命の別名

【 支援者の皆様へ 】

 

「礼儀知らずな母に成り代わり、ご無礼お詫び申し上げます。

今年もよろしくお願いいたします。」(バロン)

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「あけましておめでとうございます」という挨拶をしなくなってから、10年以上が経ちます。(年賀状をいただいた皆様、申し訳ありません。)抱える動物の数が増え、関わる相談事が深刻になり、対応に労苦が伴うに従って、大晦日も元旦も同じ事をしている自分が、何をおめでたいと掲げたらいいのか、見えなくなりました。ただ、「今年もよろしくお願いします」と頭を下げたい思いは、人一倍深いです。
腎臓病の猫達に皮下点滴をしていたら、テレビから除夜の鐘が鳴り出し…真っ先に頭に浮かんだのは、「寄付をいただいた方々に、とうとうお礼状を出せなかったな~」ということでした。老齢と病気持ちと性格的に問題があって集団生活ができない猫達を自宅に連れて来て…いつのまにか手の掛かる子達が14匹にもなり、毎日毎日やりたいことの何割かで《今日》が終わってしまいます。終わりにしたくないから、何かやっている現場でそのまま寝てしまうことも多いです。睡魔には勝てなくて、自分がやっていることが夢なのか現なのか…分からないことがよくあります。一度寝て目覚めて、アニマルクラブの約70匹の見回りに行ったり、お風呂に入ったり…時にはそこから運良く目が冴えて、やるべきことの一つ二つ片付けられることもありますが、アルバイトもしているので、進みは悪いです。
今は大きなパブのような店で働いているのですが、たまにそこで、私が経営していたスナックのお客さんだった方に出逢うと、その方々の方が萎縮して、落胆されてしまう場面がありました。私自身も、無料で借りている知人の駐車場まで深夜10分近く歩きながら、自分の生活の変化を痛感することがありますが、それはお客さんが抱く憐憫の情よりもっと現実的なこと…「お金を稼げなくなったな~」ということです。私は長年、水商売でこの活動を支えて来ました。津波で店がダメになり、再開しようにも、アニマルクラブがやるべきことは山積して、また夜の街の客層も他県から復興の仕事に来ている労働者に様変わりして、私が1人で小さな店を開いたとしても、うまく行く公算は立ちませんでした。コンビニで買ったミルクティを飲みながら、家で待つ病気の猫を想いつつ、凍てついた車の窓ガラスが解けるのを待っていると、「寄付を送ってくれる人がいるから、動物たちを養っていける」ことをしみじみ感じるのです。ここ4、5年で20歳前後の老猫が多くなり、その子達を少しでも長生きさせたいと処方食やグルメ缶や鶏肉や白身魚を買い、暖房費も惜しみなく使うようになると、震災前とは比べ物にならない程の経費を使うようになりました。
それなのに、お礼も伝えられないのは、何とも心苦しく情けないです。でも殆ど切れ間なく続いている老猫の介護と看取りや、野良猫の捕獲と不妊手術や治療、子猫の里親探しや市民からの相談への協力…日々私が追われていることが、 支援してくださっている方々が「して欲しい」と望んでいることなのだと解釈して、その願いに応えることを本分に生活しています。思いが届けば幸いです。

 


 

【 《薄情け》の顛末 】

 

私が忙しいのは、電話やメールで来る市民からの相談に対応して、担うことが次々出てくるからです。動物管理センターや保健所にいる犬や猫の里親探しをしている動物愛護団体が多いのは、一般市民を相手にしていると、強引な押しつけや約束の反故などが頻繁にあり、活動に支障をきたしたり、神経をすり減らすことが多いからだと聞きます。でも、この活動を高校生の頃から始めて世間を見てきた私は、動物たちを苦しめているのも市民なら、助けることができるのも地域住民だし、法律を変えるためには国民の意識の高揚や要望が必要だと感じています。だから、悩んでいる一個人に知恵と力を貸して、問題を解決してもらうことの積み重ねが、社会の認識を変えていくことにつながると考えています。

