランティアさんと穏やかな秋の日差しや風に包まれて、恍惚の表情で寝息を立てています。

 

 

「歩けなくなっても外の景色を見たいでしょう?」とお散歩に連れ出すボランティアさん。

 

 

わかっているんだか、いないんだか…当の本人は《恍惚》の表情。

あああ

あああ

あああ
【 幸福の王子的生活 】

・・・・

一日に昼間と夜があるように、どんな事象にも光と陰があります。「ユキちゃん、ペロリとたいらげたよ~」「見事なウンチしてくれた~」とボランティアさん達の愛情を独り占めにしているユキにも、24時間の半分以上は私以外の目も手も届きません。あるいは、「これがなくなる、あれもあった方が良いかも…」と《買い物・注文ボード》に次々と商品名が並ぶと、ネットで注文する担当者が「砂の注文、今月3回目ですよ~使い過ぎじゃないですか?」と渋い顔をします。猫のトイレ砂は1回に100袋注文するので、約50000円かかります。アニマルクラブの収支を把握しているのは、彼女と私くらいだと思います。他のボランティアさんは、まさか世間の人々のように、「国や自治体からお金をもらってやっている活動」だと勘違いしてはいませんが、ホームページで公表している会計報告などにも無頓着で、マネジメントは頭に入っていないと思います。しかし、お金が回らなくなれば、自分達が慈しんでいる猫や犬達が窮地に追い込まれるのです。「毎月、自分が把握しているだけでもどの位のお金が出ていっているのか?という実感は共有しないと…」と感じて、6月から現金の出し入れを記載する出納帳を置いて、自分が居る時に受け取った、着払いのフード等の商品名と金額を記録していくことにしました。

近年、フードや砂代が非常にかかるようになりました。病気に応じた療法食と、それをカムフラージュしたり、食欲が落ちた子のために、あれやこれや美味しそうな缶詰めやパウチを買うからです。手間ひまということについても全く同様で、自宅で25、6匹の面倒を見ることが「こんなに疲れるのはどうしてだろう?昔もこれくらいの頭数は1人で世話していたのに…」と頭を抱えましたが、やるべきことが各段に多いことに気づきました。二十~三十代の私と暮らしていた若くて健康な犬や猫は、30匹居てもさして手をかけなくても、当たり前に生きていました。今、私と暮らす猫達は、年中目やにや鼻水を垂らして、ズービーズービー鼻を鳴らして呼吸が苦しく、慢性の下痢だったり、酷い便秘症で、浣腸かけても出なければ、麻酔下で摘便してもらわなければなりません。突然ケイレンを起こして、その度「このまま死ぬのではないか」と想わせる子もいます。そして、何匹も水を飲んで排便するごとくに日常的に吐きます。高い所から吐かれると、床までの通過経路全てが汚されるし、夜明け前に起きてすぐに吐物を踏むと、やること山積みの一日が《地雷を踏んでサヨナラ気分》でスタートです。腎不全がフルラインナップなので、皮下点滴チーム8匹のオシッコの量はおびただしく、砂は3日で交換しなければ間に合いません。それでも、手を替え品を替え食べさせて、病院へも連れて行き、命が続く限り応援します。
前と同じエサを与え続けて「食べなくなってしまった~」と諦めて、「大勢いるから、なかなか病院にも連れて行けなくて…」と納得していたら、とっくに命の灯は消えていたでしょう。「大勢の中のひとりでしかない」という位置付けをして良い命はない、と思います。連れて来ておいて見放すことは、「数人の死は痛ましくても、数百人の死は記録となる」戦争の時の言い訳にも近くなるような気がします。これまでに何度か、人手と資金の足りない保護施設や個人宅で、具合の悪そうな、どんよりと不安げな猫や犬達を見たことがありました。その情景は、小学生の頃にベトナム戦争やアフリカの難民の報道写真の前で立ち尽くした時のように、私を戒めました。「すべてを助けたいと思っても、助けきれない…それならば、どのようにでも生き直せる命の可能性を実証して、社会や法律を変えて行くことが、やるべきことではないか…」と痛感したのです。

 

 

テーブルも猫達に占領されて、食べることも書くこともままならない生活。

 

 

長い野良猫生活の末に家猫になった『おっかあ』。『初代クロ』『ジャイアン』『うそじゃ』…歴代の彼氏が亡くなっても、女は強し!

