冬が来る前に~生かす努力と続ける術を

 

【 もう寒い~  】

あんなに暑かった夏が突然終わって、いきなり身震いするような朝夕の気温に、野良猫はさぞかし大変だろうと感じます。我が家の庭で暮らす『おっかあ』・『にせお』・『うそじゃ』の3匹の小屋には、もうペットヒーターが入っています。半年前までは、いざこざばかり起こしていた、白に黒い豆模様がブチブチついている野良猫の『まめつぶ』も、ようやく仲間入りができたようです。4匹並んでごはん食べたり、誰かの小屋から顔を出したりしています。

 

『うそじゃ』の昼寝スペースの洗濯干場に入り込んだ『まめつぶ』。1年かけて、適当な距離おいて…人間より賢いかもね。

『うそじゃ』の昼寝スペースの洗濯干場に入り込んだ『まめつぶ』。1年かけて、適当な距離おいて…人間より賢いかもね。

 

最近また気になる野良猫を近所で見かけるようになりましたが、果たしてあの猫とは縁が繋げるのか…その子の生命力とこちらのタイミングが合い、フォローの風が吹くことを願います。そして、毎日のように、知らない人から携帯電話にもかかってくる「可哀想な猫の相談」…。どうやら「ここに電話すれば、助けてくれる」と水面下で布教して回っている人がいるようです。架空の偶像を拝んでも、神通力はないので、何も変わりません。他力本願の逃げ腰が、日本を意志薄弱な国にしつつあるような気がします。認めるべき第一歩は、日本中に助けを必要としている動物たちが溢れているという現実です。

何十年つき合っても、猫は不思議で、1匹1匹違います。今まで見かけたこともない猫が、大けがや重病を患って突然現れ、保護して治療と去勢をしても、回復すると鳴いて暴れるので、家猫にはなれないと判断して、外に出すと、こつ然と消えてしまったり…、どうすることが正解なのか分からないまま、その時その時にできることを積み重ねて40年余りが過ぎました。
私の動物愛護運動は、小学校の図書室で知った、人類が繰り返してきた戦争と人種差別の歴史から始まりました。「日本は戦争を放棄したのに、ナチスと同じことを動物にしている。日本人は動物に対して、黒人を奴隷にしても悪いと思わなかったかつての白人と同じ勘違いをしている…」。今、その戦争放棄が覆されるかもしれない安保法案が通り、国会前に「戦争反対」を訴える人々が押し寄せています。しかし、その一方で、自分には関係のないことのように暮らしている人々も大勢います。40年後の私は、動物愛護の視点から、「命と平和を守る術を日本人一人一人が考えて、形にしていこう」と、発信していくことを考えています。国が危険にさらされると、真っ先に犠牲になるのは、立場の弱い、言葉を話せない動物たちだからです。

 


【 諦め切れない願い 】

私の口から毎日出る言葉は「痛い!」、「あっ、忘れてた!」、「何もしないのに、疲れた~」です。これをしながら、あれもしようとする私は、いつも手足に小さな傷が絶えません。次々来る電話やメールに、名前や内容がごっちゃになって、忘れたり間違えたりします。空騒ぎに振り回されたり、無駄足を踏み、堂々巡りの試行錯誤で終わる日も多いです。だから、解決策が見つからないままの問題は、頭の中に貯蓄されていきます。そして、時々心が「今なら何とかなるかも…」と頭を叩いて、課題を引き出して再検討することもしばしばあります。春の活動報告でお伝えした、ガンに頭を占拠された『モッピ』のこともそうでした。

