見知って変わるために

「渋谷ユーロスペースに行ってきました!」

 今日からドキュメンタリー映画『動物たちの大震災』が封切りになりました。宍戸監督がカメラを肩に、まだ泥だらけの我が家の玄関に立ち、私の面倒くさそうな応対が怖くてカメラを上げられず、首から下しか映っていない出会いの日を懐かしく思い出します。「ボランティアもしながら…」と言うので取材と協力を承諾した当初は、公民館や集会所で10~20人位の観客を集めてどさ回りするのだと思っていたから、新聞や雑誌、ラジオやテレビにも取り上げられた反響の大きさには、びっくり仰天しました。でも、期待が大きいほど本人は不安が募るのか、宍戸さんの心細気な電話にほだされて、新幹線に飛び乗って渋谷の映画館まで行って来ました。激励もありましたが、自分の目で観客の反応を見てみたかったのです。

 反応は良かったと思います。私も2回目なのですが、新たな発見や感動がありした。震災直後から今も支援してくれて、アニマルクラブの問題犬だった『しんちゃん』(後に四守護神の心ちゃんに昇格)の里親にもなってくれた東京の佐藤さんと一緒に観れたことも感慨深かったです。でも、飯田プロデューサーの指摘は厳しく、「動物好きな人ほど可哀想だからと観ない」ことと、「被災地から距離が離れるほど過去のこととして関心が薄れている」ことが挙げられました。

 これはもう実際に観た人が「観るべき映画だよ」と紹介していくしかないと感じました。本当に起きたことを知り、悲しむ人と苦しむ動物たちに寄り添ってこそ、希望も共有でき、願いが形になっていくのだから、その輪の中に多くの人に入って来て欲しいです。

出てたぜ、オイラ、映画に!『にせお』も一緒だけど、あいつは1回。オイラは2回登場するから気をつけて見ててくれよー!

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映画のパンフレットの監督のサインの上に自分も泥足で刻印する”うそじゃ”

「“動物たちへの大人災”は続く」

 毎年春から夏は捨て猫や野良猫が生んだ子猫の相談が次々きます。動物愛護推進計画が進んで、震災後は特に行政の対応も変わったと言われますが、それぞれの事情や状況を網羅する対策ではないから、愛護団体に対する切羽詰まった哀願と押し付けは後を絶ちません。

 アニマルクラブは平成20年4月から『不妊予防センター』を開院。不妊去勢手術で望まれない命を生ませない、ワクチンの普及で伝染病の蔓延を防ぐ、野良猫であっても必要な治療を受けられることを目的に、週2日開院してきました。プレハブの病院は津波で傾きヘドロが入りましたが、23年5月末からはスタッフを派遣してくれているイオン石巻のペットクリニックを間借りして事業を続けてきました。
 震災後は年齢も病歴もわからない被災犬や猫を保護してくれた方が、慢性の持病の治療費に困窮したり、人がいなくなった浜や仮設住宅などで餌をもらって生き延びた猫が出産したので、不妊予防センターは、「あって良かった」役割を担ってきました。しかし、それはたまたま相談を受けた、ごく限られた特定の犬や猫に対してできたことです。世の中がもっと動物たちに優しくなるためには、どうしたらいいのか?いつも私は考えています。映画は一度に多くの人々に現実を知らせ、考えてもらう好機だと思うから、応援しています。

 我が家では、震災後すべての猫と犬を家の中に入れ、プレハブに自分の荷物を移しましたが、やがて被災動物が来て、駐車場を削ってプレハブを増設しました。今年は不妊予防センターの再開を目指しましたが、土地の購入や建物を借りることも難しく、家のプレハブ3つを使って、今年夏の再開を準備中です。私の荷物はもうどこにも置けず、近くの貸し家を借りて全て移動しました。離婚の慰謝料で購入した家をシェルターとして動物たちに明け渡したついでに、私自身も引っ越したいのは山々なのですが、赤ちゃん猫や体調の悪い猫がいては、それもままなりません。私は、いまだに震災直後と大差ない暮らしをしています。1、2年は「いつから店やるの?」と連絡をくれた常連さんからも、全然電話はこなくなりました。夜に小さなスナックを開いていたことは、私の生活を支えていただけでなく、動物の難題に追われる暮らしの良い気分転換でした。もう元に戻れない、というより生活が変わってしまったことを痛感しています。