 

 

「こんな写真、撮んな~」ヨレヨレの野良猫だった『よれっぴ』は便秘症で、浣腸されることも…。

 

 

18年前、パルボで死にかけているところを連れてこられた『とむすけ』、慢性の鼻風邪で年中ズビズビしています。

 

 

トラは今年3回目のケイレンを起こしましたが、何とか今回も乗り切りました。夜が明けて、私もホッとしました。

 

 

昨年ゴミの下から拾い上げた子猫兄弟の『ままーに』は、アレルギーでカラーが外せません。

 

 

弟の『おむすび』は知的障害のようで、突然食卓に飛び込んたり、スポンジやマッドを食べてしまいます。

 

 
社会に発信していくことは、動物達と深く関わっていく中で知り得た、感じ取った真実でなければないはずです。しかし、マスコミは、伝染病が蔓延して目鼻がグシュグシュの野良猫達が、老人ばかりの島でエサをもらう様子を映して、石巻市の離島『田代島』を《猫の楽園》のように紹介してきました。その陰では、生まれた子猫達が《猫風邪》に感染して、結膜炎から角膜まで犯されて眼球が腐ったり、鼻も利かないから満足に食べられずに弱って死んでいく現実があります。震災の前から、島に縁のある人が不妊予防センターを訪れる度に「無料で避妊・去勢手術をするから、誰か送迎してくれないだろうか?」と持ちかけてみましたが、全く進みません。震災後は地元紙で、田代島の猫を支援する獣医師の来島や寄付金のニュースを見たことがありますが、島の人に聞いても支援が形になったり、継続したりはしていないと言います。番組や雑誌を真に受けて、都会からわざわざ見に来た人々は、田代島で生きる野良猫達の現状をどう受けとめて帰ったのだろうか?とも考えました。
有名な動物番組の製作プロダクションの人が、ネタを探して何度か電話をかけて来ました。震災直後は「飼い主との感動的再会を知りませんか?」とか、その後も「人なれしていない野犬がすっかりなついたというような話、知りませんか?」などと、もう作り上げたストーリーの裏付けを探し回っているのです。
そうやって作り上げていく番組の中で、避妊・去勢をしないままに子供を生ませて、家はメチャクチャ、経済的にも破綻してどうにもならない《多頭飼育崩壊》のお宅が紹介されるようになりました。「えーっ、猫達どうなるの?」と視聴者を引きつけておいて、そこに《動物愛護団体の人》が登場して、「醜悪な環境から猫達を救い出して、避妊・去勢やワクチンを施し里親を探してくれました」と、お茶の間に安堵の笑みを贈りました。「良かったね~動物愛護団体の人に助けてもらって…」と喜んだ人達は、自分が動物のことで困った時にも、「動物愛護団体の人が助けてくれる」と思い込むようです。

春から夏にかけては、例年捨て猫の相談が多く、里親探しにも追われるのですが、今年は連日のようにメールや電話が来て、1日に何件もの日もあり…尋常ではない件数でした。「保健所に渡すよりは、そちらにお願いした方が良いと思って…」などと、正義の選択をして、誉め言葉を待っているかのような人もいました。さらに、「市役所から紹介された」と言って来た人達もいます。それを聞いて「市は何の補助もしれくれないくせに、アニマルクラブに回してよこすなんて、恥知らずだねぇ~」と憤ったボランティアさんがいましたが、そこまで深くも考えてはいないのだと想います。「どこか助けてくれるところはないんですか?」と聞かれた時の格好の逃げ道として、アニマルクラブの名前を出しているようです。
《相談》という名目の引き取り依頼の度に、「引き取ることはできませんが、ゲージを貸したり、週に1度開院している動物病院で診てあげたりの協力をして、里親探しの手伝いはしますので、ご自分で面倒を見てくれませんか?」と説明します。想定外の答えに、「保護してくれる所じゃないんですか?」「引き取ってくれると聞きましたよ」とまだ勘違いを盾にして、自分はできない言い訳を並べ立てるか、「じゃあ、いいです」と、冷やかに退散する人が多いです。途中までは良いことを言いながら、結局は押し付けられる羽目になったり、「このままでは悲惨なことになる」と、見るに見かねて連れて来ざるを得なかったケースもありました。無理を通そうとする人は、道理をわきまえていません。相手がどんな人で、いかなる成り立ちの所なのかも知ろうともしないで、「何とかして~」と迫る人は、「可哀想なことは見たくない、面倒なことには関わりたくない」自分自身を助けたいのだと感じます。
『動物に優しい国、日本へ』を掲げる一方で、解決は他力本願のマスコミも、法律が変わっても遂行のために必要なシステムや予算を準備せずに、問題を丸投げする行政も、私達の活動を追い詰めています。そして、聞きかじったことを自分の都合の良いように解釈して、食い違えば慌てて他人に全面回答を求める人達ばかりでは、助かる命も助けられません。流れ作業の受け持ち部分だけ考えても生活はしていける国にいると、思わぬ方向で足がはまってしまった瞬間に、動けなくなります。だから、私は中学校などで講演する時には、「身につけて人生で役に立つことは、見た目の美しさよりも、勉強ができることよりも、問題解決能力です。そのためには進んで世界を見て、人と接するべきです」と話しています。

