雪穴から春を乞う

反省と後悔を糧にするために…

 

 前回秋の石巻での上映会のことを書いた頃が、遠い昔の幸せのように感じられます。年末から支援者の皆様に、重ね重ねのご無礼をお詫びしながら『動物たちの大震災・石巻篇』のDVDを送る作業をしていました。最初の1ヵ月余りは、お1人お1人を頭に描きながら手紙を書いて、チビリチビリ送っていました。楽しい時間でした。折しも、16年間連れ添って『お父さん』と呼んできた『団蔵』の命の残り火がいよいよ消えそうになってきたので、できるだけ家に居たい気持ちもありました。それと同時に、後ろめたさの穴埋めでした。お礼が遅れるのはいつものことでも、震災前なら、会ったことがなくても把握できていた支援者の方々のお名前を、私が認識していない事実にあ然としてしまったからです。震災があって、ボランティアさんも変わりました。混乱していたから、私は専ら電話やメールで次々来る相談への対応と避妊予防センター業務に追われ、アニマルクラブにいる猫と犬の世話や、物資やお金の寄付の受け取りや、記録は他の人に任せきりでした。お名前と住所が並ぶ一覧表を見ても、「誰に何をいただいたのか分かっていない」で飛び越して来た年月を反省して、自筆で手紙を書きたいと思ったのです。

 でも、現実は私が願うほど穏やかに流れてはいきません。色々なことがありました。乗り越えて『試練』としなければならないことばかりでしたので、私はどぎまぎしながら、虚勢を張って大きく構えて、大切なことを見逃して迂闊な判断をして…随分摩耗してしまいました。口から出る言葉は全て空虚に思えるほど、疲れました。だから、残っているDVDの数だけお手紙を印刷して、昨日、郵便局から発送して来ました。次にDVDが焼き上がってくるまでに、活動報告を書いて、頭の中を整頓して、進むべき道の雪を払って、春の日差しを受けるためにです。

蜜月でした

 

 このホームページの『ほんかわ~本当にあった可愛い話』の『幸せになった猫DANZO』が、1月31日に亡くなりました。交通事故から日数が経ち、腐れた後ろ足としっぽを泥だらけの雑巾のように引きずっていた頃に出会った時、「5、6歳にはなってるだろう」と言われた野良猫でしたから、もう20歳以上になっていたと思われます。震災で1階が津波被害を受けて、2階の三畳足らずの納戸で12匹と寝起きしたスタートから、収容頭数が増えて別々の部屋で寝ざるを得ない生活になり、「また団ちゃんと一緒に暮らせる部屋を持つ」のが、私の《復興》の目標でした。一昨年近所に借家を借りて、老猫や病気持ちの猫達と共に引っ越して、その願いは叶いました。