 被災地には生活が一変した人が大勢います。5日前のこと、4年前にアニマルクラブから犬をもらった里親のおばあさんが電話をよこしました。この人も「津波で店も失い、疲れが出た」ご主人を震災後に亡くしました。「散歩もできない、病院にも連れて行けない」とこぼすので、手放して新しい里親を探すことを提案しましたが、応じませんでした。通院はうちのボランティアさんが送迎して、散歩には息子さんの元の奥さんが時々来てくれて、どうにか飼育を続けています。

 そのおばあさんが、今度は「近くで野良猫の子供が生まれて困っている」と電話をよこしました。「保健所や市役所にも連絡したけれど、引き取りには行けないから、自分で解決してください、って言われたんだよ~」と言うので、「自分が保護する気はないんだな」と感じて、連れて来ようと決心してそのお宅を訪れました。
 家の裏に車を停めるように言われて、車からゲージを降ろし、「物置の中にいるんですか?」と聞きました。「ううん、その中だよ。そこから声が聞こえてたから」とおばあさんが指差したのは、トイレの浄化槽なのでしょうか…マンホールの蓋でした。

 「えっ、あの中って…」と私は絶句しました。おばあさんはすました顔で「震災後に清掃してもらったから、きれいなんだよ」と言いました。隣の家の奥さんも出て来ました。ゲージの扉を開けて傍らに置き、膝を着いて蓋を開けると、確かに水も泥もなかったけれど、土の上に、生後1ヵ月くらいの白い子猫が2匹、茶色い子猫が1匹転がっていました。恐る恐る手を伸ばすと、既に硬く冷たくなっていました。
 顔を上げて、私が「もう死んでいるよ」と言うと、「あら~」と、おばあさんと隣の奥さんは顔を見合わせて、「昨日あたりまで生きていたよね~」と言うのです。子猫たちは痩せこけ、土にまみれた体はせんべいの様に薄っぺらでした。一番手前の白い長毛の子猫の体だけまだ柔らかく、死んだばかりなのだと思いました。

 隣の奥さんに頼んで段ボールをもらいました。その人の口から「可哀想に…」という言葉が出たから、この子たちの親猫のことを聞きました。「震災の後に引っ越して行った人が置いて行った猫なんだよ」と言われました。「それからもう何回も子猫を生んでるんだよ~」とおばあさんが口を挟みました。「前に生まれた猫はどうしたの?」と聞くと、「なんぼか育つけれど、みないなくなるねぇ。食べる物もないからねー」と言うのです。「なんで食べ物やらないの?」と聞くと、「近所に迷惑かけてる野良猫だよ。エサなんかやるわけないっちゃ」とおばあさんはきっぱりと言いました。

 私がマンホールに上半身を突っ込んで、子猫の遺体を取り出すと、「あら~申し訳なかったねぇ~」とおばあさんは、私のバックに千円札を2枚をねじ込んで、「忙しいところ来てもらったから、ガソリン代にして」と言いました。「このお金でエサを買って食べさせてくれていたなら、子猫も死ななかっただろうに…」という想いが、頭をよぎりました。
 人間には気遣いもできて、自分の家の飼い犬は面倒見切れなくても離れたくないと主張する人が、飼い主に捨てられた親猫とその子猫にはこんなにも冷淡でいられる現実に、私は言葉を失いました。お腹を空かせた猫が近隣の人々にかけた『迷惑』の天秤に、『命』を載せるのは、道理が違うということをどうしたら理解してもらえるのでしょうか…?

 隣の奥さんが私の顔を見て、訴えるように言い出しました。「うちの親は雄勝で、野良猫にエサやっているの。雄勝は人が引っ越してしまって、残された猫が集まって来て、震災後しばらくは復興支援に来たボランティアさんたちがエサやってくれていたんだけれど、その人たちも引き上げてしまったからねぇ…」何とかして欲しくて言い出したのでしょうが、現状を変えるためには、猫と関わっている人間が動かなければならないことを伝えたいと思いました。
 「これ以上増えたら大変だから、不妊去勢手術しなきゃダメだよ。お父さんお母さんが責任を持ってこれからも世話してくれるなら、無料で手術してもいいから、奥さんが不妊センターまで連れて来れませんか?」と提案してみました。そして、死んだ子猫たちの母親の手術も持ちかけました。「もうこんなこと嫌でしょう?だったら生ませないようにするしかないでしょう?」可哀想だと言った奥さんに、私の説得は届いたでしょうか?元は飼い猫といっても、空腹を抱え、疎まれ嫌われてもう2年余り…人には近づかないということだから、近所の人に捕獲器を仕掛けて捕まえてもらうしかないのです。