毎日降って湧く騒動に翻弄されて、ここ数ヶ月、まるでシロアリに食い尽くされるように、時間やお金が剥ぎ取られていきました。私はいつも重い物を持ち、急いでいました。そして、新しい猫が来てももう置く場所がないから、その機会にアニマルクラブに居た老猫が、《引退組》として自宅にやって来ます。戸棚や引き出しの中も猫のフードやタオルやペットシーツなどでいっぱいになり、私のエリアはどんどん減っていきます。椅子もベッドも占領されて、食事も邪魔されるので、台所のガスコンロの脇に丸いすを置いて、猫達に背を向けて、流し台の隙間で食べるしかなくなりました。その最中にも、隣の部屋でケンカが始まり、食べていた皿を電子レンジに隠して、止めに行って戻って来ると、「これは食べないだろう」と置いて行った味噌汁腕が床に落下している~そんな日常です。「眠い~疲れた~」とボヤいても、手伝ってくれる家族もいないから、猫達のごはんの容器を回収して洗い桶に浸けた瞬間に、寝てしまうこともあります。「歯を磨かなきゃ…」と寝ぼけて洗顔クリームを口に入れたり、浴槽で居眠りして何度もお湯を飲みました。まるで、丸裸の石像になって捨てられる『幸福の王子』になっていくようです。昔々、小学校の道徳の授業で感想文を書かせられたことがあって、「幸福の王子は自分のために働いてくれたツバメを死なせて、自分もゴミになって捨てられた。宝石や金箔を持っていたのだから、もっとうまいやり方を考えるべきだった」というような内容に、先生がびっくりしていたのを覚えています。

しかし、それから半世紀近く生きても、40年余り活動しても《うまいやり方》には到達できないままです。私が受け持っている仕事は、
①自宅にいる猫の世話とアニマルクラブにいる犬と猫の夜間~朝の管理。
②メールや電話で来る相談への対応と、里親探し会の開催、お見合い。
③毎週木曜日に開院している避妊予防センターの運営、経営。
④パネル展の開催や、ホームページや印刷物を通じての啓蒙活動と、活動の資金集め。
の4つですが、①は体力勝負で、②と③は、他人の価値観や考え方、感情や力量に対応して、望ましい方向に誘導することです。どれも重荷で、肝心な④になかなか行けません。私の《ツバメ》は、アニマルクラブにいる動物達とボランティアさんです。身近な仲間を犠牲にすることなく、自分がゴミになる前に、活動の終活に入っていかなければならないという認識も、いっそう強くなる今日この頃~途方もない夢は叶えるものではなくて、終わりにしていくものだと悟りました。
疲れた体でまだ残る仕事を片付けながら、半ばヤケッパチにこんな替え歌を歌っていました。「ぼーくの我慢がいつか実をむーすび、涯てない夢がちゃんとおーわりますよに、ぼくの好きなねーこは、それからどうなるんだろー」。