『モッピ』は、15年前に石巻市の隣町の役場に捕獲されて来た子犬でした。山に住み着いた野良犬を捕獲するために出向いた職員の気配に母犬は逃げて、洞穴に隠れていた子供2匹だけ捕まえられたのです。生後2ヵ月位まで人間と会うことなく暮らしてきたから、恐怖でずっとガタガタ震え続けて、そのあまりの不憫さに、担当職員もそのまま保健所に渡すのがしのびなくなり、同じ町役場の職員であったアニマルクラブのメンバーに相談したのです。
こうしたいきさつで私達のところに来た姉妹は、容姿も行動も、野生のキツネのようでした。でも、1匹は少しずつ人馴れしていったのですが…もう1匹はいつまでも震えて逃げて、無理に抑えれば…とんでもない声を発して、パニックになるので、しつけの先生の所にしばらく預かっていただきながら、里親探しをしました。やがて、小柄で穏やかな方には里親が見つかりましたが、臆病な方は、とても人にあげられる状態ではないまま、大きくなっていきました。それでも、電話が鳴ると、吠えて教えに来る「頭の良い子」だと先生は言っていました。
そんな中、以前から可哀想な野良猫を保護しては相談をよこしていたおばちゃんが、愛犬がガンで亡くなり「また犬と暮らしたい」と電話をくれたので、この子犬に会ってもらいました。初めて会う人に、またしてもガタガタ震えるその姿を見て、オバサンは涙を流して「おらい(うち)で飼うから」と言ってくれました。他の人ではもらわなかった、と思います。人一倍、同情心の深いこの人だから…この犬を引き取ったのだと思います。
こうして、この犬は田舎の広い庭のあるのどかな環境の中で、子供達ももう家を出て一人暮らしをしていたおばちゃんと、猫達と暮らし始めました。『モッピ』という名前をつけてもらいました。1年に1度か2度行ってみると、『モッピ』は少しずつ人馴れして、最初の2~3年はけたたましく吠えて逃げて行ったのですが、会う度に私との距離も縮まって、ここ数年は体にも触れるようになっていました。
モッピは鎖に繋がれることなく、家と庭を自由に行き来する幸せな暮らしをしていました。おばちゃんは「モッピのお陰で寂しくない。モッピにたくさん幸せもらってるよ~」と言っていました。モッピの変化を見る度に私は、「保健所で殺処分された数えきれない犬や猫にも、モッピと同じように、人と幸せに生きられる命の可能性があったのだろう…」と感じました。

その『モッピ』も14歳 の高齢犬になってきました。今年の夏の始めに、久しぶりにおばちゃんから電話が来ました。「去年の秋から、モッピの耳の後ろに出来物ができて、だんだん大きくなってきたから、近所の動物病院に行ったの。そしたら、ガンだと思うけれど、高齢だし、心臓の音も悪いから、手術は無理。麻酔かけたらそのまま死ぬから、と言われたんだ。そんでも、おできはどんどん大きくなって、モッピも重たくて首かしげてるんだよ。そこから膿も出てきて…そしたらハエがたかったんだねーウジ虫が出てきたから、びっくりして、消毒して虫をほじくり出したんだけど…あとどうしてやったらいいんだか…暑くなってきたから、心臓もハカハカして、息苦しそうで、可哀想で見ていらんないんだよ~」と言うのです。
次の不妊予防センターの開院日、モッピとおばちゃんを迎えに行って、獣医さんに診てもらいました。おばちゃんの迅速な対応でウジ虫はもう全滅しており、流れ出る膿も毎日消毒して、包帯が巻かれていましたが、スタッフ一同、ガンの予想以上の大きさに仰天しました。そして、やはり、心臓はかなり弱っていて、暑さが厳しくなってきたところだったので、息苦しく、食欲も落ちていました。その日の診断では、「今、手術するのは危険」ということで、抗生剤の注射と内服薬、消毒薬を渡されて終わりでした。
それからの私は、おばちゃんとモッピのこれからを考えると…悶々と重苦しい不安を抱えて日を過ごしました。「日に日に増大するガンの重みに、やがてモッピは起き上がれなくなり、化膿して血膿を流して…悲惨な状態になっていくだろう。おばちゃんも介護疲れと、そんなモッピを見るのが辛くなり…早く死んで欲しいと願うようになるかもしれない…。幸せだった14年余の日々が、惨めな最期で、思い出したくもない心の傷にならないだろうか…」と。

 

日に日に大きくなっていくガンの重みに、首をかしげていたモッピ。

日に日に大きくなっていくガンの重みに、首をかしげていたモッピ。

 

ガンは1年越しで1キロにも成長していた。

ガンは1年越しで1キロにも成長していた。

 

 


 

