「自分なりの活動を考えていました」

ご無沙汰しました。不妊予防センターも始まり、捨て猫と犬も来て、体調悪くする猫・犬も続出で、目も当てられない忙しさで、歯を磨いてる途中で寝て、何度も歯磨きを飲みました。
洗顔クリームで歯を磨いて、しばらくしてから味が違うと目が覚めたことも何回かあります。

前半は、何かやってると眠くなり、いつの間にかゴロ寝して、2、3時間寝ると目が覚めて、また何かやってると朝になる生活でしたが、残念なことに体が持たなくなってきました。
一旦寝てしまうと、起きれなくなってしまったので、できることの総量が減ってしまいました。パソコンのメールチェックまで行けずに1日が終わり、返信も遅れっぱなしです。
カンパのお礼なんて、まだまだ手付かず、本当に申し訳ないです。

大工さんが引っ張りだこで、壁を剥いでの工事もあと少しのところで止まっています。
床下のヘドロ出して、床張り替えればいいのかと思っていたら、壁紙剥がしたら、下1メートル位までカビが生えていたので、1階全部の壁半分壊して断熱材も交換になりました。
一時は家の中もかなりの水位だったと推測されますが、1段だけのゲージに入っていた子猫達が大して濡れもせずに無事だったのが不思議です。ゲージが浮いたんでしょうか?コウモリみたいにゲージの天井にくっついて凌いでいたのでしょうか?

昨日たまたま、我が家の外飼いの犬で唯一助かったムクの被災状況を聞きました。
ムクはすぐ近くの実家の庭にいました。目撃した少年は、ブロック塀の上から、ムクが犬小屋に繋がれたままになっているの見つけ、鎖を外してやろうと近づいたそうですが、その時家の前に激しく流れ込んできた水の勢いが怖くなって、ブロック塀から降りられなかったそうです。
水が入り込んだために、止めてあった車の盗難防止ブザーがけたたましく鳴る中、ムクは犬小屋の後ろにある石の上でじっと耐えていたそうです。
その後、水位は上がっていますから、そこから犬小屋の屋根か、小屋を囲う柵に乗って、水が引くのを待っていたのでしょう。
ムクは、アニマルクラブの本のページにある『めいわくムック』ですが、10年余経て、本当にお利口になりました。
一方、我が家の裏庭では、臆病なマメコは犬小屋に飛び込んで死んでいました。リコはどんなに怒られても、私が大好きでした。「お母さん、早く来て、来て」と鳴きながら死んでいったことでしょう。

あの日、足掛かりにした石を背にしたムク

被災から3ヵ月経ち、保護してた犬と猫の里親探しも始めたところです。
飼い主から離され、私達の元に来るまでは、放浪したり、空き家や瓦礫に隠れたり、あるいは保健所に送られて、苦労を重ねた子逹です。幸せへの道しるべは慎重に定めなければなりません。
6月19日、新装開店に向けて準備中の淳子さんの店舗をお借りして里親探しを開催。成果は上々でした。
明日から、里親希望者宅を回って、よく話を聞き、大丈夫だと判断したお宅に送り出すつもりです。

その前に、最初の里親探しを5月22日に行っています。他団体のイベントに誘われて、共催の形で実施したのですが、翌日から不妊予防センターのスタート も控えてあたふたしていた私は、開催日直前まで、東松島市のショッピングセンターの空き店舗でやらせてもらえるものだと思い込んでいました。
屋根も囲いもない駐車場での開催と知り、急いでテントの手配はしましたが、あいにくの雨天。温度も低く、生まれて間もない子猫などは到底出すことはできませんでした。
また、人馴れしてない成犬が連れて来られ、ゲージの中で暴れて扉を開けて逃げ出すという事故を起こしてしまいました。

その日から私の気持ちの底に、津波のヘドロみたいな澱がへばりつきました。
動物保護活動をしている者、動物病院の仕事に携わっている者が一番気をつけなければならないことは、人馴れしていない動物を怯えさせたり、逃がさないということです。
屋内か、それに準ずる施設でやること、人馴れしていない動物は会場に出さないこと、それはアニマルクラブが長年守ってきた里親探しの鉄則でした。
被災後、現地の人々は平静そうに振る舞っていても、どこか焦っていて、抜けていて、統率が取れない脆さをはらんでいます。
そんな状況の中で、増えていく保護動物への不安に急き立てられての、里親探しの実施でした。リーダーたる私が、そんな状況の犬が会場に連れて来られたことすら、把握していなかったのです。