電話の向こうで60代位のおばちゃんが「野良猫の兄弟がくっついて、雪の中で震えているんです~可哀想だから、引き取ってもらえませんか?」と泣き声を出しています。誰かに「アニマルクラブはそういう不幸な動物たちを引き取って、面倒を見てくれるところだと聞いた」と言いました。私は「残念ながら、そんな力はないんですよ。だって、そんなところが本当にあるとしたら、石巻中から犬や猫が集まりますよ。土地、建物、食費、医療費、人件費…莫大な費用がかかりますよね…そんなお金、どこから出るんですか?」と返しました。「国で出してくれないんですか?」と言うので、「日本がそんなに良い国なら、可哀想な動物がこんなにいるわけないでしょう」と答えると、「そうだよねぇ」と小さな返事が返ってきました。ここから、ようやく現実の話になります。「この寒さに外に居たら、病気になってしまいますよ。ずっと飼えなくても、とりあえず保護してもらえませんか?沢山来る相談の中で、私達ボランティアが協力できるのは、相談をよこした方が自分ができることはやって頑張ってくれる場合なんです」と持ちかけます。相手が乗ってくれば「ペット禁止の市営住宅だ」とか、「お金をあまりかけられない」とか《障害》と感じていることに、こちらができる《手助け》を提案していきます。
翌日、おばちゃんがご主人の了解も得た、と電話をよこしました。折しも、天気予報はまた雪マークです。ボランティアさんに頼んで、おばちゃん宅に捕獲器3台とニ段ケージを運んでもらい、捕獲できたらすぐに入れるようにケージも組み立ててもらいました。「猫が3匹とも入りました!」と電話が来たのは夕方暗くなってから…こちらも猫のごはん作りの最中だったので、30分後に向かいました。市営住宅の裏口に、捕獲器が3台並んで、その中にはどれも、生後4~5ヵ月位の白っぽい猫が入っていました。おばちゃんは猫が捕獲器に入ったことでいっぱいいっぱいで、暖かい部屋に運ぶことも、せめて捕獲器の上に毛布を掛けてやることすら思いつかない様子でした。だから、私が来なければならないのです。アドバイスをして、用具だけ貸しても、配慮に欠ければ失敗を引き起こして「余計な手を出さなければよかった…もう猫の事に関わるのはやめよう」という事態にならないとも限らないからです。
捕獲器を持ち上げた途端に子猫はパニックになり、見ていただけなのに、おばちゃんはおののいています。私は着ていたジャンパーを脱いで捕獲器に掛けて、「こうやって見えなくなると、落ち着くんだよ。だからバスタオル持って来てください」と頼みました。バスタオルを掛けて、あとの2台を室内に運びました。次は、捕獲器を開けずに隙間から洗濯ネットを入れて、菜箸を使って被せていきます。おばちゃんとご主人はやきもきしながら見守っています。その息づかいから、「良い人達だなぁ~、猫を可愛がっているんだ」と背中で感じました。人馴れしていない猫と暮らすことに不安を募らせないように、場を和ませる提案をしました。2人に3匹の名前を決める宿題を出したのです。私がシャムミックスの子に苦戦して、うっかり指も咬まれて、ネットを血まみれにしながらやっと確保できた頃、この子の名前は『パンダ』に決まり、まっ白は『シロ』、目の上にブチがある子は『マユ』に決定しました。名前が決まると、親近感がグッと増して、2人はいつしか笑顔になっています。二段ケージの中に、ネットに入ったままのシロを移し、ファスナーを開けて、外からネットを引っ張り出しました。身柄が自由になったらまたパニクって、シロは上の段に上がったり下がったりしていた…と思ったら、私達はとんでもない光景を目撃しました。上の段にいたシロがケージの側面からスッと飛び出し、カーテンの陰に隠れてしまったのです。
「えっ、なんで…」ということをやらかすのが猫です。ケージはまだ新しく、どこも壊れていません。4センチほどの隙間から頭が通過するとは思えません。体重2キロはある猫が何故出られたのでしょう?でも、よく点検すると…金属に見える張り巡らされている側面の縦の線が、力を入れて広げるとしなるのです。飛び込んだシロの頭が押し広げたのです。茶の間のカーテンの陰に隠れているシロにそっと近づき、またもや洗濯ネットを使ってサッと身柄を確保しました。
さて、ケージを交換しなければなりません。またアニマルクラブに戻り、今度は頑丈な折りたたみ式の大ケージを2台、トイレや砂、毛布などを積んで、再び向かいました。ケージを組み立て、ペットシーツと新聞紙を敷き、毛布でベッドを作り、トイレと水入れを設置して猫を移していきました。必要な用具は全部持参します。次は、普段のお世話の仕方を伝授します。扉の締め忘れのないように、水やトイレを替える時には、まず猫にバスタオルを被せて目を見えなくすること…反復して、やってもらって覚えてもらいます。
最後に、これからどこまで人馴れするか、一緒に生活してもらって、自由に触れるようになれば里親募集をすること、懐かない時はワクチンや避妊手術をして、外猫として面倒をみていくことなどを提案しました。実際には手放し難くなって、飼い続けるケースも多いのですが、今日のところは先が重くなる展望よりも、「この子達の母親も捕獲して手術しなければ繰り返しになるよ」と目の前の課題を促します。捕獲器の使い方がわかったから、母猫を捕まえることも現実的になったでしょう。費用はできるだけ助成金を出すし、分割払いで構わないこと、送迎も手伝うことを伝え、「何か分からないことかあったらいつでも連絡してね」と言って帰って来ました。所要時間約3時間。どれ1つも省略できない作業ですが、3つの命が救われるなら有効な時間だったといえます。