【 転機到来~追い風が来た! 】

9月、避妊予防センターに新しい獣医さんがやってきました。ここができたばかりの頃にも、研修医で来たことがある女医さんで、前向きで責任感の強い人でした。今では立派な先生に成長して、特に外科が得意だと聞きました。私はこの先生に、モッピを診てもらいました。数週間でもいいから、ガンを切除したモッピとおばちゃんの生活を取り戻して欲しかったのです。おばちゃんも「モッピ、もっと早くに死んでしまうのかと思ったけれど、この暑い夏も生き抜いたよ。苦しいだろうに頑張って生きているから、何もしないで死ぬのを待つことできない。もしも手術途中で死ぬようなことがあっても、こんな《出物》を取ってからあの世に送ってやりたい」と言うようになったからです。

心臓はかなり弱っていました。内蔵機能の血液検査をすると、腎臓の数値も気になりましたが…先生は手術を決断しました。リンパ節の腫れも大きく、すでに体のあちこちに転移していることも予測されました。真夏の暑さも過ぎ、モッピも呼吸がいくらか楽になり、食欲も出てきました。今、手術しなければ、もう機会はないのです。

こうして、9月4日、モッピは4時間に及ぶ大手術を受けました。取った腫瘍は1キロもありました。体重10キロの犬の1キロですから、想像を絶する重荷でした。モッピは、見上げた生命力で大手術を乗り切リました。無事覚醒した時の喜びは、私の中の大きなプロジェクトの第一関門突破でした。ICUに入れて酸素を送り、その夜、24時間点滴できる自動点滴機を付けて、家に送り届けました。
必要な医療器材を揃えることができるのも、この病院を応援してくれる方々からの寄付金のおかげです。いつか、レントゲン室を備えることができれば、いろんな診断が可能になります。
それから3日間は1日に3回モッピの家に通い、傷の消毒や、痛み止めや抗生剤を投与しました。頭にのしかかっていたおもりから解放されて、身軽になったモッピは、手術翌朝には、自分で庭に出てオシッコして来ました。3日目には点滴のラインを噛み切り、「私がご飯食べている間に血まみれになっていた~、早く来て~」と、おばちゃんが泣き声で電話をよこしました。駆けつけたら、モッピはケロッとしておやつを食べていたので、点滴はもう必要ないと、外しました。ガンと一緒に左耳も落とし、耳が1つしかなくなったモッピは、何だか愛嬌のある顔になりました。

 

 

大手術を終えて、生還したモッピ。

大手術を終えて、生還したモッピ。

 

身軽になって、大好きな庭に帰ることができたモッピ。

身軽になって、大好きな庭に帰ることができたモッピ。

 

オバサンがモッピの好物ばかりを用意してくれた。

オバサンがモッピの好物ばかりを用意してくれた。

 

抜糸も済み、穏やかに暮らすモッピ。この幸せができるだけ長く続きますように…。

抜糸も済み、穏やかに暮らすモッピ。この幸せができるだけ長く続きますように…。

 


【 不妊予防センターの課題 】

『どの子も必要な医療を受けられる動物病院』の必要性を痛感し、2008年4月~、仙台市の若林救急動物病院の協力を得て、『不妊予防センター』を開院しました。飼い主がいる犬や猫からいただいた収益で病院を運営し、寄付金を助成金として、誰もお金を出してくれる人のいない犬や猫に回す、あるいは、経済的に苦しい飼い主には、低額設定の支払いをさらに分割払いにしたり、車がなければ送迎協力もする、特定非営利法人の共済病院として、小さいながら週に2日開院してきました。

震災後は、被災動物が溢れていました。年齢もこれまでの生活も分からない犬や猫を保護してくれた方々の中には、その子に糖尿病や腎臓病などの慢性疾患があることがわかって、高額な治療費に途方に暮れていた方もいました。また、津波を逃れて高台に逃げて生き延びた猫や倒壊家屋を住処とした猫が繁殖して増えている、という話があちこちから聞こえてきました。
自らも被災者なのに、飼い主とはぐれた犬や猫を見かねて保護してくれた方々が「思いやりを後悔しないように」、低価格で治療する事ができきて良かったです。また、せっかく生き延びた命なのだから、ここから不幸の種が増えないように、猫たちを捕獲して、避妊・去勢手術とワクチンを施しました。エサを与えている人に、「無料で手術する代わりに、この先も世話して見守る」ことをお願いしました。人なれしている子には、里親を探しました。

