トップ > 活動報告 > 不妊予防センターが始まりました

不妊予防センターが始まりました


2ヵ月ご無沙汰しました

 やっとここにたどり着けてほっとしています。カンパのお礼もせず、何もかも遅れて申し訳ありません。7月の末から風邪を引き、いつもは早めに薬を飲むと治まるのに良くならず、病院に行ったから大丈夫と思ったら熱が出てどんどん悪くなるので、自分でもびっくりしました。体が思うように動かないと、必ずやらなければならない猫や犬の世話と週2日の不妊予防センターの仕事をこなすのがやっとでした。そうなると、メールも開けない、留守番電話やファックスもすぐに確認できなくて…催促の伝言が重なり、借金取りに追われる心境で、1つ2つ応えては疲れ…ストレスも高じたのか、後半は一日中続く頭痛に苦しみました。

 昨年の秋もダウンしたから、私も自分の体力に自信がなくなりました。震災からしばらくは馬力がありました。亡くなった人達を想えば、何でもやれると感じたし、今を乗り越えれば元の生活に戻れると思っていました。
 しかし、動物たちの受難は解決していくどころか、形態を変えてむしろ深刻化しました。石巻の人達は、震災後に半年間機能した救護センターや遠方から駆けつけた動物愛護団体がしてくれたように、犬や猫を保護して養ってくれるところが今でもあると思い込んでいます。それを求められると、市役所の職員は「アニマルクラブに相談してみたら…」と紹介しているそうです。

喪った生活

 1年経ち2年過ぎても私は店を再開することができませんでした。そして、街の雰囲気も様変わりしました。今は夜の街を歩いても、聞き慣れない言葉を話す作業服の人達や若者ばかり目立って、私が店を再開しても入って来てくれそうな人には行き逢いません。
『慈生(いつき)』という名のスナックを支えてくれていた社長さん2人も津波で亡くなりました。私は「元の生活にまだ戻れないんじゃなくて、もう取り返しがつかない」ことを悟りました。2年ぶりにケーキを焼いてみた時も、高校生の時から使っていたお菓子作りの本はヘドロだらけになり捨てたし、以前はしょっちゅう作っていたから勘で作ったのですが、店でも好評だったブランデーケーキが惨憺たる仕上がりで、「いろんなことができなくなった…」喪失感に苛まれました。

 しかし、元の生活に戻れない私達は生きている以上、別の生活をしています。自分では意識せずとも、新しい暮らしに押し出されることもあります。体調を崩した私に、家で休む場所はありせんでした。不妊予防センター再建を巡って、近所の津波被害にあった貸し店舗を改装してもらって借りる話があったのですが、近所にできた老人のケアハウスからも、さら地にして駐車場に貸して欲しいという話が出て、地主さんは経費のかからないそちらに貸すことにしたのです。土地を購入して建物を建てることは資金的に無理だったので、我が家の駐車スペースを削ってプレハブを増設して、そこにいた猫を家に移した時点で、家はすっかりシェルターになりました。衣類など自分の持ち物を置くために、近所に借家を借りました。倉庫にしていた借家に布団を敷いて、とにかく横になりました。

 そしたら、少しずつ気持ちが解放されてきたのです。自分から進んで家を動物に明け渡していったくせに、私は他の人がそこを『アニマルクラブ』だの『本部』だのと呼ぶのが不愉快でした。口には出さないけれど、「ここは、私が散々辛い思いをした代償(離婚の慰謝料)に手にした私の家よ!」って気持ちがわき上がりました。それは、私にもそこしか居場所がなかったからなのだとわかりました。荷物だらけの古い借家でゴホゴホ咳が止まらなくても、誰も訪ねて来ない家に居ると心が休まりました。

 少しずつ掃除して、シェルターからはみ出していた猫も連れて来ました。四守護神のひとり、津波で壊滅の桃浦から来た『キタ』と、前回の活動報告で紹介した『捨吉』、どちらもエイズキャリアです。キタは浜で自由気ままに生きてきた親分ですから、いつまでも二段ゲージの中に閉じ込めておくのは忍びなかったのです。捨吉もゲージから出すと、犬みたいに甘えて、暑い時に余計なことをして、私のサンダルに上がって暖めてる姿が、信長の草履を懐に入れた藤吉郎みたいだったので、「木下捨吉郎、家来にしてやる!」と言いました。以来、捨吉は忠義の家来で、調子に乗ってキタにも馴れ馴れしくしては鉄拳を受けていますが、性懲りもありません。

 終戦記念日には、さらにもう1匹居候が増えました。飼い主のお婆さんが老人ホームに入り、里親探しの会場に連れて来られ、同情してもらってくださった方のお宅から3日後に逃げ出して2ヵ月近くも行方不明になっていた雄猫の『茶々』が「捕獲器に入った!」と連絡が来たのです。可哀想に茶々は体重が半分になり、痩せてゆるくなった首輪がたすき掛けになり、脇の下にぐるりと深い傷を作り、血膿を流していました。里親さんは「大人の猫を飼う難しさを知った。もう自信がない」と言い、私もこの2ヵ月心配でたまらなかったから、家に連れて来ました。脇の下はよく動く場所なので傷が治るまでには長い時間がかかりますが、茶々も苦労をして人間のありがたみも知ったようで、随分人なつこくなりました。

昼寝ばかりしてさっぱり役に立たない家来の「捨吉」

昼寝ばかりしてさっぱり役に立たない家来の「捨吉」

ゆるくなった首輪が脇の下に食い込みひどいケガをしていた茶々ですが、保護できて本当に良かった!