あああ

あああ

【 過渡期という考え方 】

 
避妊予防センターは2008年4月1日に開院して、カルテの数は5300枚を超えています。この施設を立ち上げたのは、「避妊・去勢手術を受けて、不幸になる命を生ませないようにしましょう」と声を掛けるだけでは、なかなか普及しないからです。「安く手術が受けられる、しかも分割払いでもいい、車がなければ送迎もしてくれて、触れない野良猫には捕獲器を貸して、術後の管理も協力してくれる」という《受けやすくなるサポート》を提供することが、実施を促すと考えたからです。
料金設定した時、スタッフを派遣してくれる動物病院の院長が、「一般の動物病院と変わらない麻酔と手術のやり方でも、この位なら年間100万、頭数が増えれば200万円近くの利益は出るでしょう。それをアニマルクラブの活動資金に回すんです。これからのボランティアはお金を作れないと、やっていけませんよ」と、実業家らしいアドバイスをしてくれました。10年間、避妊予防センターは盛況です。しかし、予測していた収益は上がっていません。理由は、設備投資と経費にお金を使っていることと、お金の入って来ない手術や治療が1割程度あるからです。

スタート当初、細かな血液検査の機械がなくて、野良猫の病気を見逃して麻酔から覚めないまま、死なせてしまったことがありました。「あの検査機器があれば判っただろう」と聞き、すぐにリースを組みました。呼吸が苦しい子を楽にするために、酸素室も設置しました。不妊手術以外への対応も必要になり、猫は年齢が上がると歯肉炎が多く、食べられなくなることで寿命も縮めるので、スケーリングや抜歯の機材も揃え、「他の病院で聞いたら 手術は10万以上とかかると言われて、野良猫にとてもそこまで出せなくて…」という相談に応じるために 、電気メスも購入しました。フジコ・ヘミングさんから200万の寄付金をいただいた時には、エコーも入れました。「安いんだから、できない」「野良猫なんだから、そこまでは…」という限界や差別を、出来る限り取り除きたかったからです。
しかし、現実にはそもそも建物がプレハブなので、夏は湿度が高く、冬は外と変わらぬ温度になります。その環境では精密機械が壊れて、50万円以上の費用がかかったこともありました。それに懲りて、エアコンも点けるから電気代がかかります。人件費にしても、出せる限界があります。週1回の開院日にパートに来てもらっていた看護士さんに、他の日はアニマルクラブにいる子達の皮下点滴や爪切りやシャンプーやお世話をしてもらって、月に4~5万円の謝礼金をお支払いしていました。ところが、子供さんの教育費でもっと収入が必要になったそうです。彼女も動物に携わっていたかったようですが、全く違う職種の会社に就職するために、避妊予防センターを辞めました。その結果、《皮下点滴組》が全員自宅に引っ越してくる羽目になり、私は疲労困憊の《車輪の下敷》となりました。
そして、心の病や独居老人、生活保護を受けている人などからの依頼も多いために、手術や治療をしても費用が回収できないケースも結構あります。あるいは《分割払いの約束》が反古になることも度々あります。しかし、それは一般の病院では多分受けられなかった「必要な医療を提供して、子供が増えることを食い止めた」という点では、意味ある貢献だったと思います。

そもそも、人材に恵まれたことで、資金もなく始めたNPOの動物病院を、継ぎ接ぎしながら、何とか社会のニーズに応えられるように、思いつくことは全てやってきました。そして10年半が過ぎ、特に野良猫の避妊・去勢に関しては経験豊富です。連れてくる人達との接し方も心得ています。週に1回の開院日には、毎回いろんなことが起きます。2匹しか予約入れていないのに、4匹連れてきて「みんなしてカゴさへってしまったんだ~放したら、あどつかまんねぇべおん、何とか頼みます~」と図々しい農家のおじいさんや、カラスに目を潰された子猫を連れて来て、引き取ってもらうことはできないとわかると、斜めを向いて目を合わせず、「ゲージも貸すし、治療費もいいから、お世話はしてください」と言うと、涙目でチラ見する若い女性や、今にも生まれそうなお腹の大きな猫を捕獲器に入れて連れてきて、「これじゃ母体が危ないでしょう。今回は生ませて、里親を探したら?」と言っても、「えっ、妊娠してるんですか?生まれたら困ります。親にこれ以上増やすなって怒られてるんです」と言い張る女の子など…。定期的に愛猫の注射を受けに来ている常連さんは「あららら~毎度大変だこと…」と同情のため息を漏らします。