震災から4年半経ちますが、被災地には生活困窮者がまだ多くいます。心の病の人も、以前より多いです。不安定な人に翻弄される動物たちの相談が後を絶ちません。不妊予防センターのニーズは高いのですが、スタッフを派遣してくれている動物病院が人手不足となり、昨年12月より、余儀なく週1日だけの開院となってしまいました。そうなると、普通にお金が払える飼い主さんの多くが、毎日やっている動物病院に移ってしまうのは仕方のないことです。不妊予防センターを頼って来るのは、普通に費用を払えない人達です。その結果、「忙しいが、収益は上がらない」ことになります。
何匹も無料で避妊・去勢手術を受けた上に、「風邪を引いた」、「ケンカしてケガしてきた」と何回も来る《常連さん》がいます。「少しずつでも払って」とお願いしたら、一度千円札一枚よこしたきりで、二度目に言ったらしばらく来なくなり、次に来た時に連れて来た猫は死にかけていたので、もうお金の請求は止めました。感謝しているのは嘘ではないと思うし、支払うお金がないのも本当のようです。「今まではしょっちゅう死んでいた。病院に来れば助かるんだね…」なんて、《国境なき医師団》に救われた難民みたいなことを言っています。《払いたくてもお金がない》人とは、普通の動物病院では出会いません。しかし、そういう人の側にも動物はいるのです。「飼う資格がない」と言われようとも、動物は飼い主を慕い、病気にもなるし、そのままにしておけば、子供を生んで増え続けます。医療が必要なのです。
開院日の度に、そこで助けられる命のドラマが繰り広げられています。かつては人間にも「お金のない人は、病気になっても治療を受けられずに死んでいく」時代がありました。《小石川養生所》のような役割を果たす動物病院があってもいいと思います。そこで《生かした命》が、動物にも『慈善病院』の必要性を実証してくれると思います。何とか、この、社会からはじき出されてしまう動物達にも手を差し伸べられる、小さな病院を続けていきたいと思っています。

「信念は誠に立派。しかし、理想通りにはいかないのが現実なんですよ」これは、不妊手術の助成金制度やペット条例の制定を求めた度に、議会や役所で、繰り返し言われた言葉です。不妊予防センターも、今、まさにそんな理想と現実の波間にて、転覆すまいと必死の舵取りをしています。
医師不足の離れ孤島の診療所と同じ状況なのです。医療スタッフを派遣してくださっている病院本体に余裕がなくなれば、消滅してしまうかもしれません。どこかの財団とか、企業がスポンサーになって、医療スタッフを派遣してくれたら良いのに…とか、どこかで勤務している獣医さんが石巻市に来て、《アニマル版ドクターコトウ》になってくれないかな~なんて想像もしますが…他人の力を借りなければ実現しない夢は、見たら忘れることです。運が良ければ、いつか目の前に道が広がります。

 


 

【 さよならさんちゃん、また来たうにちゃん 】

9月始め、避妊したい親の代わりに捕獲器に入って、日和山からまた1匹子猫が来ました。けれど、今度は「母親が育児放棄した、いつまで経っても大きくならない子猫」と言ういわく付きでした。グレーの綺麗な女の子でしたが、確かに紙切れみたいに痩せていました。太陽の光を受けて幸せになって欲しいから『さんちゃん』と名づけました。
さんちゃんは、何を与えても、ペチャペチャと舐める程度で、他の子猫のように動き回ることもありません。獣医師は「体力がないんですね」と抗生剤の注射を1本してくれましたが、翌日には全く動かなくなり、食べられなくなったので、自分のベッド脇にケージを運んで見守りました。
掃除機がけなど午前中の掃除を終えて戻って行くと、さんちゃんは死んだように横たわり、体温がすっかり下がっていました。暖房を点け、ホッカイロで体を暖め、抱いていました。このまま死んでいくのだと思っていました。小さな体の薄っぺらいお腹の中から、ゴロゴロギューギューと大きな音が鳴り続けていました。何か重い病気に内臓が制圧されているのだろう、と想いながら、命の最期につき合う覚悟でした。「野良猫の子供の何割かは、こんな風にして、人知れず、何の幸せも味わうことなく死んでいくのだろう」と感じながら…。