アニマルクラブに来る相談事の多くの発端は、「なまじかけた薄情け」です。その人達の多くは、これからするべきことを私が言うと、「うちの猫でないのに~」という《耳にタコの言い訳》をします。「でも、他の誰の猫でもないから、一番近くに居て、気になっているあなたが何とかしなければ、どうにもならない」ことを解ってもらうように努めます。その結果、幸せに導かれる子達がいる一方で…関わったが故に《薄情けのツケ払い》がこちらへ回ってくることも、あるいは解ってくれたと思っていたのに、後になって《どんでん返し》が来ることも少なくはありません。

猫を1匹避妊手術に連れて来た人が「お金がないから1匹しか連れてきてないけれど、家には手術してない猫が10匹以上にいて、また妊娠している」などと言うので、「支払いは分割でいいから、生まれる前に全員手術しましょう」と勧めて、送迎も手伝い、できる限りの助成金も出したのに、約束の分割払いが殆ど支払われないこともよくあります。
避妊予防センターを設立する時に、スタッフを派遣してくれた動物病院の院長先生から「余裕を持って活動できるように、阿部さんにも報酬が入る位の料金設定にしなさい」とアドバイスされましたが、私は他の病院には連れて行けない人が利用できる医療施設にしたくて、「一般病院と遜色ない検査や麻酔薬を使いながら約半額の費用に抑える」ことを信条としました。自分は生活に追われながら、あちこちに回収できないお金を貸しているのは、一般の商売なら馬鹿呼ばわりされて当然です。しかし、頭を下げて約束したのに、分割のお金を返せない人は、自分では決して手術はしなかった人です。「手術してしまって良かった」と思います。「そんな人、飼う資格ない」なんて正論を言っても、社会にその猫達を助けるシステムもないのだから、ボランティアが協力てきるのは、避妊・去勢して増やさないことだと認識しています。飼い主に責任能力がない場合、「野良猫でもないのに~」と異論を唱えても、動物達は助からないと思います。

お金の損失で済まないケースもあります。エサを与えていた野良猫の相談を受けて避妊手術を勧め、連れて来たら病気が見つかったので「今日は手術は無理。まず治療してから」と伝えたら、それきり迎えに来なかったり、大したケガではないつもりで連れて来た野良猫が、手術が必要と診断されると「連れて来るように言われたから来たのに、うちの責任ですか…」と、猫だけ置いて帰ってしまわれたこともありました。

知らない人の勝手な振る舞いは一度怒って笑い話になりますが、信用していた人の変わりようはショックです。6年前、野良猫ファミリーが可哀想で保護したご夫婦に、避妊手術やワクチンの協力をして、その後は大事に飼ってくれていました。一昨年の11月、奥さんが入院して手術する間3ヵ月ほど預かって欲しいと、4匹の猫を託されました。アニマルクラブも4匹置けるスペースはなかったので、人馴れしている2匹はボランティアさんのお宅で預かってもらいました。どちらも、ケージの生活になりました。預かった猫の片方とこちらに残したオス2匹は、猫エイズのキャリアでした。これまで自由に外に出ていた猫達にとって、著しい環境の変化は心身の負担になったと思います。でも、それも「あと、少しの辛抱だよ。お迎え来るからね~」と言い聞かせていたのに…2月になっても連絡がないので、電話をすると「他にも病気が見つかり、入院が長引いている。迷惑だったら、外に放していいよ、元々は野良猫だったんだから」と言われました。
その頃から、オス2匹は食べづらい、ヨダレを流す…歯肉炎の症状がはっきりと出てきました。2週間に1度の抗生剤の注射が始まりました。血の混じったヨダレが止まらない『チャッピー』は、麻酔下で抜歯して、腫れてただれた口腔内の治療もしましたが、症状は続いています。飼い主の奥さんが特に可愛がっていた子でした。ご主人のお気に入りだった『マーチャン』も、ボランティアさんから「激やせした」と連絡があり、調べてみると腎臓の数値がかなり悪くなっていました。アニマルクラブに引き取りましたが、殆ど食べなくなり命も危うくなってきました。飼い主に、状況を手紙で送りましたが、なしのつぶてでした。医療費もかなり使いましたが、4匹を1年2ヵ月預かって、たった1度2万円の振込があっただけです。マーチャンを自宅に連れて来て、何か食べないか色々やってみると、殆ど食べなかった子が、色々食べ始めました。手をかけられ、甘えたい気持ちがとても強かったのだと思います。最後の最後に望んでいた想いを幾らか満たして、マーチャンは12月始めに私の腕の中で亡くなりました。
誰かが掛けた薄情けは、他の誰かが肩代わりしないと、中途半端な手出しをされた動物達は浮かばれません。動物達に、人間の事情を言い訳しても何の解決にもなりません。状況が変わってしまったなら、そこでできることをして、正直な見通しと責任の取り方を伝えるべきですが、それができない人が多いから《浮き世》なのかもしれません。最初の薄情けがなければこの世にはなかった命だと思って、命をつないでいくことも必要な活動だと感じています。