こんなコント劇場のような真っ只中に居ては、猫と人の対処で精一杯~事務的なことは、人影がなくなった夜に持ち越しです。「朝に今日の手術数を知らせる電話を入れて、術後に申請書をFAXして、月末にまとめて郵送する」ように指示されている『飼い主のいない猫への不妊手術助成金』の申請がマニュアル通りにはできません。「事前に申請書を出すように」と言われても、捕まるかどうかがわかりません。捕まらなかったら、一度書いてもらった書類を取り消す連絡をまたするというのは不合理で面倒だし、性別も、手術の段になって初めて判ることもあります。野良猫だという証人も2名必要で、近所に隠れてエサを与えている人は「友人や親戚に書いてもらわないと…」と用紙を持ち帰って、なかなか提出されません。なので、連絡が遅れて、県獣医師会から度々注意を受けています。捕獲器に入ってくるのだから、野良猫に間違いないのですが、私が証明しても無効です。助成金は後から通帳に振り込まれるそうですが、それだと最初にかかる費用を丸々持って行かないと、手術を受けられません。支払いの段階で差し引きしてもらえるなら、もっと受けやすいのではないか?とも感じています。私は、より多くの猫に避妊・去勢手術を受けてもらうためのアイテムとして、助成金制度を活用したいと考えます。各病院に年間30匹という割り当て方だと、避妊予防センターなら2ヵ月で終了です。ポスターを貼れば、目ざといおばちゃん達の申し込みで、より必要な人までは回らないでしょう。この制度は、宮城県が主体となって、もっと使い勝手の良いシステムにすべきだと痛感します。

宮城県も県内の保健所も、新しい時代の動物愛護行政を目指してはいるのだと思います。しかし、往々にして、コミュニケーションを駆使して広く学ぼうというやり方は知らない気がします。40年余動物愛護活動をしてきて、『捨てられる命を生ませない』ための先駆けとしての避妊予防センターを10年前からやっているアニマルクラブにも、何らかの参考意見やアドバイス、協力などを求めてきたことも一度もありません。成功した他県の役所や動物管理センターがしたことを導入するのが、やり方のようです。保健所に連れてこられた子猫を『ミルクボランティア』さんに育ててもらい、ホームページでは、いつまでも生かしてはおけない期限付きで、里親募集の写真を載せます。
ミルクボランティアをしていた主婦の方が、委託されていた仙台市の動物愛護団体の解散により、6月からアニマルクラブのボランティアさんになってくれました。「これまでは保健所に引き取りに行って、育て上げて里親会に出すまでが役割だった」そうですが、今は預かってもらっている子達ひとりひとりが、どういう経緯でアニマルクラブに来たのか?から知ってもらい、里親探しやお見合い、トライアルの様子も立ち会ってもらったり、詳しく伝えることで、関わった命を見守ってもらうことができます。能動的な活動となり、自分のブログもスタートさせました。(『ミルクがいた場所』https://ameblo.jp/mfusi35/entry-12392914964.html)
一方、これまでアニマルクラブから2匹の猫の里親になってくれた人が、「今度は保健所から猫を引き取って来ました。アニマルクラブさんに居る子達は、貰い手がなくても生きていけるけれど、保健所にいる子は処分されてしまうから。でも、連れてきた子はあちこち体調が悪くて、心配なんです。診てもらえますか?」と電話がきました。もちろん避妊予防センターで治療し、今後も協力しますが、ちょっとカルチャーショックでした。例えて言うなら、老舗のコーヒーショップが、お得意さんに「駅前の大手スーパーにフェアトレードコーナーができたから、これからはあちらでコーヒー豆を買うことにしました。お宅のみたいに美味しくはないんだけれど、開発途上国の人達の支援のためになるから…」と言われたような感じです。大手スーパーがフェアトレードをうたい文句にするずっと以前から、老舗のコーヒー屋は開発途上国に豆を買い付けに行って、日本人の口に合うようにブレンドを工夫して提供していたのですが、《時代遅れ》の商法なのかもしれません。里親が決まらずに残った子猫は、アニマルクラブで生きていけるのではなくて、生かし続けていかなくてはないのだ、というところまで考えてくれる人は、多くはありません。

