20キロ圏内の犠牲者たち
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福島に取り残されて餓死してゆく牛をアップした後で、「どうして牛なんですか?犬や猫と家畜は違うでしょう」と言った人がいました。ペットと家畜が違うと 決めたのは神様ではなく、動物を利用する人間です。「食べるために飼われていたんですよ。どうせ屠殺されて肉になる牛や豚と、家族の一員だったペットを一 緒にするのはおかしいです」と言われました。
生きているということはいかようにも変われる可能性を持っているということです。それを「どうせ…」と塞いで考えないことにする人は、人間に対しても「どうせ年寄り」「どうせ障害者」「どうせ外国人」「どうせ知らない人」…と差別する人だと私は感じます。
2011年秋、私は福島第一原発20キロ圏内に入りました。
牛が消えた柵に手をかけ覗き込んだ時、私の長靴の爪先が触れていた乾いた泥の中に、ホルスタインの柄を見つけました。おびただしい殺戮の犠牲者たちが無言のまま、なぜこんなことになったのかを尋ねているように思えました。
汚染された雨がそぼ降る畦道の先には、なかったことにされた牛舎がありました。暗く沈まり返った畜舎に立つ影はもう一つもなかったけれど、静寂であればあるほど、そこで起きた罪の深さを感じました。
ある牧場の柵の中には、生きている牛の姿がありました。ここまで生き残ったのに、数日後には殺処分されることを聞きました。すぐ近くに、死体を埋める穴が 掘られていました。もう売り物にならないから、安い逆性石鹸を血管に入れて血の流れを泡で止めるのが、家畜の末路なのです。
死に切れなくて泣く声を何度も聞いた酪農家が言いました。
「安楽死なんかじゃないんだよ。ペットか…と笑われたっていい。生き残った牛を飼育できる場所が欲しい―」。
「やまゆりファーム誕生」。
生き残った牛を終生生かしたいと望む畜主にボランティアが協力して、放射能の影響も経過観察していこうという飼育牧場を作りました。2012年1月30日の開設から3ヵ月、現在約60頭の牛を収容しています。人手と資金が必要です。ご支援をよろしくお願いします。
福島原発20キロ圏内で起きた現実を知っておきたい人は、ここをクリックしてください。 見たくないと目を背ける人の目の前に曝すことは、命への冒涜ですから、声なき悲鳴を、哀願を、聴こうという人からでいいんです。
同じ理由で、これらの写真が、不本意な使われ方をされるようなことを禁じます。借用したい方は、必ず許可を得てください。
「つらいこと 他の誰かも みな同じ わからぬ者が 国を滅ぼす」