 

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捕獲器に入ったまま、洗濯ネットに入れられた『シロ』。この後ケージに移されてまもなく、4センチの隙間を通り抜けるマジックショーを披露。

 

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ケージの扉を開ける際のレクチャー中。怖くて、掛けられたタオルの陰から覗いている『マユ』。

 

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預けられて1年余り…飼い主に会えぬままこの世を去った『マーチャン』。せめてもの救いは、死ぬまで傍に居てくれた友達に会えたこと。『ムー』はいつも《介護猫》です。

 


 

【 あっぱれ、モッピ 】

 

頭に1キロの腫瘍を抱えて大手術を受けた老犬『モッピ』はあれから非常に頑張りました。頑張り過ぎて、飼い主のおばちゃんが「私の方が持たなくなるよ」と弱音を吐くほど、生きようと懸命でした。
手術後、モッピは食欲も旺盛で、前のように近所を散歩して、町内の人達にも声をかけられて…幸せを取り戻したかに見えました。しかし、それは「たとえ数週間でも前のような生活ができれば…」と願ったことに応えるかのような、期間限定の《奇跡の日々》でした。病魔はモッピの体中の皮膚の下から、次々と正体を現してきました。あちこちにイボが出て、凄まじい速さで、米粒大が豆粒大に、ブドウ粒の大きさから幾つかピンポン玉大になると…あの忌まわしい瘤とそっくりになってきました。それが体中に出て日に日に大きくなって、注射の針を刺す場所も見つからないほどびっしりと競り合うように成長していったのです。
そんな時に、思いがけない人から連絡をもらいました。前回の活動報告を見て、モッピの妹の『ベル』ちゃんの飼い主から連絡がきたのです。津波被害の大きかった渡波地区に住んでいましたが、ベルも飼い主一家も無事でした。ベルも14歳。秋口には腎臓病になって入院したりして、やっと本調子になってきたところだと聞きました。「モッピちゃんに是非会いたい」と言われて、案内することになりました。こうして、15年ぶりに姉妹の再会も叶いました。最初は少し距離をおいて、お互いを見たり、目をそらしたりしていましたが、少しずつ距離が近づいていきました。その日、おばちゃんは仕事でいなかったのですが、私から話を聞いてとても会いたがっていたことを伝えると、彼女はまたお見舞い行ってくれました。おばちゃんは大喜びで、きっとおしゃべりが止まらなかったことでしょう。その後で私に会った時に、楽しそうに報告しながら「ベルちゃんは元気で可愛いのに、なんでおらいのモッピばりがこんな病気になって苦しめられんだべ~」とまた泣き出しました。そして、この再会はアニマルクラブの助けにもなりました。折しも、長年勤めてもらってすっかり宛にしていた有給ボランティアさんから「申し訳ないが、先々が安心な正規雇用の就職をしたいので、年末前に辞めたい」と言われて、困り果てていたのですが、後任をベルの飼い主のしのぶちゃんに引き受けてもらえることになったのです。モッピがつないでくれた縁です。