ゆるくなった首輪が脇の下に食い込みひどいケガをしていた茶々ですが、保護できて本当に良かった!

慈悲と正義を支える病院に

 平成20年4月にフジコ・ヘミングさんのご寄付で建てたプレハブの動物病院が2年5ヵ月ぶりに再興されました。津波被害を受けた元のセンターは改装して《手術室》になり、震災後増えた猫のために建てたプレハブは《診察室》に改装。その上に、プレハブメーカー特注品の洗濯干場を上げました。津波で『クララ』が死んでいたガレージを改造したかつての猫部屋は、大工さんを頼んで大幅に改築、《待合室》に作り直しました。それだけでも結構費用がかかりました。今回は諦めざるを得なかったレントゲン設備などを備えた病院を、いつかは建てたいと思っています。医療機材がいかに高価なものかも初めて知りました。だから、資金を貯めたいので、プロに頼まざるを得ないこと以外は、大工仕事を一手に引き受けてくれているボランティアの加藤さんにお願いしました。もう2年以上も山形から通い続けてくれている加藤さんがいたからこそ、近所に不妊予防センターを再建する計画がダメになった時も、ちぎれた夢がツギハギにつながって、小さいけれど、週に2日だけだけれど、“誰もが必要
な治療や手術が受けられるNPOの動物病院”がスタートしたのです。

ガレージだった部屋を待合室に改造。天気が悪い日でも安心です。

ガレージだった部屋を待合室に改造。天気が悪い日でも安心です。

受付は午後6時までですが、野良猫がやっと捕まって遅くなる日も、、、獣医さん、看護師さんに感謝です。

受付は午後6時までですが、野良猫がやっと捕まって遅くなる日も、、、獣医さん、看護師さんに感謝です。

悪夢の決済

 今年は例年以上に捨て猫や野良猫の相談が多く、留守番電話を聞いていると似たような話があまりに多いので、「夢見てるのかな、私?」と錯覚するほど混乱しました。自分は「何もできない」ことの言い訳を聞かされ、「カラスに食われるか保健所しかない」などと脅迫されながら、ほとんどは“焼け石に水”になるのですが、どんな協力ならできるかを具体的に伝え続けました。話しながら、捨てた人や身勝手な人の後始末をすることではもう解決がつかない問題だと痛感していました。
 悪夢から目覚めるためには、「捨てられる命、不幸になる命は生ませない」ようにするしかないのです。この2年余りはショッピングセンターのクリニックに間借り営業していましたから、1日にできる手術の数が限られていました。しかし、独立すれば引き受けられる手術の頭数は増えます。ちゃんとお金を払ってくれる飼い主からの収益が上がれば、収入にはならない手術や治療も賄えます。

 さて、どれくらい患者さんが来てくれるでしょうか…オープンの8月20日の朝はドキドキでしたが、20日・22日はノンストップの忙しさでした。
 最初から重症の子も来て、ICU(酸素室)も大活躍で、高額でも購入しておいて良かったと思いました。この週は、日和山からケガをした野良猫を連れて来た方が2人いました。どちらもケンカ傷のようでした。津波被害の酷かった門脇地区の猫が一斉に駆け上がったと言われるこの山には、震災後多くの猫が住み着いています。これまでにも何匹かは手術したのですが、エサを与えている人達が消極的で、なかなか先に進みません。今回連れて来られた猫の一方は去勢もしてある茶トラの穏やかな猫でした。そんな良い子が体中に咬み傷を受け、猫エイズに感染してヨダレを垂らし、口が痛くてもうろくに食べることもできないのです。震災で幸せな生活を奪われ、命が終わるまで苦しまなければならない“被災動物”がどれほどいるのか…ほとんどの人間は考えることもなく、我が身に降り掛かった“災難”から逃れる時だけ躍起になります。

 津波で家も仕事も失い人口が流出して、住民の多くは高齢者になった雄勝町でも野良猫が増えているようです。お年寄りはエサは与えても、先のことは考えず「オラが死んでからのことまで知らねぇよ」と無責任です。お金も惜しむので、「手術代はいいから」と言っても「生まれたら、目が開かないうちに海さ投げっからいいんだ」と、経験のないことはやろうとせず、罪の意識は全くありません。こういう人達を相手に不妊去勢を推進していくのは、至難の道のりです。