 その後、団蔵は腎機能低下に加え、痴呆症状が進み、あちこちで排泄して、食べ物をくれと鳴き続け、異常な食欲にも関わらず、体重1.7キロにまで痩せました。生きようと必死だったのだと想います。年末から何度か死にそうになりながら持ち直し、そして、最後の1ヵ月は『智恵子抄』の如く、『こういう命の瀬戸際に団蔵は、元の団蔵になり…』元の賢くて穏やかな団蔵に戻って「抱っこして」と甘え、歌を歌ってとせがみました。
好きな歌は、さすがにシブく、秋元順子の『愛のままに』でした。私は長年スナックのママをやっていましたから、カラオケのレパートリーはある方ですが、現役の時は全く唄ったことはない歌でした。なのに、不思議にも、団蔵を見ていたら、うる覚えのこの歌が出てきたのです。ふっと、この歌が好きで「ママ、唄ってけろ~」と言われたのに、「今度覚えたらね~」と一度も唄ってあげられないまま、津波で亡くなったお得意さんの顔を思い出しました。「あ~この世に生まれて巡り会う奇跡~全ての偶然はダンゾへと続く~」と唄うと、団蔵はうっとりと私を見上げて聴いていました。言葉はわからなくても、込められた想いが伝わるのでしょう。そして、団蔵の死を経験して、私は、この歌の「愛が愛のままで終わる…」という歌詞も実感しました。残念ながら、人間に対しては一度も持ったことのない感情でした。
また、後ろ足のない団蔵を、ガンで前足を失った『トラ』が付きっきりで介護してくれました。人間にはとてもそこまでできないことですが…歯茎に膿が溜まって頬に穴を開けて抜いた傷口まで…トラは躊躇なく丹念に舐めて、洗ったようにきれいにしてくれました。眠る時は、他の猫たちも団蔵の周りをぐるりと囲んで…守っているかのようでした。
食は細りながらもギリギリまで食べ続けていた団蔵が、飲み込むとケイレンを起こしたように顔が引きつり、とうとうミルクさえ受けつけなくなり、いよいよ危なくなってきました。避妊予防センターの日、団蔵をキャリーバックに入れて待合室に連れて行きました。受付カウンターの内側の足元に小型ヒーターを点けて起くと、私の仕事が終わるまでじっと待っていました。そして、その2日後、団蔵は、隣にいたのに、いつ事切れたか気づかないほど、静かな最期を迎えました。小さな命の痛ましい惨事を、日常茶飯事のように見聞ききする私にとって、団蔵の生涯は《命が持つ可能性》と《納得いく命の終わり》があることを教えてくれたような気がしました。

最後の一緒の写真~「僕の好きな歌を唄って、お母さん」。

最後の一緒の写真~「僕の好きな歌を唄って、お母さん」。

 

毎日丹念に団蔵を舐めてくれたトラ。死んですぐは怖がって近寄らず、しばらくすると、亡骸をまたいつまでも舐めていた。

毎日丹念に団蔵を舐めてくれたトラ。死んだ時も一瞬怖がって近寄らなかったが、しばらくすると、亡骸をまたいつまでも舐めていた。

 

 

団蔵が眠るとトラ、ペタ、ムー、ミミオのシニアチームがぐるりと囲んで護衛した。

団蔵が眠るとトラ、ペタ、ムー、ミミオのシニアチームがぐるりと囲んで護衛した。

いない所で死なせたくないと、避妊予防センターに同伴出勤した、死の2日前。

いない所で死なせたくないと、避妊予防センターに同伴出勤した、死の2日前。

 

 

避妊予防センターの問題

 

 医療スタッフを派遣してくれている動物病院の人手不足により、12月から週1回だけの開院となってしまった避妊予防センターは、一月半先まで予約が埋まっているのに、妊娠の可能性があったり、仮設や集合住宅で発情期が始まってしまい、手術を待っていられない相談も来て…スケジュールの算段に四苦八苦しています。外来が混んだり、避妊以外の飛び入りの手術で深夜にまで及ぶ日もあり、先生達には合間にお弁当を食べてもらいますが、私はスタートからラストまでノンストップで、水筒のお茶も飲めない日もあります。

 最大の不安は、11月までは余裕のある日に、捕獲器を仕掛けて捕まえた野良猫に、避妊・去勢手術を施して、風呂場の特設病棟で10日間観察後に、元居た場所に放していた《地域猫推進活動》が全くできなくなったことです。震災の時、被害が甚大だった門脇や中央の猫が一斉に登ったとも噂される日和山には、たくさんの野良猫がいます。相談を受けているだけでも3エリアあり、このままでは春にまた不幸な命が量産されてしまいます。
「早くスタッフを補充して、週に2日開院してください」とないものねだりしても埒は空かないから、お金を払って、系列病院の空きのある時に手術してもらうことと、休日にアルバイトとして、避妊予防センターに来て手術してくれる獣医さんを、探してもらうことをお願いしました。
私が離婚の慰謝料にもらった家がアニマルクラブのシェルターになり、フジコ・ヘミングさんのお力添えをいただいて、敷地内に避妊予防センターの建物を建て、設備を揃えました。フジコさんの祈りと私達の願いが結実して、「助けを必要としているどんな子でも、治療や手術が受けられるように…」とできた動物病院です。ニーズがあるのに、スタッフが足りないために望む展開ができないのはやるせないです。ここで働いてくれる人がいれば、できることはもっともっと広がるのに…、私は人生でもう、そういう志を行動に変える獣医さんと出会うことはないのでしょうか…。

