NPO法人にはなったけれども・・・

 隣町のイベントに参加して犬と猫の里親探しをして、良い候補者にも出会い、NPO法人の登記に必要な書類も揃えて、「たまにはゆっくりおいしい物でも食べに行こうかなー」なんて、やっと一息ついた週末の夜。 その前にアニマルクラブの留守電を聞かなくちゃ、と再生ボタンを押したら、「怪我をした猫が家の前から動かないで困っている」という伝言が入っていました。

「保健所に電話したけど、休みでらちが開かない」という言葉に、グキリとしました。
保護するつもりはない人です。 時計を見ると9時過ぎ、伝言が入ってから4時間が経過していました。 電話をかけたけれど出ないので、直接訪ねてみました。 電話をよこしたその家のご主人は「なぜ自分の家に来たのだろう、妻がショックを受けて食事も喉に通らない」と、自分が困っていることばかりを訴えます。

 猫の所在を尋ねると、出てきた所にそのまま放置されていました。 近寄ってびっくり、想像を絶する大怪我を負っていました。 後ろ足が二本共切断されて、もう腐臭が漂っていたのです。 猫を見つけた午後5時なら、まだ動物病院も開いていたのに・・・。 猫を覗き込む私の後ろから、ご主人が「ハエもたかってたんだよねー、うちの奥さん、可哀相で見ていられないって…」と言いました。 見なくたって、可哀相な現実はそこに在り続けるのだから、そういう人は猫が可哀相のではなくて、我が身が可愛いだけなのだ、といつも思います。 ハエに卵を生み付けられると、ウジ虫がわきだして悲惨この上ない有様になります。 なぜ一刻も早い対処を、と考えられないのでしょうか。

 野良猫の悲しい性で、こんな状態になっても、威嚇して逃げようとします。 おそらく車にひかれて、ようやく縁の下にでも潜り込み、数日を過ごし、他の猫に追われるとか、よほどの事情でいざって出てきたのでしょう。 もはや苦しみと恐怖を取り除いてやることしかできないかもしれないと思いながら、袋を被せて捕まえて、キャリーケースに入れました。 ご主人が、瀕死の猫と夜に家を探して行った私の背中に送った言葉は、「これでうちの奥さんもご飯が食べられる」でした。

 皮膚も壊死して、生きながら腐ってきている猫を目のあたりにして、私の方は、おいしい物を食べに行くどころではなくなりました。 こういう命の瀬戸際に立ち合うと、私は自分が戦地に飛んだような錯覚にとらわれます。 その度、不幸な猫や犬は、我々の身近にいる難民なのだと痛感するのです。 この子は地雷を踏んでしまった少年です。 親もなく、食べ物もなく、荒んだ暮らしの果ての残酷な死・・・。 この子が野良猫になったのも、交通事故という『地雷』も、助けようとしない社会も、戦争と同様に「自分さえよければいい」という人間のエゴから生じたひずみだと感じます。

 私は高校生の時から自分なりの活動を始め、四半世紀以上も続けてきました。 理由は、不幸な動物を見るのは辛く、何とか助けたいから、その一言に尽きます。 時間を取られ、お金もどんどん出ていく、そしてキリのない活動です。 若い頃は随分無理もして、昼夜働いて午前2時頃、玄関先が狭いものだから、道路にホースを引っぱり出して猫のトイレを洗っていると、疲れた体をアスファルトに横たえて眠りたい衝動にかられたものです。 最近は無理がきかなくなってきました。 動物を助ける活動を存続させるためには、活動を正しく理解して、何らかの協力してくれる人の輪を広げていかなければなりません。 そのためにも、NPO法人になる準備をしてきました。

 5月29日、認証を受け、「特定非営利活動法人アニマルクラブ」としてスタートしました。
私や同様の活動をしている人達が、寝食を削り奔走したところで、全てを助けることは到底できないことをわかってください。
大きく変わるためには、社会の制度と認識が向上しなければならないのです。

 あの夜出会った黒猫は、やはり、翌朝安楽死するしか方法がありませんでした。
もっと早く見つけてやりたかった、そしたら、ダンちゃんの時のように助けてやれたかもしれないのに…と、お骨に線香を上げて、冥福を祈りました。

 このホームページの中の「幸せになった猫DANZO」のお話を、是非読んでみてください。
そして、同じように事故で足を切断されても幸せになった団蔵と、なれなかったあの黒猫の明暗を分けたものが何だったのかを、考えることから、この活動に参加、協力していただければ、幸いです。

2006年6月 特定非営利活動法人アニマルクラブ代表 阿部智子