折しも、我が家の老猫がまた死にかけていました。《三婆》の異名にふさわしく、ちょっと妖怪っぽくなりながらも、《お茶目な19歳》だった『キャラ』が8月16日の夜、盆の送り火を焚くと間もなく息を引き取りました。キャラには、震災の年の12月に、忙しくて手をかけられないまま19歳で亡くなった『ピョンタ』という《恋人》がいました。だから、「お盆に帰って来たピョンタの霊が、キャラを連れて行ったのかな~」と想いました。
そして、さんちゃんがアニマルクラブに来た頃には、『ペタ』がいつ死んでもおかしくない状況でした。ペタもキャラと同じ位の年齢になっていたと思います。1歳年上の母猫『グリ』も7月末に亡くなったばかりでした。この親子は、「刑務所に入っている元の夫が間もなく刑期を終えて出所してくるから、その前に県外に逃げたい」奥さんから老犬と共に引き取ったのですが、《怖い人》なのかと想ったこの旦那さんから、後日「もしかしたら、うちの犬と猫の行方を知りませんか?」と連絡が来て、気の毒になって「元気に暮らしていますから、ご心配なく」と、居所は教えずにそれぞれの写真を送ってあげました。そしたら、お金が送られて来たのです。「この子達が愛されてなかったわけではない、忘れられてもいなかった…」ことにほっとした一方で、《犯罪者となり、家庭を崩壊するような生き方》を身近なこととして、切なく感じました。5000円が2回送られて来た後で、「あの子達のためにも、お金は自分の生活を立てるために使って、同じ過ちを繰り返さないで欲しい」と伝えました。もうあの男性、そしてあの子達を私に託した奥さんとも連絡を取る術はないけれど、もしかしたら…アニマルクラブのホームページを見ているかもしれないと思えば、犬の『ラッキー』も含めて、どの子も持てる命を精一杯生きたことを、伝えたいです。
「まさかペタより先にさんちゃんが死ぬなんて…」と思いながら、抱いて体をさすっていたさんちゃんのお腹の音が治まり、体温が戻ってきました。首を上げて、私の顔をじっと見上げていました。
何がどうなったのか分かりませんが…9月11日の午後から、さんちゃんは、元気になったのです。これまでとは全く変わって、ごはんを完食して、少し経つとまた欲しがって鳴くのです。特に茹でた鶏肉が好きで、とても美味しそうに食べて、食べていることが楽しそうでした。甘える仕草も見せるようになり、抱っこすると、胸にぺたんとくっついてきました。
さんちゃんは食欲旺盛になり、大きな声で請求しました。この時たまたま家に来た人は、さんちゃんを普通の元気な子猫だと思っていました。一方ペタはいよいよ歩けなくなり、それでも前日までごはんも食べて、14日、静かに眠りながら呼吸をしなくなりました。
花で飾って、埋葬の準備をして終わると、その夜からさんちゃんの食欲が落ちました。大好きにな鶏肉も食べようとしても、食べられないのです。不吉な予感がしました。翌朝、さんちゃんは、再び倒れました。今度は体の中を病魔が突き抜けたように…首をのけぞらせて、意識もうろうとしていました。抱っこすると、かすかに目を開けて私を見ていました。せめて最期に体を横たえる場所が冷たく硬い所でないように、せめて最期に見る景色が自分を襲って来るカラスなどてはなくて、母さんの代わりであるように…もうそれしかしてあげられませんでした。《奇跡の三日間》を生きて、さんちゃんは、波乱万丈な二十年近くを生き抜いたたペタの翌日に、この世を去りました。
日和山には、まださんちゃんの兄弟がいると聞き、餌を与えているおばあさんになついたら、引き取ろうと思いました。でも、風はいつも、私の予測とは違う方向から流れてきます。

 

まもなく《恋人》のところへ旅立つ『キャラ』を見守る《三婆》の『ムー』。今はこの子しか残っていない。

まもなく《恋人》のところへ旅立つ『キャラ』を見守る《三婆》の『ムー』。今はこの子しか残っていない。

 