その後、モッピの胸から脇の下の辺りにだっぷりとした瘤ができました。垂れ下がる瘤と皮膚の間からは化膿臭のする液が滲み出て、目の上にできたイボも巨峰ほどに大きくなって目を塞ぎ、時々出血して眼球に入り込みました。年末に向けて、おばちゃんの牡蠣の殻剥き作業場も忙しくなりました。私も毎日行って、モッピを庭に出して排便させ、《巨峰》の奥の目に目薬を入れたり、脇の下に回されて汚れを受けているタオルを交換して、抗生剤などを投与しました。
おばちゃんは仕事から帰ると、お湯でモッピの体を洗ってやります。たまに夜に行くと、湯上がりですっかりきれいになったモッピが茶の間で、おばちゃんと晩ご飯のお膳を囲んでいました。ある時、「すき焼きしたのに、アメリカ産の肉にしたら、モッピ馬鹿にして食べないんだよ~」と言うので、私が昨夜スーパーが半額になるのを待って買ってきた国産牛のステーキを出すと、ペロリと完食したので、おばちゃんは「どんどん贅沢になって困る~」と嬉しそうに笑っていました。おばちゃんも一人暮らしの心細さもあり、モッピの容態が悪くなってくると、43歳で癌で苦しんで亡くなったご主人のことや、その後100歳まで生きたお舅さんの介護の日々と重なって、《別れること、残されること》がどうしようもなく怖くなるようでした。

最近、アニマルクラブには高齢者からの相談が多くなりました。相談に乗ると、送迎や医療費の助成だけでは済まずに、家の掃除や修繕、近隣との橋渡しなど…その人の生活にまで関わることも多いです。そんな時、《動物愛護》は行政のかけ声で進むものではなく、『人と動物の生活を支える事』だと痛感します。飼い主が落ち着いた状況で優しく接してくれることこそが、犬や猫達の至福の時間なのです。特にモッピは長い間、人に馴れない犬でした。おばちゃんだけが大好きで、特別な存在でした。
昼間、玄関を入ってすぐの日当たりの良い廊下に布団を敷いて置かれているモッピを訪ねると、おもむろに起き上がり、入って来たのが私だとわかると、「なぁーんだ、あんたか…」というがっかりした顔になって、目薬をつけられたくなくて逃げようとしました。2度ほど容態が悪くなった時は、おばちゃんに仕事を休んでもらいました。しかし、1日か2日休んでモッピが持ち直してくると、すぐに仕事に行きました。おばちゃんは若い時に夫に先立たれ、昼夜働きづくめで3人の子供を大学まで入れました。子供たちが皆結婚して独立したのに、仕事があるなら体が続く限り行く《働き癖》がついていて、働かないと不安になるような所が見受けられました。私が最初に相談を受けたのも16、7年前、おばちゃんが水産会社の社長宅の家政婦をしていた時で、「こっそりごはんをあげていた野良猫が、久しぶりに姿を見せたと思ったら大けがをして、傷口からウジ虫が湧いている」という電話が始まりでした。人生の指針が《働いてお金を得ること》の日々の中で、社会から疎外される小さな命の痛みには敏感でした。正直な人で「あまりお金は出せない」と初っぱなから言うので、最初は無責任な図々しい人なのかと思いました。けれど、いつも必ず「自分が出せる分は出す」人でした。そして、お金のかからないことであれば労苦は惜しまず、献身的なお世話をしてくれました。こういう人が安心して通える動物病院を作りたいと思ってきました
年末に向けて、モッピの様態はジリジリと悪くなっていきました。内服は受け付けなくなり、どんな注射も効果を著しているとは思えませんでした。どんどん食べられなくなり、殆ど寝た状態になってしまいました。2日仕事を休んだおばちゃんが「明日は仕事に行こうと思う」と電話をよこしたので、私は「いつ死んでもおかしくないんだよ」と、どやしつけました。仕事から帰って来て、もしもモッピが冷たくなっていたら、見も世もなく泣き叫ぶくせに…なぜ取り返しのつかない後悔につながるかもしれない道を選択するのか…私は時折、動物に対して曖昧な判断をする人に、無性に腹が立ちます。「こっちは死にかけているんだぞ。それより何を優先しようというのか…」と憤ります。「今、牡蠣剥きが忙しいから来て欲しいと言われているし、モッピには阿部さんが来てくれるから…」と言うので、「私は行けないかもしれないよ」と言いました。何としても、おばちゃんをモッピの傍に置いておきたかったのです。その夜、「モッピの呼吸が荒くなって苦しそうだ」と電話が来ました。「やっぱり明日は仕事休むから」と言ってくれたので、「とにかく傍に付いて、声かけてやって」と頼みました。翌朝、気になって電話すると、モッピは一晩中苦しんで、おばちゃんも飲まず食わずで付いていた、と聞きました。家の猫達に急いでごはんを食べさせ、モッピの家に向かいました。目の前まで来て、最近できたコンビニに立ち寄りました。衝動的にでした。入って、おばちゃんの好きそうなカステラや饅頭やプリンなど買って、玄関に着いた時です。おばちゃんの叫び声が聞こえて、茶の間に飛び込むと…モッピを膝に抱えたおばちゃんが、泣き顔で振り向き、「阿部さん、たった今、モッピ逝ったでば~苦しんで苦しんで、やっとラクになったでば~」と泣き崩れました。コンビニに寄らなければ、私も死に目に会えたと思います。けれど、苦しみながらの命の瀬戸際にモッピが会いたい人はただ1人…いつも嫌な目薬や投薬に来る私ではないから、私は私なりにモッピにお別れできました。「15年前保健所に送られなくて良かった。この家に貰われて良かった。立派な生き様は、私の心で生かされていく…」と感じました。モッピの亡骸を前にすすり泣くおばちゃんの背中を見つめながら、昔聴いた中島みゆきの歌が、レクイエムのように頭に流れていました。「~命に付く名前を心と呼ぶ~名もなき君にも、名もなき僕にも…」12月22日のことでした。