白い猫と黒い猫の教訓

 

 1月22日のことでした。いつも6時に起きて5頭の犬の散歩から始まり、自宅にいる13匹の猫に食べさせて掃除して、駆け足で避妊予防センターに行くと、もう待っている人達がいて、スタートラインの前でタスキを渡されるようにして、1日が始まります。10時~11時は、手術の予約を入れている人達が次々来るから、早送りモードの応対・説明・手術室に送り出す準備が続きます。
バタバタの真っ最中に、エサを与えている野良猫の避妊手術を予約していたTさんが顔色を悪くして入って来るなり、「猫に逃げられてしまって…」と言うのです。彼女は体に障害があり、いつも家族か友人の車で来ます。それが、「息子の都合が悪くなって、自分で運転した来た」と言いました。私は彼女が運転できるとは思っていませんでした。しかも、いつもなら待合室の前ギリギリまで車で入って来るのに、「運転下手だから、駐車場に置いて来た」そうです。そして、「別な猫も診てもらいたいから、キャリーを1つ知り合いから借りて入れて来たら、ドアの留め具が壊れていて、車から降ろした途端に、ドアが開いて逃げ出した!」と言うのです。私はいつも前日に、手術を予約されている方々に電話して、「何か変わりはありませんか?」と確認します。彼女とも昨日電話で話したのに、何も聞いてはいませんでした。うちのボランティアさんも手伝って捜しましたが、見つけられず、彼女は「薬を飲む時間が来た」と、一度帰って行きました。
夜になって、ご主人とまた捜しに来ました。杖をつき、支えられながらも足が震えていたので、この人の体も心配でした。「協力的な夫や息子がいるのに、なぜ1人で出て来たのか?」「送迎する事だって可能なのに、なぜ私に相談しなかったのか?」「前から臆病だと言っていた野良猫を、なぜネットにも入れずに借り物の壊れた容器で運んだのか?」…不可解に思える彼女の行動は、「ヘンな声で鳴いていたから、妊娠したと思って…これ以上は面倒見れないから…」という思い込みから、居ても経ってもいられなくなった衝動的な行動のようでした。
Tさん宅は車で30分以上離れていますから、『白猫ロロちゃん』の捜索は、私達の日課となりました。ポスターを貼り、チラシを配布して、「見かけた」という情報が寄せられたお宅の庭に捕獲器を設置させてもらい、日に何度か餌を交換しながら通い、懐中電灯を持って《こそ泥》みたいに、深夜や朝方も見に行きました。雪の舞い散る日も、凍結した路面で滑って転んだ日もありました。暗闇に浮かぶあらゆる白い物がロロちゃんに見えました。ロロちゃんが入ってなくても、捕獲器に他の野良猫が捕まっていたら、気の毒だから通いました。そしたら、タヌキが入ってウンチをしていたこともありました。
震えながらの《こそ泥道中》の行き帰り、私は、こちらがこれで良いつもりの確認が、必ずしも相手の気持ちを引き出しているとは限らないことを痛感していました。そのために犠牲になるのは、動物たちです。手術を受けるためにここに連れて来られた猫が、しかも手術も受けないまま…寒空の下で、食べることもできないでいるとしたら死ぬかもしれないし…命がつながれば、野良猫を生んで増やしてしまう…行方不明にすることのリスクを、まさに肌でピリピリ感じる2週間余りでした。
タヌキの脱糞を機に替えてみた捕獲器に、ウインナーソーセージを入れたタイミングで、ロロちゃんは捕獲器に入ってくれました。大きなケージに移してそのまま、その日の夕方には、無事にTさん宅に運ばれたロロちゃんは、これからは家の中で飼ってもらうことにしました。肩の荷降ろしてホッとしていたら、「元気だけれど、健康診断してください」と2日後、ロロちゃんは避妊予防センターに連れて来られました。Tさん夫婦は赤ちゃんを授かった若夫婦のようにはなやいでいました。そして、上機嫌のご主人は、車の中でロロちゃんを出そうとして、私に止められました。あんなことがあったばかりなのに…お人好しの無防備な衝動の波紋を受けて風邪を引いた私は、《悪気ない罪》を水際で止める施策が必要だと思いました。