《三婆》の『ペタ』は、毎日吐いて皮下点滴して頑張ったが、最後は眠るように母親の元へ逝った。

《三婆》の『ペタ』は、毎日吐いて皮下点滴して頑張ったが、最後は眠るように母親の元へ逝った。

 

美形で愛らしかった『さんちゃん』。一口食べるごとに嬉しくて、何とか生きて欲しいと願ったが…。

美形で愛らしかった『さんちゃん』。一口食べるごとに嬉しくて、何とか生きて欲しいと願ったが…。

 

《奇跡の三日間》を生きて力尽きたさんちゃん。痛ましい小さな命の記憶は、社会への警鐘だと感じる。

《奇跡の三日間》を生きて力尽きたさんちゃん。痛ましい小さな命の記憶は、社会への警鐘だと感じる。

 

アニマルクラブに毎日のように来る、捨て猫や野良猫の相談。雨が続きやっと上がった9月19日のこと、「私はペット禁止のアパートに住んでいるので、可哀想な動物を見ても見ない振りしてきましたが、昨日はびしょ濡れになった子猫を見てしまい、このままでは死ぬと思い、保護してしまいました。病院に連れて行き、仕事中は車に乗せて連れ歩いています」というメールが気になり、電話をかけてみました。
生後1ヵ月ほどの子猫は頭に傷跡もあり、動きも悪いようです。食欲もないというので心配になり、翌日、預かることにしました。保護した人が、自分にできることはする人だと感じたからです。家に猫を連れて来たのは、やはり真面目そうな青年でした。「車で走っていると、心配な猫を見かけてしまって…」と言い訳するので、前に出会った猫のことも聞いてみたら、ちゃんと対処していました。「見て見ないふり」なんて、してはいなかったのです。「いつも助けている」と公言している人の方が、よっぽどいい加減だと感じます。一つの命を救うことだって容易でないことは、私がよく知っているからです。
彼は子猫に想いを残しながら、何回も頭を下げて帰って行きました。「また会いに来てくださいね」と声をかけると、「かかった費用はお支払いしますので、言ってください」と、誠実な人でした。そして、彼が帰った後で、いただいたお土産を開けてびっくり、玉手箱でした。生ウニ、塩ウニ…高価なウニのオンパレード。真っ黒な子猫は、その瞬間に『うに』くんと命名。嬉しくても、生の魚貝類が一切食べられない私は、協力者の方々に配ったり、送ったりしました。「世の中、私達に押しつけるずるい人ばかりじゃないよ~、自分にできることは精一杯やる若い人もいるよー」って気持ちを届けたいと思いました。
うにくんは何らかの事故に遭ったのか…来た当初はふらつきもあり、食欲もありませんでしたが、次第に食欲も出てきて、みるみる大きくなりました。活発に走り回るようにもなりました。

 

食べて育って、ケージの中で《ひとり運動会》しているうにくん。お兄さんが望む「一生を託せる飼い主さん」募集中。

食べて育って、ケージの中で《ひとり運動会》しているうにくん。お兄さんが望む「一生を託せる飼い主さん」募集中。

 

来て1ヵ月が経ち、最初のワクチンを受けてほっとしていたら、日和山の野良猫にエサを与えているおばあさんから、電話がありました。

「さんちゃんの兄弟がなついてきたのに、急におかしくなったから、病院に連れて行ったら、パルボにかかっていて、もう虫の息だ」という、やり切れない知らせでした。
これまで20匹以上避妊・去勢手術をした地区で、1匹もエイズ・白血病の陽性反応もなく、のんびり構えていましたが…「最近新しい猫が何匹か入って来た」とおばあさんが言っていたっけ…。パルボの伝染力は、恐怖映画のようです。子猫は全滅かもしれません。次に捕獲器を仕掛けるのも、慎重に見定めなければなりません。折しも「エサをやるから、野良猫が増えて鳴き声や糞害で大迷惑。一切エサやりを禁止する。」という手紙が、このおばあさん宅に投げ込まれたことも聞いていました。無記名の投書には揺るがない、強気なおばあさんですが、可愛がっていた子猫の死はどんなにかショックでしょう…。「野良猫を大事にすると、周りはみんな冷たい」といつも言っています。強引で切り口上なのも、常に世間から野良猫達を護る盾になっているからかもしれません。
もう80歳を過ぎています。この人が健康を害したら、あそこの猫たちはどうなるのか…野良猫はいつも《一寸先は闇》の今日を精一杯生きて、その命はいつも《風前の灯し火》です。社会にもっと、この生き様を知らしめて行かなければならない、と考えています。仙台市在住の女性弁護士さんグループと、仙台市内の繁華街でパネル展などを開催しながら、一般市民に、野良猫のこと、地域猫という策を知らしめていくことを企画しています。