 

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しのぶちゃんが、モッピの妹の『ベル』を連れてお見舞いに来てくれました。この姉妹は15年前、東松島市の山中で捕獲された野犬の子。あまりにも脅えていた様子に、職員が保健所に渡せなかったそうです。

 

 

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久しぶりの再会に、初めはぎこちなかったけれど、庭で一緒におやつを食べたら、距離が近づきました。

 

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モッピの体中に出てきたイボは日に日に大きくなって、あの瘤のようになってきました。

 

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足腰も弱くなってきたモッピの腹に、輪にしたバスタオルを通して支えて散歩するおばちゃん。モッピが可哀想だとすぐに泣きます。

 

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モッピが目を落とした直後。おばちゃんは泣くことも忘れて、呆然としていました。

 

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大好きだった庭に咲いていた、おばちゃんが育てた花々に囲まれて天国に旅立つモッピ。

 

 


 

【 キタの応援歌 】

 

去年の今頃、私は、波乱の人生を共に生きてくれた猫『団蔵』の介護をしていました。最期の日々も納得がいくように寄り添って、団ちゃんは1月31日に私の傍からいなくなりました。そして、今年、同じように私の傍らで最後の命火を何とか灯しているのが『キタ』です。
キタは、アニマルクラブのオリジナルドキュメンタリー映画『動物たちの大震災・石巻篇』でポスターやDVDのジャケット写真になった被災猫~ホームページ上でも、《アニマルクラブ四守護神》の筆頭を担ってきた『キタの天満宮』です。《復興のシンボル》だったキタは、津波で甚大な被害を受けた、石巻市桃浦地区で生き延びていた猫です。震災後まもなく、横浜からボランティアで現地入りした『藤林さん』に保護されました。赤い首輪をしていたから、飼い主がいるだろうと、避難所にいる人達に聞いて回ってくれましたが見つからず、アニマルクラブに相談が来ました。その時、彼は電話の向こうで「顔中にセメダインのような物がついて、目も開けられない状態」だと言いましたが、『セメダイン』の正体は…ひどい風邪を引いて、顔中を汚していた『黄色い目やにと鼻水』でした。そのあまりの汚さに、会った瞬間に口から出た言葉「ゲッ、汚ったねー」から、『キタ』と命名されました。
すでに高齢で、エイズキャリアで、重度の歯肉炎がありました。回復を待って去勢と殆どの歯を抜かれる手術も受けましたが、その後も血ヨダレが続きました。皮膚も弱く、ちょっとした傷が治らず、どんどんひどくなっていくのが常でした。抗生剤と途中からはステロイドの注射が欠かせなくなり…病院とは縁の切れない子で、キタも「必要な医療を受けられたから」命をつないで来れたと思います。それを支えてくれたのは、藤林さんからずっと続いたカンパです。キタもその愛情に応えるように、血ヨダレを流しながらもガツガツと食べて、全盛期は6キロ近くまで体重が増えました。気が強く喧嘩っ早いので《浜の親分》と呼ばれましたが、《盲目のカリスマ戦士》だった『みみお』の反撃で負う傷がずっと治らなくて、カラーを付けて毎日薬を点けられることも繰り返しました。脱毛・フケ・皮膚の落屑…相変わらず汚いので、時々風呂場に連れて行かれ、大きなバケツの湯船に浸けられて薬浴しましたが…慣れてくると気持ち良さそうにしていました。