 2週目には、交通事故で両足と尻尾、骨盤も骨折した子猫が連れて来られました。「家の近くではねられた野良猫の子を見かねて連れて来た」奥さんでしたが、、先に行った病院で「大手術になるから、何十万もかかる」と言われて、すっかり怖じ気づいていました。それは当然だと同情して、お金は心配しないでいいと伝えました。そしたら、その人は「助けてくれるのなら、子猫も引き取って」という態度に出てきました。“援助”を申し出たために“肩代わり”させられることが度々あります。何かを助けてもらえるなら自分も頑張らねば…と考える人ばかりではないのです。助けてくれる人がいるなら、自分は手を引いていいという自分勝手な合理化です。「近所の人がうちにだけ押し付けたから家族も怒っている」と言い訳していましたが、何もしようとしない人のせいにしても、何の解決も導きません。助けるためには、それぞれができることをして、力を合わせるしかないのです。不妊予防センターの小原先生が仙台の救急病院に運んで、4時間余りの手術を無事成功させてくれました。小さな体で頑張り抜いた子猫は『つよしくん』と命名、しばらく入院ですが元気いっぱいです。

 アニマルクラブに寄せられる相談のかなりの割合が不妊予防センターに連れて来てもらうことで、解決の方向に進みます。相談者は老人、生活苦、知的・精神的に弱い人…社会的弱者が多いです。「自分のことも満足にできないのに、動物は飼えないでしょう」と非難されそうな人達ですが、満たされない寂しさを猫や犬に求めているようです。何を手伝えばこの人達が動物と共存していけるのか…一律に線引きはできない助成が必要です。

突然の惨事に家も食べ物も頼る人も失った被災動物たち。代わりに手を差しのべてくれる人がいなければ、この子たちは助かりません。

突然の惨事に家も食べ物も頼る人も失った被災動物たち。代わりに手を差しのべてくれる人がいなければ、この子たちは助かりません。

小さな体で四か所も骨折した子猫。長時間の手術に耐えて、退院できる日を待っています。

小さな体で四か所も骨折した子猫。長時間の手術に耐えて、退院できる日を待っています。

私の人生を変えた人

例年以上に里親を求めている子猫はいるのに、この夏はなかなか貰い手がありませんでした。月に1度開催している里親会も、6月7月8月は2匹ずつしか決まりませんでした。なので、9月6日は東京の里親希望者宅まで、子猫2匹を届けに行きました。高速道路が怖くてチビちゃん達がパニックになりこちらも焦りましたが、はるばる行った甲斐があった優しくて素敵な里親さんでした。

 翌7日、千葉県に寄りました。捨てられた犬・猫の保護活動をもう50年も続けてきた藤田美千子さんを訪ねるためです。藤田さんは83歳、6年前に代表を退いていますが、その後病気になったと聞き、20年ぶりに会いに行ったのです。私がこの活動を始めたのは、少女時代にテレビや雑誌でこの人がしていることを知り、衝撃と感動を覚えたからです。そして、私と同じように藤田さんの偉業に引き込まれて、19歳でここに飛び込み25年間、行き場のない犬や猫達のために人生を捧げてきた人がいます。『藤田ワンニャン会』二代目代表の宮田くんです。彼とはほんの数回しか会ったことはないのだけれど、活動に行き詰まる度に思い出す“心の中の一番近いところにいる人”でした。その人もまた、ピーク時の犬600頭・猫250匹よりははるかに減って犬80頭・猫120匹になったとはいえ、それだけの動物達の命に自分の人生を重ねて、今後どうしていけばいいのか…考えあぐねていました。

 慰めることもアドバイスすることもできないけれど、先の読めない人生を私もこうして生きているよ、と顔を出しに行きました。震災後、被災動物の保護をしていた団体に、アメリカから手作りのタぺストリーを贈ったサラ・イタミさんが布地に描いたたくさんの犬と猫、「命を助けてくれてありがとう」というメッセージを、藤田さんにこそ贈りたくて、サラさんにお願いして作ってもらいました。タぺストリーを手にした時の藤田さんの笑顔、うっすら浮かんだ嬉し涙…私は「藤田さんに会えて良かった、人生においても、そして今も」と、それだけは確信しました。信じられるものが1つあれば、一寸先は闇の世の中も歩いて行ける。震災の夜、胸まで水に浸かって、樹木や電信柱や家屋の残骸が流れてくる川と化した道路を進んで行けたのは、その先に70匹の猫と犬が待っ家があったからだと思い出させてくれた再会でした。

20年ぶりに会った藤田さんはすっかり小さくなっていましたが、自分の信じる道を生き抜いて安らかな表情で優しい言葉をかけてくれたので安心しました。

20年ぶりに会った藤田さんはすっかり小さくなっていましたが、自分の信じる道を生き抜いて安らかな表情で優しい言葉をかけてくれたので安心しました。

タペストリー

藤田美千子さんに届けたタペストリー。シカゴのサラさんが作った贈り物を藤田さんに渡すことができて幸いでした。