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「続く余震と、壊滅地区の被害」


4月7日深夜11時半に、宮城県に震度6の強い地震があり、また電気が止まり、携帯も繋がり辛くなりました。
またしてもその時、私は家に居ませんでした。その日やらなきゃないことを終わらせ、水道が出る千恵さん宅のシャワーを借りに行き、上がって髪乾かして、帰ろうとしていた時でした。
これまでの余震とは違う深刻な揺れで、輸入雑貨屋をしている千恵さんの店の棚から、商品がボタボタ落ちて来て、停電で真っ暗になりました。
私は「帰んなきゃ」と一声残し、急いで車を走らせました。カーラジオが「津波警報!」を連呼しています。家までの7、8分の道のりの長いこと…。
車が浸水して使えなくなると困るから、家を通り過ぎ、リコ達が眠る山の方に向かいました。
既に近所の人達の車が駐車していましたが、それでも、自宅よりはいくらか高い山のふもとに止めて、家に走りました。

懐中電灯で家の中を照らして見ると、高い所の軽い物が落ちて、各部屋の猫の飲み水が溢れている程度でした。
それでも、ラジオは「津波が来ます。早く高いところに避難してください」と繰り返しています。
うちの66匹は2階に居ますが、被災後に保護した子達が1階に居るから、キャリーバックに入れて猫達を2階に運んだ後、子犬2匹を抱いて2階廊下に上がりました。
4つの部屋は猫に占領されているから、犬達は畳2枚半位の廊下しか使えません。子犬の『しんちゃん』『なみちゃん』はパニックになってて、私の顔を目掛けて突進してきます。
うちの老犬達は圧倒されて、階段近くまで後退りしています。
地震がきたら危ないから、リードを引き寄せ、1匹1匹を撫でて「お母さんいるから大丈夫」と、決まり文句を言い聞かせます。
一方、猫達には私の言葉なんて大して効果ないから、溢れた水入れの周りにペットシーツを敷いて回って次の揺れに備え、高い所に置いてあったゲージやキャリーバックを下ろしました。


== 我が家2階、猫の避難所風景 ==

そうやって、津波警報解除になるまで2時間…懐中電灯の灯りに浮かぶ、震災後に出会った子達を見ていると、「この子は、飼い主と引き離され、水に浸かった り、食べることもできない辛い目にあい、その上、いったいいつまで余震に怯えていなくてはないのだろう」と切なくなりました。

その前日の6日、私と和磨君は東松島市大曲浜地区に行きました。
津波で壊滅的被害を受けた地区です。ここで10匹の猫と暮らしていた家族の家が津波で流され、2階部分だけが、橋向こうの田んぼの中に見つかりましたが、いつまでも水が引かず、家に近寄ることもできないまま26日が経過していました。


== 猫が10匹いた家の中を捜索する和磨君 ==

進路を選んで歩けば膝丈位までに水が引いて来たから、猫が生き残っていないか、家に行ってみるという家族と共に、フードやキャリー、捕獲器を持って、そ の家を目指しました。一歩一歩足場を選んでも、重い泥のぬかるみに足を取られて、次の一歩が進まない場面もありました。
高校1年生の時に、私が自費出版した「カイが行くはずだった場所」を読んで、ボランティア志願してきた和磨君も21歳。
私の先を歩き、手を貸してくれる青年に成長しました。「やっぱり獣医になりたい」と、大学を辞めて、浪人中ですが、今回の津波で、お祖母ちゃんが行方不明、家屋の損傷もひどく、自分のことだけを考えてはいられなくなるかもしれません。
家に近づくと、どの窓も開いているのがわかり、猫達は放り出されたのではないか、という想像よりもっと胸を締めつけたのは、家に一歩足を踏み入れた時の情景でした。
大きな浮きが、私達をとうせんぼして、家の入り口付近は瓦礫の山で、ようやく中に入ると、天井まで水が上がった跡がありました。
和磨君が「ばあちゃんを捜した時…」と同じように、瓦礫の下の生活を掘り起こしても、何の手がかりも出てきませんでした。
隣室のベッドの上に黒白の猫の死骸が一体だけありましたが、後は死体すら見つけることはできませんでした。
ご家族が気の毒で、慰める言葉も見つかりません。避難所で生活しているこの人達に遺体を渡しても困らせるだろうから、引き取りました。
不妊予防センターに来てくれている看護師の康平君に、「仙台なら火葬してくれるペット葬儀社さん、営業していますか?」とメールしました。お骨にして、返してあげたかったのです。