現代人は分かりやすい表示に従って物事を判断しようとするから、《想像力》が衰えたようです。《品格》もホコリを被り、考える前に聞くことに、ためらいもなくなったような気がします。特にこの辺りは、《被災地慣れ》が身に染み付いているようなところがあります。震災後に半年間だけ機能した『動物救護センター』から、預かっていた犬を引き取って来た人から、「無料でワクチンやマイクロチップをやってもらって、犬小屋からケージからいっぱいもらって来たの~。使わないから、要らないですか?」と、ケージをいただいたことがあります。今でもそんなところがあると思っているのか…里親希望者宅にお見合いに行って、トライアルのためのケージを組み立てていると、「飼うことになったら、ケージももらえるんですか?」とか、「避妊手術の費用はうちで出すんですか?」なんて聞かれると、子猫を連れて帰りたくなります。立派なお家に住んで、全然お金に困っているようにも見えませんが、とりあえず聞いてみるみたいです。里親さんに渡す前にかかったワクチン代等を請求しないのは、「やるべきことはやってお渡ししますので、このあともキチンとやってくださいよ」という《お約束》です。私達が有り余る資金を持つ財団だとでも勘違いしているのでしょうか?学問ができても、社会的地位が高くても、《血の巡りの悪さ》は他人への無関心、思いやりのなさの表れのような気がします。昔は、お見合いに行くと、「ワクチンだの避妊手術だのしてよこしてさぁ、あんた達、大変だべ。寄付なんてそんなに集まらないちゃ~。おらいでも寄付すっからな」なんて言ってくれるお父さんが結構いました。帰り際に野菜や米を沢山持たせてくれて、「ご苦労様だねぇ、んでもお陰様で助かる命あっから、頑張って~。おらいさ来た子は大事にすっからね」と見送ってくれたお母さんがいました。人情が通う風景でした。

しかし、殺風景な現代を生きる人々は、昔よりもっと…少なくなった人間の家族の代わりにペットを求めているし、動物を取り上げるマスコミも各段に増えて、日常の会話の中でも動物が話題に上ることが多くなって、「可哀想な動物を助けたい」と思い立つ人々も増えてきました。そこで助かる命があるのだから、多少の失望は踏み越えて、先々への不安を胸に秘めつつも、里親探しをしていかなければなりません。自分の意志で保護しながら、助けきれないとSOSを発信してくる人達にも、アドバイスと協力はしていかなければならないとも思っています。
けれども、気が強いように見えても、私も寄る年波には抗えなくなります。「後継者はいないのですか?」と聞かれても、無給のボランティアを運営していくためには、他の仕事で自分や家族の生活を立てた上でなければできないことです。寄付金もほとんどなかった時代、私はタウン誌の記者の仕事を終えた夕方から、仙台市に行って、夜の繁華街《国分町》のクラブで働いていました。2晩で1匹分の避妊手術代を稼ぎました。中年以降は震災前夜まで、石巻でスナックを経営して、2人の子供も育て上げ、何とかアニマルクラブの活動を続けてきました。誰かに気安くやってくれと、頼める苦労ではありません。

老舗のコーヒー屋は、やがて街からなくなります。大手スーパーやチェーン店のコーヒースタンドのコーヒーしか飲めなくなった時に、「あのコーヒー屋さんのコーヒーを飲むとホッとできたね、活力が湧いたね」とでも思い出して、今度は自分でブレンドしてもらえるように、私はこれまでの活動で知り得たことを遺していきたいと思っています。
他人には口先だけの敬語を使い、注意もしない現代社会は、どこか虚しくて寂しくて、孤独な人が多くなりました。指標がないままに生きてくると、やりたいことと、できることの境界が判らなくなるようです。バランス感覚の悪い人達が、自己実現の欲望も捨てきれずに、無謀な動物救済に乗り出すケースが増えました。「可哀想で、見ていられなかったから…」「このままにしておいてはいけないと感じたから…」猫を保護して、「その猫が子供を生んで増えてしまって…」とか、「病院代やタクシー代でお金もなくなりました」などという説明を聞かせられると、「なぜこの先を考えなかったのか?」と、首をかしげることばかりです。助けたはずの人が、「大家さんに出て行くように言われて…」とか「私も体調悪くなって働けないんです」などと、誰かに問題を肩代わりしてもらって、自分を救って欲しいと願うのです。
動物の問題は、人の心の問題です。行政がやがて予算を組んで、動物問題を管轄するようになっても、プライバシーの侵害になるからと踏み込まない領域です。動物を捨てる人にも、動物にすがる人にも、動物を利用する人にも、その背景があることをよくよく見て対策を高じなければ、動物問題は解決に向かいません。

もう受け入れられないとバリケードを張っても、難民キャンプに入って来る人々が後を絶たないように、この夏も新しい猫達がやってきました。高齢者が庭に来た野良猫にエサを与え、子供が生まれてから相談をよこすケースが増えました。すでに親猫も複数匹いることが多いです。ケージを貸して子猫を保護してもらい、親の手術の送迎をしますが、子猫の世話をする管理能力がなかったり、すぐに決まらないと騒ぎ出す人もいて、子猫達を連れて来ざるを得ないケースもあります。