相変わらず食べているのに、ここ1年ほどの間に、キタはどんどん痩せてきたので、ステロイドの使い過ぎで糖尿病になったのかと思いましたがそうではなく、甲状腺の異常でもありませんでした。思っていたよりさらに高齢だったのかもしれませんし、エイズが発症したのかもしれません。とうとう2キロを割ってしまいました。骸骨に皮だけくっついている様相で、あちこち脱毛して悲惨な見た目ですが、名前を呼ぶと、先っぽだけわずかに毛が残っているライオンのような尻尾を振って返事をします。キタは、年末から何度か「もうダメか…」という状況を繰り返しています。抗生剤投与の後に吐いて下痢して仮死状態になってから、注射も内服も薬は一切止めました。沢山の薬のお蔭で症状を抑えてきましたが、弱った体はもう薬に負けてしまうと感じたからです。ここより先の生命線はキタの食欲と、私の配慮が的を得るかどうかにかかっていると思いました。
壊滅の浜で生き残った猫の生命力は、死の瀬戸際にあっても子機微良いほどに…尋常ではありません。嘔吐や下痢やケイレンですっかり消耗して、死んだように横たわるのですが、私が食事の支度を始めると、起き上がってヨロヨロとこちらへ歩いて来ます。「生きるために…」食べに来るのです。食べるからウンチが出ますが、やはり緩い便なので、トイレに行き着く前に出てしまったり、トイレの中でした途端に力尽きてそこにしゃがみこんでしまうことも多いので、お尻や足の裏がすっかり汚れてしまうこともよくあります。洗面所にお湯を溜めて骨と皮ばかりの足やお尻を洗ってやると、『浜の親分』はカッコ悪そうに目を細めています。夜は、布団で一緒に寝たがるので、電気敷き毛布とベッドパッドの上におねしょパッドと白い綿のシーツを敷いています。毎朝、シーツにはヨダレのシミと体から落ちる細かなカスが付いているので、毎日交換して洗います。《すり減っていく命が望むことに添うことが介護》だと思うからです。
そして、震災直後の混乱の中でそんな彼を救い出してくれた《キタの兄ちゃん》藤林さんもまた、尋常ではありません。「キタがもう長くないと思う」と私が送った一報に1月12日、仕事先の大阪から朝一番の新幹線で駆けつけて来てくれました。久しぶりに兄ちゃんと再会して、キタは少し活気を取り戻しました。藤林さんは、予想よりはキタが元気で嬉しそうでした。キタの状況を納得して、安堵して、それでもやはり寂しさを抱えて夕方に帰って行きました。
その後、朗報を送ることもできました。ホームページ上でも「作曲者大募集!」と呼びかけてきた『キタの応援歌』が、何とかキタの命がある間に完成したのです。結局、地元の作曲家の先生にお願いしました。歌うのは、ボランティアのかなえさん。『避妊センター便り』の《ちゃこぶーおばさん》です(実際の彼女はまだ若く、オバサンではありません。本当のオバサンになると、自分のことをオバサンだなんて言わなくなるものです)。かなえさんは、民謡歌手を目指して、地元のラジオ番組などにも出ている本格派ですから、乞うご期待ください。2月4日にレコーディング決定です。気持ちはあってもキタが食べる量は、どんどん減ってきています。CDができる頃には、キタはもうここにはいないかもしれません。たとえそうであっても…東日本大震災で壊滅的被害を受けた浜から、「津波乗り越えやって来た」猫が、「新しい愛に出会い」、命の限り生き抜いたことを伝えていきたいと思っています。

 

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去年も団蔵に付きっきりだった『トラ』が、ずっとキタに付いていてくれました。

 

すっかり細くなったキタの背中。5.7キロあった体重が2キロを割るまでに減ってしまいました。

 

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起き上がれない日も、とにかくごはんを食べ続けたキタ。壊滅の浜で生き延びた根性、見せてくれました。

 

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「おらいの兄ちゃん、来てけたどー。」大阪から駆けつけた藤林さんとの再会に、おすまししたものの、目が開かない。

 

 

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1月30日、起きている最後の写真。この後、寝たきりに…。キタはムーが好きで、しんどくなってくると、ムーにしがみつくようにして寝ていました。

 


 