とにかく、せっかく地震・津波の難を免れたのに、路頭に迷うはめになった犬の「ナナ」を探して、元の生活に返してやらなければ、ナナの命に申し訳が立ちません。
郵便配達をしている方や、仕事で運転してる方にも声掛けして、目撃情報も入り、迂回しながらも、少しづつ石巻に近づいて来てるのがわかりましたが、いざ捜しに行くと全然会えません。慌ただしい日常の折々に想っては、祈る日々でした。

そして、6月22日、通常なら10キロ余、人間なら車で15分~20分の距離ですが、丸1ヵ月かけて、ナナは自力で家にたどり着きました。
犬という生き物の一途さと能力に感動すると共に、彼らを「不要動物」として殺処分してきた人間の無知と驕りが、原発事故をも引き起こしたように感じました。

ナナには、「気持ちに気づかなくて、ごめんなさい」を100回、「無事に帰って来てくれて、ありがとう」を1000回言いたい気分です。
共に犬捜しをして、飼い主のおばちゃんとは気心も知れたので、これからはこのお宅の犬逹にフードの援助して、避妊手術していきます。
生活が苦しいのに、目先の可愛さとルーズな暮らしで20匹にも増やし、被災していよいよ大変になったら即座に手放そうとしたのです。短絡的な考えしかできない人達に寄り添い、相手にわかる説得と、時には強硬な先導も必要な姿勢だと認識しました。

1ヵ月のさすらいの疲れも見せずに、
元の暮らしに戻ったナナ

ナナへの反省を含めて、この1ヵ月間、私は色々考えました。
被災して間もなく、遠くから様々な動物愛護団体の方々が、支援物資を持って訪ねてくれました。
そして、「被災した動物を引き取りますよ」と言ってくれました。
しかし、その時点では、まず元の飼い主に返すことだと思っていましたから、「月日が経っても飼い主が出て来ない子には、相談に乗ってください」とお願いし ました。3ヵ月経って、私は前に訪ねてくれた大きな団体の方々に連絡を取ってみましたが、どちらも「手一杯で今は協力できない」という返事か、留守電に伝 言残しても返ってこないかでした。「福島原発警戒区域の犬猫を引き取り、あの頃とは状況が変わった」と説明してくれたところもありました。
石巻市には、獣医師会が立ち上げた「動物救護センター」があります。5月末の河北新報のインタビューに、獣医師の1人が、「被災したペットの最後の1匹が 飼い主の元に帰るまで、あと1~2年は続ける」と答えていたので、ほっとしました。ところが、その後、救護センターで引き取りを断わられらという電話が何 件もかかってきています。
確認すると、もう引き取っていないとのことでした。大きな団体でも、公の機関でも、ある日から『限界』の線を引きます。
どの時点で、状況がどう変わるのか、把握できないのであれば、こちらの問題を委ねることはできないと思いました。
自分達の裁量で、手に負えることをしていくべきだと判断しました。

そして、数が増えれば、それだけ目は届かなくなります。
避難先の小学校の校舎に入れてもらえずに溺死した犬のコロ助の飼い主はまだ小学校にいて、猫のクーコは我が家で預かっています。
にぎやかな子犬が同室に来たら、クーコはご飯を食べなくなり、病院へ。血液検査も異常なく、ストレスと診断されました。
その夜から、私の布団で一緒に寝たら、元気になりました。15歳のクーコは、前のような暮らしがしたかったのです。
私はもう、1匹でも多く助けたいなんて思いません。携わった子に、できるだけのことをするだけです。