相談を受けて、岩手県境まで片道1時間余かけて、捕獲器を貸しに行って、使い方を説明しても心もとないので、すぐに設置するとまもなく1匹入り、あとはケージに缶詰めを入れて全員が入って食べ始めたタイミングで扉を閉めて、まとめて捕獲しました。ところが、奥さんはホッとするどころか…農家で、場所はあるのに、「姑が怒るから、入れられない。捨てられてしまう」と言い出しました。それなら、なぜ、「野良猫が増えて、何とかしなければならないと思っているので、協力してもらえませんか?」なんて言ったのでしょうか?見れば、親子揃ってひどい風邪引きです。治療も必要なので、母猫と子猫3匹を連れ帰りました。翌日、その奥さんはまた電話をよこして、「子猫、もう1匹居たのよ。親を探して鳴いて歩いてっけど、捕まらないから、来てもらえないすか~」と言うのです。また行って、他にもいる野良猫の避妊手術の話もして、うんうん頷くばかりの奥さんを尻目に、シャーシャー唸りまくる三毛の子猫も連れて来ました。結局、親子5匹を背負い込む羽目になりました。「かかった医療費だけでも支払ってもらわなきゃ~」と思って、2ヵ月以上経ってから請求書を送ったら、「うちのおばあさん、猫ば連れて行った上に金まで取るのか~って言うんだよ」なんて言うので、「おばあさんはそういう認識でも、奥さんはどう思うのですか?」と聞いたら、「私は払わなきゃないと思いますよ。でも、何せ年金生活だから~」と言うので「分割で構いませんから」と伝えましたが、2ヵ月近く経ってもまだ1回目も入金されてはいないです。他の猫達のことを尋ねても、「最近来なくなった」とか「近所で飼うみたい」とか、逃げ口上ばかりでした。
「屋根の上に猫が上がってしまい、もう1週間降りて来れない。消防署に電話したら、ここに連絡してみたら?と言われた」というおばあさんの依頼を受けて、お隣の女川町まで行くと、キジトラの猫が屋根の上で鳴いていました。ハシゴを掛けて、捕獲器を仕掛けてから、明日の避妊予防センターの予約が入っているお宅に、野良猫用の捕獲器を届けに行ったら、「猫がカゴに入った!暴れたら落ちるから、早く来て~」と電話が来て、トンボ帰りしました。騒ぎを聞きつけて出て来てくれたお向かいのおじいさんが、ハシゴに上がろうとすると「危ないから」と制止して、「若い人に頼むべし」なんて言ってました。捕獲器の中で猫に暴れられたら…『行きはよいよい、帰りは怖い』~「おじいさん!しっかりハシゴ押さえててくださいよ」と頼んで、《にわかレスキュー隊員》になりました。そこに、私より若い男性がやって来たから、てっきりおばあさんが知り合いに協力を頼んだのかと想ったら…その人は大工さんでした。やっとこさ、捕獲器を降ろして来た私の耳に信じられないような、おばあさんの言葉が飛び込んで来ました。「私ね、猫は大嫌いなの。もう屋敷に入って来れないように、門を高くしてもらいたいから、来てもらったの~」。可哀想にオシッコをガマンしていたのか…『ヤネオ』は膀胱炎になっていましたが、去勢済みのおとなしい若いオスで、おばあさん宅の近所にあった仮設住宅に住んでいた人が置きざりにしていったようです。温厚で人なつっこい性格だから、まもなくトライアルに行く予定です。今度こそ、愛情に包まれて、安心して暮らせる家を見つけてあげたいと思います。
妊娠末期の野良猫を捕獲して「絶対に生ませられない」と置いていったお姉ちゃんの猫~『たまちゃん』は、一度は手術しようかと軽く麻酔して、血液検査をしたのですが、貧血がひどく、お腹を触ると胎児の頭と体がすっかり判りました。先生と顔を見合わせて、「手術は止めましょう」と言いました。7月20日の夜から翌朝にかけて、玉のような赤ちゃんが5匹誕生しました。初めてアニマルクラブで生まれた子猫達も、ワクチンを打てる大きさとなり、揃って里親募集中。たまちゃんも栄養をいっぱい摂って体力をつけ、避妊手術も終わりましたが、お姉ちゃんは…なしのつぶてです。