【 受け継いでいくこと 】

除夜の鐘でお世話になった方々へのお礼が言えなかったことを後悔した私は、元旦の朝、初夢のように「今日、行こう!」とひらめいた所がありました。市内の老人ホームです。一昨年の活動報告でも紹介した、18歳の動物愛護週間に、私の投稿が河北新報社の『論壇』に初めて掲載された時に連絡をもらい、アニマルクラブの会員1号になってくれた『岩井さん』を、昨年はとうとう一度も訪ねることができなかったのです。岩井さんは90代後半、「前より大分弱っちゃったかな…私のこと忘れてしまったんじゃないかな…」と不安を抱えながら、元旦の午後、何とか訪ねることができました。
岩井さんは眠っていました。耳が遠いので、声を掛けても聞こえません。そっと肩を叩くと、目を開けて私の顔をじいーっと見るのですが、声が出ないので、ヒヤッとしました。でも、次の瞬間には笑顔になり、喉の奥の方で何かを言おうとするのですが、言葉になりません。普段慌ただしく過ごしている分、ここではゆっくり、岩井さんの口からどんな言葉が出てくるのかを待とう、という気持ちになりました。
5分位してからでしょうか…岩井さんの記憶の回路と言語が繋がったようで、「みんな、元気すか?」と聞いてきました。私は耳元で大きな声を出して「元気だよ、猫80匹」と答えました。数を言うと、決まって右手で顔を覆って「あらら~」というのですが、今回はそのリアクションは見られませんでした。「前よりボケてしまったのかもしれないな~」と感じていたら、布団の中から、私が前に贈った黒猫ジジのぬいぐるみを出して見せて、ニコッと笑いました。そういうお茶目なところがある人なので、本質が変わっていないことにホッとしました。岩井さんのベッド脇の棚には、ホームの職員から贈られた「98歳おめでとう!」の色紙が飾られ、その後ろに、もう1枚色紙が隠れていました。筆文字だったので、思わず手に取ると…多分岩井さんの甥っ子さんが、昭和62年に書いて贈った短歌でした。岩井さんは野良猫クロとその子猫のチビを保護して、チビを親戚のお宅にもらってもらったのですが…その後チビが行方不明になった知らせを聞いてずっと心を痛めていました。クロは岩井さんの家で長生きして老衰で亡くなりましたが、どうなったかわからないチビのことは、30年経っても忘れられないのかもしれません。《果たせなかった約束~守れなかった命》は、ある個人にとっては戦争とか震災の記憶に匹敵する《人生の悔い》なのかもしれません。思い出したように、私の手から色紙を取ると、いつまでもいつまでも見ていました。五つの歌が書かれていましたが、その中から『猫は室内飼いにしましょう』を呼びかけるポスターに引用させていただくことを思いつきました

4月18日~29日、仙台市の繁華街から駅に続く地下道で、大規模なパネル展ができることになったのです。『動物達の権利を護ろう』という女性弁護士グループとのコラボです。普段動物に関心を持つこともない人も、通りすがりに現実に気づいてくれるような展示にしたいと、夢はふくらんでいます。
岩井さんは大学1年生の私を家に招いて、「自分が長年願って来たことを、よくぞ世間に訴えてくれた」と、手料理とおにぎりでもてなしてくれました。ちょっとしょっぱいキュウリの漬け物を食べながら、戦争中でも犬と食べ物を分け合って生きてきたことや、看護士だったから、傷ついた猫や巣から落ちた鳥の雛を治療してきた話を聞きました。動物に関わる新聞記事等をスクラップして、感動的な物語やドキュメンタリーが出ると買って、いつも貸してくれました。このお宅に子供達を預けて、仕事に行ったこともありました。だから、今回、娘の成人式の写真を持って行ったら、それもいつまでも離さずに胸に抱いていました。静かに時間は流れて、私が帰ろうとすると、岩井さんは痩せた小さな手で私の手を強く握って、泣き出しそうな顔をしていました。

岩井さんから私が受け継がねばならないもの~それは取りも直さず、《小さな命を慈しむ心のゆとりが持てる、平和な日本を守っていくこと》だと感じました。宍戸監督とのCM作りも、基本シナリオはできたのですが、「音楽が欲しいな~」という所で止まっています。映像を見た後で心に残る歌詞を思わず口ずさんでしまうような、詩を曲に乗せて世に送り出してくれる人はいないでしょうか?私は子供の頃から、思いつくのは得意ですが、技術はないので、誰かとコラボして、思いがけない花が咲くのが大好きです。たくさん別れなくてはならない人生だから、その分、良い人に会いたいと望んでいます。

野良猫の捕獲や子猫のお見合いが入り、雪かきもしなければならなくなって…活動報告がなかなか完成しないうちに、とうとうその日を迎えました。奇しくも、団蔵と同じ日にキタが旅立ちました。1月31日午前2時25分、私がアニマルクラブのクラブの見回りに行って戻って来たのを待つようにして、「キタ、大丈夫だよ。おっかあ、ここにいっからね~」という声を聴きながら…静かなお別れでした。
「~命につく名前を心と呼ぶ~名もなきキタにも、名もなきおっかあにも…」と、またあの歌を歌っていました。

 

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30年前に行方不明になった子猫への短歌と、私の娘の成人式の写真を離さず、交互に見ている岩井さん。

 

 

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「キタ、大丈夫だよ。おっかあ、ここに居るからね」がいつしか口癖になっていました。

 

 

2016年1月31日