 帰り道、津波被害を受けた建物がそのままの町並みを車で通り抜けながら、無責任と無慈悲が引き起こす“動物たちへの大人災”が延々と続いていることを考えていました。家に着き、段ボールを開けた時、まだ柔らかい白い長毛の子猫を抱き上げました。「もっと早く出会いたかった」と…。

 その時です。子猫の口がかすかに動いたのです。「まだ生きている。間に合うかもしれない…」と、ドライヤーを取りに行き、不妊予防センターの手術室にするプレハブに運び、エアコンを28℃に設定して、ホッカイロを敷いて、屍のように冷たい体を暖め続けました。しかし、一向に温かくはなりません。子猫は、目を開け、私を見ていました。お尻は下痢にまみれ、体は紙切れのように軽かったけれど、綺麗な顔をして、ペットショップで10万、20万で売っている子猫と何が違うのか、わかりません。ミルクを温めて飲ませてみましたが、鼻から出してしまいます。2時間半後、子猫は一声鳴いて、死にました。

 そして、今度は本当に死んでしまった子猫を見届けて、家の中へ、闘病中の老猫『ドント』を見に行きました。肝臓病の悪化で黄疸が進み、手の施しようがなく退院して10日余り…。何も食べられなくなってからはもう20日が過ぎていましたが、水だけ飲んではフラフラとトイレに行く、面倒をかけない気丈な猫でした。15年前に、サラ金地獄で蒸発した男性宅から連れてきました。そのドントもまた、私が子猫に夢中になっている間に、息絶えていました。静かな、立派な最期でした。

 翌日は、まゆみさんが4匹の遺体を『石巻広域クリーンセンター』に運んでくれました。子猫3匹については「野良猫の子供が死んでいたから、運んできた」と言ったそうですが、その引き取りも有料と言われたと電話がきました。受付の人は、「道路などで死んでいたのなら、そのままにして市役所に電話してくれればよかった。連れて来られた以上は、引き取りは有料。小さくても1匹2000円は変わらない。嫌なら連れて帰って市役所に電話してください」と言うのです。以前は「わざわざ運んで来てもらって、ありがとうございました」と言われたから、びっくりしました。「子猫たち、連れて戻りますか?」とまゆみさんが聞くから、私は「そんな馬鹿馬鹿しい、可哀想なことできないよ。お金払って、お骨ももらって、ドントと一緒にうちのお墓に埋めよう」と答えました。

 職員は業務を守ったつもりなのでしょうが、その前に、生まれてきても苦しいだけですぐに擦りきれた命と、連れて来てくれた人への、人間としての思いやりを忘れていると感じました。

 「もっとちゃんと見て考えて欲しい。そしたら、そんな態度ではいられなくなるはずだから…」そんなやるせなさと、年末からの不幸続き(12月から老猫・犬6匹死亡)に、喉の奥が詰まってきました。だから、東京へ行く気になりました。新幹線に飛び乗ると、耳の奥で、中島みゆきの『顔のない街の中で』という歌がリフレインしました。

♪ならば見知れ、見知らぬ人の命を、
思い知るまで見知れ~

 被災地の動物たちと取り巻く人々が投げ掛けた問題は、日本中が見知るべき課題です。1人でも多くの人に、映画館に足を運んでもらえるように、はたらきかけていただければ幸いです。

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マンホールの蓋を開けると、幼子の無惨な姿があった…

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せっかく息を吹き返したのに、もうミルクも飲めないほどに衰弱していた子猫

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兄弟3匹、火葬してやることしかできませんでした。

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何も食べられなくなっても3週間、静かに頑張り続けた『どんと』。
その名前は捨て猫だった子猫を最初に見つけた人が「どんと来い!とたくましく生きろ」と付けました。

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その後、飼主になった人がサラ金地獄で蒸発して、犬と供にうちへ来ました。
うやうやしく近寄ってきては人の足をカプリと咬むやんちゃ者。17年の生涯でした。

平成25年6月1日