「もんじゃ」が亡くなりました。
家や店に車や船が突き刺さった街の、飲食ビルで、エサをもらっていた野良猫です。
『犬と猫と人間と』の飯田監督の弟子の宍戸さんが、お好み焼き屋の路地で、具合悪そうにしているから、と連れて来ました。一度は食欲も出て、元気になって きたかに見えたのですが、猫エイズと白血病のダブルキャリアで、口の中の酷い歯肉炎から耳の中まで化膿して…長い間どんなにか、苦しんできたのでしょう。 野良猫にエサを与えるだけでは解決しない不幸の連鎖を痛感しました。
しかし、薄情けの餌付けのおかげで、細々繋いできた命は、地震と津波からもかろうじて逃げ延び、やっと安心できる場所にたどり着いたのに、余命1ヵ月はあまりに短すぎました。
前の日、部屋の中を歩き回り、サークル越しに子犬にちょっかい出したりしていたのに…あっけなく逝ってしまったのは、もう余力がなかったのでしょう。宍戸さんに看取られたのが、せめてもの慰めでした。

布団の上で寝たかったクーコ 動物病院前に捨てられていた赤ちゃんも元気に成長
亡くなる前夜。喉を鳴らして甘えたもんじゃ

線路で保護したシロも、ボランティアの幸夫さん宅で亡くなりました。
フィラリア症の末期でした。前の飼い主に手をかけてもらってなかったことがわかりました。
最期の2ヵ月を、動物の気持ちがわかる幸夫さんの傍で過ごしたことが、シロにとっての救いだったとしたら、日本の動物は悲し過ぎます。
私がやるべき活動の指針もそこにある気がしました。

シロはお骨になって、幸夫さんの傍にいます
(宍戸大裕撮影)

被災後、新たに30匹近くの命と出会いました。
朝から夜中まで動物のことに追われ、仕事にも当分復帰できそうにありません。
私は若くないし、独身なので、生活の不安はあります。
最近、店のお客さんが「再開しないのか?」と電話くれます。言われているうちに始めないと、お客さんが離れてしまうのではないかという危惧もあります。

5月末、一番のお得意さんだった新聞社の方が、被災により2ヵ月延びていた転勤の送別会があり、久々に夜の街に出ました。
前に隣のビルにあったスナックが新店舗に引っ越して、営業を再開していました。
ママから、身内の遺体探しに奔走した話を聞きました。津波で死んだ人達は、白髪も耳の中まで真っ黒になり、体中アザだらけで、顔は腫れ上がって、別人のようだそうです。
この辺りの人はみな、その人達と紙一重のところにいました。それを思えば、ここしばらくは、アニマルクラブの活動に身を投じてもいいとも感じました。
私が短歌を添えた写真集「捨猫」を撮った溝渕さんから再三、「阿部さんは、活動の川下で、目の前の動物のことで手一杯になっているだけでいいのか?」と注意されていた意味がわかった気がしました。
川上に登って、流れを変える試みにも取り組んでみようかと思っていますが、その前に、人手も少なくなったアニマルクラブの整備からしていかねば、と思います。

もんじゃが死んで急に心配になったのが、やはりエイズキャリアの「キタ」です。
甚大な被害があった桃浦に、横浜からボランティアに来た藤林さんが「病気で具合が悪い上に、目から鼻にセメダインのような物を付けられている」と連れて来 た老猫です。『セメダイン』は風邪をこじらせての目やに、鼻汁でしたので、笑い話になりましたが、笑えるのは、オトボケでチャッカリして、ブサかわいいキ タのキャラクターで、ホームページ読者からもプレゼントが届いた人気者です。
思えば、壊滅地帯で生き残り、心優しい青年に出会ったキタは、強運の持ち主。キタが連れて来られた後で、キタがいたお寺も崩れ落ちたそうです。
藤林さんも横浜から見守っているから、キタには長生きして欲しいです。定期的に口内炎の治療に通院する事にしました。
このキタを、“復興のシンボル”として、近くトップページに登場させる計画です。
応援歌の歌詞はできました。あとは作曲を公募しようかな…遊び心もないと、続けられません。

家の近所はまだこんなです。
大雨降ると、冠水します。家の前の側溝に流れ込んだヘドロのせいか、ハエ大発生です。

歩いて5分足らずの隣町の家々は、倒壊か全壊です。

山形の加藤さんが猫部屋の改造に来る度に、持って来てくれるお菓子でのティータイムを楽しみに、働いています。
“アニマルクラブのイメージキャラクター、キタ”は近日公開。乞うご期待!

アニマルクラブのイメージキャラクターに就任!キタ