== 大曲浜の田んぼに流された家の中で死んでいた猫 ==

それから、和磨君と東松島市役所に行きました。彼の友人の職員から、目の見えない迷い猫が保護されていることを聞いたからです。
この青年も大曲浜に住んでいて、津波で家族を亡くしたそうですが、仕事に奔走していました。
猫のいる所に案内してもらいました。盲目なのではなく、結膜炎をこじらせて、目ヤニで瞼がくっついて閉じてしまっているのでした。
水に浸かり風邪を引き、栄養失調でユルユルになった首輪が脇の下に回り、たすき掛けになっていました。脇の下に食い込む前に保護できて良かったです。
目が見えないから、道路の真ん中に出て、車に轢かれそうになっていたとか。助けてくれた人に感謝です。茶色の皮の首輪に大きな鈴を付けています。飼い主に会えるでしょうか?和磨君が『鈴ちゃん』と名付けました。


== 目が見えなくなって、交差点で保護された「鈴ちゃん」 ==

市民課に回り、関わりのあった1人暮らしのおじいさんの消息を調べました。
3年前まで、近所とも付き合いなく、沢山の猫と暮らしていた人です。急に入院して、残された猫の処置に困った市役所から相談されたのがきっかけでした。
家に行ってみて唖然!ゴミ屋敷でした。「昭和の新聞があった!」「布団にキノコが生えてた!」とはしゃぐ和磨君の尻目に、千恵さんが指揮を執って、畳を上げ、竹やぶを刈り取るほどの徹底掃除を敢行。
2か月後に退院してきたおじいさんは、浦島太郎の心境だったと思います。その時点で千恵さんと私で5匹の猫を引き取り、おじいさんは2匹だけ飼い続けることとなりました。
その後も、時々、千恵さんが「元気にやってだの?掃除してだすか?」と訪ねてくれたので、猫とおじいさんへの差し入れを続けてきました。
市民課に貼り出された死亡確認者の一覧の中に、おじいさんの名前を見つけた時、お正月に留守番電話に入っていたメッセージが、頭の中で流れ出しました。 「大曲の及川です。旧年中はお世話になりました。大晦日に餌ど、餅、あんこだの色々受け取りました。お陰様で、猫も私もお正月を迎えました。今年もよろし くお願いいたします」……及川さんは、70歳。去年からヘルパーさんも来るようになり、やっと人並みの老後の生活を始めたところでした。

帰りに、和磨君とおじいさん宅があった所へ行ってみました。
津波が、田んぼの中に家や車を流し込み、倒れた電柱と瓦礫で塞がれた道の先には、壊れた家屋のすぐ後ろに船が停泊している、気の狂った画家が描いた絵を 見ているみたいな光景が続きます。猫が生き残っていないかと思って行ったのですが、家がどこだったのかもわからないほどでした。私が住む所のように山など 高い場所は全然ないから、猫も逃げ場はなかったでしょう。

家に戻り、鈴ちゃんの目の手入れをしました。ぎっちりくっついていた目ヤニを、清浄綿で少しづつ取ると、ドロドロとまた目ヤニが出てきましたが、その奥に、白く濁って小さいけれど、ちゃんと眼球がありました。
おとなしくされるがままになっている穏やかな子で、助かりました。
食欲もありました。夜9時近くに、仙台の病院の勤務を終えた康平君が、大曲の田んぼに流された家で見つけた猫の遺体を、取りに来てくれました。仙台のペット葬儀社でお骨にして、また届けてくれるそうです。


== 家は流され、田んぼに船が入っている東松島市大曲浜 ==

ライフラインが少しずつ回復してきた途上で、またしても起きた大きな地震と津波騒動、再びの停電で、被災すごろく『ふりだしに戻る』かと、ガックリでしたが、翌日夕方に電気は復帰しました。
『元の暮らしに戻る』ゴールはまだまだ見えません。昨日は、飼い主とはぐれた猫が2匹、我が家へ来ました。
住めなくなった家に残して来た猫を転居先に連れて行きたいのに、警戒心が強くなって捕まえられない人と、実家に猫と避難してたら、今回の余震で開いた隙間から逃げられてしまった人から相談あり、捕獲器を貸し出しました。
救援物資に捕獲器送ってもらい、助かっています。そして、各地から、たくさんの物資をいただいています。
今回、被災当初こそ焦りましたが、仙台の宮川さんがタクシーにフードや猫砂や水を積み込んで来てくれて以降は、物資不足に不安になる場面はなく、思うように行動できたことを心から感謝申し上げます。
お会いしたこともない方々、名前も知らない方々からの思いやり、細やかな気配りに励まされて、毎日できることをしていきます。
お礼を伝える余裕がなくて、ごめんなさい。
地震から1か月が経とうとしています。今回の惨事を経験して、私の頭にはもう「if」という疑問詞は浮かばなくなりました。
後になって「あの時ああしていれば…」と思うように、あの時は行動できなかったかもしれないとわかったからです。私達は事実の上を歩んでここまで来て、これからも現実と向き合い生きて行きます。支えてくれる人々の温情を糧としてです。