逃走から18日後、やっと捕獲器に入ってくれたロロちゃん。

逃走から18日後、やっと捕獲器に入ってくれたロロちゃん。

 

すっかり痩せて、すすけ汚れていましたが、元気で何より。雪が積もった日は、気が気ではなかった。

すっかり痩せて、すすけ汚れていましたが、元気で何より。雪が積もった日は、気が気ではなかった。

 

そして…その翌日には、耳を疑う電話がかかって来たのです。先週の木曜日に手術したHさんからでした。手術の2日後に「ごはんも食べずに鳴いてばかりいて心配だから、病院に連れて行きたいけど、部屋を逃げ回る」と相談されて、お宅に伺って洗濯ネットに入れてあげました。「お陰様で痛み止めの注射をしてもらって、帰ってきてからは食べています」と連絡もらってホッとしていたのに、Hさん、今度は「この子、うちのクロちゃんと違うような気するんです。今日、手術着脱げてしまって、そしたら、うちのクロはお腹も真っ黒なのに、この子は茶色っぽいんです」と言うのです。私はハッとしました。先週手術した猫の中に、真っ黒の雌猫が2匹いたからです。前述の通り大忙しなので、手術室から戻って来た猫とカルテが違っていることがたまにあり、いつもは毛色の項目で「これ、カルテ違っていますよ」と気づくのですが…、「黒と黒が続いたら、気づかなかったかも…」と思い当たったのです。なるほど、だから鳴いてばかりいて、Hさんに捕まらなかったこともうなずけます。野良猫の子供で、元々人なつこくはないという先入観で、変だと思わないで見過ごしていました。
すぐにもう一方の黒猫の飼い主Oさんに電話をしました。事情を話すと、「んだすぺー、おかしいなと思っていたんです。仲良しの兄弟猫さフーフー怒るから、手術したせいなのかな~と思ってた。好きなミルクも飲まないし…」と言うのです。Hさん宅に寄ると、まだ《偽クロちゃん》をキャリーに入れかねていたので、洗濯ネットで捕まえて、一緒にOさん宅に向かいました。Oさん宅の『リリちゃん』も昨年生まれの野良猫の子供で、元々人見知り。よく似ていましたが、本当の飼い主には、応える声が違いました。手術からすでに5日目…猫には本当に申し訳ない《取り違え事件》を起こしてしまいました。HさんもOさんも子猫を保護した時から相談に乗っていた方なので、笑って収めていただきましたが…二度とあってはならない間違いです。次の開院日からは、手術する猫を入れるケージに名札を付けて、明示することとしました。そして、もう一つの教訓は、「思い込みで片付けない。少しでも変だと感じたら確認すること、相手も遠慮なく申し出られる状況を作る」ことです。

我が家に帰って見慣れた景色に安堵するクロちゃん。

我が家に帰って見慣れた景色に安堵するクロちゃん。

 

「やっぱり、お家はくつろぐわぁ~。私達は言葉が話せないんだから、気を付けてよね!」(byりりちゃん)

「やっぱり、お家はくつろぐわぁ~。私達は言葉が話せないんだから、気を付けてよね!」(byりりちゃん)