 

 

1人暮らしのおばあちゃんの庭で生まれた野良猫兄弟には、花々の名前を付けました。

 

 

2匹の母さん猫も、避妊手術とワクチンを済ませました。

 

 

置き去りにされ、屋根から降りられなくなっていた《ヤネオ》は、優しくて利口な子です。

 

 

トイレの中で出産を始めてしまった《たまちゃん》。5匹生み終えてから、ごはんで釣って箱に誘導。

 

 

ケージはすぐに狭くなりましたが、場所がないため、継ぎ接ぎして増設。

 

 

ニャンモックが役に立ちました。アニマルクラブのバザーでも販売してますよ!

 

くろ母ちゃんと子猫たち。「ねこを持って行った上に金まで取るのか…」なんて発想には、カルチャーショックでした。

 

木曜日の夜から翌週水曜日午前中までは、待合室も元の風呂場も、入院スペースとなる。ケージを貸しても管理できない老人などの野良猫を、放せるようになるまで預かっているので気が抜けない。ボランティアさんも忙しい。

 

 

顔から肩まで傷を負って、子育てしていた野良猫母さん。保護した人も生活苦で、既に大勢抱えている。避妊と傷の抜糸をして返したが、この先に不安が残る。

 

浅はかな人が自分のことしか考えない行動を取って、猫が残酷な目に遭うケースも後を絶ちません。無責任なエサやりをして野良猫を増やして、保健所からも注意を受けているという復興作業員の宿舎に、猫の赤ちゃんを捨てて行った人がいました。宿舎の住人は保健所に引き取り依頼の電話をしましたが、「こちらから取りには行けない。引き取り日に連れてきてください」と言われたからと、赤ちゃん達が入ったダンボールを外に放置していました。その事実にショックを受けたうちのボランティアさんもまた、青森県から出稼ぎに来ている男性。交通事故で死んだ野良猫の子を大切に育てています。気仙沼まで行ってくれたのですが、5匹いたうちの2匹はすでに衰弱死して、1匹も死にかけていました。心配そうに顔を曇らせて、里親探しの会場に連れてきてくれました。そこで待っていたのは、前出のミルクボランティアさん。そのままご自宅に連れて帰ってくれましたが、案の定「1匹は夜に息を引き取りました」と連絡が来ました。残った2匹は『霧』と『晴』と名付けられ、大切に育てられています。
このお宅には、もうひと兄弟お預かりいただいています。不自由な体で畑を耕しているおばあさんが、近所の奥さんから押し付けられた野良の子猫達です。可哀想だと言って保護しても、自分では面倒を見ずに、立場の弱い人に下請けに出す、あざとい人達がいます。おばあさんはまもなく足の手術が決まっていたので、その子達~《畑兄弟》はボランティアさんにお願いしました。『カブ』と『そら豆』は兄弟一緒に里親さんが見つかり、『ラディシュ』と『ミョウガ』にもお見合い話が来ました。あのおばあさんは、手術前に里親探し会場に会いに来て、「兄弟らしい野良の子猫が近くに居る」と話していました。手術も終わって落ち着いた頃だと思うので、そろそろ避妊・去勢できる大きさだから、捕獲して手術する相談をしてみようと思います。

 

 

ボランティアのおじさんが、気仙沼まで行って連れてきてくれた《生き残った捨て猫兄弟》『霧』と『晴』。

 

 

ちゃんと食べさせていくこと、快適に暮らせること、治療を受けること~必要な手をかけることができるのは、協力者の方々のご支援の賜物です。それができているから、様々な相談にも対応できるのだし、啓蒙活動も進められます。半年ぶりに活動報告を書くことができて、私は、捕虜がやっとお風呂に入れたような気持ちになれました。協力者の皆さんに、心からの感謝をお伝えしたいです。そして、強制労働の合間に、もうそこしかない私のスペース~一部屋を猫の『ふとし』と網戸で分けて、洋服などを置いている小部屋に、パソコンデスクと椅子を置き、《気持ちだけ書斎》を用意しました。今月は3回ある里親探し会を終えて、住まいを秋冬仕様に準備したら、少しずつしか書けないけれど、私が書くべき本の執筆に入りたいと思っています。

 

 

2018年 10月10日