冬に向かう季節のお便りの最後は、朗報で締めたいと思います。春の活動報告で紹介した、仙台市の動物愛護団体が、現在では90匹も抱えながら、シェルターにしている借家を出なければなくなり…一時はどうなることか蒼くなりました。でも、やっぱり《正義の味方》はいました!昨年、津波被害のまま放置されていた廃屋取り壊し現場で発見された、《シラミ兄弟》の1匹『コキタ』改め『トラジロウ』の里親になってくれた新聞記者さんが書いてくれた河北新報の記事と、我らがフジコ・ヘミングさんのお陰で寄付が集まり、いよいよ郊外に中古住宅を購入できる運びになったそうです。
もう一つ、書き始めた時に、気になっていた、最近、ゴミ収集日に網が掛けられた生ゴミの周りをうろついていたやせ細った白い猫も、ゴミ置き場前に設置した時は空振りでしたが、トイレにしている家庭菜園を突き止めて、捕獲器を置かせてもらい、キャッチしました。すっかり黄ばんでヨレヨレだったので、リフレッシュするように『レモン』と名付けました。レモンちゃん、避妊手術のためお腹を開けたら、なんと手術済みでした。人に飼われていたから、エサの取り方も分からず、ウロウロするばかりだったのかもしれません。お腹切ったおかげで腸間膜リンパ節が腫れていることも分かり、ガンも疑われたので組織検査に出しましたが、セーフでした。飼い主に捨てられたのか…、出て来て帰れなくなったのか…、何も語れないから、マイクロチップの普及をいっそう痛感しました。

 

ゴミ収集日の網の中にいた『レモンちゃん』。飢餓感が身についているみたいで、食い意地は凄い!

ゴミ収集日の網の中にいた『レモンちゃん』。飢餓感が身についているみたいで、食い意地は凄い!

 

これからも、一日中やることに追われ、途中で寝てしまい、色々忘れたり失敗したり…、そんな日々を積み重ねていくしかできません。が、いつか撒いた種が風に運ばれて芽吹き、思いを共有できる人達のマンパワーが育ち開花していくことが、キャリアウーマンにもなれず、妻としても母としても落第生だった私の人生の本懐です。

 

2015年10月24日  記

 

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《号外!モッピ速報》
あれから1ヶ月半が過ぎました。リンパ節の腫れはますます大きくなり、顔のあちこちからイボが出て、日に日に大きくなっていきます。おとぎ話ではないので、モッピは今もガンと闘っています。しかし、その重みでモッピの首を曲げ、血膿を垂らしてハエを呼んだ、あの《出物》を取り去ることができたから、昔のように…庭に出て日向ぼっこしたり、縁側でお昼寝したり、茶の間でおばちゃんとご飯を食べたりする普通の暮らしを取り戻すことができました。

 

おばちゃんが牡蠣の殻剥き作業に出た途端にダウンしたモッピ。いよいよお別れの時かと涙ぐむが…。

おばちゃんが牡蠣の殻剥き作業に出た途端にダウンしたモッピ。いよいよお別れの時かと涙ぐむが…。

 

もう体中イボだらけ。リンパ節の腫れも一段と大きい。私も毎日朝夕《往診》、ご近所さんも協力してくれる。

もう体中イボだらけ。リンパ節の腫れも一段と大きい。私も毎日朝夕《往診》、ご近所さんも協力してくれる。

 

また外に出てオシッコして来るまでに回復!命が持つ可能性を実証してくれるモッピ。

また外に出てオシッコして来るまでに回復!命が持つ可能性を実証してくれるモッピ。