 

 

震災以来の大失敗

 

 ここ数日、私は突然の死に追いつけなかった心の葛藤に苛まれています。団蔵をあれほど心を込めて送ったのに、突然の病に倒れた『チップ』を誰もいない動物病院のケージの中で、しかもとても苦しんだ様子で死なせてしまったのです。
奇しくも私の誕生日に日付が変わった頃が始まりでした。いつものように、夜の見回りにアニマルクラブへ行きました。交通事故と熱中症の後遺症で盲目で脳障害の猫の『ニャーゴ』が踏み散らかしているウンチやオシッコのシーツを片付け、中型犬にオシッコさせる短い散歩をして、小型犬の部屋へ行ってトイレシーツを交換して、頸椎損傷で体が動かないチワワの『むう』に水を飲ませます。その後、猫の各部屋を回って暖房の再セットをして、最後にプレハブの2階の部屋へ上がって確認するコースです。ここだけエアコンが付いて、見晴らしもよく、本当は私が寝るつもりで入れた立派なベッドも置いてある、一番快適な部屋です。
通称《チップ部屋》の部屋長『チップ』は、誰にでもお腹を見せてゴロゴロする甘えん坊ですが、6年前のお盆に、今は津波にさらわれてなくなった《濡れ仏観音様》の足元にいました。放浪して緩くなった首輪が脇の下に回り、食い込んで血膿を流していたのですが、近づくと逃げるので、捕獲器にチクワを入れて捕まえました。脇の下の深い傷は繰り返し開いて、完治までに半年かかりました。その頃にはすっかり丸々と太って温厚になり、子猫の面倒見も良く、仲間外れだった『クリオ』にも優しく、みんなとの間を取り持ってくれました。

観音様の足元にいた頃のチップ。

観音様の足元にいた頃のチップ。

 

穏やかなお利口さん同士、団蔵とも仲良しだった。

穏やかなお利口さん同士、団蔵とも仲良しだった。

 

誰からも愛された、可愛くて甘えん坊だったチップ。

誰からも愛された、可愛くて甘えん坊だったチップ。

 

その夜、部屋に入った途端、トイレの中に横たわっている猫が見えました。灯りが点く前にチップだとわかりました。ただことではないことがすぐにわかりました。体が異様に膨らんでいました。そして、抱き上げと、なんと足先の冷たいこと。ペットヒーターの上に乗せ、エアコンの温度を上げて、足先をさすりました。夕方まではいつもと変わりなかったのに、何が起きたのか…命に関わる重い病気に違いありません。朝まで持つだろうか…私はすっかり動転してしまいました。これまでに見たことのない症状だったからです。チップは時折大きな声を上げて鳴き続けました。とても痛いのだろうと分かりました。ただ名前を呼んで、体を支えたり足先をさするしかできませんした。チップを父親のように慕う『つよし』が顔つきを悪くして、すぐ上の棚から身を乗り出し、こぼれそうに大きな目で身じろぎもせずに見下ろしていました。もう1匹の子猫の『豆蔵』は落ち着きなく走り回っていました。この夜のことはそれぐらいしか記憶がありません。寒かったから、3時間で切れた暖房を点けに借家に戻った時、見慣れた景色の中を歩きながら「これは夢ではないのか?」と想ったことだけ覚えています。震災の夜に、泥だらけの部屋で、団蔵を抱きながら机に腰かけて夜明けを待った時と同じ感覚でした
朝方、チップは落ち着いてきました。体も少し起こせるようになりました。シリンジで水も少し飲みました。9時の開院を待って病院に行きました。「心筋症から血栓を起こしたと思われます」という診断でした。詳しい検査もあり、入院になりました。その日はイオンの黄色いレシートキャンペーンに参加することになっていたので、一足先に行ってもらっていた高校生と合流して、終わって夕方、今年卒業したら動物専門学校看護コースに進むあやかちゃんと一緒に面会に行きました。心臓のレントゲンを診ると、血栓の元になるものがまだたくさんあるので、血栓が新たにできないように治療していく、と説明されました。翌日は避妊予防センターで、案の定遅くなって、面会には行けませんでした。
そして、その翌日、先生は「ずっと寝たままだけれど、命は取り留めたと思う」と言いましたが、私には膨らんだ体のままのチップが道尿のチューブまで付けられて、生気なく《廃人》のように感じられました。それでも私が撫でると、かすかに喉を鳴らしました。連れて帰りたくて、車にキャリーバックを積んで来たのですが、「なぜか肝臓の数値が上がり続けている」と言われて、言い出せませんでした。チップの変わりようがショックで、考えがまとまらないまま帰って来てしまいました。そして、寝る前に「もう助からなくてもいいから、明日は連れて来たいと言おう」と決めました。
ところが…翌朝、病院から「朝に来たら亡くなっていました。苦しんだ跡があるので、新たに血栓ができたと思われます」という電話がかかって来てしまったのです。昨日のうちに連れて帰らなかったことを愚かだったと、不注意だったと、勇気がなかったと…悔やんでも悔やんでも、もう一度チップに会うことはできません。迎えに行く気になれず、高橋くんに連れて来てもらいました。立派な棺に入れられて造花で飾られて、戻ってきました。高橋くんが床に置いて、蓋を外した後で、チップの前足がすっと一掻き動き、高橋くんと私は同時に「動いた!」と言いました。
老衰や衰弱、慢性病の看護は心得ています。伝染病への配慮もできます。しかし、人間なら一時も早く救急車で搬送して病院で的確な治療を受けることが生存につながるとされている病名には、たじろいでしまいました。「急変がある」ということは、「いつ死ぬかわからない」と覚悟して、次の瞬間のチップにとっての最善を選択しなければならなかったのです。かわいい子でした。健気な子でした。私が同居している12匹は老齢だったり、ガンの転移や白血病の発症を見逃さないためだったり、慢性の下痢で始終トイレを汚したり、誰とも仲良くできなかったり…の問題のある猫たちです。でも、もし好きな猫と暮らせるなら、チップは日常の風景の中に居て欲しい子でした。
私は獣医師ではないから病気は治せないけれども、動物の身になった看護や介護をすることはできます。90匹もの命を収容しているということは、それぞれの命に寄り添い、看取るところまでの責任があるということを、改めて認識しています。

 

チップの異変を、身じろぎもせずに見つめるつよしとクリオ。

チップの異変を、身じろぎもせずに見つめるつよしとクリオ。

 

病院に行く前の最後の写真。体は膨れたままだが、身を起こしたので、命は取り留めたように感じた。

 

団蔵を介護しながら、昨年亡くなった多くの老猫を思い出して…書き留めた短歌を連ねて、今日はこの辺で、さようならです。

  

  保護猫の 老いに寄り添い 我ひとり 深夜の哺液 夜明けの看取り

  除夜の鐘 聞きつつ日々は 延々と 百八つほど 命送るまで

  寒かろと 食べてみるかと 世話を焼く 誰もがすれば 野良はないもの

  父さんと 呼びし老い猫 命枯れ 寄る辺なきまま 道まだ半ば

  残り日に 正気に返り 澄んだ目で 抱いて歌えと 甘えてせがむ

  好きなまま 終わった人は ないけれど ねこは去りても 心に住んで


 

《オ マ ケ》

 

行き倒れて死にかけたところを刺身で復活した『ポパイ』も、すっかり福々しくなりました。

行き倒れて死にかけたところを刺身で復活した『ポパイ』も、すっかり福々しくなりました。

 

年生はこの春それぞれのスタートを切ります。制服姿で『黄色いレシートキャンペーン』に参加!

高校生チーム、三年生はこの春それぞれのスタートを切ります。制服姿で『黄色いレシートキャンペーン』に参加!

 

2017年2月17日